Volver
失念術講義
Table of Contents
失念術講義
井上円了
Reading Settings
Tamaño de fuente
18px
Tema
Claro
Oscuro
Sepia
Protección ocular
Interlineado
Modo de lectura
Traducción Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 2 of 8

第一章 發端

近日世上に記憶術を發明せる二三の人士ありて新聞廣告上に其功能を吹聽せし以來圖らずも社會の一問題となり世人大に其事に注意し此術に依て一足飛に大學者大智者とならんことを願ふものあり然るに予は會て記憶術講義と題する書を世に公にし記憶術の何たる及ひ其利害得失の如何を論し併せて記憶術は世人の豫想するか如き効驗あるものに非ることを辨明し是に依て大學者大智者とならんことを願ふは宛も卜筮人相等の方術に依て一攫千金の富を得んことを望むと同一にして一種の迷心なることを論述せり然り而して記憶術の正反對たる失※術即ち忘却術は記憶術其物より一層必要有益なるに世人更に其利益を説かざるは予の大に怪む所なり葢し世人は記憶の利を知りて失※の用を知らさるによる此れ實に一を知りて二を知らさるの淺見にして恰も勞働の利を知りて眠息の用を知らさるの類なり眠息あるにあらされは勞働を續くること能はさるは自然の道理にして記憶も亦然り失※あるに非されは記憶を進むること能はす今其理由を述ふるに人の精神作用は腦膸に在りて存することは疑ふへからさる事實にして記憶作用も腦膸中に存することは固より證明を要せす故に記憶の強弱は腦膸の性質事情の如何によること亦瞭然たり故を以て腦膸の健全活溌なる時は記憶力も隨て強く腦膸憔悴すれは記憶力も隨て衰ふるに至るへし又縱令記憶の強き者と雖も其力に定限ありて犬は犬丈の記憶力を有し猫は猫丈の記憶力を有す故に犬若くは猫の仲間に於てよく其記憶力を養成する方法ありとするも之をして人間同等の記憶力を有せしむるは到底なし能はさる所なり之と同しく人間には人間相應の記憶力ありて縱令世の中に其力を養成する秘術あるも之をして人間以上即ち神佛同等の能力を有せしむること能はす唯人間中には其資性に賢愚利鈍の別あるか如く記憶力にも強弱多少の別ありて比較上甲は乙より記憶力に富み乙は丙より記憶力強きの差あるのみ其懸隔は全く五十歩百歩の相違に過きす畢竟するに是れ皆人間の腦膸に定量あり其能力に定限あるに由るなり故に世に記憶術として講習する所も其定限内に於て五十歩百歩の長短を爭ふに過きす然るに世間には記憶術の利益効驗を述へて誰人も一たひ之を學はゝ忽ち大智者大學者となり得るか如く主唱するものあれとも是れ賣藥の功能書に等しく予か决して信せさる所なり斯くして既に腦膸に定量あり記憶力に定限あるを知らは記憶其物を進むるには前時の記憶を腦膸中より除去せさるを得さる所以を知るへし是れ即ち失※なり譬へは一升桝には一升以上の水を入ること能はす若し之に一升五合の水を入れんと欲せは必す先つ一升を入れ其半量を他に移し然る後にて餘れる五合を入れさる可らさると其理相同し葢し吾人の記憶中には必要なるものと不必要なるものあり利あるものと害あるものあり大なるもの小なるもの善なるもの惡なるもの皆混同して存するものにして其中必要にして利益なるものは却て記憶し難く不利有害の事にして腦中に留め置くを要せさるものは却て失※し難きものなり其不利有害の記憶多く腦中に留り居るか爲に有益の記憶を障害すること多し故に新に有益なる事柄を記憶せんと欲せは舊時の記憶中重要ならさるものは之を腦膸中より除去するを要す是れ即ち記憶を進むるには失※術を要する所以なり恰も田畑に新草を植んと欲せは其前に繁殖せる雜草を除去せさるを得さるか如し凡そ吾人の性たる一般に幼少の時は記憶力に富みて成長するに隨ひ漸く其力を※するものとす葢し少時は舊時の記憶の腦中に存するもの少なく成長の後には舊記憶既に多く腦中を占領せるを以て新記憶を妨くるに由る故に予は記憶術を進むる要法として失※術の有益なる所以を述へんとす

且つ又吾人は記憶力は人間の智力中未た高等の階級に屬する作用に非す他に此より一層必要有益なるものあることを知らさるへからす若し智力の程度より之を視るに記憶は猶ほ下級に屬するものなり若し其上級に位するものを擧くれは思想あり道理あり此思想及ひ道理は智力中の最も高等なる作用なり果して然らは記憶力を進むると道理力を進むると何れか重要なりやは識者を待たすして判知するを得へし試に思へ記憶即ち吾人の有する過去の記憶は唯吾人の智識の材料となるに過きす而して能く之を運轉活用して智者學者となるは全く道理思想の力に依るに非すや葢し人の萬物の靈長たる所以は决して記憶力に長するに非すして思想力に富めるを云ふなり而して記憶力と思想力とは二者併行併進すること能はす甲を養成せんと欲せは乙の發達を妨け乙を進むれは甲を害するの傾向あり其例を世間に尋ね來らは葢し思ひ半に過きん何となれは世間にて記憶力に富めるものは推理工夫の力に乏しく道理力に富める者は記憶力に乏しきを見るにあらすや是に由て之を推すに小兒の記憶力に富みて推理力に乏しく成長者の推理力に長して記憶力を※する所以を知るへし若し一歩を讓りて記憶と道理と二者相待て智力を完成するものにして其功用に至ては元來優劣なしとするも記憶は唯幾多の觀※を腦中に蓄藏するに止り、よく其觀※を整列規制して其順序を保ち之をして種々の事情に應して運轉活用せしむるは全く思想道理の作用によることは如何なる記憶主張者と雖も否定するを得ず加之吾人か記憶せる種々の觀※を適宜に結合若くは分解して新智識新思想を構成するもの亦記憶力に非すして思想の力なること明かなり故に予は世間の人に對して徒らに心思を勞して記憶の養成を圖らんよりは寧ろ意を思想の發達に注き道理養成術を講せられんことを望むなり

Chapter 2 of 8
|