Chapter 1 of 7

深い悩みが、其の夜も、とし子を強く捉へてゐた。予定のレツスンに入つてからも、Y氏の読みにつれて、眼は行を逐ふては行くけれど、頭の中の黒い影が、行と行の間を、字句の間を覆ふて、まるで頭には入つて来なかつた。払い退けやうと努める程いろ/\不快なシインやイメエジが、頭の中一杯に広がる。思ひ出し度くない言葉の数々が後から後からと意識のおもてに、滲み出して来る。其処に注意を集めやうとしてゐるにもかゝはらず、Y氏が丁寧につけてくれる訳も、とかくに字句の上つ面を辷つてゆくにすぎなかつた。

レツスンが済むと、何時ものやうに熱いお茶が机の上に運ばれた。子供はとし子の膝の上に他愛なく眠つてゐた。快活なY氏夫妻の笑顔も其の夜のとし子には、何の明るさも感じさせなかつた。小さなストーヴにチラ/\燃えてゐる石炭の焔をみつめながら、かたばかりの微笑を続けてゐる彼女は、其のとき惨めな自分に対する深い憐憫の心が、熱い涙となつて、今にも溢れ出さうなのをぢつと押へてゐたのだつた。

外は何時か雪になつてゐた。通りの家々はもう何処も戸を閉めて何処からも家の中の燈は洩れて来なかつた。街燈だけがボンヤリと、降りしきる雪の中に夜更けらしい静かな光りを投げてゐた。無理々々に停留所まで送つてくれたY氏と、言葉少なに話しながら電車を待つてゐる間も、とし子の眼には涙が一杯たまつてゐた。矢張りあの家に帰つてゆかなければならないと思ふと情なかつた。もう此のまゝに帰るまいかとさへ思つて来た家に、どうしてもトボ/\この夜更けに帰つてゆかなければならない。

『こんな時に、親の家でも近かつたら――』親の家――それもとし子には思ひ出せば苦しい事ばつかりだつた。三百里も西の方にゐる親達とは、もう永い間音沙汰なしに過して来た。それも彼女自らが叛いて、離れて来たのであつた。真つ直ぐに、自分を立て通したいばかりに、親達の困惑も怒りも歎きも、悉てを知りつくしてゐながら、強情にそれを押し退けて再度の家出をして後は、お互ひに一片の書信も交はさなかつた。そして全くの他人の中での生活に、とし子は迫害され艱難に取りまかれた。けれど、すべては最初から覚悟してゐた事であつた。彼女は本当に血が滲むほど唇を噛みしめても、その艱難には耐へなければならないと思つた。その苦しい生活がもう二年続いた。そして、此の頃とし子は自分の生活を省みる度びに、其処に余りに多くの不覚な違算を発見しなければならなかつた。その上に猶思ひがけない他人の、何の容赦もない利己心の餌である事を忍ばねばならぬ奇怪な、種々な他人との『関係』が、此の頃よく肉親と云ふ無遠慮な『関係』の人々を思ひ起さすのであつた。けれども、そうした境界におしつけられて思ひ出すことも、とし子には辛らい事の一つであつた。それでも、今かうして、本当に嫌やでたまらない彼の他人の冷たい家の中に、頑な心冷たい気持で帰つて行かねばならぬ情なさに迫まらるれば、矢張り深夜であらうと何であらうと遠慮なく叩き起せる家の一軒位は欲しかつた。

漸くに深夜の静かな眠りを脅かす程の音をたてゝ、まつしぐらに電車が走つて来た。運転手の黒い外套にも頭巾にも、電車の車体にも一様に、真向から雪が吹きつけて、真白になつてゐた。電車の内は隙いてゐた。皆んな其処に腰掛けてゐるのは疲れたやうな顔をしてゐる男ばかりであつた。なかにはいびきをかきながら眠つてゐる者もあつた。とし子はその片隅に、そつと腰を下ろした。電車は直ぐ急な速度で、僅かばかりな乗客を弾ねとばしてもしまひさうな勢で馳け出した。とし子は思はず自分の背中の方に首をねぢむけた。背中ではねんねこやシヨオルや帽子の奥の方から子供の温かさうな、規則正しい寝息がハツキリ聞きとれた。とし子は安心してまた向き直つた。そして気附かずに持つてゐた傘の畳み目に、未だ雪が一杯たまつてゐたのを払ひおとして、顔を上げた時にはもう四ツ谷見附に近く来てゐた。

四ツ谷見附で乗りかへると、とし子は再び不快な考へから遠ざからうとして、手提げの中から読みさしの書物を取り出した。けれど水道橋まで来て、其処で一層はげしくなつた吹雪の中に立つてゐる間に、また取りとめもなく拡がつてゆく考への中に引きづり込まれてゐた。刺すやうな風と一緒に、前からも横からも雪は容赦なく吹きつける。足元には、音もなく、後から後からと見る間に降り積んで行く。

『何処かへこのまゝ行つてしまひたい!』

白い柔かな地面に射すうつすらとした光りをぢつと見つめながら、焦れてゐるのか、落ちついてゐるのか、自分ながら解らない気持で考へてゐるのだつた。

『何処へでも、何処でもいゝ。』

此処にかうして夜中たつてゐても、今夜出がけに苦しめられたやうな家には、帰つて行きたくない。腹の底からとし子はさう思ふのだつた。けれど、背中に何も知らずに眠つてゐる子供を思ひ出すと、とし子の眼にはひとりでに、熱い涙が滲んで来た。

『自分だけなら、他人の軒の下に震へたつていゝ。けれど――』

何にも知らない子供には、たゞ温かい寝床がなくてはならない。窮屈な背中からおろして、早くのびのびと温かな床にねかしてやりたい。そして可愛想な母親が子供に与へるたつた一つの寝床は、矢張りあの家の中にしかない。とし子の眼からは熱い涙が溢れ出した。

漸くに待つてゐた電車が来た。ふりしきる雪の中を、傘を畳んで悄々と足駄の雪をおとして電車の中にはいつた。涙ぐんだ面をふせて、はいつて来た唯だ一人の、子を背負つたとし子の姿に皆の眼が一時にそゝがれた。けれど座席は半ば以上すいてゐて、矢張り深夜の電車らしくひつそりしてゐた。

春日町でまた吹雪の中に取り残された。長い砲兵工廠の塀の一角にそふておよそ二十分も立つてゐる間には、体のしんそこから冷えてしまつた。

Chapter 1 of 7