三
『私はSを愛している』
とその頁には書いてあるのでした。
『Sは私の不幸をなぐさめて呉れる。そのなぐさめによって、やっと私は生きている』
蟹江は胸に不吉な鼓動をかんじながら、先に読み進みました。
すると次の頁の中頃に、日付がかわって、
『七月十五日。本日は晴天なり。
昼間よその黒猫が来て、台所から鰈を盗って逃げる。あの猫に盗られるのも、これでもう三度目だ』
そして一行あけて、
『あたしはSの背中が好きだ。Sの背中は広くてがっしりしている。
その背中のまんなかあたりに、小さな茶色の痣がある。直径は一センチメートル位かしら。そこに縮れた毛が三本生えている。抱くと私の指がそれに触れる。その感触。
痣には表情がある。悲しい表情。うれしい表情』
また一行あけて、こんどは詩みたいな形式で、
『痣は背中のまんなかだ。
痣は背中の定紋だ。
あたしの愛の表章だ』
胸がわくわく鳴り、背筋がじんじんしびれてきたものですから、蟹江は思わず視線を宙に浮かせました。眼がぎょろりと不安げに光って、それはまったく沈鬱な表情でした。それからなにか脅えたように部屋中をぐるりと見廻しました。
『どうも俺には理解できないようだ』と彼は口の中でもそもそ呟きました。『S。Sとは何だろう?』
突然耐えがたくなってきたものですから、蟹江は大あわてで日記を閉じ、それを行李の中にもどしました。そして行李を押入れの中に入れてしまうと、また部屋のまんなかに戻ってきて、肩をそびやかして大あぐらをかきました。そうしても何だか不安で、追い立てられるような気持はやみませんでした。
『結婚。結婚とは何だろう。何だったのだろう?』
彼は苦しそうにうめきました。四五日前、図書館で読んだ哲人の書物のなかに、結婚とは人間のグレガリアスハビット(群居性)の一形式に過ぎない、とあったのを、ふと思い出したのです。それから突然立ち上って、部屋の隅の机の引出しから何かを取出し、またそこにへたへたと坐りこみました。それは蟹江自身の日記帳でした。
「たしか七月十五日だったな」
そう呟きながら、彼は自分の日記帳をぺらぺらと忙しくめくりました。七月十五日のところをあけると、彼はじっとそこに眼を据えました。そこにはこう書いてありました。
『七月十五日。晴。暑き日なり。
帰途、電車の中にて、臼井君と一緒になる。あいたずさえて駅を降り、畠中道を家路に急ぐとき、一陣の風来たりて、臼井君のカンカン帽を吹き飛ばす。臼井君大いに周章狼狽してそれを追う。
予すなわち抱腹絶倒せり』
俺が何も知らずに抱腹絶倒などしていた同じ日に、久美子はSの背中の痣をまさぐったりしたのだな。悲痛な色をうかべて、蟹江はそう思わざるを得ませんでした。するとあのおとなしそうな、あさぐろい久美子の顔が、今までとは違った印象として、胸に浮び上ってきました。その顔は彼の想像のなかで、にこやかにわらっているのでした。悲嘆と憤怒と哀憐の念が、嵐のように彼の心をみたしました。哀憐の念というのは、久美子に対してと言うより、おもに裏切られた自分自身に対してです。
それ以来彼は、ぼんやりしている時とか、印刷物の中にSという活字を見た時などに、ふとそのことを思い出して、そっと唇を噛むのでした。誰かに相談したり、打ち明けたりする訳にも行かないのです。それは自分の愚かさを相手に知らせるだけだからです。とにかく自分だけで、Sの正体を糺明しなければならぬ。Sとは何か? それにしきりに考え耽っていて、つい電車を乗り越すことさえありました。Sとは何か?
こうして、猿沢佐介の存在が、ふたたびひとつのわだかまりとして、彼の胸に登場して来たわけでした。
何時からSという字が、猿沢佐介の影像とむすびついたのか、蟹江にもよく判らないのです。ふと気がついてみると、彼は心のなかで、猿沢佐介をSという字に代置して、ぼんやりと考えているのでした。あるいはそれは夢の中でむすびついて、それがそのまま起きている意識に、引きつがれたのかも知れません。いつかの夜、そんな夢を見たような気がする。そう思って、いろいろ記憶を探ってみるのですが、どうも憶い出せない。はっきりしないのでした。
『しかしそれが結びついた以上――』と彼は考えたりするのです。『俺はいつの瞬間か意識の奥底で、猿沢佐介をはっきりと想定したに違いない』
想定した根拠は判然しないとしても、考えてみると、いろいろ疑わしい怪しいような節もある。第一猿沢佐介という名前は、その発音の響きからしても、Sのかたまりみたいな名前だ。まったくS的な名前ではないか、と蟹江は思います。それに重大なのは、猿沢佐介がかつて久美子に惚れていた、ということでした。あの縮れた毛の三本生えた、厭らしい温泉マークみたいな痣は、あの猿沢佐介の背中に貼りついているのではないか?
仲人をして貰った関係上、蟹江夫妻は猿沢夫妻とかなり親しくなり、お互いの家にも訪問し合うようになっていたのでした。土曜日の夜などは、必ず、猿沢家を訪問して、麻雀の卓を囲むのが例になっていた程です。少額の金を賭けてやるのですが、蟹江は下手なので、いつも負けてしまう。ところが久美子はなかなか上手で、上手というより運が良くて、いつもトップか二位を占める。だから蟹江家としては、損することより、得することの方が多かったくらいです。
猿沢夫妻は、ことに猿沢佐介は、久美子にたいして大層親切でした。久美子がトップになると、猿沢は愉快そうに笑ったり、お見事お見事とほめたりするのです。ところが、蟹江がまぐれ当りして一位になっても、猿沢は決してほめたり笑ったりしない。ふん、といった顔をするだけなのです。
仲人になって貰って以来、親しくつき合うようになっても、今思うと、猿沢佐介はどうも蟹江に対して、妙な隔てがあるようでした。つまり、わだかまりみたいなものが、猿沢にはあったようです。その頃は、蟹江は、それをあまり気にかけていませんでした。照れくさがっているのだろう、と思っていたのです。まさか俺を嫉妬したり、憎悪したりするわけはないだろう。ちゃんと借金も払ってやったのだからな。しかも一万二千円も!
ところがその猿沢佐介が、久美子が死んで以来というものは、彼に妙に親切めいた言葉をかけたり、慣れ慣れしく動作したりするようになったのでした。あの久美子が死んだ日も、猿沢は彼の家にやってきて、泣いている彼の背中をたたきながら、
「ああ、泣くがいい。泣くがいい。泣いて悲しみをすっかり流してしまえばいいんだよ」
などと、猫撫で声でなぐさめて呉れたのです。その言葉に刺戟されて、彼はなおのことしくしくと泣きむせんだのですが、今思うと、どうもあの言葉の調子は、勝ち誇ったものが打ちひしがれたものに対する、ある優越感がこもっていたような気がする。しかもその優越感の底に、ある意地悪さがかくされていたようだ。
『どうもこいつは怪しいぞ!』
勤め先の貸出台に坐っていても、そんなことを考えてばかりいるものですから、さっぱりと読書の能率もあがりません。そして口の中で、もぞもぞと呟いていたりするのです。
『猿沢佐介の背中には、きっとひとつの痣がある。しかも縮れた毛が三本……』
自分が信じていた幸福が、全部虚妄になったのに、猿沢佐介の方はいっこう不幸にもならず、楽しそうに暮している。それが漠然と憎らしく、また嫉ましいのでした。つまり対人感情から言えば、『すみれ』で知り合った頃の状態に、蟹江はすっかり戻ったわけです。一方猿沢の彼に対する態度も、結婚中とは異って、妙に慣れ慣れしく横柄になってきたようでした。すなわち知り合った頃のそれと、ほとんど同じ態度です。鷹揚に見せかけて鼻であしらったり、老獪な冗談を弄して彼を困らせたりする。それが蟹江のかんにさわるし、また漠然たる疑惑をうえつけたりするのでした。これはあるいは老いたる独身者の、意味もないヒステリー状態とでも言いますか。しかし久美子の日記の中の『S』の字は、今や万鈞の重みをもって、彼の全生活を押えつけているのでした。
『とにかく一度こいつの背中を見ねばならぬ』
ある土曜日、猿沢の家で酒の馳走になりながら、彼は強くそう思いました。久美子の死後も、それまでの慣習上、彼は毎土曜猿沢家を訪問し、夕飯や酒を御馳走になっていたのでした。
『それも早急にだ。来年の夏まで待つというわけには行かない』
食卓のそばでは猿沢夫人が、子供を寝巻に着換えさせていました。もうそろそろ夜は寒いので、それはネル地の寝巻です。猿沢好みの派手な柄でした。その時ちらと子供の背中が見えたのです。すべすべと柔かそうな、しみひとつない小さな背中です。それから直ぐ猿沢佐介の背中を聯想して、蟹江はそう考えたのでした。
「背中が出たよ。早く着せなさい、風邪を引いてしまう」
と猿沢が盃をふくみながら、夫人に注意をしました。猿沢が『背中』という言葉を発音した時、蟹江はかすかな身慄いをかんじました。
少し経って、蟹江はわざとらしくせきばらいをして、掌を肩にあてぐりぐり揉みながら言いました。
「どうも近頃、肩が凝ってねえ」
「揉んで呉れる人がいなくなって、気の毒だね」
と猿沢はかるく受けました。猿沢の顔は、鼻を中心として、もう相当あかくなっていました。そろそろ酔っている証拠です。
「背中ってやつは、どうも厭だよ。ほんとに意味がない」
と蟹江は遠過しに背中に話題を持ってゆきました。
「なぜだい?」
「なぜというとだね――」蟹江はちょっと考えて「背中ってものは、人間の身体のなかで、一番広い面積を占めているだろう。人間の表面積の四分の一はあるだろうね」
「そう言えばそうだね。地球におけるシベリヤみたいだね」
「それだのに、だ」と蟹江はすこし勢い込みました。「背中というものは、ほとんど人間の役に立たない。僕たちが背中を使用するのは、椅子によりかかる時と、寝る時位なものだ。それも、椅子なんかに腰かけないで、坐れば済むことだし、寝る時も、横向きに寝れば、背中は使わずに済む。そいじゃ背中というのは、何のためにあるんだ?」
「しかしだね」と猿沢は年長者らしい落着きを見せて言いました。「背中がないと、人間は困りはしないかな。胃や肝臓や肋骨が、うしろから丸見えになったりして」
「ほんとに意味ないよ、背中というやつは」と蟹江は横眼を使って、猿沢の様子をじろりと窺いました。「たとえばさ、腹にはお臍というものがあって、しめくくりがあるだろう。ところが背中はのっぺらぼうで、中心が全然ない」
猿沢夫人が傍でくすくすと笑いました。そこで蟹江は追い討ちをかけるように、言葉をつぎました。
「もっとも人によっては、あるかも知れないね。たとえばホクロみたいな――」
「そりゃあるかも知れないね」と猿沢は退屈そうに小さく欠伸をしました。「それはそうと、君は近頃すこし痩せたようだね。やはり自炊では、充分栄養がとれないのかな」
もう一息というところで、話題がそっちに行ってしまったものですから、背中のことはお流れになってしまいました。蟹江はすこし残念でした。あの猿沢夫人のくすくす笑いはどうも意味ありげだったな。ひょっとすると、亭主の痣を思い浮べたんじゃないかな、などと思ったりしたのです。
この夜あたりをさかいとして、蟹江の生きている情熱は、はっきりとひとつの形の目標にそそがれるようになったようです。つまり、猿沢の背中に痣があるかないか、その一点なのでした。人間の生活の情熱というものは、あちこちに分散する傾向よりも、ひとつの核にまとまりたがる傾向が、強いのではないでしょうか。たとえば真珠貝の体液が、なにか異物をとらえて、真珠玉を形づくりたがるような具合です。しかもその異物は、砂利であろうとガラスのかけらであろうと、とにかく形があるものでありさえすれば何でもいいのです。どんなばかばかしいことにも、人間が情熱をそそぎ得るのは、一体にそういうからくりではないでしょうか。Sの痣は、蟹江にとって、まさしくそういうものなのでした。亡妻への追慕、虚妄化された幸福、今の味気ない日常、世俗的な幸福への漠然たる嫉妬、それらの混然たる総量が、幻の痣を核としてぎっしりと凝集してしまったというわけでした。この痣のことさえ解決すれば、同時にすべてのことが解決する。まあ言ってみれば、そんな気分なのです。まったくそれは一種の宗教的情緒みたいなものですな。
『とにかく一度、猿沢の背中を見ねばならぬ』
しだいに冬が近づくし、そうすればだんだん厚着になるし、裸の背中をのぞき見る機会は、ますますなくなってくるのです。その点において、蟹江は一種のあせりを感じていました。あるいは彼は、自分でも意識しないところにおいて、そのあせりを楽しんでいたのではないでしょうか。知ってしまえばそれまでで、すべては終ってしまうのです。だからこそ蟹江の胸には、猿沢の背中を見たくないような気持も、うすぐろい翳のようにぼんやりとうごいているのでした。しかしそれはやはり、見なければならないものなのでした。出来るだけ機会をつくるべく努力しなくてはならないのです。情熱が指し示す通りに。
平穏に、無事に、日々が過ぎて行きました。
ある土曜日の夜九時頃、猿沢家の居間の長火鉢をはさんで、猿沢夫妻がこんな会話を交しておりました。
「蟹江さんも、奥さんがなくなってから、すこし変ね。なんだか気味が悪いわ」
「そうだね。元からちょいと変な男だったが、この頃はとくに妙だね」
「あんまりガッカリしたので、頭のねじが狂ったんじゃないかしら。時々突拍子もないことを言い出したりしてさ」
「あのぎろぎろした眼付が、第一おかしいね。しばらく相手にしないがいいかも知れないな」
「だって向うからやって来るんですもの」
「だからサービスを悪くするんだな。あの男はすこし甘えているよ。世の中はそんな甘くないことを教えた方がいいと思うね」
そこへ玄関ががらがらとあいて、ごめん下さいと言う声と共に、当の蟹江四郎が入ってきました。それはすこしばかり浮き浮きしたような声でした。そのままのこのこと居間にあがってきました。すこし酔っているようです。
「あら、いらっしゃい」
と猿沢夫人は愛想いい口調で答えました。猿沢はちょっと会釈しただけで、だまって爪楊枝をしきりに使っていました。これは主に、食事がもう終ったということを蟹江に示すためです。
「寒いね」と蟹江はにこにこしながら長火鉢に手をかざしました。「しずかな淋しい晩だねえ」
「そうだね。久美子さんでもいれば」と猿沢は爪楊枝を襟につきさして答えました。「麻雀でもやるところだが」
「三人ではねえ」と夫人は残念そうに口をそえました。「麻雀もできないし」
「ほんとに残念だ」と蟹江が相槌を打ちました。「じゃ五目並べでもやろうか」
「やりたいけれど」と猿沢。「碁盤がないんでねえ」
「あっ、そうか。じゃ君は将棋は指せるだろう」
「そりゃ指せるさ。そう言えば、君とはまだ指したことがないな。ひとつ指してみたいもんだねえ。でもねえ――」
「駒も盤も実はないんですのよ」と夫人が引きとりました。「買っとけばよかったですね」
「駒は僕が持ってきたよ」
蟹江はにこにこしながら、ポケットから紙箱を取出しました。見ると、それは玩具屋などで売っている、あのお粗末な将棋の駒でした。そしてもう卓の上にがさがさと紙の盤をひろげてしまったのです。
猿沢夫妻はちょっと顔を見合わせました。しかし蟹江がぱちぱちと駒を並べ始めたものですから、猿沢もやおら体を動かして、蟹江に向き合いました。
「さて、いくら賭けるかな」
決心をつけたと見えて、猿沢がそう言いました。いどむような声でした。
「そうさねえ。金を賭けるのも、もう倦きたねえ」と蟹江は並べ終ってじろりと猿沢の顔を見ました。「今夜はなにか変ったものでも賭けようか」
「変ったものって、何だね?」
「たとえばだね」蟹江はちょっと考え込むふりをしながら、やがてぽつんと言いました。「負けた方が裸になって見せる、なんていうのはどうだろうね」
「裸?」猿沢はにやりと笑いました。とたんに蟹江の裸の恰好でも想像したのでしょう。「そりゃ面白そうだね。それで踊るのかい?」
「いや、寒いから踊らなくてもいいだろう。そこらを一廻りするだけにしよう」
「お止しなさいよ。ばかばかしい」と猿沢夫人がきんきんした声でさえぎりました。「あんた方の裸を見たってぜんぜん面白くないわ。それよか、やはり一局二百円ということにしなさいよ」
「うん。それにしよう」
蟹江が口を開く前に、猿沢がそう言ってしまったものですから、蟹江は口をもごもごさせて、不承々々黙ってしまいました。顔がぽっとあかくなって、なんだかとたんに面白くなくなったような表情です。
それでも先ず蟹江が角道をあけ、猿沢が飛車先の歩を突いて、戦いが始まりました。両方とも黙々と口をつぐみ、しきりに駒を動かしています。駒組が変化してゆくにつれ、しだいに両者の闘志もたかまってゆくらしいのでした。ことに蟹江は肩をそびやかし、見るからに力闘という恰好になってきました。
猿沢夫人は編棒をとり出して来て、傍で編み物を始めていました。部屋の中はしんとして、駒を動かす音だけが、時々さらさらとひびくだけです。ふとその音が途絶えたので、夫人が顔を上げて見ると、猿沢佐介は困惑と口惜しさを押しかくした老獪な微笑をたたえ、じっと盤面をにらんだり、蟹江の手許に置かれた持駒をにらんだりしていました。どうも形勢が悪いらしい風でした。
やがて猿沢は、蟹江の持駒にじろりと一瞥をあたえながら、初めて低い声で言いました。
「蟹江君。君のその桂馬を、三十円で売って呉れないか」
蟹江はびっくりしたように顔を上げました。それから盤面を見渡して、何かしきりに計算している様子でしたが、しばらくして思い切ったように答えました。
「よかろう。その代り、現金だよ」
そこで猿沢は十円札を三枚ぱっと出して、桂馬を買い取り、それをパチッと盤面に打ちました。
それから少し経って、猿沢はまた現金を出して、蟹江の銀と歩を買いました。それからまたまた、香車を二十円で買ったりしました。蟹江は現金がどしどし入るものですから、にこにこして持駒を手渡ししました。
それから三十分ほど経ちました。編み物をしていた夫人がまた顔を上げると、こんどは蟹江が深刻な顔をして考えふけっていて、見ると猿沢の手許には、十枚余りの持駒がうずたかく積まれているのでした。猿沢は得意げに天井を向いて、莨の煙の輪をふうっとはき出したりしているのです。
「猿沢君」やがて蟹江はいくらか口惜しげな調子で言いました。「桂馬をひとつ、ゆずって呉れないか」
「ああ、いいだろう。五十円だよ」
「五十円?」と蟹江は眼をぎょろりとさせました。「そりゃすごく高いな」
「うちじゃそんな値段なんだよ」
と猿沢は平気な声で言いました。蟹江はすこしためらっていましたが、しぶしぶ五十円出して、桂馬を受取りました。
それからも形勢はあまり良くならないと見えて、蟹江はしきりに身もだえして、その度に香車を買ったり歩を買ったりしました。それにも拘らず、猿沢の持駒はますます多くなる風で、彼はそれを整理して一列に並べ、歩などは三個一山に積み重ねたりしていました。これは、歩は一山三十円だというわけでした。
それから盤面がどしどし変化し、二十分後には、駒をいくつも買った甲斐もなく、蟹江の王様はほとんど裸になってしまいました。蟹江は唇を噛んだり、低くうなってみたり、すっかり頭が充血して、あたりもはっきり判らないような風でした。盤面をぎろりと睨みつけたまま、うめくような声で訊ねました。
「金はいくらだね?」
蟹江の王様は王手がかかっていて、なにか強力な合駒が必要なのです。猿沢はちょっと考えて、そして落着いた声で答えました。
「金は、すこし高いよ。百十五円ぐらいかな」
「そりゃあ高いなあ。ちょっと高すぎるよ」
「でもそんな相場なんだよ」
「それじゃ訊ねるけれど、角なんかは?」
「角は百四十円で、飛車は、そうだねえ、百六十五円だ。王様は、これは持駒じゃないが、もし売るとすれば、二百五十円ぐらいに負けとこう」
「なに。二百五十円?」
そう言いながら、蟹江は猿沢の王様を、にくにくしそうに見詰めました。見詰めているうちに、その王将の駒が、ふと猿沢の顔に見えてきたのです。その王将をつまみ上げ、その背中をしらべてみたい、そんな衝動がちらと蟹江の胸を走って、ふっと手が出そうになったのです。その時猿沢の落着いた声がもどってきました。
「そう。二百五十円だね。なにしろ王様だからね」
よっぽど二百五十円を出して、敵の王様を買い取ってやろうかと蟹江は思ったのですが、なにしろ勝負の賭け金が二百円ですから、その損得を考えて、やっと踏みとどまったのです。
傍で猿沢夫人が、大きなあくびをしながら、うんざりしたような声を出しました。
「まだ勝負がつかないの。ずいぶん長い勝負ねえ。あたしお先にやすませていただこうかしら」
――蟹江と猿沢の土曜日の会合は、近頃は大体こんなものです。こんな調子ですから、蟹江が猿沢の背中を見るのは、ちょっと何時のことになるか判りません。
でも、もう蟹江は、猿沢の背中は見ない方が、いいのではないでしょうか。猿沢の背中に痣があっても、蟹江は不幸になるし、ないとすれば、なおのこと不幸になるに違いありません。考えたり空想したりするだけで、実際には見ない方がいいようなものが、この世の中にはたしかにあるのです。『Sの背中』も、もはやそのひとつでしょう。そう私は思います。
●図書カード