Chapter 1 of 5

ポケットのダイヤ

陽子は珍らしく早起きして、朝のお化粧もすませ、ヴェランダの籐椅子にながながと両足を延ばし、ココアを飲みながら、頻りに腕時計を眺めていた。

客間の置時計が九時を打つと、それを合図のように玄関のベルが鳴って、貴金属商の杉村が来た、と書生が取りついだ。貴金属商というのは表面で、実は秘密に婦人達の間を廻り歩いている、損料貸しなのである。指輪や時計の交換などもやるので、重宝がられているのだった。彼は如才ない調子で、お世辞を振りまきながら、女中が茶菓を運ぶのに出たり入ったりしている間は、ゆっくりと鞄から一つ一つ指輪を取り出して、テーブルの上に並べていたが、女中の姿が見えなくなると、懐中から別に持っていたのを出して、

「パリーで買ったものだというんですが――、カットも新しいし、これだけの上物は滅多にございません。――いかがでしょう? 二千五百円じゃお安いと思いますが――」

三キャラット以上もありそうな、純白ダイヤ入りの指輪だ。陽子は蝋細工のような細い指にはめてみて、じっと眺めた。欲しいな、と思った、欲しい! しかし、この指輪に換えるだけの宝石を、残念ながら、持ち合せていない。もし是非ともこれを望むとすれば、纏ったいくらかの金をたしまえとして渡さなければなるまい。結婚してからまだ半年にしかならない二十一歳の若夫人の身では、それだけの金の工面は少し難しかった。欲しくって、欲しくって堪らないが、これは我慢しなければならないので、その代りに小指にはめるマルキイズを借りることにして、ルビーの指輪に若干の金を添えて話をつけた。

杉村は鞄の中に指輪を納いながら、

「米国観光団の大舞踏会があるそうでございますね。ご出席なさいますんでしょう?」

「ええ、招待状が来ているから、行く積りよ」

「そのために――、皆さん、大変ご苦労をなさいます。これは内々のお話でございますが、――私共の上等品は大部分当日のために出払ってしまいました」

陽子は杉村が帰った後も、三キャラットのダイヤが眼の前を離れなかった。梅田子爵夫人ともあろうものが、あれ位のダイヤ一つ持っていないとは情けない、何とかして買いたいものだと思いながら、ぼんやり庭を眺めていると、縁側に忙しそうな足音がして、実家の次兄、平松春樹が訪ねて来た。

「あら、お兄さん」

兄の顔を見ると急に甘えるような気持ちなって、何ということなしに涙ぐんだ。ダイヤが欲しいのよ、と、口先にまで出かかったのを、ぐっと押えて、陽子は唇を噛んだ。それは云ってはならぬことであった、こんなにまで欲しがっていると知ったら、この妹思いの春樹が、黙ってみているはずはない。どんな無理をしても、きっと、ダイヤを持って来てくれるに定っている、その無理が――、彼女には恐しかった。

「お兄さんも舞踏会に行らっしゃるんでしょう? 西洋婦人が沢山来るそうですから、さぞ、奇麗なことでしょうねえ」と云った。

「米国人が半数以上だっていうから、ダイヤが踊ってるようだろうよ。君なんか、宝石をつけて行かない方がいいぜ。ケチな指輪をはめて行っちゃ、反ってみすぼらしいからな」

兄の言葉もまるで耳に入らないように、陽子はじいッと考え込んでいたが、何を思ったのか、急に元気づいて、起ち上り、

「どうせ買えないから、と思って断念めたんだけれど、――お兄さん、私、これから三越へ行くわ。あそこは月末払いだから、――その時はその時の事で、どうにかなるわ。ほんとにうまいところに気がついた。三越へ行って、――ダイヤを見て来る。定めた!」

「馬鹿! 止せッて云ったら――、小ッぽけなダイヤなんかみっともないぞ――」

「だから、――大きいの、買うわ」と、勢よく化粧室に飛び込み、パッフで顔を叩いて、外套に手を通しながら、浮き浮きとして出て来た。

春樹は苦笑して、煙草に火を点け、

「じゃ、俺も一緒に出かけるとしようかな」

二人は連れ立って出た。

三越の前で陽子は兄に別れ、軽い歩調でエレヴェーターの中に入った。彼女はもうダイヤの事しか何も考えていなかった。

エレヴェーターを出ると傍目もふらず、真直ぐに、貴金属部へ靴先を向けた。ショウ・ウインドウを覗くと、パッと眼に入った大きなダイヤがあった。沢山の指輪に取り巻かれた真中に、それはまるで女王のように輝いていた。杉村の持っていたのなどより、ずッと立派なものであった。早速、馴染みの店員を招んで、硝子の上をトントン指先で叩きながら、

「ちょいと、この指輪、見せて下さらない?」と云った。

店員は五千八百円という正札を、ぶらりと下げているその指輪を陽子に渡し、なおそのほか気に入りそうなのを五つ六つ並べて見せてくれた、彼女はそれを一つ一つ指にはめては見惚れていたが、やはり最初目についた五千八百円が一番気に入った。欲しいなあ、と思うと我知らず溜息が出る。お金をどうしよう?――仕払いの時、もし、出来なかったら――、と思うと眼の先が真暗になる。だが、――どうにかなるだろう、構わない、買っちまえ! 彼女は顔をほてらせて、凝とダイヤを見ているうちに、何だか頭がぼうッとした。ふと我に返るとはッとして、また考えた。そんな無茶なことをしてどうする? 到底それだけお金が出来るはずがないのに、――無謀な考えを起したら、それこそ月末は大変だ、やっぱり――、断念めるより仕方がない。彼女は名残り惜しそうに指輪をぬいて、箱に納め、力なく返そうとしたが、傍にいた店員の姿が、どうしたのか見えなかった。四辺を見廻すと、自分の側に、やはり同じように、指輪に見入っている婦人があった。ちょっと見た時西洋人かしらと思ったほど、洋装がしっくりとよく似合い、帽子から、靴まで薄墨色であった。背が高くて、スマートな、好ましい姿だ。と陽子はつくづく眺めた。余りじろじろ見たせいか、その婦人はすうッと向へ去ってしまった。そこへ店員が戻って来たので、指輪を渡し、

「また出直して来ますわ。気に入ったのが、――あることはあるんだけれど――」と云って悄然と三越を出た。

銀座を歩いているうちに夕方になったので、円タクを拾って家へ帰ったが、外套を脱ぐのも億劫な位、がっかりした。考えれば、考えるほど、気が滅入る。

「ああ、あのダイヤが欲しい!」

溜息と一緒に、ツイ口に出してしまってから、急に恥しくなり、顔を赤らめて起ち上り、ポケットからハンカチを掴み出した、カチリ! 床に落ちたものがある。オヤッと思って、見ると、白っぽい、光った小さなものがころころと転げて、室の隅の壁際で停り、電燈の灯を受け、ピカッと眼を射た。

ダイヤだ、ダイヤの指輪だ!

三越の店員に慥かに渡したと思っていた五千八百円の指輪だ。彼女は頭の先から足の先まで、ジーンと電気でも伝ったように感じ、体が硬直って身動きも出来ない。

どうして、ポケットの中に、あのダイヤが入っていたのだろう? 欲しい! と深く思い込んだあの刹那の念力にひかれて、転げ込んだのではあるまいか。まさか――そんなことがあろうとは信じないが、嘗てある霊能者の物品引寄せというものを見たことがある。もしああいう事が、実際に出来るものだとしたら――、あるいは――。

陽子は怖くなった。

今にも、三越から何とか云って来やしないだろうか。たとえそれが意識してやった事でないとしても、ポケットに入れるところを誰かに見られはしなかったろうか。訴えられたらどうしよう? 一層返しに行こうか。――それも変だ。反って疑われるかも知れない。――では、このまま、黙って、知らぬ顔をしていようか――。

彼女は指輪を半紙に包んで、取り敢えず人目に触れない箪笥の抽斗の奥に入れて、錠を下し、熱した頭を冷す積りでヴェランダに出た。夫に打ち開けて相談してみようか、しかしそれも心配だった。潔癖な彼が、どんな風に誤解しないとも限らない。

それにもう一つ、陽子の胸を刺すような心痛があった。それは他でもない、兄のことである。

春樹は風采も立派、学校の成積も良く、才物であったが、どういうものか、幼少の頃から盗癖があった。が、彼に云わせるとこうだ。世間の人は皆間抜けで、馬鹿揃いだ。すきだらけだから盗まれる。盗んでくれと云わんばかりな顔をしているのに、自分の不注意を棚に上げて、人に盗癖があるなんてチャンチャラおかしい。その気持ちは彼女にもよく分った。

それに春樹は物を盗んで、それをどうしようというのでもない、ただ、他人が後生大切に身につけているものを、こっそりと掏りとる、それが愉快なのだ、その瞬間、実に何とも云えない快感を覚える、それを味いたいばっかりに、罪を重ねているのだが、盗んでしまえばそれぎりで、品物に執着がないのだから、持主の住所を調べては、送り返してやる。まさか、平松子爵の次男がスリだとは何人も感付かないだろう、知っているのは妹一人位のものだと彼は考えていた。しかし、その愉快な遊戯も、陽子が梅田家へ嫁いだ日を限りに、きっぱりとやめたはずである。が、もしも盗癖というものが血統にあるのだとしたら――、知らぬ間に心のどこかに芽生えていたとしたら――、と、考えると、彼女は身も世もあられぬほど苦しくなった。

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