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二葉亭追録
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二葉亭追録
内田魯庵
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Chapter 2 of 4

二 二葉亭は実は旧人

二葉亭は露国文化の注入者としては先駆者であった。プーシキンやゴンチャローフやドストエフスキーや露西亜の近代の巨星の名什を耽読したのが四十年前で、ツルゲーネフの断章を初めて日本に翻訳紹介したのが三十六年前であった。その頃は日本ばかりでなくて欧羅巴ですらが露西亜を北欧の半開民族視していたから、露西亜の文化なぞは問題とならなかった。露西亜の文学がポツポツ欧羅巴の大陸語に翻訳され出したのはやはり同じ頃からで、何一つ欧羅巴に遅れを取らないものはない日本の文化事業の中でただ一つ露西亜の文学の紹介に率先(縦令その後を続けるものが暫らくなかったにしろ)したというは二葉亭あったがためであった。

が、新らしい露西亜の文芸の研究者、精通者、紹介者としては二葉亭は実に輝いた先駆者であったが、元来露西亜の思想なるものは極めてオーソドックスな官僚的階級差別心と頗る放縦なユートピヤ的空想とあるのみで、近代自由思想の糧とすべきものに乏しかったから、二葉亭は芸術的に露西亜の勝れた世界的大作に負う処があっても思想的に露西亜から学ぶべき何物をも与えられなかった。随って少年時代から魏叔子や陸宣公で培われた頭は露西亜の文学の近代的気分に触れてもその中に盛られた自由思想を容れるには余りに偏固になり過ぎていた。

二葉亭が小説家型よりは国士型であるというは生前面識があった人は皆認める。この国士型というは維新前後から明治初期へ掛けての青年の通有であって、二葉亭に限らず同年配のものは皆国士を理想とした。本党の床次、現閣の浜口、皆学校時代から国士を任じていた。当時の青年が政治に志ざしたのは皆国士を標的としたからで、坪内博士の如く初めから劇や小説を生涯の仕事とする決心で起ったものは異数であった。徳冨蘆花が『ほととぎす』に名を成した後の或る時「我は小説家たるを恥とせず」とポーロ擬きに宣言したのはやはり文人としての国士的表現であった。町人宗の開山福沢翁が富の福音を伝道しつつも士魂商才を叫んだ如く、当時の青年はコンパスや計算尺を持つ技師となっても、前垂掛けで算盤を持っても、文芸に陶酔してペンを持っても、国士という桎梏から全く解放されたものは先ずなかった。身、欧羅巴の土を踏んで香水気分に浸ったものでも頭の中では上下を着て大小を佩していた。

二葉亭もやはり、夙くから露西亜の新らしい文芸の洗礼を受けていても頭の中では上下を着て大小を佩していた。聡明の人だから近代思想にも十分な理解を持っていたが、若い自由な思想に活きるよりはヨリ以上に国士的壮図の夢を見ていた。文学的天才に恵まれていながら文学に気乗りがせず、トルストイやドストエフスキーの偉大を認めつつも較やもすれば軽侮する口気を洩らし、文学の尊重を認めるという口の下から男子畢世の業とするに足るや否やを疑うという如きは皆国士の悪夢の囈語であった。

二葉亭は児供の時は陸軍大将を理想として士官学校を志願までした。不幸にして不合格となったので、軍人を断念して外交方面へ方向を転じたが、学校が思うようにならず、その上に一家の事情が纏綿して、三方四方が塞がったから仕方がなしに文学に趨ったので、初一念の国士の大望は決して衰えたのでも鈍ったのでもなかった。語学校に教授を執った時もタダの語学教師たるよりは露西亜を対照としての天下国家の経綸を鼓吹したので、松下村塾の吉田松陰を任じていた。それ故に同じ操觚でも天下の木鐸としての新聞記者を希望して、官報局を罹めた時既に新聞記者たらんとして多少の運動をもした位だから、朝日の通信員として露西亜へ上途した時は半世の夙志が初めて達せられる心地がして意気満盛、恐らくその心事に立入って見たら新聞通信員を踏台として私設大使を任ずる心持であったろう。が、二葉亭の頭は活きた舞台に立つには余りに繊細煩瑣に過ぎていた。北京に放浪して親友川島浪速の片腕となって亜細亜の経綸を策した時代は恐らく一生の中の得意の絶頂であったろうが、余りに潔癖過ぎ詩人過ぎて、さしたる衝突もないのに僚友の引留むるを振払って帰朝してしまった。川島は満洲朝の滅亡と共に雄図蹉し、近くは直隷軍の惨敗の結果が宣統帝の尊号褫奪宮城明渡しとなって、時事日に非なりの感に堪えないで腕を扼しているだろうが、依然信州の山河に盤踞して嵎を負うの虎の如くに恐れられておる。渠は実に当世に珍らしい三国志的人物であるが、渠と義を結んで漢の天下を復する計を立つるには二葉亭は余りに近代的思想を持ち過ぎていた。シカモ近代人となるにはまた余りに古風な国士的風懐があり過ぎていた。この鳥にも獣にもドッチにもなり切る事が出来ない性格の矛盾が何をするにも二葉亭のキャリヤの障碍となった。

二葉亭と交際した二十年間、或る時は殆んど毎日往来した。終日あるいは夜を徹して語り明かした事もあった。が、お互いの打明けた談合の外は話題はイツデモ政治談や対外策、人生問題や社会問題に限られて滅多に文学に触れなかった。偶々文学談をしてもゴーゴリやツルゲーネフでなければ芭蕉や西行、京伝や三馬らの古人の批評で、時文や文壇の噂には余り興味を持たなかった。どうかすると紅葉や露伴や文壇人の噂をする事も時偶はあったが、舞台の役者を土間や桟敷から見物するような心持でいた。

『浮雲』以後は暫らく韜晦して文壇との交渉を絶ち、文壇へ乗出す初めに提携した坪内博士とすら遠ざかっていた。が、再びポツポツ翻訳を初めてから新聞雑誌記者や文壇人が頻繁に出入し初めた。二葉亭が二度の文人生活を初めたのは全く糊口のためで文壇的野心が再燃したわけでなく、ドコまでもシロウトの内職の心持であった。本職の文壇人として、舞台あるいは幕裏のあるいは楽屋の人間として扱われるのを痛くイヤがっていた。「文壇の名士が来てはツルゲーネフのトルストイのと持掛けられるにはクサクサする」と苦り切っていた。

『浮雲』を書いた時は真に血みどろの真剣勝負であった。『あいびき』や『めぐりあい』を訳した時は一刀三礼の心持で筆を執っていた。それにもかかわらず、後には若気の過失で後悔しているといった。自分には文学的天分がないと謙下りながらもとかくに大天才と自分自身が認める文豪をさえ茶かすような語気があった。万更文学の尊重を認めないどころか、現代文化における文芸の位置を十分知り抜いているくせに、頭の隅のドコかで文学を遊戯視して男子畢世の業とするに足るか否かを疑っていた。二葉亭の理智の認める処を正直にいわせれば世界における文学芸術の位置なぞは問題ではないのだが、儒教や武家の教養から文芸を雕虫末技視して軽侮する思想が頭の隅のドコかに粘り着いていて一生文人として終るを何となく物足らなく思わした。ゴーゴリやツルゲーネフの洗礼を受けても魏叔子や陸宣公で鍜え上げた思想がイツマデも抜け切らないで、二葉亭の行くべき新らしい世界に眼を閉ざさした。二葉亭は近代思想の聡明な理解者であったが、心の底から近代人になれない旧人であったのだ。

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