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いや腹立つどころではない、僕も一人には死なれ一人には去られ、こうと思いこんで来てくれる女がほしいと思っていたところでしたから、かえっておとよさんの精神には真から敬服しています。
どうです、それを面目ないの淫奔だのって、現在の親がわが子の悪口をいうたあ、随分無慈悲な親もあればあったもんだ。いや土屋、悪くはとるな」
薊はことばを尽くし終わって老人の顔を見ている。煙草を一服吸う。老人は一言も答えぬ。
「どうです、まだ任せられませんか、もう理屈は尽きてるから、理屈は抜きにして、それでも親の掟に協わない子だから捨てるというなら、この薊に拾わしてください。さあ土屋さん、何とかいうてください」
「いや薊さん、それほどいうなら任せよう。たしかに任せるから、親の顔に対して少し筋道を立ててもらいたい」
「困ったなあ、どんな筋道か知らねいが、真の親子の間で、そんなむずかしい事をいわないで、どうぞ土屋さん、何にもなしに綺麗に任せてください。おとよさんにあやまらせろというなら、どのようにもあやまらしょう」
「どうか旦那、もう堪忍してやってください」
「てめいが何を知る、黙ってろ」
薊も長い間の押し問答の、石に釘打つような不快にさっきからよほど劫が沸いてきてる。もどかしくて堪らず、酔った酒も醒めてしまってる。
「どうでも土屋さん、もうえい加減にうんといってください。一体筋道とはどういう事です」
「筋道は筋道さ、親の顔が立ちさえすればえい。親の理屈を丸つぶしにして、子の我儘をとおすことは……」
薊の顔は見る見る変ってきた。灰吹きを叩く音も際立って高い。しばらく身をそらして老人を見おろしていたが、
「ウム自分の顔の事ばかりいってる。おれの顔はどうする、この薊の顔はどうするつもりだ。勝手にしろ、おッ母さん、とんだお邪魔をしました」
薊は身を飜して降り口へ出る、母はあとからすがりつく、お千代も泣きつく。おとよは隣座敷にすすり泣きしている。薊はちょっと中戻りしたが、
「帰りがけに今一言いっておく。親類も糞もあるもんか、懇意も糸瓜もねいや、えい加減に勝手をいえ、今日限りだ、もうこんな家なんぞへ来るもんか」
薊は手荒く抑える人を押し退けて降りかける。
「薊さんそれでは困る、どうかまあ怒らないでください。とよが事はとにかく、どうぞ心持ちを直して帰ってください」
お千代はただしがみついて離さない。薊はようやく再び座に返った、老人は薊を見上げて、
「ばかに怒ったな」
「おらも喧嘩に来たんじゃねいから、帰られるようにして帰せ」
薊の狂言はすこぶるうまかった、とうとう話はきまった。おとよは省作のために二年の間待ってる、二年たって省作が家を持てなければ、その時はおとよはもう父の心のままになる、決して我意をいわない、と父の書いた書付へ、おとよは爪印を押して、再び酒の飲み直しとなった。俄かに家内の様子が変る、祭りと正月が一度に来たようであった。
十三
薊が一切を呑み込んで話は無造作にまとまる。二人を結婚さしておいて、省作を東京へやってもよいが、どうせ一緒にいないのだから、清六の前も遠慮して、家を持ってから東京で祝儀をやるがよかろうということになる。佐介も一夜省作の家を訪うて、そのいさくさなしの気質を丸出しにして、省作の兄と二人で二升の酒を尽くし、おはまを相手に踊りまでおどった。兄は佐介の元気を愛して大いに話し口が合う。
「あなたのおとッつさんが、いくらやかましくいっても、二人を分けることはできないさ。いよいよ聞かなけりゃ、おとよさんを盗んじまうまでだ。大きな人間ばかりは騙り取っても盗み取っても罪にならないからなあ」
「や、親父もちょっと片意地の弦がはずれちまえばあとはやっぱりいさくさなしさ。なんでもこんごろはおかしいほどおとよと話がもてるちこったハヽヽヽヽ」
佐介がハヽヽヽヽと笑う声は、耳の底に響くように聞える。省作は夜の十二時頃酔った佐介を成東へ送りとどけた。
省作は出立前十日ばかり大抵土屋の家に泊まった。おとよの父も一度省作に逢ってからは、大の省作好きになる。無論おとよも可愛ゆくてならなくなった。あんまり変りようが烈しいので家のものに笑われてるくらいだ。
* *
* *
省作は田植え前蚕の盛りという故郷の夏をあとにして成東から汽車に乗る。土屋の方からは、おとよの父とおとよとが来る。小手の方からは省作の母が孫二人をつれ、おはまも風呂敷包みを持って送ってきた。おとよはもちろん千葉まで同行して送るつもりであったが、汽車が動き出すと、おはまはかねて切符を買っていたとみえしゃにむに乗り込んでしまった。
汽車が日向駅を過ぎて、八街に着かんとする頃から、おはまは泣き出し、自分でも自分が抑えられないさまに、あたり憚らず泣くのである。これには省作もおとよもほとんど手に余してしまった。なぜそんなに泣くかといってみても、もとより答えられる次第のものではない。もっともおはまは、出立という前の夜に、省作の居間にはいってきて、一心こめた面持ちに、
「省さんが東京へ行くならぜひわたしも一緒に東京へ連れていってください」
というのであった、省作は無造作に、
「ウムおれが身上持つまで待て、身上持てばきっと連れていってやる」
おはまはそのまま引き下がったけれど、どうもその時も泣いたようであった。おはまのそぶりについて省作もいくらか、気づいておったのだけれど、どうもしようのない事であるから、おとよにも話さず、そのままにしていたのだが、いよいよという今日になってこの悲劇を演じてしまった。
「あんまり人さまの前が悪いから、おはまさんどうぞ少し静かにしてください」
強くおとよにいわれて、おはまは両手の袖を口に当てて強いて声を出すまいとする。抑えても抑え切れぬ悲痛の泣き音は、かすかなだけかえって悲しみが深い。省作はその不束を咎むる思いより、不愍に思う心の方が強い。おとよの心には多少の疑念があるだけ、直ちにおはまに同情はしないものの、真に悲しいおはまの泣き音に動かされずにはいられない。仕方がないから、佐倉へ降りる。
奥深い旅宿の一室を借りて三人は次ぎの発車まで休息することにした。おはまは二人の前にひれふしてひたすらに詫びる。
「わたしはこんなことをするつもりではなかったのであります、思わず識らずこんな不束なまねをして、まことに申しわけがありません。おとよさんどうぞ気を悪くしないでください」
というのである、おはまは十三の春から省作の家にいて、足掛け四年間のなじみ、朝夕隔てなく無邪気に暮して来たのである。おはまは及ばぬ事と思いつつも、いつとなし自分でも判らぬまに、省作を思うようになった。しかしながら自分の姉ともかしずくおとよという人のある省作に対し、決してとりとめた考えがあったわけではない。ただ急に別れるが悲しさに、われ識らずこの不束を演じたのだ。
もとから気の優しい省作は、おはまの心根を察してやれば不愍で不愍で堪らない。さりとておとよにあられもない疑いをかけられるも苦しいから、
「おとよさん決して疑ってくれな、おはまには神かけて罪はないです。こんなつまらん事をしてくれたものの、なんだか私はかわいそうでならない。私のいないあとでも決して気を悪くせず、おはまにはこれまでのとおり目をかけてやってください」
おとよはもうおはまを抱いて泣いてる。わが玉の緒の断えんばかり悲しい時に命の杖とすがった事のあるおはまである。ほかの事ならばわが身の一部をさいても慰めてやらねばならないおはまだ。
おはまの悲しみのゆえんを知ったおとよの悲しみは小説書くものの筆にも書いてみようがない。
三人は再び汽車に乗る、省作は何かおはまにやりたいと思いついた。
「おとよさん、私は何かはまにやりたいが、何がよかろう」
「そうですねい……そうそう時計をおやんなさい」
「なるほど私は東京へゆけば時計はいらない、これは小形だから女の持つにもえい」
駅夫が千葉千葉と呼ぶ。二人は今さらにうろたえる。省作はきっとなって、
「二人はここで降りるんだ」