一
会社を退出した時には桃子にも連れがあったので、本庄とは別々の電車に乗ったが、S駅を降りると、彼はもう先に着いて待っていた。
二人は腕を組んで夕闇の迫った街を二三町も歩くと、焼け残った屋敷街の大きな一つの門の前に立ち止った。
桃子は眼を丸るくして、門冠りの松の枝を見上げ、
「あんた、このおやしき?」
「うん。素晴らしいだろう? 会社への往きかえりに毎日前を通っていてね、いい家だなあと想っていたんだ。今朝、出がけに寄って、部屋を見せてもらった。離室の茶席、とても素的だぜ。没落した華族さんの内職にやっている御旅館兼お休息所さ。ここなら会社の人なんかに絶対知れっこないからね」
「だって、私――」
桃子は尻り込みして、
「あなたのお宅といくらも離れていないんでしょう? そんなお膝もとで――、会社の人よりも奥様に感付かれたらどうするのよ」
「燈台もと暗しさ。遠征すると反ってばれる。これなら、奥様だって、仏様だって御存じあるまいさ」
構えが堂々としているので桃子は気おくれして、入りそびれていると、客の気配を聞きつけて、奥から出て来た素人臭い女中に案内され、多摩川砂利を踏んで、右手の朱雀門から庭の茶席へ通された。
数寄を凝らした部屋を物珍しそうに眺めていると、庭下駄の音をわざと大きくたてながら、先刻の女中がお銚子とビールにちょっとしたつまみものを運んで来た。
「御用がございましたら、ここのベルをお押し下さいませ」
本庄の座っている壁際に、ベルが取りつけてあった。女中が出て行くと桃子はお銚子を取り上げて、本庄の盃についでから、自分はビールを呑んだ。
「まさか、奥様、あなたと私とのこと、御存じないんでしょう?」
「多分ねえ。君が僕の病気見舞いに来た時、あとでいやに褒めてたから――、どうだかなあ」
「知れたら困る?」
と眼で笑った。
「困るなあ。だが仕方がない。君とはどうしたって別れられないもの」
「だって、奥様は絶対にやかない人でしょう?」
「うむ。だが――、嫉妬れる方がいいな。黙ってただじいと眺めていられるのは辛い」
何を思い出したのか、本庄はちょっとべそを掻くような表情をした。酔いが出て、色の白い上品な顔にほんのりと赤味がさして、酒にうるんだ眼が美しく見えた。桃子はコップを唇に持って行きながら、惚れ惚れと彼の顔に見入っていたが、
「私はあなたが好きなんだから、奥様が怒っても、あなたに捨てられない限り絶対に別れないわよ」
「僕の奥さんだって、君と僕との関係までは嗅ぎつけちゃいないさ。だが、彼奴は黙っていて常に僕の一挙一動を監視しているんだ。そして、僕の事なら一から十まで知りつくそうとしている。知らなきゃ満足出来ないんだ。いい事でも、悪いことでも。つまり、変態なんだろう」
「きっと、奥様、あなたをよっぽど愛しているんだわねえ。私なんか敵わないかも知れない。そういう愛情の前には、私、頭が下がるわ」
「僕はいやだよ。つくづくいやだ。まあ考えてもみたまえ。何んでも、かんでも知っていて、知らん顔していようっていうんだからね。いやだよ」
煙草を灰皿に押しつぶした。
「ほんとに愛していれば、相手の全部を知りつくそうとするのは、当然だわ。でも、私には離れている間のあなたが何をしているか分らないわよ。勿論分りたいけれど――」
「訊けばいいじゃないか」
「訊いたって、かくされればそれまででしょう? あなたにしたって、私に云いたくない事もあるでしょうからね。それが嫉妬心をそそるもとになるということも知ってるけれど、あなたの奥様のように、何もかも見透せたら、決して、嫉妬は起さないだろうと思うわ」
「そうかなあ」
「たとえばさ。あなたとこうしていても私にはあなたの愛情がどれほど深いものかってことは分らない。あなたの言葉や態度で想像するだけのものでしょう。ところが奥様はあなたの心の奥の奥まで見透せるんだから、自分が優越な立ち場にある間は心配はないでしょう。あなたに女が出来たって、平気でいられるかも知れない。つまり、自分の方が勝っているからよ。愛されているという確信があるから――」
「愛情をわけられるのは不愉快だろう、全部自分のものにしたいと思わないか知ら?」
「私はあなたの肉体も精神も独占している積りでいるんだけれど、ほんとはどうなのか知ら? 奥様が嫉妬しない処を見ると、怪しいもんだわ」
「うちの奥さんはね。僕をくさりでつないでおいて、適当に遊ばしてくれるんだよ。飼犬のつもりでいやがる。いやな奴さ」
と吐き出すように云う。
「だって、御新婚当時は随分、奥様が役に立ったって云うじゃないの?」
「それや役に立ったさ。彼奴の持っている第七感の神秘なんだよ。そのおかげで危険も救われたし、上役のお覚えも目出度くどんどん出世もするしさ。重宝だったが、今じゃ、そのかんがうるさくなった。何んでも知ってやがるのは、つまりその第七感が発達しすぎるからだ。そして近頃はますます鋭どくなりやがった。このまま進んだら僕は苦しくって一緒にはいられない。気狂いになってしまうぜ」
「あなたを気狂いにさせるほどの情熱、私は羨しいわ。あなたの奥様が――」
「何云ってるんだ。君がいなかったら僕は生きちゃいられない。奥さんぎりだったら僕はとうに自殺してしまってらあ」
「私には第七感どころか第六感も働かない、平々凡々で何にもわからないから、そこがあなたには肩が凝らないし、気楽でいいんでしょう?」
「君とこうしている時だけが、僕には天国なんだよ」
本庄はついと起ち上って、ちょっと次の間を覗いた。水色の覆いのかかった涼しそうなスタンドが枕許に点いていて、白麻の蚊帳越しに紅入友の蒲団がなまめいて見えた。彼は襖をしめきると、桃子のそばへにじりよって肩へ手をかけて、引きよせ、
「ねえ、僕の全部は君のものなんだよ」
桃子のコップを持った手がぶるぶると震えた。
「駄目よ。ビールがこぼれるわ」
と、飲みかけのコップを彼の唇へ持って行った。