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雨月物語 02 現代語訳 雨月物語
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雨月物語 02 現代語訳 雨月物語
上田秋成
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Chapter 5 of 14

雨月物語 巻之三

仏法僧(ぶっぽうそう)

うらやすの国とよばれるこの日本は、長いあいだ穏やかに治まって、民はそれぞれの家業にいそしみ、その余暇には、春は花の下にいこい、秋はもみじの林を訪ねるというように行楽をたのしみ、はては遠く九州筑紫の名所も知らなくてはと思って、遠くまで船旅をする人が、こんどは富士や筑波の山々に行ってみたいと、ふかく心惹かれるのも、思えば、泰平の世の余沢として、自然のなりゆきであろう。

伊勢の国相可という里に、拝志氏という人がいたが、はやく家督を嗣子にゆずって、べつにこれという不幸があったわけでもないのに剃髪し、名を夢然とあらため、元来丈夫で持病というものもないところから、諸国をあちこちと旅行するのを老後のたのしみとしていた。末子の作之治が、どうも生来無骨で融通のきかないのを案じて、都人の風流にして優しい様子でも見せようと思い、彼をともなって一か月あまりを京都二条の出店に逗留し、三月の末には吉野の奥の桜を見に行き、知りあいの寺に七日ほど泊ったが、このついでに、まだ高野山へ行ったことがないので、ひとつ行ってみようといって、折から夏のはじめ、青葉の茂みをわけながら、天の川というところから山を越えて、摩尼の御山とよばれる高野山に行った。道中のけわしさに行き悩んで、みちははかどらず、いつのまにか日の暮れかかるころになった。

壇場から諸堂、霊廟と、のこらず参拝して、宿坊の前に立ち、「こちらに泊めていただきたい」と声をかけたが、誰ひとりとして応答するものがない。そこで通行人に、この地のならわしをたずねたところ、「お寺や僧坊につてのない人は、麓に下って夜をあかすよりほかありません。この山では、すべて旅人に一夜の宿をかすということはないのです」というこたえだった。どうしようかと、途方にくれた。いかに丈夫な身体とはいっても、老人の身で、けわしい山路を越してきたうえに、いまこうしたことを聞いては、心ががっくりと張りあいを失って、急に疲れを覚えた。作之治も、「日も暮れ、足も痛んで、さらにこのうえどうして長いみちのりを麓にくだれるでしょうか。私のように若い者は、たとえ草に寝てもいといません。しかし年寄られた父上が、そのために御病気にでもなったらと、それが案じられます」という。夢然は、「旅というものは、こういうことがあってこそまた趣があるというものだ。しかし、今夜、脚をいため、疲労困憊して里へ下っても、それが自分の故郷というわけでもないし、また明日の道中だってどんなことがあるかわからないのだ。この山は日本第一の霊場で、弘法大師の広大な徳はとても語りつくせないほどである。わざわざにでもここへきて、終夜、参籠祈願し、来世の安楽往生をお願いしなければならないところであるが、今夜はちょうどよい折であるから、大師廟で終夜お念仏を唱えることにしようではないか」といって、杉並木の鬱蒼とした奥の院への参道を歩み進んで、やがて大師廟の前の灯籠堂につき、その縁側にのぼって、もっていた雨具を敷き、席をこしらえると、そこにすわって、心しずかに念仏を唱えながらも、夜がしだいにふけていくのをなんとなく心細くわびしく感じたのである。

この山は、約五キロ四方平坦になっていて、あたりに見苦しい林など見えず、小石一つさえはらいきよめたありがたい霊地ではあるが、それでもさすがに、この灯籠堂の辺は寺も遠く、陀羅尼を唱える声も、鈴錫の音もきこえない。樹木は雲をしのぐほど高々とそびえて茂りあい、道ばたを流れる水の音がほそぼそと澄みわたって、夜の静寂になんとなくさびしい。寝られないままに、夢然は作之治にむかってはなした。「そもそも大師の徳の力は、霊なき土石草木にまでも霊を宿して、開山以来八百余年を経た今日にいたっても、ますますあらたかで、ますます尊いことである。大師の遺された業績やめぐり歩かれた旧跡は、日本全国に多いが、その中で、この高野山こそ第一番の仏道道場である。まだ大師の御存命中のことであるが、遣唐使にしたがって、遠く中国に留学され、その地で真言の秘奥をきわめられると、『この三鈷の落ちとどまるところが、わが宗旨をあげひろめる霊地である』といって、三鈷を大空高くお投げになったが、それがこの山に落ちたのであった。壇場御影堂の前にある三鈷の松というのが、それが落ちとどまった所だと聞いている。すべてこの山の草木といい、泉石といい、霊力をもたないものはひとつもないということである。今夜ゆくりなくもここに一夜をおかりしたということは、この世だけでなく、前世からのありがたい因縁である。お前も若いからといって、けっして信心を怠ってはならない」と、小声ではなすが、夜のしじまにその声さえすみとおって、心細い感じがする。

大師廟のうしろの林あたりからと思われるが、「ブッパン、ブッパン」となく鳥の声が、こだまになって響いて、耳近くきこえてくる。それを聞くと、夢然は、目さめるような心持になって、「ああ、めずらしい声を聞くものだ。いま鳴いている鳥が仏法僧というのだろう。かねがねこの山にすんでいるとは聞いていたが、たしかにその声を聞いたという人もいないのに、今夜ここに宿って、ありがたいその声を聞けたとは、まさに滅罪生善のいいしるしであろうか。あの鳥はもともと清浄の地をえらんですむということである。上野の国の迦葉山、下野の国の二荒山、山城の醍醐の峰、河内の杵長山、そして、なかでもこの高野山にすんでいるということは、大師のお詠みになった詩偈にもあって、世人のよく知っていることである。

寒林独坐草堂暁   三宝之声聞一鳥

一鳥有声人有心   性心雲水倶了々

(さびしい林の中の草の庵にひとり坐して暁をむかえると、折から仏・法・僧の三宝を唱える一羽の鳥の声を聞いた。一羽の鳥ですらすでに三宝を唱える声があるのだから、これを聞く自分にも、これに応じて仏心を発揮する心がある。有情の鳥声・人心、非情の行雲・流水、すべてこの山にあるものは法身如来の仏徳を開顕して悟りの境地に入っている)

これがその詩偈であるが、また古歌にこういうのもある。

松の尾の峰静かなる曙にあふぎて聞けば仏法僧啼く

(松尾山の峰が静かにあけてゆく曙に、峰の空を仰ぎながら耳傾けると仏法僧の声がきこえる)

昔、最福寺の延朗法師は、世にもまれな信仰あつい法華経信奉者であったので、松の尾神社の祭神が、この仏法僧をつねに延朗法師に仕えさせたということがいい伝えられているから、この歌のように、松の尾神社の神域にもすんでいたことが知られる。それにしても、今夜くしくも、すでにこの仏法僧の一声を聞きえたのだから、私もここにおいて興趣をおぼえずにおられようか。一句詠んでみよう」といって、平生たのしみたしなんでいる十七音の俳諧を、しばし案じていたが、やがて口に出して詠みあげた。

「鳥の音も秘密の山の茂みかな」

旅行用の小硯をとり出して、御灯明の光をたよりにこの句を書きつけ、もう一声聞きたいものだと耳をすますと、思いがけず遠く寺院の方から、先ばらいの声がいかめしく聞こえ、次第にこちらへ近づいてきた。いったいどなたがこんな夜更けに参拝なさるのだろうかと、あやしみながらもおそろしく思って、親子は互いに顔見合わせて息をころし、そちらの方ばかりじっとみまもっていると、はやくも先ばらいの若侍が、御廟橋の橋板を荒々しく踏んで、こちらにやってくる。

親子がおどろいて灯籠堂の右側の廊に身をかくすのを、武士はいちはやく見つけて、「何者だ。殿下のおいでだぞ。はやく下へおりろ」というので、二人はあわてて縁をおり、地面に平伏した。まもなく大勢の足音が聞こえたが、その中でひときわ高く沓音をひびかせて、烏帽子・直衣を召した貴人がお堂におあがりになると、おつきの武士四、五人が、その左右に座をしめた。貴人は、おつきの武士たちにむかって、「だれだれはどうしてこないのか」とおたずねになる。「やがてまいりましょう」と、武士がおこたえ申しあげる。そこへまた一群の足音がして、いかめしく立派な武士や、頭を丸くした入道などがその中にまじってやってきたが、貴人に対してうやうやしく礼をすると、堂にのぼった。貴人は、いま来た立派な武士にむかって、「常陸介、その方はどうして遅くまいったのだ」とおっしゃると、その武士は「白江、熊谷の両名が、殿下に御酒をさしあげるのだと申して、まめまめしくはたらいておりますので、拙者もなにか御酒の肴を一品ととのえてさしあげようと思い、そのためにおともに遅れたのでございます」と申しあげる。そして、たずさえてきた肴をならべておすすめすると、貴人は、「万作、酌をせい」とおっしゃるのだった。その声に、美貌の若侍が、かしこまっていざりより、酒器をとりあげて酌をした。それから、あちらの人、こちらの人と杯をまわして、酒宴はにぎやかになった。

やがて、貴人は、また口をひらいて、「久しく紹巴のはなしを聞かないな。ここへよべ」とおっしゃると、御前から順に呼び伝えているようであったが、ちょうど夢然が平伏しているうしろの方から、一人の大きな法師――顔がひらったく、目鼻だちのはっきりした人であった――が、僧衣の身づくろいをしながら、堂の方へ進み出、居並ぶ人々の末座に座をしめた。すると、貴人は古歌や故事・古語などをあれこれとおたずねになり、法師はそれにたいしていちいちくわしくおこたえ申しあげたが、貴人はそのこたえにひどく感心されて、「かれに当座の褒美を与えよ」とおっしゃった。

高野山奥の院、灯籠堂の前で、深夜、夢然・作之治父子が、関白秀次とその家臣たちの亡霊にあう図。先駆の武士が父子を叱っているところ。(原本三丁裏、四丁表の挿絵)

一人の武士が、法師にたずねた。「この高野山は徳高き高僧がおひらきになって、土石草木のごとき霊なきものまで、仏徳をうけて霊魂をもたないものはないと聞いております。しかるに、ここを流れる玉川の水には毒があって、人がこれをのむときは毒にあたって命を落すゆえに、大師がそれをいましめるためにお詠みになった歌として、

わすれても汲みやしつらん旅人の高野の奥の玉川の水

(忘れても旅人は高野山の奥の玉川の水を汲んで飲んではいけない、毒があるからだ)

というのがあると聞きつたえております。大師ほどの高徳の方が、この毒のある流れを、どうして涸らしておしまいにならなかったのでしょうか。いぶかしいことですが、貴殿はどうお考えになっていらっしゃいますか」

法師は、微笑をたたえて、こたえた。「この歌は『風雅集』におさめられております。その詞書に『高野の奥の院へまいる途中にある玉川という川は、水上に毒虫が多いので、この流れを飲んではならないということを、さとしいましめておいてのちに、この歌を詠む』という意味のことがあきらかに書かれておりますから、貴殿のおっしゃるとおりです。しかしまた、いまのお疑いが道理にはずれたことでないと思われますのは、大師は神の如き霊力をもってなにごとをも思うようになしうる方でしたから、目に見えない神を使って道なきところに道をひらき、巌をくりぬくのは土を掘るよりもたやすく、大蛇を封じこめ、化鳥を帰順せしめられるなど、ひとしく天下の人々が仰ぎとうとぶ立派な功績をおしめしになったことを思いあわせると、どうもこの歌の詞書はほんとうとは思えません。もともとこの玉川という川は諸国にあって、どの玉川を詠んだ歌も、その流れの清らかなのをほめたたえたものであることを思えば、ここの玉川も毒のある流れではなく、この歌の意味も、これほど名高い川がこの山にあるのを、ここに参詣する人はかりにすっかり忘れていても、この流れの清らかさに心ひかれて、思わずも手にすくって飲むことであろう、というこころをお詠みになられたのであろうのを、後世の人が、毒があるという妄説につられて、この詞書をつくりあげたものかと思われます。また、もっとふかく疑ってみると、この歌の調子は、大師の生きておられた平安朝初期のうたいぶりではありません。およそわが国の古い言葉に、玉鬘、玉簾、珠衣などというのがありますが、これらはかたちのよさをほめ、清らかさをほめる言葉でありますから、それとおなじように、清水をも玉水、玉の井、玉川などとほめるのです。毒のある流れに、どうして『玉』という言葉を冠らせることがありましょうか。むやみやたらに仏をありがたがって、しかも歌のことなどにくらい人は、このような歌意曲解のあやまりはいくらでもしでかすものです。それにひきかえ、貴殿は歌よみでもいらっしゃらないのに、この歌の意味に疑問をもたれるとは、ほんとうにたしなみのふかいゆかしいことでございます」と、大いにその武士をほめたたえたのである。貴人をはじめ、なみいる人々も、この説が道理にかなっていると、しきりに賞讃した。

折から、御堂のうしろの方で、「ブッパン、ブッパン」と鳴く声が、間近く聞えたので、貴人は杯をあげられて、「あの仏法僧の鳴くのも久しく聞かなかったが、これで今夜の酒宴にひときわ興がのったぞ。紹巴、一句どうじゃ」と、おっしゃる。法師は、かしこまって、「それがしの短句は、すでに殿下にもお聞きふるしでいらっしゃいましょう。今夜、ここに旅人がお籠りしておりますが、さっき当世風な俳諧を口ずさんでおりました。殿下にはおめずらしくいらっしゃるでしょうから、その者をよび出して、お聞き下さいませ」という。貴人が、「その者を呼べ」と、おっしゃると、若侍が夢然の方にむかって、「お召しでいらっしゃるぞ。ちこうまいれ」という。夢然は、無我夢中で、おそろしさのままに、御前へはい出した。すると、法師は、夢然にむかって、「さっき詠んだ句をわが君に申しあげよ」という。夢然は、おそるおそる、「なにを申しましたでしょうか、いっこうに覚えておりません。どうかおゆるし下さい」という。法師は、重ねて、「秘密の山という句を詠んだではないか。殿下がおたずねになっていらっしゃるのだ。はやく申しあげよ」という。夢然は、いよいよおそれて、「殿下と仰せられますのはどなたでいらっしゃいますか。どうしてこんな深山で夜宴をもよおされていらっしゃるのですか。どうもいよいよ不審なことでございます」という。法師は、それにこたえて、「殿下と申しあげるのは、関白秀次公でいらっしゃるのだ。またここに従う人々は、木村常陸介、雀部淡路、白江備後、熊谷大膳、粟野杢、日比野下野、山口少雲、丸毛不心、隆西入道、山本主殿、山田三十郎、不破万作の面々で、かくいうそれがしは紹巴法橋である。汝等はふしぎの御縁で拝顔の栄をえたのであるぞ。さっきの句をいそいで申しあげよ」という。夢然はこれをきくと、もし頭に髪があったならば、一瞬にしてその毛髪がふとくなるかと思うほど恐怖におののき、肝も魂も身をはなれて宙にうくような心地がして、ふるえながら、頭陀袋からきれいな紙をとり出して、筆もしどろもどろに書きつけてさし出すと、それを山本主殿がとって、声高くよみあげる。

「鳥の音も秘密の山の茂みかな」

貴人は、これをお聞きになって、「こざかしくも詠みおったな。だれかこの付句をいたせ」とおっしゃると、山田三十郎が座をすすみ出て、「それがしがいたしましょう」といって、しばし首をかしげて思案していたが、やがてこう付けた。

「芥子たき明すみじか夜の牀

どうでしょうか」と、彼は書いた紙を紹巴に見せる。紹巴は、「みごとにお詠みになりました」とほめて、それを秀次公の前にさし出すと、秀次公もごらんになって、「悪いできでもないわい」と感心されて、また杯を傾け、一座にまわされた。

淡路とよばれた人が、このとき急に顔色をかえて、「もはや修羅の時刻になったようです。阿修羅どもがお迎えにまいったと申しております。お立ち下さい」というと、一座の人々はたちまち血をそそいだように顔を真っ赤にして、「さあ、石田、増田のやつばらに、今夜も一泡ふかせてやろう」と、勇んで立ちさわぐ。秀次公は、木村にむかって、「つまらぬやつにわが姿を見せてしまったわい。あいつ等二人も一緒に修羅道へつれてまいれ」とおっしゃる。それを、老臣の人々がわってはいって、間をへだて、声をそろえて、「まだ寿命のつきない者どもでございます。いつもの悪行をなさいますな」といったが、その言葉も、人々のすがたも、遠く大空のかなたに消えて行くようだった。

親子は気を失って、しばらくのあいだは息もたえだえであったが、やがて明けてゆく空とともに、梢を落ちる露がひややかにかかるのに息をふきかえしたけれど、それでもまだすっかり夜の明けきらぬおそろしさに、「南無大師遍照金剛」とせわしく唱えながら、ようやく太陽の昇ったのを見て、いそいで山をくだり、京都へ帰って、薬や鍼の治療にいそしんだのである。その後、ある日、夢然は、三条の橋を通りすぎるとき、そこの瑞泉寺にある秀次の悪逆塚のことを思い出すと、その方におのずと視線がひきよせられて、「白昼でも物すごいありさまでした」と、のちに都の人にはなしたのを、聞いたままにここに書きしるしたのである。

吉備津の釜(きびつのかま)

「嫉妬ぶかい女というものはとかく家を乱しがちで、手におえないものであるが、反面ではそのために夫の身持が制約され、おのずとかたくなるので、若いうちはうるさく思っていても、年をとってからふりかえってみると、それにはまたそれなりにいい点やありがたさがあったのがわかるものである」という言葉がある。ああ、これはいったいだれのいった言葉だろうか――。嫉妬ぶかい女というものは、嫉妬の害がさほどひどくない場合でも、家業のさまたげをなし、器物をこわしたりなにかの手違いをおこさせたりして、隣近所からのそしりはまぬかれがたいものであるが、その害の甚大なものにいたっては、ついに家を失い、国をほろぼして、長く天下の物笑いのたねとなるのである。昔からこの嫉妬の害毒にあたって苦しんだ人は、どのくらいあるかわからない。嫉妬ぶかい女のなかには、死んだのちにおろちとなったり、あるいは物凄い雷をならしたりして、男にうらみを晴らすというものもあるが、そういうたぐいは、みせしめのために、その身の肉を刻んで塩辛にしても、なお飽きたりないほどである。しかし実際にはそんな極端な例はごくまれである。夫が自分の身持をよくおさめて妻を教え導いたならば、嫉妬の弊害も自然と避けることができるのに、それをほんのちょっとした浮気から、女の嫉妬ぶかい本性をつのらせて、自分で自分の身の憂いを招いてしまうのである。昔から、「鳥類を制するのは人間の気合ひとつにある。そして妻を制するのは、その夫の雄々しくしっかりした気性ひとつにある」といわれているが、ほんとうにその通りである。

吉備の国賀夜の郡庭妹の里に、井沢庄太夫という人がいた。祖父は播磨の国の赤松氏に仕えていたが、去る嘉吉元年の乱に、赤松氏の城を去って、この地にやってきて、それから庄太夫にいたるまで三代の間、春にたがやし秋に刈り入れるという農作を業として、家ゆたかに暮らしてきた。庄太夫のひとり子の正太郎というのは、百姓をきらって、酒に溺れ、色にふけって、なかなか父のいいつけを守ろうとしない。そこで、両親はこれを嘆いて、ひそかに相談していうには、「ああ、どうか、ちゃんとした人の娘で、きりょうのいいひとを正太郎の嫁にもらったならば、あの子の身持も自然とよくなるに相違ない」といって、ひろく国中をさがしもとめたところが、さいわいになかだちする人があって、「吉備津神社の神主香央造酒の娘は、うまれつき優美典雅で教養があり、父母にもよく孝養をつくして、そのうえ和歌もうまくよみ、箏も上手に弾きます。もともと香央家は吉備の鴨別の子孫で家柄も正しいのですから、あなたの家がこれと縁組なさることは、きっとよいことがあるでしょう。この縁談が成立するのは、私としても願うところです。あなたのお考えはいかがでございますか」という。このはなしを聞いて庄太夫は大そうよろこび、「いいおはなしをきかせて下さったものです。このことは私の家にとっては家運長久の基ですが、香央家はこの国の名家であり、私どもは氏素姓も卑しい農民です。家柄がつりあいませんから、先方ではおそらく承知なさいますまい」という。仲人の老人は笑顔をつくって、「あなたの御謙遜もはなはだしい。私がきっとうまくまとめて結婚というはこびにいたしましょう」といって、その足で香央家を訪ねてこの縁談をもちこむと、香央もよろこんで妻に相談したところ、妻も同様に乗り気になってこういった。「うちの娘ももう十七になりましたので、毎日、よい相手はいないものか、そういう人のもとへかたづけたいものだと、私はそればかり考えて心のやすまるひまもございませんでした。いいおはなしですから、早く吉日をえらんで、結納を取りかわして下さい」と、しきりにすすめたので、はなしははやくもきまって、この旨を井沢に返事した。そして、すぐに、結納を十分手厚くととのえてとりかわし、黄道吉日をえらんで、結婚式をあげることとなった。

香央は、このうえなお娘の幸福を神に祈るために、巫子や祝部をあつめて、神前に御湯をそなえる御釜祓の神事をとり行なった。そもそもこの社に祈誓する人は、数多くの御供物を神前に供えて、御釜祓の御湯を奉り、それによって事の吉凶を占うのがつねである。巫子が祝詞を奏し終り、御湯がわきあがるときに、吉兆ならば、釜の鳴る音が牛の吼えるように大きく鳴る。反対に、凶兆ならば、釜は鳴らないのである。これを吉備津の御釜祓という。ところが、香央が御釜祓をしてみると、この縁談を神が御嘉納にならないのか、釜は、秋の虫がくさむらですだくほどの小さな声さえ出さない。そこで、疑惑を抱いた香央は、このしるしについて妻に相談した。しかし、妻はいっこうに疑わず、「御釜が音を出さなかったのは、祝部たちの身がけがれていたからでしょう。すでに結納をとりかわしたうえ、夫婦となるべき約束をしたからには、たとえ先方が仇敵の家であっても、また遠い他国の人であっても、約束をかえてはならないと聞いておりますのに――。とりわけ井沢はほまれある武門の後裔で、家風の正しい家と聞いておりますから、いま私の方で断っても承知いたしますまい。ことに娘は、婿となるべき人の眉目秀麗なのをどこからかうわさに聞いて、胸ときめかし、婚礼の日を指折り数えて待ち遠しく思っているようすなのを、もしも今の悪いはなしでも聞こうものならば、どんな無分別なことをしでかすかしれません。そのときになって後悔してもとりかえしがつかないでしょう」と、言葉をつくして夫を説きふせようとしたが、これも母親の立場からすれば当然の心持であろう。これをきくと、夫も、もともと望ましい良縁のことであったから、これ以上ふかくは疑わず、妻のことばにしたがって、ここにやがて結婚の式を挙げ、両家の親類縁者あいあつまって、新夫婦の契りの末長くあらんことを祝ったのである。

香央の娘の磯良は、井沢家にとついでから、朝は早く起き、夜は遅く床につくというように、毎日精を出してはたらき、つねに舅・姑のそばをはなれずにまめまめしくつかえ、夫の性質をのみこんで、夫に気にいられるように真心をつくしてかしずいたので、井沢の両親は磯良の孝行・貞節に感心して、いい嫁を貰ったとそのよろこびはひととおりでなく、また夫の正太郎もその誠意に感心していとおしく思い、契りもこまやかに仲むつまじく暮らしたのであった。しかし、生来のわがままで放蕩な性質というものは、どうにもならないものである。いつとはなしに、正太郎は、鞆の津の袖という遊女とふかくなじんで、ついにはこれを身請けし、近くの里に妾宅をかまえて住まわせ、そこに幾日もいりびたっては、家に帰らないようになった。磯良は、これを悲しく思って、あるときは舅姑が怒っていることにかこつけて諫め、またあるときは夫の浮気な心をうらみなげいたが、夫は妻のいうことなどまったくうわの空に聞きながして、その後は一か月以上も帰宅しないようになった。舅の庄太夫は磯良の真情あふれるいじらしいふるまいを見るに見かねて、正太郎をきつくしかると、ついに一室に監禁してしまった。磯良は、このことを悲しく思って、朝夕、ことに万事に気をつけて、かいがいしく夫に仕えるとともに、また一方では袖の妾宅の方へも、ひそかに物などとどけてやって、真心のかぎりをつくしたのである。

ある日のこと、父が家にいないすきをみて、正太郎は、磯良をそばへよぶと、甘い言葉で、「そなたの真心こもった心づくしを見て、いまでは自分が悪かったとつくづく後悔している。このうえは、あの女と手を切り、うまれ故郷へ送りかえして、それで父上の怒りをなだめやわらげるとしよう。彼女は播磨の印南野の出身であるが、親もなくて不幸ないやしい境遇にいるので、ついふびんに思って情をかけてしまったのだ。もしもいま私に捨てられたならば、きっとまた再び港町の遊女に身をおとしてしまうだろう。おなじ勤めをする身であっても、都は人の情も厚いところであるというから、彼女を都へつれていって、ちゃんとした人の許に仕えさせたいと思うのだ。それにしても、私がこうして軟禁されて訪ねてもやれないので、さぞ万事につけて不自由で、困っていることだろう。都へゆく旅費と衣類といっても、誰も工面してやる者もないありさまだ。そなたがこれを工面して、彼女に恵んでやってはくれないか」と、ねっしんに頼むのを聞いて、磯良もたいそうよろこび、「そのことなら御安心下さいませ」といって、ひそかに自分の着物や手まわりの道具を売って金にかえ、そのうえなお実家の母につくりごとをいって金を貰い、それを夫に渡した。正太郎はこの金を手にすると、こっそり家をぬけ出し、袖をつれて、都の方へ出奔してしまった。これほどまでに徹底的にだまされたので、磯良の傷心は大きく、ついに重い病の床に臥す身となった。井沢・香央両家の人々も、いまは正太郎を憎み、磯良をあわれんで、医者にかけ、ひたすら回復をのぞんだが、その甲斐もなく、磯良は、日ましにだんだん粥さえのどを通らないようになって、とうてい回復の見込みがないような状態になった。

さて、ここ播磨の国印南郡荒井の里に、彦六という男がいた。彼は袖とは従姉弟という近い血縁関係にあったので、正太郎たちは、まずそこを訪ねて、しばらく逗留することにした。彦六は、正太郎にむかって、「都がいかに人情の厚い所だからといって、都人みんながみんな頼もしいというわけでもありますまい。それよりは、ここにお住みなさい。一つ釜の飯をわけあって、お互いに助けあいながら生活しようではありませんか」と、頼もしいことをいってくれるので、正太郎もほっとして気持が落ちつき、ここに住もうと心をきめたのである。彦六は、自分の家と壁ひとつ隣のあばら屋を借りて、ここに正太郎たちを住まわせ、いいはなし相手ができたとよろこんだ。ところが、袖が、風邪気味だといっているうちに、どこがどうということもなくひどくわずらい出して、物の怪にでもつかれたように気ちがいじみてきたので、正太郎は、まだここへきて幾日もたたないのに、こんな災難にとりつかれた悲しさに、自分の食事さえ忘れてひたすらその看病にあたったが、袖はただ声をあげて泣くばかりで、発作がおこるといかにも胸苦しく堪えられない様子をみせ、熱がさめるとふだんとかわらない様子をみせる。生き霊のたたりであろうか、もしかしたら故郷に捨ててきた妻が怨霊となってたたりをしているのであろうかと、正太郎は、ひとり胸をいためるのだった。彦六は、正太郎が気をまわして不安がるのをいさめて、「どうしてそんなことがあるものですか。疫病が非常に苦しいものであるということは、私は、これまでも実際に数多く見てきました。熱がすこしさめると、まるで夢のあとのように、それまでの苦しさなどけろりと忘れたようになるものです」と、無造作にいうのだけが、いかにも頼もしく思われた。しかし、看病のしるしはすこしもなく、袖の病気は、見る見るうちに悪化して、発病してから七日で死んでしまった。正太郎は、天を仰ぎ、地をたたいて、わが身の悲運を泣き悲しみ、自分も一緒に死んでしまいたいと狂気のようになったが、彦六はそれをいろいろいい慰めて、「このうえは、もう仕方がないでしょう」といって、ついに火葬にしてしまった。骨をひろって墓をつくり、卒塔婆を立て、僧にたのんで手厚く菩提を弔ったのである。

ここにいたって、正太郎は、地に俯して亡き袖のいる冥土を慕ってみたが、死者の霊をこの世によびもどす招魂の法をもとめるすべもなく、さればとて天を仰いで捨ててきた故郷のことを思うと、それはかえって冥土よりも遠く隔たった気がして、進退きわまり、途方にくれて、昼は終日ずっと寝てくらし、夕方になると毎夕のように墓に詣でたが、見るといつのまにか墓にも小草が生えて、折からすだく虫の声もなんとなくものがなしい思いをさそうようだった。古歌のように、この秋のわびしさは、わが身のうえにだけあつまったと、秋のわびしさ、身のさびしさをしみじみ痛感していると、ほかにも自分とおなじような不幸な目にあった人があるとみえて、かたわらに新墓がある。この新墓に詣でる女を見ると、いかにも悲しげな様子をして、墓前に花を手向け、水をそそいでいるので、「ああ、お気の毒に。まだうら若いあなたが、こんな人里はなれたさびしい荒野へ、お墓まいりにいらっしゃるなんて」と声をかけると、その女はふりかえって、「わたしがいつも夕方おまいりいたしますと、貴方様はきっとわたしより先におまいりなさっていらっしゃいます。近いお身内の方におわかれなさったのでございましょうか。御心中をお察し申しあげますとお気の毒に存じます」といって、さめざめと涙を流した。正太郎は、こたえて、「おっしゃる通りでございます。十日ほど前にいとしい妻を亡くしましたが、私ひとりあとにとりのこされて、頼りをうしない心細いので、ここにおまいりすることだけをせめてもの心の慰めとしているのでございます。あなたもきっとおなじような御事情がおありなのでございましょうね」という。女は、「いいえ、私がこうしておまいりにまいりますのは、御主人様のお墓で、×月×日にここへ埋葬申しあげたのでございます。家に残っていらっしゃる奥様があまりにもお嘆きになられて、そのためにこのごろでは重い御病気におかかりになられたので、こうして私が代りにおまいりして、香花をお供え申しあげているのでございます」という。それを聞いて、正太郎は、「奥様が御病気になられたのも、まことにごもっともなことでございますよ。それで、いったい亡くなられた方はどういうお方で、おすまいはどちらでいらっしゃいますか」ときく。女は、こたえて、「御主人様は、この地方では由緒ある家柄の御方でいらっしゃいましたが、人の讒言にあって地位も領地も失い、その後はこの野の片隅にわびずまいをしていらっしゃいました。奥様は、隣国にまで評判の美人ですが、この奥様のことが原因となって、家も領地も失ってしまわれたのです」と語る。このはなしを聞くと、正太郎は、例の浮気心がおこったわけではないが、なんとなく心を惹かれて、「さて、奥様がひとりさびしく住んでいらっしゃるところは、ここから近いのですか。お訪ね申しあげて、おなじような悲しみを語りあい、たがいに心の憂さをなぐさめあいましょう。いっしょにおつれ下さい」という。女は、「家は、貴方様がいつもおいでになる道からすこし横にはいった方です。奥様も頼りになる方をうしなって心細くいらっしゃいますから、おりおりはお訪ね下さい。きっとお待ちかねでいらっしゃいますよ」というと、先に立って歩きだした。

正太郎が未亡人を訪ねた図。未亡人は実は磯良の怨霊で、屏風すこし引きあけて、「めづらしくもあひ見奉るものかな。つらき報いの程しらせまゐらせん」という。正太郎は「あなや」と叫んで倒れた。(原本十三丁裏、十四丁表の挿絵)

二〇〇メートルあまりくると、細い小道があった。ここをはいってなお一〇〇メートルほど歩くと、うすぐらい林のなかに小さな茅ぶきの家があった。竹の編戸もものさびしく、折から七日すぎの上弦の月の光があかるくさしこんでいて、広くもない庭の荒れはてているのまでもはっきりと見える。かすかな灯火の光が、窓の障子をもれているのも、なんとなくさびしい風情である。「ちょっと、ここでお待ち下さいませ」といって、女は、内へ入った。正太郎は、苔むした古井戸のそばに立って、うちの様子をのぞいてみると、襖がすこしあいている間から、灯火の光が風に吹きあおられてちらちらし、その光をうけて立派な黒塗りの違い棚がきらきらとかがやいてみえるのも、奥ゆかしく思われた。そこへ女が出てきて、「貴方様がお訪ね下さったよしを奥様に申しあげましたところ、奥様は、『どうぞおはいり下さいませ。物越しにおはなし申しあげましょう』とおっしゃって、部屋の端の方へいざり出ていらっしゃいました。さあ、あちらへおはいり下さい」といって、前庭をまわって、奥の方へ案内した。二間の表座敷を見ると、人のはいれるぐらいあけて、低い屏風を立て、そこから古い夜着の端が見えていて、奥様はここに臥していると思われた。正太郎は、そちらに向かって、「御主人様に亡くなられて、そのうえ御病気にまでおかかりになられたとうかがいましたが、私も先日いとしい妻に死なれましたので、おなじような悲しみを味わっておりますが、せめてお互いに心の悲しみを話しあってなぐさめあおうと思い、あつかましくもおうかがいしたようなわけです」といった。すると、女主人は、屏風をすこし引きあけて、「久しぶりでおめにかかるものですね。これまでのひどい仕打ちにたいする報いが、どんなものであるか、思いしらせてあげましょう」というので、正太郎はびっくりして、よくみると、これこそ故郷に捨ててきた妻の磯良であった。その顔色はひどく青ざめて、どろんとした眼つきは物凄く、こちらをゆびさす手が青く痩せ細っているのがおそろしく、正太郎は、思わず「ああッ!」と叫ぶと、そのまま倒れて、気をうしなった。

しばらくたって、息をふきかえした。そっと細目をあいて眺めると、さっき家だと思ったのは、以前からある墓地のなかの慰霊堂で、古びて黒ずんだ仏像が立っていらっしゃるだけであった。正太郎は急いで立ちあがると、遠くの人里で吠える犬の声をたよりに、家に走りかえり、彦六にこの一部始終をはなした。彦六は、「なあに多分狐にでもだまされたのでしょう。心が滅入ってびくびくしているときは、きっと迷わし神が憑くものですよ。あなたのようにひよわな人が、こんな悲しみの淵に沈んでいるのはいけないことですから、神仏に祈って、心をしずめ落ちつけなさい。刀田の里にありがたい祈祷師がいます。そこへ行って身をきよめてもらい、魔よけのお守札もいただいていらっしゃい」というと、正太郎をつれて祈祷師のもとへ行き、このできごとをはじめから詳しくはなして、このことを占ってもらった。祈祷師は、占い考えて、こういった。「わざわいがすでにあなたの身に切迫していて、これは容易ならぬことです。この怨霊は、さきには女の命を奪い、それでも怨みはなお尽きずに、今度はあなたをねらって、あなたの命も今夜か明朝かというところまで迫っているのです。この怨霊が世を去ったのは七日前のことですから、きょうから四十二日の間は、かたく戸をしめて、厳重な謹慎をなさい。私のいましめを守るならば、九死に一生をえて、命だけはとりとめることができるかもしれない。しかし、たとえ一時たりともこのいましめを破ったならば、死をのがれることはできませんぞ」と、きびしくいましめると、筆をとって、正太郎の背中から手足の先にいたるまで、中国古代の書体のような文字を書き、そのうえ朱書した紙のお守札をたくさん与えて、「このまじない札を戸口という戸口に貼って、ひたすら神仏に祈りなさい。いましめにそむいて、身を亡ぼすことがあってはなりません」と教えたので、正太郎は一方ではおそれながらも、また一方ではよろこんで、家に帰り、お守札を門口に貼り、窓に貼って、厳重な謹慎生活に入った。

その夜、真夜中のころ、戸外から、おそろしい声で、「ああ、憎らしい。ここに尊いお札を貼りつけてあるな」とつぶやくのが聞えたが、それっきり二度と声がしない。正太郎は、おそろしさのあまり、夜の長いのを嘆いた。まもなく夜があけたのでほっと生きかえった思いで、急いで彦六の家との境の壁をたたいて彦六をおこし、昨夜のことをはなした。彦六もこれを聞いて、いまさらのように祈祷師のことばがその通り的中したのを、いかにも不思議だとして、自分もその夜は寝ないで、真夜中になるのをいまやおそしと待ちくらした。松を吹く風が、ものを吹きたおすかと思われるほど激しく、そのうえ雨さえ降って、なにか異変でもおこりそうな不気味な夜の気配に、正太郎と彦六は、壁をへだてて声をかけあっていたが、やがて二時ごろになった。そのとき、正太郎の家の窓の障子に、さっと、赤い光がさして、「ああ、憎らしい。ここにも貼ってあるな」という声がしたが、その声は深夜にはいっそう物凄く、正太郎は、髪も身の毛もよだって、しばらくは気をうしなってしまった。夜があけると、前夜のおそろしかったことを語り、日が暮れると、ただもう早く夜が明けないかと朝が待ちどおしく、こうしてこれからの数十日間というものは、まるで千年の月日をすごすよりも長く思われた。かの怨霊も毎夜毎夜、家のまわりをめぐったり、あるいは屋根の棟のあたりで叫んだりして、その怒れる声は一晩ましに物凄くなってくる。

こうして四十二日という最後の夜になった。いまはもはや今夜一晩で物斎も終るところまできたので、とりわけかたく謹慎してすごすうちに、やがて夜明けの空がしらじらとあかるくなった。正太郎は、長い夢からさめたような気がして、すぐに彦六に声をかけると、彦六も境の壁際に身をよせて、「どうしました」という。正太郎は、「おもい物斎もすでにすっかり終りました。このところちっとも貴兄のお顔を見ません。懐かしさも懐かしいし、またこの一か月あまりのつらさやおそろしさを、思う存分はなしあって、心をなぐさめたいものです。起きて下さい。私もそちらへ出て行きましょう」という。彦六は元来が思慮の浅い男なので、「もう大丈夫ですよ。さあ、こちらへおいでなさい」というと、戸をあけかかったが、半分もあけるかあけないうちに、正太郎の家の軒のあたりで「ああッ!」と叫ぶ声が、耳をつんざいて、思わず尻もちをついた。これは正太郎の身のうえになにかおこったにちがいないと思って、斧をひっさげて大道に出ると、さっき正太郎が明けたと見た夜はじつはまだ暗く、月は中空にありながら、光がぼんやりとおぼろで、初冬の風はつめたく吹き、さて、正太郎の家はと見ると、戸はあけたままで、当の正太郎の姿は見えない。家の中にでも逃げこんだのであろうかと、なかにとびこんでみたが、見えない。どこにもかくれることのできるようなひろい家でもないので、それでは大道にでも倒れたのだろうかとさがしもとめたが、その辺には影もかたちもない。いったいどうなったのであろうかと、あるいはあやしみ、あるいはおそれながら、灯火をふってあかるくしてあちこちを見まわると、あけはなした正太郎の家の戸脇の壁に、なまなましい血がかかって、それが流れて地につたっている。しかし、屍も骨も見当らない。なおよく月あかりで見ると、軒の端になにかひっかかっている。灯火を高くさしあげて照らして見ると、男の髪の髻だけがひっかかって、ほかにはなにひとつない。浅ましくもまたおそろしいことは、とうてい筆紙につくすことができないほどであった。夜が明けてから近い野や山を探しもとめたが、ついにその形跡さえ見つけることができずにしまったのである。

そこで、このことを井沢の家へもしらせてやったので、井沢でも、涙のうちに、香央家へもしらせた。こういうわけで、祈祷師の占いが的中してそのとおりになってしまったことといい、また御釜祓で告げられた凶兆がとうとうそのまま事実になってしまったことといい、神意はまことに尊いものであったと、このはなしとともに世の人々は語り伝えたのである。

Chapter 5 of 14
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