Chapter 1 of 9

『本当にどうかして貰はないぢや困るよ、明日は是非神田の方に出掛けなきやならないんだからね』

母親はさう云つて谷の生返事に、頻りに念を押してゐた。と云つて、彼女は決して、谷をあてにして念を押してゐるのではないと云ふ事は、次の間で聞いてゐる逸子にはよく解つてゐた。そして、また苦しい金策をしなければならないのだなと思ふと何んとも云へない嫌やな気持に圧し伏せられるのだつた。けれど、嫌やだと云つて素知らぬ顔に済ませる訳けにはどうしてもゆかなかつた。どうにか当てをさがさなければならないのであつた。けれど、逸子にしても、此の毎月々々の極まつた入用だけの金にもこと欠いて苦しみ通してゐる際に、たとへ僅か五円ばかりの金と云つても、屹度出来ると云ふあては、何時も馳け込む龍一の処をおいて他にはまるでなかつた。そして本当の処は、始終の事なので龍一の処にも、さう/\は行きかねるのだつたけれど、是非にと云ふ事になれば、どうと云つて、他に仕方はないので、矢張り其処にでも行くより他はなかつた。

『何にも明日に限つた事ぢやないんだらう? 神田なら――』

谷は何時ものやうに気のりのしない調子で相手になつてゐた。

『そんな呑気な事云つちや困りますよ。もう此の間から行かなきやならない筈のが、のび/\になつてるんぢやないか。明日はどうしても行く筈にしてあるんですよ。』

『行く筈にしてゐたつて、お母さんだけ其のつもりでも、俺の方ぢやそんな筈は知らないんだからなあ。金がないと行けないのかい。』

『あたり前ですよ、そんな事。』

『俺だつて別にあてがある訳ぢやないんだから、屹度出来るかどうか分らないよ。』

『それぢや困るぢやないか。偶にたのむんだもの、何んとかしてくれたつてよささうなもんだね、先刻からあんなに頼んでるぢやないか?』

『出来ればどうかするよ。だけど何もさう神田に行くのに大騒ぎする事はないぢやないか、大した用があるんぢやなし、遊びに行くのに――』

『お前はそんな事を考へてるから、いゝ加減な返事ばかりしてゐるんだね。誰がわざ/\肩身のせまい思ひをして遊びになんか出かけるものか。お母さんはいくらおちぶれても、長いつき合ひの人達に義理を欠くやうなことをするのは御免ですよ、第一お前の恥になるぢやないか。』

『俺は恥にならうと何しやうとちつともかまはないよ。お母さんももういゝ加減にあんな下だらない交際は止めて仕舞つちやどうだい?』

『余計なお世話だよ、そんな事までお前の指図を受けてたまるもんかね。それよりは少し自分の事でも考へて見るがいゝや。何だい本当に、親に散々苦労をさして、一人前になりながら、たつた一人の親を楽にさす事も知らないで、大きな顔をおしでないよ。親を苦しめる事ばかりが能ぢやないよ、何時までも/\ブラ/\してゐて、世間の手前も恥かしい。私しやお前のお蔭で何処に行つても、肩身を狭めなきやあならない。全体どんな了見でゐるのか知らないが、親の事なんかどうなつてもいゝのかい。お母さんが行く先々でお前の事を何んつて云つてるか知つてるかい。その内にやあ少しはどうにかなる事と思ふから口惜しい思ひをしながらも耐へてゐるものゝ――何時までも呑気にしてゐられたんぢやあ、私の立つ瀬はありやしない。よく考へて御覧、下だらない奴から何んとか彼とか云はれて、お前だつてそれで済ましちやゐられまい。私しやそんな意気地なしには生みつけやしないよ。』

『お母さんは生みつけない気でも、俺はかう云ふ人間なんだよ、下だらない奴の云ふ事なら、何も一々気にする必要はないぢやないか』

『下だらない奴に、云はれないでも済む事を、いろ/\云はれるから口惜しいんぢやないか。お前はかまはないだらうけれど、お母さんは嫌やだよ』

『お母さんも随分わからないなあ、下だらない、何にも知らない奴に云はれなくてもいゝ事を云はれるのだから、何云はれたつて構はないぢやないか。何が口惜しいんだい? 相手にならなきあいゝぢやないか、済ましてお出よ。だから下だらない奴とのつき合ひなんかよせつてんだよ』

『お前さんと私とは違ふつて云つてるぢやないか。お前さんはいくらでも済ましてお出よ、私しやいやだよ』

『ぢや勝手にするさ』

『あゝするとも。だからどうとももつと私の肩身の広いやうにしてお呉れ。』

『俺がそんな事知るもんか』

『知らないとは云はさないよ。どうしてそんな口がきけるんだい! お母さんの肩身を狭くしたのはお前ぢやないか』

『冗談云つちや困るよ。お母さんさへ馬鹿な真似をしなきやあ、何一つ不自由しないでも済むんぢやないか。俺があたり前なら勉強ざかりを十年も棒にふつたんだつてお母さんが無茶をやつたせいぢやないか! お母さんはもう若い時から散々勝手なまねをして来たんぢやないか。俺だつて偶にや自由な体にでもならなくつちややり切れるもんか。世間の奴等が何を云やがつたつて、俺は嫌やな奴に頭を下げて少しばかりの金を貰ふよりは、少々食ふに困つたつて、かうやつてる方がいゝんだからそのつもりでゐてくれ。楽をしやうと思ふなら俺の事なんかあてにしないでゐて貰ひたい』

『まあ本当に呆れた了見だね、お前はそれで済ます気でも、世間がそれぢや通しませんよ。俺をあてにするなつて、それぢや誰をあてにすればいゝんだい? 私ばかりぢやないよ。お前には子供もゐるんですよ、子供はどうして育つんですよ、親や子供の面倒も見られないでどうするつもりなんだい。金もないくせに一生懐手で通すなんて事が出来ると思ふのかねえ、そんな了見ぢや、これから先きだつてどんなひどい目に遇はされるか知れたもんぢやない。本当に、何んて云ひ草だい! 年老つた私がこれから先き幾年生延びると思ふの。明日にもどうか分らないものを捕へて、俺をあてにするななんてよく云へた。それぢやまるで死んで仕舞へつて云ふやうなもんぢやないか。死ねなら私しや何時でも死んで見せるけれど、今まで何んの為めに苦労して来たと思ふのだい! まあそんな事を云つていゝものかどうかようく考へて見るがいゝ。』

もう相手にはならないと云ふやうに谷は黙つて返事をしなかつた。勢こんだ母親の言葉もだん/\に愚痴つぽい調子におちて行つて、何時か涙をもつた震え声になつて聞えなくなつた。

逸子は黙つて聞いてゐた。母親の愚痴は、直ぐ前に座つてゐる谷よりは、間に隔てゝ聞いてゐる逸子の胸へ却つてピシ/\と当つた。かうした機会の度毎に繰り返される愚痴は、何時でも極つてゐた。けれど、同じ事だけに逸子はそれを聞くのが耐らなく嫌やだつた。それに、家中の者が冷たい気持で睨み合ふのも、大抵いつもそれがもとになるので、逸子はどうかして、母親の気持に、さう云ふ愚痴を持たさないやうにしたいと何時も努めてゐた。それには、なるべく母親に何かにつけて不満を感じさせないやうにしなければならなかつた。その不満も大抵は僅かばかりの小遣で償ふことが出来るのであつた。けれどそんな容易な事でも現在の逸子にとつては、なか/\苦しい事だつた。

『あゝ、またどうしても行かなければならないのか』

逸子は母親の愚痴を聞く辛らさも随分たまらない事だつたけれど、行きさへすれば此方で黙つてゐても、それと察して出してくれる金をあてに、始終龍一の処に行くのも苦しくてたまらないのであつた。

Chapter 1 of 9