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私の活動写真傍観史
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私の活動写真傍観史
伊丹万作
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Traducción Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 2 of 4

2

ただ深い色をした水の底へ、身をさかさまにした主人公がゆつくりゆつくり泳ぎくだつて行くところだけが不思議に鮮明な画像となつて残つている。

日本の新派の写真も二種類ばかり思い出すことができるが、題名も筋もわからないから人に伝えることはできない。

ただそのうちの一本の写真がラストに近づいたとき、弁士がカメラの位置変更についてあらかじめ観客の注意をうながし、急に視野の範囲が変るが、場面は同一場面で、動作は連続したものであるから誤解のないようにしてもらいたいとくどくどと断つたことを覚えている。

はたして弁士の言葉どおりカットが変るといままで岡の一部を背景にした全身の芝居であつたのが、今度は大ロングになつて岡の全景が現われ、芝居は岡の上下をふくむ範囲において行われるようになつた。

弁士がくどくどと断つたことからおして考えると、その当時はまだこんなふうに芝居の途中でカットの変ることは珍しかつたものとしなければならぬ。

次に市の一流劇場新栄座において見たものをあげると、一番印象の深かつたものは「ユニバース」とかいう変なもので、山崎街道は夕立の光景と弁士がどなると雲が恐ろしい勢いで動き出すのであるがこれは実演と実写と本水を同時に使用したようなものであつたらしいが、どうもよくわからない。

もの言う活動大写真というのも来た。西洋の写真と一緒に怪物のうなり声のようなものがどこかで聞えたように思つたらそれでおしまいであつた。

旧劇では「柳生の二蓋笠」というのをここで見た。ここで見た西洋の写真についてはいつこうに憶えていないが、赤い鶏のマークだけはどうもこの小屋と離して考えられないのが不思議である。常設館ができてのちにも、松之助の「忠臣蔵」と「曽我兄弟」だけはこの小屋で見た。特別興行という意味合のものか、そこらはよくわからない。

これものちの話であるが中学五年のとき実川延一郎が実演でこの小屋にきたので見に行つた。出しものは「肥後の駒下駄」と、「お染久松」、「土蜘蛛」、「輝虎配膳」などで、延一郎は駒平、お染とでつちの早変り、これは人形振り、「輝虎配膳」は他の役者の出しもので延一郎は出なかつた。

この時分の延一郎は眼のよく光る綺麗な男であつたが、自分が使うようになつた延一郎はしわくちやのじいさんで、眼もしよぼしよぼしていた。

そして会うたびに懐しそうに手を握つたり、こちらの肩へ手をかけたりしては「また使うておくれやすや」と言う男であつた。トーキーになつてからはわずかな語数のせりふでもまちがえて何べんとなくやりなおさねばならなかつた。そしてやつとすむと、すぐにやつて来てこちらの膝へもたれ込むようにして「何でどすやろ、何でどすやろ」とまちがえたことをさも心外そうにそう言うのであつた。そんなときにうつかり「齢のせいだよ」などと言うことはどんなに残酷なことになるかわからないので、私はこの善良な老人を慰める言葉に窮してしまい、黙つてさびしく笑うよりしかたがなかつた。

話を元へもどす。

常設館は世界館というのが中学一年のときに始めてでき、つづいてその翌年あたり松山館というのもできた。

世界館の開館のときの写真は松之助の「宮本武蔵」であつた。松之助、関根達発、立花貞二郎などという名まえをこの館で覚えた。松山館では山崎長之輔、木下録三郎、沢村四郎五郎、井上正夫、木下八百子などを覚えた。

西洋物では「名馬天馬」などという写真が松山館に現われた。

松山館の弁士はよく「空はオリーブ色に晴れ渡り絶好の飛行びより」と謡うように言つた。オリーブ色の空というのはいまだによくわからない。

井上の写真はわずかであつたが、翻案物の「地獄谷」というのを憶えている。

自分のすまいの関係から中学三年ごろは松山館のほうを多く見、四年五年ごろは世界館のほうを多く見た。五年のころには松之助の似顔絵が上手になり、友だちなどに見せて得意になつていた。

似顔をよく似せるために私は松之助の写真について顔の各部を細かく分析して研究したが、彼の眼が普通の人々よりも大きいとは認められなかつた。彼の顔の中で普通の人よりも大きいのは口だけであつた。ことに下唇の下に鼓の胴を横にしたような形の筋肉の隆起があつたが、これは松之助を他の人と区別する最も著しい特徴であつた。

こんなつまらぬことを研究していたために、当時の私は知能の発育がよほど遅れたようであつた。中学を終えると、すぐに私は家庭の事情で樺太へ行かねばならなくなつた。

その途次東京に寄つたとき、浅草の電気館で「赤輪」という写真を見た。

その時私は活動写真はこんなに明るいものかと思つて驚いた。いなかの館とは映写の光力が違うし、それに写真が新しいから傷んでいない。おまけに田舎は一、二年は遅れて来るから、それだけの日数に相当する発達過程を飛ばして見せられたことにもなる。ことにあの写真はロケーションが多く、それも快晴ばかりで、実に写真全体がアリゾナあたりの太陽に飽和していた感じがある。いま考えてみてもあんな明るい写真はたくさんなかつたような気がするくらいである。

それから函館か小樽かのいずれかで「獣魂」という写真を見た。そしてもみあげ長きフランシス・フォードという役者を覚えた。

樺太に半年ほどいて東京に来た。ちようどそのころブルー・バード映画の全盛時代がきた。

エラ・フォール、メー・マレー、ロン・チャニー、モンロー・サルスベリー、エディー・ポローとかたかなの名まえを覚えるのがいそがしくなつた。

私は絵描きが志望であつたから東京最初の一年は鉄道省につとめたが、やがてそこをよして少年雑誌の絵などをかきながら絵を勉強することにした。

しかし活動はつづいて見ていた。

この時分はピナ・メニケリというイタリヤ女優のファンであつた。芸よりも顔の美しさに圧倒されたのであつた。あんな典型的な美しさと大きさを持つた女優はその後見ない。美しさもあれくらいまで行けば芝居などどうでもよくなつてくる。ただいろいろに動いて、いろいろな角度の美しさを見せてくれればこちらは彫刻を見ているような気持ちで結構たのしめるのである。

私が十九か二十歳のときに松竹が映画事業をはじめ研究生を募集した。ちようどそのころ伊藤という友だちが呉の海軍書記生をやつており、かたわらしろうと芝居に熱中していた。

ゴーリキーの「どん底」を演してナターシャの役か何かをやつたことなどを報告してきて、しきりに演劇のほうへ進みたい意向をもらしていたやさきなので、私は同じことならこれからは映画のほうが有望だと考え、松竹の試験に応募してみたらどうだとすすめてやつた。伊藤はすぐに上京して私の間借りしていた三畳の部屋へやつてきた。

根津須賀町のその家は、よく建てこんだ狭い街にいくらでもあるような平凡な格子戸のある家であつたが、ただ変つた点は入口の格子戸の上に飛行機のプロペラの折れたのが打ちつけてあり、小さな札に日本飛行何とかという協会のような名まえが書いてあることであつた。

主人は五十を越した男で、だいぶ頭も薄くなつていたし、体躯も小がらのほうであつたが、それでいて変に悪党悪党した強そうなところのあるおやじであつた。

このおやじは家にいないほうが多く、たまに帰つてくると何もしないでたばこをすつたりひるねをしたりして日を送つた。

いつも猿股と腹巻をしてその上に何か尻までくらいある薄いものを引つかけていた。

話ぶりなどは何かひどく粗野で、そのために一種の滑稽感がありそれがときどき人を笑わせたが本人は決して笑顔を見せなかつた。

それが「何しろ家のかかあのやつときたら――」というような調子で本人を目の前において、その肉体の秘密を私たちにずばずばとしやべつてのけたりするものだから、彼の若い細君はもちろん、聞いているほうでも照れたりあつけに取られたりした。

しかもそんな話を当人は顔の筋一つ動かさずに冷酷な気むずかしい表情とすきまのない呼吸でやるものだから、その場には猥雑な感じなどの介在する余地は全然なくなつて、ただもう部屋中に妖気が立ちこめているような気持ちになつてくるのであつた。

あるとき私は近所の七つくらいの女の子を二時間ばかり借りてきて写生したことがあつたが、その子が帰つてから、どうも少し齢のわりに小ましやくれているという批評が出たとき、このおやじはすぐそれにつづいてあの子供は性的対象として十分可能であると断定した。

「そんなばかなことを」と細君が笑つてうち消そうとすると、おやじは顔色を変えんばかりの勢いで細君をしかりつけ、さらに激しく自分の所信のまちがつていないことを主張した。

およそ、そういうふうに性の問題に関するかぎりこのおやじの態度や考え方にはどこか一般社会の風習や秩序と相いれぬものがあり、しかもその気魄には実際彼が口でいうとおり実行しかねまじき、あるいはすでに実行してきたような切実感があつて聞くものをすさまじく圧倒した。

私はこのおやじに会うまでは性に関する話をかくのごとく露骨にしかもむきになつていささかの臆面もなく話す人を見たことがなかつたし、また、こうまで徹底的に非道徳な態度をとつて安心しきつている人も見たことがなかつたのですつかり驚いてしまつた。

私はこの家にかれこれ半歳以上もいたように思うが、結局しまいまでこのおやじの職業を知ることができなかつたし、また何のために入口にプロペラの破片を飾つておかなければならないのか、その理由を知ることもできなかつた。

さて、伊藤がやつてきた当時の私の部屋には別にもう一人居候がいたので、合計三人を負担して、三畳の部屋はまさにその収容力の極限に達した。

これにはさすがのプロペラおやじも驚いたとみえ、ある日突然二階に上つてきて我々に即時撤退を要求した。そのうち伊藤も試験にパスして松竹キネマ俳優学校の生徒となり、一定の給費を受けて通学するようになつたので、我々は谷中真島町の下宿に移つて別々の部屋におさまつた。

この時分から伊藤は映画脚本の試作を始め、できあがるとまず私たちに読んで聞かせ、それから小山内先生に見てもらつた。

小山内さんの批評はかんばしくないのが常で伊藤はたいがい意気銷沈して帰つてきたようである。しかし伊藤の努力はわりに早くむくいられて、松竹キネマ創立期の写真には彼の脚本が多く用いられた。

松竹キネマ作品の最初の公開が明治座かどこかで行われたときにもむろん、彼の脚色になる写真があつたので私は伊藤といつしよにそれを見に行つた。

私は伊藤との交友二十年の間に、その夜の彼ほど嬉しそうな彼をかつて見たことがない。

かくて我々数人の所有にすぎなかつた伊藤大輔という名まえはその夜から世間の有に帰した。

二十一歳の五月に私は入営をした。(この時分から伊藤は蒲田に移り住んでいたようである。)広島の野砲隊、三カ月の補充兵役である。

入営の前夜、広島の盛り場で見送りにきた父と二人で活動写真を見た。その写真は井上と水谷の「寒椿」である。

入営中も伊藤は筆まめに手紙をくれたが、封筒の中にはいつも、その時々の彼の脚色した写真のポジが何コマか入れてあつた。その当時のポジはみな染色されてあつたので、封筒を逆さまにすると色とりどりのポジがヒラヒラと寝台の毛布の上に舞い落ちるのは私の殺風景な兵営生活にただ一つの色彩であつた。

その翌年にも演習召集で三週間服役したが、それを終つて東京へ出るときはあらかじめ伊藤に依頼していつしよに棲む部屋を借りておいてもらつた。青山学院の近所、少し渋谷の方へ寄つたほうで八畳か十畳の二階であつた。

その時分には研究所はすでに解散して伊藤は松竹キネマ脚本部員となつていたが、当時伊藤の月給は九十円で、しかも仕事は無制限にやらされていた。急ぐものは二、三日で書かされ、「お初地蔵」などはほとんど一晩で書いてしまつた。それで月給以外には一文ももらつていなかつた。

いつぽう私は絵のほうで月百円内外の収入はあつたから、二人の生活はさして苦しいはずはなかつたのであるが、使い方がへたなためか、二人ともいつもピイピイいつていた。

Chapter 2 of 4
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