五
東京の石炭商なる知人に照會した木材事業に關する一件は、返事が來たが、
「とても見込みがないから、よせ」と云ふのである。かさね/″\の不成功を義雄は非常に心苦しく思つた。
自分は詩歌小説の創作や、思索的發見や、戀愛など云ふ、比較的に精神的、内部的な事業の實行ばかりで、かの俗衆の所謂事業をその最も表面的、外形的な方面まで成功する見込みがないのだらうか?
不成功は必らずしも論ずるに及ばない。また返り見るに足りない。内部的に見れば大成功者の豐太閤も、外部から見れば結局の失敗者だ。精神的に自己の滿足を得たナポレオンも表面から云へば大失敗だ。最近に於いて、伊藤公爵の如きは、外表に對する成功の爲めに、却つて内部的發展を妨げられてゐる氣味がないではない。だから、成功は必らずしも問ふところではない、と。
然し、その境に踏み込んだ以上は、せめてそこを一度は充分に蹂躪して見たいものだと、義雄は憤慨するのだ。世界に向つて大貿易を開らくのも、一國をまとめてその手中に操縱するのも、自己一身に立て籠つて本能の無飾的な發展を全くするのも、事業並びに實行としては、決してその大小と高下とはない。
「ただ、然し、思ふままに、外面的な實行にも、もツと自己を發展して見たい。」これが義雄の野心を切實に刺戟する動機である。
渠は、かういふ苦肉策を考へる時には、いつも、幼時教へられた東西歴史の交渉研究に必要なジンギス汗、タメルラン、アチラなどの事蹟を思ひ浮べるのである。渠等は歐洲人の領地をただ蹂躪しただけで、渠等が去ると同時に、何等の偉蹟をも建設しなかつたと云はれる。且、また、渠等の如き東洋的英雄豪傑は、破壞でなければ、酒色のことしか知らなかつたと云はれる。歐洲人がさう云ふのはまだしもだが、東洋の日本人までがさう云ふのだ。
然し、これは、歐洲の歴史家が歐洲の歴史を辯護する爲めの俗習的見解である。然らざれば、歐洲の智識ばかりに心醉してゐるわが國のハイカラ學者等が、歐洲人の口吻を眞似てゐるに過ぎない。然らざれば、また、世の俗習家がジンギス汗等に向つて、渠等の公明正大な、男性的な、東洋的な、本能上の行動を、自分の俗習見に照らして、けち臭く解釋してゐるのだ。
ジンギス汗等が後世の爲めに何等の建設もなかつたのは、渠等の自己發展、自己滿足のほかに、何等のけちな俗習見もなかつた證據である。「子孫の爲めに美田を買はず」といふ言葉も、俗習家には、ただ自己を空しくして、他の爲めに誠意を盡す意味に解せられてゐるが、それは單に公明正大を僞はる手段に過ぎない。
義雄の考へは反對だ。自己を少しでも空しくすれば、却つて自己の誠意を缺く樣になるのみならず、自己の存在をも危くすることになるのだ。世人の所謂美田を買はないのは、國家民衆の爲めばかりでなく、子孫の爲めにも、空しく盡す樣な餘裕がないほどに、自己を充實させて置く必要があるからである。
そして、ジンギス汗等は、豐太閤と等しく、義雄の主張する自己充實に於いて殆ど遺憾がなかつた。この自己充實説は刹那主義に於いて最も充分に發揮せられるものであるから、自己の刹那に關係がない過去もしくは未來に於いて、何等の建設もしないのは、乃ち、却つて美田を買はない所以であつて、最も僞りのない公明正大だと、義雄は思ふ。渠の自我中心説は世界に對して日本中心説となつてゐる。そして、渠はそれを刹那主義で發揮するのを歐米の僞文明國に對しても憚らないのである。
然し、義雄に取りては、木材事業の計畫が駄目になつたと同時に、樺太の弟からまたハガキが來て――なぜ封書でよこさないのだと、義雄は心で怒つた――從兄弟の製造主任が謀反心があつて、自分の不始末から起つた困難にも拘らず、その困難と負財増加とに堪へかね、それを免れる爲めに、早く義雄等の協同から、喧嘩づくにでも、脱してしまひたい樣な態度を見せて來たから、義雄に早く來て呉れろと云ふのである。さうでないと、一大事件が初まると附け加へてある。
弟から見れば、その事業の總括者たる兄の義雄から、渠の出發後は代理となつてああしろかうしろと命令されてゐるので、この兄弟に信用を失つてゐる從兄弟の怪しい行爲は充分注意して、さうさせない樣にしなければならない。
然し、無學で惡ずれのした從兄弟は、また、年上であるから、自分よりもずツと年下の代理主權者の遠慮勝ちな注意と命令とに默つて從つてゐる筈がない。兩者の反目は、義雄が出發の際あやぶまなかつたのでもない通り、テイヤとホロドマリに於ける義雄の兩製造所の對立となつたのだ。
ホロドマリには、義雄の弟が東京から仕込んで行つた釜、その他の機械を据ゑて、東京からつれて行つた人々と共に住んでゐる。テイヤには、從兄弟が鰊釜を代用して、かの惡辣な世話人に抱き込まれてゐる。初のうちは、テイヤで蟹が多く取れた時は、人夫を雇つてホロドマリへ運搬し、そこでの不足を補つてゐたらしいが、原料が高い上にそんな手間賃まで高く出すのだから、とても、引き合ふものではない。
渠等の生活さへ僅かにでも出來てゐるのか、どうか、疑はしいほどである。
義雄は、弟の所謂「一大事件」とは、樺太で抵當に這入つてゐる所有物件を取られてしまふことであるのを、知つてゐないではない。が、然し今、自分が相當の金を持たないで行つたとて、何の效能もないばかりでなく、自分までが物件と共にさし押へられてしまふに過ぎないのだ。その上、また、行つて歸るだけの用意もない。
「どうせ、過半は斷念したこの事業であるから、早く切りあげてしまへ。萬一、樺太に於ける所有物件だけが來年まで安全になる相談が附けばよし、附かなければ、それは從兄弟と共に放棄してもいいから、あとのものはそちらを引きあげて歸つて來い。自分は二三日のうちに北海メールの補助のもとに北海道巡遊に出る。それが濟んでも、歸京するか、當地になほ滯在するか、どちらとも分らない。――
「兎に角、この鑵詰事業の失敗の爲めに、自分等の家も今どうなつてしまつたか分らない状態にあるのだから、自分は別に何かの事業を見つけるまで二三年は放浪の身になるだらう。お前もその覺悟で一先づ東京へ歸れ。――
「どうせ、お前は不勉強の、學問ぎらひで、父の在世中から學校をやめたかつたのである。自分はその意を汲んで、お前を直ぐ自分の事業にたづさはらせ、熟練の結果によれば、學校の保證など入らずに獨立もさせようと思つたのだが、失敗の爲めにそれも出來ない。――
「然し今更ら歸京して再びあの大學部の殘りをやれないのを恨むにも及ぶまい。徴兵猶豫がなくなるのなどは、決して苦にする場合ではない。お前は、來年の試驗期には、どうしても徴兵に應じて見なければならないのだ。然しそれはそれとして、お前一個の方針はお前一個で考へろ。東京に於いて抵當に這入つてゐる家のことも、自分にただ形式的な愛を迫る妻子のことも、すべて考へる餘裕のない自分は、なほ更らお前のことなど考へてゐられない。――
「特にことわつて置くが、自分は清水お鳥とは手が切れたつもりだ。その點は、もう、心配するに及ばない。」
以上の文句を書き入れた封書に、添へ書きとして、「以後の報告は矢ツ張り有馬氏當てでよこすがいい。然し返事が行くとは思ふな。但し、その報告は封書に限る」と加へ、但し書には圈點を打つて、弟に送つた。