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日の果て
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日の果て
梅崎春生
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Traducción Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 2 of 8

2

南口の此の部隊はまだまだ良かった。北口の情況はもっとひどかったのだ。北呂宋の穀倉と言われる此の盆地を確保することは持久戦を続けるために絶対必要なことである。此処を失えば全員山中に追い込まれて餓死の他はない。南口の戦況はさほど活発ではなかったが、米軍は北口からじりじりと侵入を続けていた。北口を扼する一箇大隊の将兵は、昼間は個々の蛸壺に身をひそめ、身体をかがめて自らの口を充たすべき籾を搗き、夜に入れば初めて地上に出て戦った。しかし精神力だけでは米軍に敵し切れなかった。もはや米軍を圧倒することは夢であった。ただ持久の態勢を持続し内地戦力の充実を待つ、此れ以外になかった。比島戦局に充てるため内地では航空機二千余機を東北地方に既に集結したと言う噂を、兵たちは半ば信じ半ばうたがっていた。此のような状態になっても何故日本の航空機は飛ばないのか。リンガエン上陸以来、空を飛ぶのは米機のみであった。敵が「我が腹中に入る」のを待って大挙日本の航空勢力が活動を開始するに違いない。その日をむなしく待ちながらサンホセ北口では日々に死傷の数を重ねて行った。軍医を送れ、と言う使いが北口から宇治の隊に何度も何度も来た。使者の兵ですら顔色は蒼黒く濁り、眼は憤るように血走っていた。これが戦場の顔であった。そのまま持って来た戦場の表情であった。

南口を扼する此の隊にしても、見習軍医が一名とわずかの衛生兵がいるだけに過ぎない。食糧不調と風土病と斬込みの際の負傷者のため、それだけでは手が廻りかねる状態である。しかも米軍が南口からの侵入を企図したならば更に多数の傷者が出ることは火を見るより明かなことであった。侵入の気配を斬込隊により僅かに阻止しているとはいえ、それが何時までつづくか判らない。しかし北口の情況は使者の連絡を待つ迄もなく焦眉の急を告げている。如何なる事情があろうとも花田中尉を呼び返し、北口に廻す外はない。最後の使者が選ばれた。高城衛生伍長が隊長の命を受け花田中尉のもとに急行した。そして昨夜遅く、高城伍長はむなしく戻って来た。

自分は高級軍医である。高級軍医である自分を最も危険の多い北口地区に出そうと言うのは何か。南口にいる見習軍医か衛生下士官を派遣すべきではないか。自分はそのような不法な命令には応じない。

高城伍長は抑揚のない発声法で、花田中尉のそのような返答をはっきりと報告した。まだ若い、少年の稚なさを身体の何処かに残したような下士官である。その時宇治は偶然隊長室にいて、隊長と共にその報告を聞いた。斬込みに使う破甲爆雷やダイナマイトの原料が既に欠乏しかかっていて、その善後策について宇治は隊長室で話し込んでいたのである。彼は高城伍長の、若々しいくせに変につめたい、あきらかに感情を殺した表情の動きにふと興味をうばわれていた。隊長が低い声で聞いた。

「お前が行った時、花田軍医は何をして居ったか」

「小屋のすみにすわって、バイヤバスの実を食べて居られました」

バイヤバスというのは、黄色い食用果実である。暗い密林の中のちいさな小屋で、柱にもたれてバイヤバスを食べている花田中尉の姿が、突然宇治の想像にありありと浮んで来た。その花田中尉の姿は、清潔な襯衣を着け顔は何か幸福そうに輝いているようであった。

(あの窓から覗いて見たときの花田中尉の顔だ)

宇治は何故ともなく身ぶるいしながらその想像を断ち切った。暫くして隊長は、苦しそうに呻くような声で訊ねた。

「――で、女は?」

「女は、一緒に居りました」

裸火の蝋燭が揺れ、影が大きく壁にゆらいだ。そして暫く沈黙があった。夜風が密林の上を渡って行くらしく、葉ずれの音が高まり、そして消えて行った。宇治の心の底にかねてから漠然とわだかまるある想念が、此の時初めてひとつのはっきりした形を取りはじめたのである。彼は頬をややこわばらせ、それでも何気ない風を装いながら、無意味な視線を隊長と高城伍長の上にかたみに移していた。

しっとり濡れた長靴の先に黄色い花弁を二三枚貼りつけたまま、宇治は自分の仮小屋の階段を登った。此処は林相の関係で籾搗きの歌声はほとんど聞えない。部屋に入ると床を鳴らしながら彼は壁にかけた拳銃を手におろした。黒色のずっしり持ち重りのするブロオニングである。寝台のへりに腰をかけ、彼は背を曲げて仔細に点検し始めた。点検し終るとひとつひとつ丁寧に弾丸をこめた。布片を出して銃身から銃把を何度も拭いた。うつむいたままその操作をくり返しながら彼は低い声を出してわらい始めた。ひどく苦しそうな笑い方であった。拳銃を持ち上げると笑いを止め、背を立てて右手を伸ばしねらいをつけた。彼の瞳と、照門と照星をつらぬく彼方に、窓の外に展がる密林の暗さがあった、太い幹や細い枝に蔓草がからみ、薄赤い小さな実が蔓のあちこちに点じている。拳銃をおろし安全装置をかけながら、彼は再び短いひからびた笑い声を立てた。そして床の上に痰をはいた。彼は昨夜の、花田の返答を高城から聞いたときの気持を思い出していた。

あの花田中尉の言い分は身を賭してつっぱなしたようなものであった。自身がたとい高級軍医であろうとも、命令が不当なものであろうとも、上官の命令を拒むことはどのような結果をもたらすものか、花田が知らぬわけがない。それがどのような具合に言われたのか昨夜の高城伍長の口裏では判らないが、しかしそれを聞いたときに宇治の背筋を、冷たい戦慄がするどく奔り抜けた。口腔の中が乾いて行くような不快な気持がそれにまじっていた。宇治は思わず視線を隊長の顔に定めたが、火影を背にした隊長の顔はただ暗く澱んでいるばかりであった。ただ軍刀の柄頭を握った隊長の手が小刻みにふるえるのを宇治ははっきり見たのだ。顔にあらわさないだけその怒りは、言いようのない激しいものとして宇治の胸をゆすった。そんなに怒ったってどうなるんだ、と宇治は反射的に考えたが此のやせた再役の老将校に対するあわれみの気持がおこる前に、彼は此のような険悪な雰囲気とは全然無関係にさえ見えるあの花田中尉の営みが俄かに新鮮な誘ないとして心を荒々しくこすって来るのを感じていたのだ。――

寝台から立ち上り略刀帯をつけ、拳銃を右の腰に吊した。部屋の真中に立ち、彼はしばらく部屋中を見廻していた。壁はニッパの葉で造ってあるのだが古びてささくれ立っている。粗末な竹の寝台。鼠色によごれた毛布。此の小屋でもう一箇月も暮したのだ。先刻はいた痰が腐った牡蠣のように床に付着している。彼はじっとその痰を眺めていた。何か荒廃した感じがふと宇治の嫌悪をそそったが、彼は背を揺り上げるとそのまま扉を身体で押し、階段を一気にかけ降りていた。

山の斜面に、丁度腰かけたように見える細長い建物の入口を宇治は入って行った。此の部隊の医務室である。中に入ると中央に置いた卓の上で衛生兵が二三人、キニイネ剤かなにか白い粉末を調合していたが、その中の一人が顔をあげて不審そうにちらと彼を眺めただけで、また仕事をつづけた。窓がひろく取ってあるので割りに明るかったが、竹のすだれで区切る奥の方は薄暗く、そこに床をつらねて病傷兵が寝ているらしい。鋭い消毒薬の臭いに混り、青臭い病臭がほのかに漂っていた。窓の外からは高く低く籾搗き歌が流れて来る。右手の小入口の外側で突然、

「道に迷ったって。嘘をつくな。逃げようと思ったんだろう」

何か固いものが肉体にパシパシと当る音がした。

「いえ、伍長殿。ほんとに迷ったのであります」それから声が低くなり何かくどくど言う声音であったが、声が途断れると又急に殴るらしい気配がした。

「――いいか。それは判っとる。目下の状況では配置を一旦離れたら、逃亡と見なされても仕方がない。判ったか。判ったらかえれ」

抑えた嗚咽がそれに続いて聞えた。衛生兵等は感動の無い様子で黙々と仕事をつづけている。彼は刀を床に立て眼を閉じ、じっとそれを聞いていた。暫くして右手の小入口から扉を押し、高城伍長がのっそりと部屋にあがって来た。顔が少し紅潮している。宇治の姿を見て立ち止まったが、若々しい声で、

「見習軍医殿はおいでになりません」

宇治は身振りで、ついて来いと合図をし、黙って刀を提げたまま外に出た。

密林の中は自然に踏み固められた道がついていて、それを斜めに下ると地面は次第に湿気を帯びて来る。斜面の中腹には巨大な石が幾つも根を据えていて、径は危くその間を縫い、そこらあたりから密林がやや薄くなって来る。サンホセの盆地は此の山を降り切ったところから北方に拡がっているのだが、梢の切れ目に隠顕する湿地帯の彼方を、バンカを水牛に牽かせて三四人の男達がそれに乗りゆるゆると動いて行くのが見える。遠いから、それが兵隊か比島の農夫か判らない。サンホセ盆地の中央部に通ずる運河の水が、遠く一筋に鈍く光った。彼は歩を止め石を背にして振り返った。高城の顔に視線をおとしながら言った。

「今から直ぐ、花田軍医の処に行く。お前も来い」少し間を置いて「部隊長の命令で、花田は銃殺ときまった。但しこれは、誰にも言うな」

緊張の色が一寸高城の顔をかすめただけで、あとは普通の表情であった。白い歯を見せて笑ったようであった。

「はい。誰にも言いません」

「すぐ用意をととのえて、俺の小屋に来い」

敬礼して立ち去ろうとする高城の後姿に、宇治は追っかけて呼んだ。

「――拳銃を持って来い。そして身の廻りの大事なものも持って行け」

高城の不審そうな視線が彼の顔にかえって来た。宇治は眼を外らしながら掌を振った。そして足を引きずるような歩き方で高城と反対の方に歩き出した。

頭の上を突然サワサワという幽かな音が通った。宇治が眼を空に向けると、梢の切れたところを渡る幾百羽とも知れぬ候鳥の群であった。一群が過ぎるとまた一群がつづいた。チチチと鳴く声も聞える。それらは次々に盆地を越えて行くらしい。あの方向がインタアルである。盆地を横切って行けば近いがそれは危険だから、やはり密林の道を迂回する外はない。彼は首を振りながら顔をしかめて痰を飛ばした。それは薄赤い点となって崖の下に落ちて行った。先刻仮小屋の床に見た痰の色がまざまざと宇治の脳裏にふとよみがえって来たのである。

それにははっきりと赤い血の色がまじっていたのだ。アパリに居る時も、夕刻になるとひどく疲れたり肩が凝ったりしたが、カガヤン渓谷を上るあの難行軍の途中、彼は思いがけぬ喀血をした。勿論状況が状況であったから安静などは思いもよらず、強行してサンホセに入ったのだが、それから一箇月の日光から遮断された密林の生活で、彼は自分の身体が刻々とむしばまれて行くのをはっきりと自覚していた。医務室にもろくな薬がないのが判っていたし、診察を受けても意味のないことは明かであったから、宇治は誰にも言わず今まですごして来たのだ。彼は今年三十三歳になる。三十歳を越せば病状の進行もゆるやかであるということは彼も知っていたが、それも平和な市民の生活をしている場合のことであった。遠からず砲弾か銃剣で死ぬことが予想出来るのに、何を病状を苦にすることがあろうと、時に冷たく笑いがこみ上げて来ることもあったが、ふしぎなことには痰の中の血のいろを見ると彼は生きたいという欲望が猛然と胸の中に湧き起って来るのが常であった。

――自然に踏みならされた石階を降りると、洞窟の入口であった。乾いた風が洞の奥から絶えず吹いて来て、彼は目を細めながら入って行った。入口の近くが自然の広間になって居て、彼の部下たちがもはや仕事にかかっていた。彼の姿を見ると皆立ち上って挙手の敬礼をした。黒い粉末を容器に詰める仕事をしていた松尾軍曹が、歯をのぞかせて笑いかけながら言った。

「中尉殿。今日は顔色がすぐれませんね」

彼はあいさつを皆にかえしながら、突然激しい羞恥の念が胸いっぱいにひろがった。それは押えようがなかった。入口を入る時心がまえが出来ていたつもりにも拘らず、日頃見なれた部下の兵隊の顔を目前にした時、覚えず血が頬にのぼって、彼は暗がりに顔を背けながら不機嫌な声で言った。

「おれは今日命令で出張する。あとのことは松尾軍曹がやれ」そして低い声でつけくわえた。「帰りは――帰りは何時になるかわからん」

Chapter 2 of 8
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