唖の権
「気がついたかね、赤星君、酷いめに会ったなあ、僕はよもや君が本田という学生に扮けているとは思わなかった。怪我をしているのは赤星刑事ですよって云われて驚いて来たんだが、――君は犯人を誘き寄せるには成功した、しかし、惜しいことだった」
赤星は黙っていた。傍にはこれも同じく頭を繃帯でくるくる巻いた主人が横たわっている、言葉をかけようとしたが舌が重くって物憂い、体を起しかけたら忽ち眩暈がして前倒そうになった。立松が葡萄酒を飲めと云った。少し飲んだら幾分明瞭した。
「よほど長い間気を失っていたんですか?」
「さア、主人は午前四時頃警察から来たと言って叩き起され、門を開けようとすると、いきなり棍棒で殴られたんだそうだが――君はその前にやられたんじゃないかな」
「それじゃ僕を二人がかりで殺そうとしたんだ。一人は門から入り、一人は屋根伝いに窓から入って――」
立松は驚いて、
「二人だって?」
赤星は溜息を吐いた。
「僕はこの計画に自信をもってはいなかった。だから誰にも話さなかったんだ。しかし、鳩の追跡は鷹ででもない限り到底不可能であるから、犯人を誘き出して捕えるより方法はないと考えた。で、十日ほど前から本田桂一と名乗ってこのアパートを借り受け、密かに次に起る事件を待っていると、果して杉山書記官が襲われた、そこで本田という学生が犯人の顔を見たと新聞に書き立てさせたのです。多分犯人は本田を襲うだろうと思ったから――。何故自分の家を用いず、アパートを舞台に選んだかというのに、アパートには人が多勢いるからこっそり始末をつけにやって来るだろう。それがこちらの望む処で、一人や二人を相手なら警官の手を煩わさなくてもすむ。来るか来ないか分らない犯人を待つのに大騒ぎするのはイヤだ。僕一人でやっつけよう、と高を括ったのが失敗だった。しかし、この次ぎこそはうまくやります」と言って昨夜の出来事を簡単に語った、立松は膝を叩き、
「鼻から耳へかけての切疵、――唖、――海軍ナイフ、――唖の権だよ。やはり彼奴等の仕業だったのか」
「彼奴はほんとの唖かね?」
「偽唖さ。始末にならない野郎なんだ」
ずきずき痛む頭を押えながら赤星はふらふら起ち上り、
「居所が分ってますか?」
「分ってる。が、恐らく彼奴は鳩つかいの手先だろう。あるいは君を殺す仕事だけを請負っているのかも知れない。とにかく彼奴を捕えて泥を吐かせたら何か得るところがあるだろう」
「もう唖の権は易々とは見つかりますまい、鳩つかいは彼奴を隠すに定っているから」と云って今度は主人に向い、
「小父さんはどんな奴に殴られたんだ?」
「アッという間だったから、よく見る暇も何もありやしない、大きな顔で、眼の下に痣があったのだけは覚えている」
「眼の下の痣――杉山氏へ鳩を届けた男も眼の下に痣があった。――とにかく唖の権を捕えることだね、僕は早くこの頭の痛みを癒して、これから大学の研究室に行かなけりゃならない」
「無理をしちゃいかん。医者は絶対安静を申渡して帰ったんだ」
「ですが、今日行く約束なんだから」
「事情を話して代理をやり給え」
「イヤ、行って来る。鳩の研究を頼んであるんだから、代理じゃ駄目ですよ」