四
旅装束何から何まで行き届かして、機嫌克くお鉄は送り出して呉れた。
鉄無地の道行半合羽、青羅紗の柄袋、浅黄甲斐絹の手甲脚半、霰小紋の初袷を裾短かに着て、袴は穿かず、鉄扇を手に持つばかり。斯うすると竜次郎の男振りは、一入目立って光るのであった。
「途中でも女と道連れになんか成らないようにして下さいよ。よござんすか。私の乾漢は何処にでもいますからね。ちゃんと見ていますよ」
「大丈夫だ。今は唯師の身の上を思うばかり……それに次いでは御身の事を」
竜次郎はそう喜ばせて置いて、いよいよ前途を急ぎ出した。福田の台地を越して市崎へ出たのは、ほんの一息で有った。
自由の身と成りながらも未だ強力な或物に後髪を引かれるように思われて成らなかった。お鉄の勢力の絶倫な為に、如何に今まで圧迫されていたか分るので有った。
釣られた魚の魚畚を出て、再び大河に泳ぐような気が、次第次第に加わって来た。今度は江戸の方へ引附けられて行くので有った。
「少しも早く師の許へ」
師の陣風斎という人は、実際轗軻不遇の士。考えれば考える程気の毒で成らなかった。斎藤弥九郎、千葉周作、桃井春蔵、それ等の剣道師範に比べて、敢て腕前は劣らぬのだ。けれど他が何千という弟子を取り、幕府或は諸侯から後援せられているに関らず、秋岡陣風斎は浪宅に貧窮の生活をつづけていて、弟子と云っては実に自分一人だ。其処が併し偉い点だ。わざと然うした運命に身を潜めたのかも知れないのだが、何んにしても其恩には、充分報じなければ成らないのだ。
途中でお鉄の為に抑留されて、神前霊剣の修業を中止していた罪。それは何処までも詫びて掛ろう。然うして砲術稽古の為外国行きの事をも相談しよう。だが、夢見の通り重態で有っては成らぬと、何につけても道を急ぐので有った。
布川から布佐へ、それから中峠から我孫子へ出て行く竜次郎の見込みで有ったので、市崎から、椎塚下、畑や田の間の抜路々々と急いだので有った。もう文間台の立木の森が、近くに見える頃、気が着くと、自分の後から、一人の娘が附いて来るので有った。
それは決して普通の農家の娘とは見えなかった。髪は文金高島田に結って間もなく、一筋の乱れ毛も無いので有った。
お白粉から口紅、行き届いた厚化粧。それで無くても慄いつく程の美しさ。江戸にも珍らしい別嬪で有った。
それが又如何したのか。垢染み過ぎた蝶散らしの染浴衣。白地の多いだけに秋も初めとは云いながら、冷や冷やと見すぼらしく。帯も細く皺だらけで、貧弱さと云ったら無いので有った。頭髪の結び方と顔の化粧振りとに対して、余りに扮装が粗末なので、全く調和が取れなかった。これでは誰の眼にも謎で有ろう。
未だ其上に可怪しいのは、此上天気に紺蛇の目の雨傘を持っていた。其癖素足に藁草履を穿いて、ピタピタと路を踏むので有った。
女化ケ原の狐が娘に化けて、たぶらかしに附いて来るのか。昼間化ける位だから、余程官禄の有る狐だろうとも、戯れに考えたい位で有った。
急げば急ぎ、休めば休んだ。まるで影のように附いて来るので有った。振向いた時にはにっこり向うから笑うのであった。竜次郎は気味を悪くも覚え出した。
「御武家様は、江戸へ入らっしゃいますのでしょう」
稲田の畦中、流れ灌頂の有る辺で、後から到頭声を掛けた。
「左様」とのみ竜次郎は答えて、後を何んとも云わなかった。
「私も江戸へ参ります」と問わず語りを娘がした。
「左様か」とやはり竜次郎は素気なく答えた。
「今夜のお泊りは布佐で御座いますか。それとも我孫子までお伸し成さいますか」
泊ると云ったら合宿を頼みたそうなのだ。竜次郎は警戒せずにはいられなかった。譬いお鉄との約束が無いにしても、此娘と親しく成りたくは無いので有った。いくら美しくても素性の怪しい女。どんな間違いが生ぜぬとも限らぬと思って。
「いや、私は夜道をする。大病人を見舞の為だ。事に依ると早駕籠にするか。兎に角夜通しで江戸へ行く」と答えた。これなら閉口すると思ったのだ。
「あら左様ですか。私も大病人がありますので、夜通しで行こうと思って居りました」
「女の身で夜道をする覚悟だと」
「ええ、仕方が有りませんから……旦那様が夜道を成さるのは私に取って何よりも心丈夫で御座います。お邪魔に成らないように、お後から附いて参ります」
「それはお前の随意だ」
後から附いて来るというのだから、どうもそれを止めようも無かった。迷惑には考えても仕方が無かった。それに大病人を見舞の為というのが、竜次郎の心の一部にぴんと響かずにはいなかった。
「誰が病気なのだえ」とつい此方からも問わずにはいられなかった。
「大師匠が大病……という夢ばかり見つづけましたので、耐らなく成って私だけ、斯うして飛出して来ましたんですよ」
「えっ、大師匠が病気の夢……」
竜次郎はぎょっとせずにはいられなかった。