6
濃い紫に光るのは、お月様の御堂の棟。
――その頃は、こんな山の、荒れた祠ですもの。お住持はなくて、ひとりものの親仁が堂守をしていましたそうです。降りつづいた朝ぼらけでしょう。雀わなじゃアありません。いろ鳥のいろいろに、稗粟を一つかみ、縁へ、供養、と思って、出て、雪をかついで雪折れのした松の枝かと思う、倒れている人間の形を見つけて、吃驚して、さらさらと刻んで飛ぶと、いつもお参りをかかしなさらない、顔馴染の近常さん。抱いて戻って、介抱をしたあとを、里へ……人橋かけるじゃあなし、山男そっくりの力ですから、裸おんぶであっためながら、家へお送りはしたそうですが、それがもとでお亡くなりは、どうもぜひない事でしたわね。
……ああ、また聞こえました、その時の鶏の声。……夜の蓮華の白いのの、いま真青な、麓の川波を綾に渡って、鼓の緒を捌くように響いて。
峰の白雪……私が云うと、ひな唄のようでも、荘厳な旭でしょう。月の御堂の桂の棟。そのお話の、真中へ立って、こうした私は極りが悪い……」
と、袖を合わせた肩細く、
「御覧なさい、その近常さんは、その真中へ、両手をついて、お日様、お月様に礼拝をしたんですって――そして、取って、塚にのせた雪の鶏に、――お名を……銘を……」
ふと、ふっくりするまで、瞼に気を籠め、傾いて打案ずる状して、
「姓がおあんなすったんですがね……近常さん。」
「勿論、それは、ここで、きみが天狗から聞いたんだね。」
「はあ。」
「あいにく、いまだ石碑がない。」
と、袖も寂しそうに塚に添い、葉を擦った。
「名のりは、きみが幾たびも言ってくれたので、まざまざと、その顔も容子も、眉毛まで見えるように思われてならないよ。」
「どうして思出せないんでしょう。いいえね、あの、近常さんの方は、――一字、私の名が入っていたので、余り覚えよかったもんですから……」
「ああ、お近さん。」
「常で沢山。……近目のようで可厭ですわ、殿方と違いますもの――貴方は?」
「いや、それがね、申しおくれた処へ、今のような真剣の話の中へは、……やくざ過ぎて、言憎い。が、まあ、更めて挨拶しよう。――話をして、それから、その天狗はどうしたね。」
「この山は、どういうものか、雑木林なり、草の中なり、谷陰なり、男がただひとりで居ると、優しい、朗かな声がしたり、衣摺れが聞こえたり、どこからともなく、女が出て来る。円髷もあろうし、島田もあろうし、桃の枝を提げたのも、藤山吹を手折ったのも、また草籠を背負ったのも、茸狩の姉さんかぶりも、それは種々、時々だというけれど、いつも声がして、近づいて姿が見える――とそういうのが、近国にも響いた名所だ。町に別嬪が多くて、山遊びが好な土地柄だろう。果して寝転んでいて、振袖を生捉った。……場所をかえて、もう二三人捉えよう。――(旅のものだ、いつでもというわけには行かない。夜を掛けても女を稼ごう。)――厚かましいわ。蟒に呑まれたそうに、兀頭をさきへ振って、ひょろひょろ丘の奥へ入りました。」
「ただものでない、はてな。」
多津吉は確と腕を拱いた。
「何しろ、これは、今の話の様子だと、――故人が鏨で刻んだという、雪をつかんだ鶏の鳥冠に、旭のさしたのを象徴ったものだ。緋葉もなお濃い。……不思議なもののような気がする。ただの白い饅頭では断じてない。はてな。」
と、のばして触れようとした手を、膝に拳して、固くなって控えた。
「天狗が気になる。うっかり触ると消えはしないか。」
「消えれば口の中ですわ。……祝儀をくれない天狗なんか。」
姉さん、ここはばらがきで、
「私にやろう……と云ったんですもの。ほんとうの天狗の雛ッ子だって。」
また奇妙に、片袖をポンと肩に掛けて、多津吉の眉の前へ、白い腕を露呈に、衝とかがみ腰に手を伸ばして、ばさりと巣を探る悪戯のように――指を伏せても埒あく処を――両手に一つずつ饅頭を、しかし活もののごとくふわりと軽く取った。
立直った時である。
「あらあら火事が。」
多津吉もすっくと身を起した。
「また火事か!――いや、火事じゃない。あれは、あすこに、大きな坊さんの銅像がある。それに夕日が当るんだよ。」
月の御堂のあとという、一むらの樹立、しかも次第高なれば、その梢にかくれたのが、もみじを掛けた袈裟ならず、緋の法衣のごとくと立った。
水平線上は一脈金色である。朱に溶けたその波を、火の鳥のように直線に飛んで、真面に銅像を射たのであった。
しばらくして、男女は、台石の巌ともに二丈六尺と称するその大銅像の下を、一寸ぐらいに歩行いていた。あわれに小さい。が、松と緋葉の中なれば、さすらう渠等も恵まれて、足許の影は駒を横え、裳の蹴出しは霧に乗って、対の狩衣の風情があった。
――前刻、多津吉のつれの女が、外套を抱えたまま振返って、上を仰いだ処は、大造りな手水鉢を境にして、なお一つ展けた原の方なのである。――
振袖が朗な声して、
「まあ、貴方、なぜおじぎをなさらないの。さっきは、法界屋にも、丁寧に御挨拶をなすったのに、貴いお上人さんの前にさ――」
「おちかさん。」
多津吉は、盥のごとき鉄鉢を片手に、片手を雲に印象した、銅像の大きな顔の、でっぷりした頤の真下に、屹と瞳を昂げて言った。
「……これは、美術閣の柴山運八と、その子の運五郎とが鋳たんだよ。」
波頭、雲の層、累る蓮華か、象徴った台座の巌を見定める隙もなしに、声とともに羽織の襟を払って、ずかと銅像の足の爪を、烏の嘴のごとく上から覗かせて、真背向に腰を掛けた。
「姓は郡です……職人近常の。……私はその伜の多津吉というんだよ。」
「ああ多津吉さん。」
その肩を並べて、莞爾して並んで掛け、
「まあ、嬉しい……御自分で名を言って下すったのは、私の占筮が当ったより嬉しいわ。そうして占筮は当りました。この大坊主ったら、一体誰なんです。」
と肩を一層、男に落して、四斗樽ほどの大首を斜めに仰ぐ。……俗に四斗樽というのは蟒の頭の形容である。濫に他の物象に向って、特に銅像に対して使用すべきではない。が、鋳たものが運八父子で、多津吉の名が知れると、法界屋の娘の言葉も、お上人様が坊主になった。
「……橋の上、大通りの辻……高台の見霽と、一々数えないでも、城下一帯、この銅像の見えることは、ここから、町を見下ろすとおんなじで……またその位置を撰んで据えたのだそうだから、土地の人は御来迎、御来迎と云うんだね。高山の大霧に、三丈、五丈に人の影の映るのが大仏になって見えるというのにたとえてだよ。勿論、運八父子は、一度聞けば誰も知らぬもののない、昔の大上人としてこれを鋳たんだ。――不思議に、きみはまだ知らないようだけれど、五つ七つの小児に聞いても、誰も知らぬものはなかろうね。」
「蓮如さん、」
「さあ、」
「親鸞上人。」
「さあ、」
「弘法大師。」
「さあ、それが誰だって、何だって、私は失礼をする気は決してないんだ。ただ運八父子の手に成った……」
「勿論ですわ。――法界屋にお辞儀をなすった方が、この木菟入道に……」
おお、今度は木菟入道。
「挨拶をなさらないのは。――あなた、私ね、前刻通りがかりに、一度拝んだんですよ。御利益はちっともない。ほほほ、誰がこの下で法界屋を唄わせたり、刎ねさせたりするものがありますか。そんな事より、ただ大きな、立派なもの……もっとも、むくみが来て、ちっとうだばれてはいますがね。」
脊筋を捻じて、台座に掛けた秋の蝶の指の細さ。
「御覧なさい。余計な耳を押立てて、垂頬で、ぶよぶよッちゃアありゃしない。……でも場所が場所だし、目に着くことといったら、国一番この通りですからね。――この鶏を。」
……包みもしないで――翠を透かして、松原の下り道は夕霧になお近いから――懐紙に乗せたまま、雛菓子のように片手に据えた。
「あなた、折角、私がおさがりを頂いたんですからね、あの塚から、」
その古塚は、あわれ、雪に埋れた名工と、鼓の緒の幻の陽炎に消えた美女のおくつきである。
「二羽巣立をして、空へ翔けるように、波ですか、雲ですか、ここへ備えようと思って持って来たんですけれどもね、――ふふんだ、誰が、誰が……」
頸を白く、銅像に前髪をバラリと振った。下唇の揺れるような、鳥冠の緋葉を、一葉ぬいて、その黒髪に挿したと思うと、
「ああ、おいしい。」
早い事。
「なかなか、おいしい。天狗の雛児。――あなたも一つめしあがれ。」
「…………」
「あら、卑怯だことね、お毒味は済んでるのに。」
と、あとのに、いきなりまた皓歯を当てると、
「半分を、半分を、そのまま、口から。」
と、たとえば地蔵様の前に地獄の絵の生首を並べた状に、頸を引抱えた、多津吉の手を、ちょっと遁げて、背いて捻った女の唇から、たらたらと血が溢れた。
一種の変相と同じである。
「や、中毒ったか。」
と頬に頬をのしかかって、
「毒でも構わん、一所に食べよう。」
「あいつつ。」
と、眉を顰めた。松葉が睫毛に掛ったように。
「噛みはしない、噛んだか。いや噛んだかも知れない。きみに詫びる。謝罪する。……失礼だがきみの、身分を思って……生半可の横啣えで、償いの多少に依りさえすればこんな事はきっと出来ると……二度目にあの塚へ、きみが姿を見せた時から、そう思った。悪心でそう思った。――ここへ連れて来て、銅像の鼻前で、きみの唇を買って、精進坊主を軽蔑してやろうと思ったんだ。慈悲にも忍辱にも、目の前で、この光景を視せられて、侮辱を感じないものは断じてないから。――うむ、そうだ。坊主を軽蔑する本心にも手段にも、いささかもかわりはない。が、きみに対して、今は誓って悪心でない、真心だ。真実だ。許してくれ。そして軽蔑さしてくれ。」
「はなして……よ。」
しかも、打睡るばかりの双の瞼は、細く長く、たちまち薬研のようになって、一点の黒き瞳が恍惚と流れた。その艶麗なる面の大きさは銅像の首と相斉しい。男の顔も相斉しい。大悪相を顕じたのである。従って女の口を洩るる点々の血も、彼処に手洗水に湧く水脈に響いて、緋葉をそそぐ滝であった。
「あ。」
「痛い、刺って、」
「や、刺か。」
獣の顔は離れた。が、女の影は鳥のように地に動いて、裾は尾を細く、すっと緊まる。
「何でしょう。」
衝と懐紙に取ったを見よ。
「あら、大きな針……まあ釘よ。……」
「釘?」
と、多津吉は眉を寄せつつ、かえって忘れてでもいるような女の手から、その疵つけたものを撮み取って凝と視ると、視るうちに、わなわなと指が震えた。
「父親の鏨だ。」
「ええ、近常さんの……」
「見てくれたまえ――この尖へ、きみの口の裡の血がついて。」
絹糸の縺れの紅いのを、衝と吸う端に持ちかえた。が、
「もとの処に、これ、細い葉を二筋と、五弁の小さな花が彫ってある。……父親は法華宗のかたまり家だったが、仕事には、天満宮を信心して、年を取っても、月々の二十五日には、きっと一日断食していた。梅の紋を、そのままは勿体ないという遠慮から、高山に咲く……この山にも時には見つかる、梅鉢草なんだよ。この印は。――もっとも、一心を籠めた大切な鏨にだけ記したのだから。――これは、きみの口から聞かしてくれた……無論私も知っている……運八のために、その一期の無念の時、白い幽霊に暖められながら、雪を掴んで鶏の目を彫込んで、暁に息が凍った。その時のものかも知れないと……知れないと、私は、私は思うんだ。」
「違いありませんよ、きっと、きっとそうに。――ですもの、活きてるような白い饅頭が、それも、あとの一つの方は、口へ入れると、ひなひなと血が流れるように動いたんですの。……天狗のなす業だわね。お父さんのその鏨で、どうしたら可いでしょう、私凄いわ。何ですか、震えて来た。ぞくぞくして。」
「笑ってくれたもうなよ、私には一人の父親だ。」
鏨をば押頂き、確と懐中に挿入れた。
「風来もので、だらしはないがね、職人の子だから腹巻を緊めている。」