Chapter 1 of 7

生腕

探偵小説家の殿村昌一は、その夏、郷里長野県のS村へ帰省していた。

S村は四方を山にとざされ、殆ど段畑ばかりで暮しを立てている様な、淋しい寒村であったが、その陰鬱な空気が、探偵小説家を喜ばせた。

平地に比べて、日中が半分程しかなかった。朝の間は、朝霧が立ちこめていて、お昼頃ちょっと日光がさしたかと思うと、もう夕方であった。

段畑が鋸型に喰い込んだ間々には、如何に勤勉なお百姓でも、どうにも切り開き様のない深い森が、千年の巨木が、ドス黒い触手みたいに這い出していた。

段畑と段畑が作っている溝の中に、この太古の山村には似てもつかぬ、二本の鋼鉄の道が、奇怪な大蛇の様に、ウネウネと横たわっていた。日に八度、その鉄路を、地震を起して汽車が通り過ぎた。黒い機関車が勾配に喘いで、ボ、ボ、ボと恐ろしい煙を吐き出した。

山家の夏は早く過ぎて、その朝などはもう冷々とした秋の気が感じられた。都へ帰らなくてはならない。この陰鬱な山や森や段畑や鉄道線路とも又暫くお別れだ。青年探偵小説家は、二月余り通り慣れた村の細道を、一本の樹、一莖の草にも名残を惜みながら歩いていた。

「又淋しくなるんだね。君はいつ帰るの?」

散歩の道連れの大宅幸吉がうしろから話しかけた。幸吉はこの山村では第一の物持と云われる大宅村長の息子さんであった。

「明日か明後日か、何れにしてももう長くはいられない。待ってて呉れる人はないけれど、仕事の都合もあるからね」

殿村は女竹のステッキで、朝露にしめった雑草を無意味に薙ぎ払いながら答えた。

細道は鉄道線路の土手に沿って、段畑の縁や薄暗い森を縫って、遙か村はずれのトンネルの番小屋まで続いていた。

五哩程向うの繁華な高原都市N市を出た汽車が、山地にさしかかって、第一番にぶッつかるトンネルだ。そこから山は段々深くなり、幾つも幾つもトンネルの口が待っているのだ。

殿村と大宅は、いつものトンネルの入口まで行って、番小屋の仁兵衛爺さんと話をしたり、暗いトンネルの洞穴の中へ五六間踏み込んで、ウォーと怒鳴って見たりして、又ブラブラと村へ引返すのが常であった。

番小屋の仁兵衛爺さんは、二十何年同じ勤めを続けていて、色々恐ろしい鉄道事故を見たり聞いたりしていた。機関車の大車輪に轢死人の血みどろの肉片がねばりついて、洗っても洗っても放れなかった話、ひき殺されてバラバラになった五体が、手は手、足は足で、苦しそうにヒョイヒョイ躍り狂っていた話、長いトンネルの中で、轢死人の怨霊に出逢った話、その外数え切れない程の、物凄い鉄道綺譚を貯えていた。

「君、昨夜はNの町へ行ったんだってね。帰りはおそくなったの?」

殿村が何ぜか遠慮勝ちに尋ねた。道は薄暗い森の下に這入っていた。

「ウン、少し……」

大宅は痛い所へ触られた様に、ビクッとして、併し強て何気ない体を装った。

「僕は十二時頃まで、君のお母さんの話を聞いていた。お母さん心配していたぜ」

「ウン、自動車がなくってね。テクテク歩いて来たものだから」

大宅が弁解がましく答えた。

N市とS村を聯絡するたった一台のボロ乗合自動車は、夜十時を過ぎると運転手が帰ってしまうし、N市といっても山国の小都会のことだから、営業自動車は四五台しかなく、それが出払ってしまうと、外に交通機関とてもないのだ。

「道理で顔色がよくないよ。寝不足なんだろう」

「ウン、イヤ、それ程でもないよ」

大宅は、事実異様に青ざめた頬を、手の平でさすりながら、照れ隠しの様に笑って見せた。

殿村は大方の事情を知っていた。大宅はれっきとした同村の素封家の許婚の娘を嫌って、N市に住む秘密の恋人と媾曳を続けているのだ。その恋人は大宅の母親の言葉によると、「どこの馬の骨だか分らない、渡り者のあばずれ娘」であった。

「お母さんを安心させて上げた方がいいよ」

殿村は相手を恥かしがらせはしないかとビクビクしながら、置土産のつもりで忠告めいたことを口にした。

「ウン、分っている。併しマアうっちゃって置いて呉れ給え。自分のことは自分で仕末をつけるよ」

大宅がピンとはねつけるように、不快らしい調子で答えたので、殿村は黙ってしまった。

二人は黙々として、薄暗くしめっぽい森の中を歩いて行った。

鉄道線路がチラチラ見えている位だから、無論深い森ではないけれど、線路の反対側は奥知れぬ山に続いていて、立並ぶ木立が、どれも一抱え二抱えの老樹なので、さながら大森林に踏み入った感じであった。

「オイ、待ち給え!」

突然先に立っていた殿村が、ギョッとする様な声で、大宅を押し止めた。

「いやなものがいる。戻ろう。急いで戻ろう」

殿村は脅え切っていた。薄暗い森の中でも、彼の顔色が真青に変っているのが分った。

「どうしたんだ。何がいるんだ」

大宅も相手のただならぬ様子に引き入れられて、惶しく聞き返した。

「あれ、あれを見給え」

殿村は逃げ足になりながら、五六間向うの大樹の根元を指さした。

ヒョイと見ると、その巨木の幹の蔭から、何ともえたいの知れぬ怪物が覗いていた。

狼? イヤ、なんぼ山家でも、こんなところへ狼が出る筈はない。山犬に違いない。だが、あの口はどうしたのだ。唇も舌も白い牙さえも、生々しい血に濡れて、ピカピカ光っているではないか。茶色の毛の全身が、ドス黒く血の斑点だ。顔も血みどろのブチになって、その中から燐光を放つ丸い眼が、ジッとこちらを睨んでいる。顎からは、まだポタポタと血のしずくが垂れている。

「山犬だよ。土竜かなんかやッつけたんだよ。逃げない方がいい、逃げると却て危いから」

流石に大宅は山犬に慣れていた。

「チョッ、チョッ、チョッ」

彼は舌を鳴らしながら、怪物の方へ近づいて行った。

「なあんだ。知ってる奴だよ。いつもこの辺をウロウロしているおとなしい奴だよ」

先方では大宅を知っていたのか、やがて血みどろの山犬は、ノソノソと樹の蔭を出て、二三度彼の足元を嗅いだかと思うと、森の奥へと駈込んで行った。

「だが君、土竜やなんか喰ったんで、あんな血みどろになるだろうか。変だぜ」

殿村はまだ青ざめていた。

「ハハハ……、君も臆病だね。まさかこんなところに、人喰いの猛獣はいやしないよ」

大宅は何を馬鹿馬鹿しいと云わぬばかりに笑って見せたが、実は案外そうでなかったことが、間もなく分った。

森を出離れて、蓬々と雑草の茂った細道を歩いて行くと、叢の中から、ムクムクと、又しても血みどろの大犬が姿を現わし、人に驚いたのか、一目散に逃げ去った。

「オイ、あいつはさっきの奴と毛色が違うぜ。揃いも揃って、この村の犬が土竜を喰うなんて変だぜ」

殿村は、犬の出てきた叢を分けて、その蔭に何か大きな動物の死骸でも横たわっているのではないかと、ビクビクもので探し廻ったが、別段猛犬の餌食らしいものは見当らなかった。

「どうも気味が悪いね。引返そうか」

「ウン、だが、ちょっとあれを見給え。又もう一匹やって来るぜ」

一丁計り向うから、線路の土手に沿って、雑草の中を見え隠れに、なる程又毛色の違う奴が歩いて来る。チラチラと草に隠れて、全身を見ることが出来ぬ為、非常に大きな動物の様にも、又、犬ではないもっと別な生物の様にも感じられて、ひどく不気味である。

道はとっくに部落を出離れているので、あたりは人気もない山の中、狭い草原を挟んで、両側から迫る黒い森、刃物の様に光る二本の鉄路、遙かに見えるトンネルの口、薄暗くシーンと静まり返った、夢の中の景色だ。その叢を、ゴソゴソと近づいて来る妖犬の姿。

「オイ、あいつ何だか銜えているぜ。血まみれの白いものだ」

「ウン、銜えている。何だろう」

立止って、ジッと見ていると、犬が近づくに従って、銜えているものの形が、少しずつハッキリして来た。

大根の様なものだ。併し、大根にしては色が変だ。鉛の様に青白い、何とも云えぬ色合だ。オヤッ、先が幾つかに分れている。五本指の大根なんてあるものか。手だ。人間の生腕だ。断末魔に空を掴んだ、鉛色の人間の片腕だ。肘の関節から喰いちぎられて、その端には、赤い綿の様な塊りがくッついている。

「アッ、畜生め」

大宅がわめきながら、石塊を拾って、いきなり投げつけた。

「ギャン、ギャン」という悲鳴を上げて、人喰い犬は、矢の様に逃げ去った。小石が命中したのだ。

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