五
「君、實は、僕、小使錢もあぶなくなつて、ここまで歸つて來たのだから、少し融通して呉れ給へ、な、いづれ樺太から來たら返すとして」と、義雄が云ひにくさうに、然し云ひ出せば當り前の樣に云ふ。
「いいとも、いづれ社長に話して、當座の入費は出ささう。その代り」と、渠は何か條件を持ち出しさうであるので、義雄はどんなことかと待ちかまへるのを、なアに、大したことではないのだと云ふ風で、「僕の雜誌に少し原稿を書いて呉れ給へ。」
「そんなことア易いことだ。」
「易いと云うても、どうせ雜誌が雜誌ぢやから、文學物は向かないから、先づさし當り、『田村義雄は何故に蟹の鑵詰製造家となりしや、』こんな問題で、一つ書いて貰ひたい。」
「書くとも、さ、自分が自分を思ひ切り投げ出して、而も自分の根柢を離れてゐさへしなけりやア、如何におほびらに自分のことを善惡共に語つても、決して恥ぢることアないんだから――第一人稱が乃ち第三人稱、主觀的が乃ち客觀的、破壞が直ちに建設だ。」
「僕の樣な俗物にはよく分らんが、君の小説描寫論はさう云うた樣な議論ぢや、なア。」
「さうよ。君やア讀んでゐたのか?」
「新聞紙上のはよく讀んでをつたぞ。」
こんな話をしてから、いよ/\碁に向つたが、氷峰は石を握つた手を下に向けて盤の上につき出し、にや/\笑つてゐる。
「そんな筈はないが」と義雄は向うの顏を見たが、丁半の黒白を云はない。前には氷峰に二三目置かせたからである。
「まア、いいから當て給へ。こないだのは違つてをつた、その上僕は少し強くなつたぞ。」
「さうか」と云つて、義雄が黒を當てた。
「そうれ、見給へ」と、氷峰は得意さうに白を取つた。
最初の勝負は義雄が勝つた。然しその次ぎに渠は白を取つて負けた。氷峰はいい勝負だと云つて、いつまでもやめさせない。互ひに勝負がある。
そのうち晝飯になつた。晩には久しぶりで飮まうとあつて晝はあつさりした食事で、例の女の子が給仕をして呉れた。かの女は氷峰を「兄さん」と呼び、渠はかの女を「お君」と云つてゐる。義雄には、も早や、北海道流の菜が親しんでしまつた。
食後も暑さを忘れて圍碁をつづける。然し義雄のあたまに強く響くのは、目の前なる碁石の音ではない。却つてこの家の筋向うに當る鐵工場で鐵板か、何かをかん/\云はせてゐる音だ。
義雄は、蟹の大きなゆで釜を、鑄釜でなく、鐵の厚板で打たした經驗を得てからと云ふもの、鐵のかな臭いにほひが忘れられず、鐵の響きを聽くと、自分の精神が響いてゐる樣な氣がする。そして、鐵で拵らへた大きな入れ物を見ると、自分がその内容であるものの樣に思へる。
「あの工場はどんな人がやつてゐるんだらう」と、義雄が氣になるので聽くと、
「何とか云ふ人ぢや」と、氷峰は別に注意もしない。
義雄は立つて行つて、おもて座敷の窓から、脊延びして、板壁越しにのぞくと、筋向うの道ばたに姿のいいしだれ柳が立ち並んでゐる。その間から見える工場入り口のわきに、ちひさい蒸汽釜の樣な物が二つ置いてある。
その釜に塗つてある朱色が柳の青葉と相映じて、義雄のかな臭くなつた神經の末の末までの感じを引き立てた。
ゆふかたに近くなつた頃、氷峰の宅へ物集北劍と云ふ人が尋ねて來た。義雄もそれに紹介された。
北劍は、もと氷峰が這入つてゐた北辰新報の社長兼主筆であつて、その盛んであつた時は、氷峰その他の記者等を使つて、北海メール(今では最も勢力がある)に對抗してゐたのだが、資力がつづかなかつたので、二三年前に休刊の名を以つてその新聞を廢刊した。
渠は今、遊び半分に、自分の本籍地たる村落(札幌郊外)の合併問題に奔走してゐる。四角張つたところへ出るには、いつも同じ古ぼけたフロクコートを着して行き、そのしみだらけで、色のさめてゐるなどに無頓着なので、却つて實着な人物として人々に信用されてゐる。そのなかなか膽ツたまの据わつたらしい、太つたからだを飛白の單衣に包んだまま、あぐらをかき、短い眞鍮の煙管を横にくはへながら、柔和に而も自慢らしく自分のやつてゐることを語るのを聽くと、義雄には、然し、正直らしいところに嫉妬心が強さうな樣子が見える。
「村の奴などは物の分りが遲くて困る。」北劍は少しどもる癖がある。「おれにまかすと云ふのだから充分にまかして置けばよからうに、そりや、北村がどうの、南村がどうのと云ひ出して、始末に終へない。然し、もう、ここまで漕ぎつけたから、近々決定するだらうよ。おれだツて、そんなに幅の利かない男ではないから、なア。」
「それくらゐのことがまとまらないでは、昔の北劍も老いたり焉ぢやから、なア。」
「おれだツて、か、可愛さうに、それくらゐの、う、腕はあるとも。」
「まア、しツかりやつて呉れ給へ。」
「道會議員に打つて出ないかと勸めるものがあるのだよ――おれの地盤は充分堅いからと云うて。」
「やつて見りやアどうぢや?」
「然し道會ぐらゐに出るつもりなら、お、おれだツて、今までぐづつきやアしなかつた、さ。」
「議長になツたツて、知れたもんぢやから、なア。」
「國會議員になツたツて、何ほどのことがある」と、義雄も口を出した。
「ただの起立議員では、なア」と、氷峰は笑つた。
「然し帝國議會の演壇で、い、一度は大演説を試みたいものぢや、なア。」
「北劍先生の樣にどもつては駄目だらう」と、氷峰がからかふと、
「これでも、そ、その場になつたら、ど、どうして――」と、北劍は笑ひながら答へをし切れなかつた。
こんな話をしてゐるうちに、氷峰はすべての事務員や編輯掛りを歸してしまひ、晩酌の支度が出る。
酒を飮みながら話し合つて見ると、義雄と北劍とは、同時代に仙臺の別々な學校にゐたのが分つた。後者は無論五六歳の年うへだが、その知つてゐる當時の消息を前者もよく知つてゐる。後者がその校友會雜誌第一號の卷頭に出した論文を、別校から出る雜誌で攻撃したのは前者であつたのだ。また、前者がその校内の文學會に於いて朗讀した長篇の脚本的新體詩を、他校學生の招待席から足踏みして妨害した者の仲間に、その後文學博士となつて物故した文藝批評家もゐたと同時に、北劍も亦その一人であつたことが分つた。
「奇遇だ、なア」と、はたから氷峰が愉快さうに云つた。
そこへ、また來客があつた。巖本天聲と云ふ北海メール記者だ。洋服で堅苦しく坐わる。
「これが田村義雄君です」と、氷峰が紹介する。そして、義雄と天聲との初對面が濟む。
「物集君」と、氷峰は北劍に向き直り、「今囘田村君が來札されたに就き、僕等で歡迎會をやらうと思ふんぢやが、君も來て呉れるだらう?」
「僕は新聞記者の浪人だが、い、行つてもよい。」
「實は、ゆうべ、田村君が來たと分つてから、巖本君に會つたので、同君に奔走して貰ふことを頼んだ――メールで奔走しないと、來んものが多からうと思うて。」
「それもさうだ。」
「そのことで」と、天聲は話しの仲間入りを爲し、「相談に來たのですが、どうです、計畫は立ちましたか?」
「計畫と云うて、別にないぢやないか? きのふ云うたことだけは僕が引き受けるから、その跡を君がやつて呉れたらよいのぢや。」
「それは分つてるが、第一、いつまで御滯在やら――」
「田村君は暫くをるから、この土曜日がよからう。」
「日はそれとして、場所だ。」
「幾代がよからう」とは、北劍が出した意見である。
「いや」と、氷峰は首を傾けた、「幾代では、會計の方が足るまい――さう高い會費を取れば、人が來まいから、なア――普通の月ならよからうが、今月は東京のお客さんがたが、大臣やら、次官やら、隨分飛び込んで來たので、皆が會費疲れをしてをる。」
「本當に今年は北海道の大入りぢや」と、北劍はまた浪人的な目つきをして、「後藤が去つたと思へば、やがて司法大臣が來る――」
「伊藤さんがまた變梃な韓太子などをつれて來るさうぢやし」と、氷峰。
「田村さんも」と、天聲もその話に乘つて、「そのお客の一人になるのは、不名譽ではないと思ひますが――」
「それは無論、さ。」氷峰が急に義雄の方を見て笑ふ。
「僕などアどうして――さういふ歴々と一緒に見られては困る、値うちが違ふんだから」と、義雄は謙遜して云つたが、値打ちが違ふと出た言葉には、その實、謙遜の意味よりも寧ろ自信の影が這入つてゐた。自分が自分で自分の活動をしたり、失敗したりするに於いて、人間としての價値は決して渠等に勝るとも、劣つてゐはしないと云ふ確信が義雄の胸に湧いた。そして、性來の無頓着好きから、「會場などアどこでもいいぢやアないか、歡迎して貰へるなら、それだけで僕はありがたいのだ」
「では、中島遊園の西の宮支店がよからう」と、天聲の發議で會費はいくら/\、藝者は幾人呼ぶなどと云ふ相談がきまつた。
すると、北劍は、
「ああ、よ、醉つた」と云ひ出した。
「なアに」と、氷峰はうち消して、笑ひながら、「君がさう云ふやうになつた時は、もう、二升は十分やつた時ぢや――さうして例の、血が湧くやうな戀を思ひ出さんと――」
「けふは別ぢや。」かう云つて、北劍は同じちやぶ臺に向つて並んで坐わつてゐる義雄の肩を、
「おい、君」と云つて叩き、また一方の手で義雄の手を握り、
「き、君は天外の孤客ではないぞ。おれと意氣投合した――きよ、兄弟分だ」と、もたれかかる。そしてまた起き直つて猪口をさし出し、氷峰に酌をさせる。
「田村君は物集君と仙臺で同時代であつたさうぢや。」氷峰は北劍の酌をしながら、天聲に語る。
「無論、直接には話をしなかつたのぢやが――」
「眞に奇遇、さ」と、北劍も天聲に説明する。
「そりやア面白い、なア」と、天聲も眞面目くさつて愛相を云ふ。「田村さんも島田君や物集君の樣な知己を得て、北海道の旅行も寂しくはあるまい。」
こんな話も義雄の耳には涼しく聽えてゐたが、渠の疲れたからだは、いつのまにか、疊の上に倒れてゐた。
「もう、歸る。」
「まア、待ち給へ、一緒に出よう」と云ふ北劍と氷峰との應對が聽えたかと思ふと、義雄は氷峰にゆり起された。で、渠は驚いた樣に目をさまして起きあがり、
「あ、諸君に失敬した、ね」と、氣の毒さうに云ふ。そして心では餘ほど旅と事業上の心配とに疲れてゐる自分であることを感じた。
「さア、散歩に出よう。」氷峰は渠を促す、「札幌の夏の夜景も見て置き給へ。」
「君は弱い、なア」と、北劍は不平さうに云ふ。
「いや、實に失敬」と、義雄はあやまる。
四人はつれ立つてそとに出た。そして、兩側に樹木の植わつてゐる大道を南へとほつて行く。
星月夜だ。見える物がすべて陰になつて、空ばかりが明るい。
「いい夜だ、ねえ。」義雄は誰れにとなく語つて、急に沁み込んで來る孤獨の感に打たれた。
然し地上には、街燈の光で見ると、樹木の影にまじつて、四つの黒い影が動いてゐる。その一つの影が、
「田村さん」と呼びかける。
「はい」と、こちらが答へると、つづいて、
「あなたの御滯在中を幸ひに、一つ自然主義の説明をして貰ひたいと思ひます。」
「説明と云つて――僕が新聞や雜誌で書いたのと別に違ひませんよ。」
「そんなことを頼むよりも」と、また別な聲だ、「巖本君、あの田村君が出した論著を讀む方が手ツ取り早い、さ。書いた本人でも、その實、説明の出來ないことがあるもんぢや。歌よみの歌なども大抵は皆そんなもんぢや。――物集君、さうぢやないか?」
「そりやア、おれの書いた論説でも、明る日讀んで見ると、何のことか自分でちよツと分らんことがたまにはある。」
「そんなもん、さ。讀む人が自分で發明するより仕やうがない。」
「僕も書物だけはいろんな人のを買つてある。然し、どうも、いそがしいので、讀むひまがない。」
「北海メールの編輯はつらいから、なア。」
「實際だよ――僕もいつまでもやつてをる氣はない。」
この最後の聲が、先づ別れて、「ここが最高等の西洋料理屋だ」と説明された大建物の角から、道を右へ曲つて行つた。次ぎに、北劍の聲らしいのが、また、「あれが中央散策地の銅像だ」と云ふ黒影が二つ三つ立つてゐる廣い横通りを、右の方へ行つてしまつた。
あとに殘つた影二つは義雄と氷峰とであるが、なほ進んで、店頭の電氣で明るい街へ出た。それから、また一直線に薄暗い道を行き、南五條を横切ると、直ぐ左右の兩角に柳が一本づつ植わつてゐて、それが眞ン中の大きな電燈に照らされてゐる。そこのおほ門を這入ると、別世界の如くあたりが明るくなる。薄野遊廓だ。二人はもはや路傍の黒い影ではなく、明かに人間の血のあツたかみを吸ひたい動物であつた。
そして義雄も、一度前囘に氷峰と共にのぼつたことがある高砂樓の客となつた。