Chapter 1 of 6

沖野鳳亭が何故竹中格之進を殺さねばならなかったか、その根本の理由に就いては、出来るだけ簡単に述べて置く。この譚の主な目的が、実は沖野鳳亭の選び出した奇妙な殺人方法及びそれがどんな結果になったかということ、その二つを説明するのにあるからなのだ。そして又一方では、殺人の動機そのものが余り珍らしいものでもなく、それを詳しく述べ立てていた日には読者諸君が或は退屈してしまうかも知れぬのだ。要するに沖野と竹中との二人は、住谷良子という女を愛していた。女はしかし竹中の方により多くの好意を寄せていた。そこで、沖野が竹中を殺そうと思い立ったのだった。

沖野鳳亭は文士だった。文壇では先ず中堅どころの作家である。が、それはそれとして置いて、この男の有っている大きな特徴というのは、妙に気が弱くて、だから又正直であるということだった。人殺しでもしようという男が、気が弱くて正直だというのは、少しばかり変に聞えるかも知れない。が、それはほんとうのことである。彼は自分の創作を発表しても、誰かが賞めてくれるまでは、少しも自信を有てない男であった。なかなか勉強家でもあったので、時には何か素晴らしい文学上の問題などを見付け出す。が、彼はいつもそれを自分一人の胸の中へそっと蔵い込んでしまって、文学論などは一度も発表したことがない。その文学論のうちに、どんなに些細な一ヶ所でも、他から揚足を取られるようなことがあってはならない。とそればかりをくよくよ心配する。事実又、稀に友人の誰彼と議論などを闘わしても、彼はその途中で相手から何か一寸したロジックの誤りを指摘されると、もうそれだけで狼狽の極に達し、顔を真赤にして支離滅裂なことを云い出してしまう。結局は、大綱から観て明かに正当な彼の説も、表面上では見事に相手から圧し潰される。そういったような人柄で彼はあったのだ。

この非現代的な弱い性格の沖野鳳亭に対して、竹中格之進も住谷良子も、常々から彼を蔑視っていたことは確かである。竹中格之進は、大学出身の理学士だが、相当富豪であるのを幸に、今は別に何処へ勤めるでもなく、自分の家に研究室を造って、道楽に細菌学の研究などをやっている。もとからの友達なので、その竹中の家へ時々沖野が遊びに出掛けるという訳であったが、その頃、新進のピアニストとして大分有名になりかかっていた住谷良子を、最初に知ったのは沖野だった。ふとしたことから知合ったので、それから二三度会ううちに、沖野は激しく良子を恋するようになった。が、それにしても彼は例の気弱いたちで、容易にその恋を打明け得なかったのである。シネマを観に行ったり散歩をしたり、幾度か機会には恵まれながら、もし万一にも拒絶されてしまったらと、沖野はそればかりを先きに心配し、ネチネチと煮え切らぬ態度しかとれなかった。もっともそれには、住谷良子が蠱惑的なうちにもどこか上品なところもあって、迂闊には近づき難い気もしたのであるが、そのうちに沖野が竹中を紹介すると、良子は忽ち竹中の中へ引き付けられて行ったのだった。もっと前に、自分が思切って打明けていたらなアと、流石に彼とても思うには思う。が、それはもう後の祭りで仕方がなかった。そして、このような臆病者の常として、彼はその後もおめおめと竹中と良子とに交際っている。三人で肩を並べて銀座通などを散歩する。――だが、表向きは彼等の恋を祝福するような顔をしていて、一人っきり淋しく下宿へ戻って来ると、堪まらない自己嫌忌の情に襲われたり、又は良子の美しい弾力のある姿態をそれからそれへと脳髄の中へ描き出し、不思議な情熱のやり場にき苦しむ。到頭、惨めな敗北者になってしまったのだった。

で、このような沖野鳳亭であったからには、大それた殺人などということは、容易に決心の出来るものではなかった。それは、後に述べるような素晴らしい殺人方法をひょいと思付いたればこそである。といって、それを思付く前にも、ここで竹中を亡き者にすれば、今度こそ自分もテキパキと、良子を自分のものにして見せるがなあと、薄々ながらそんな風に思わぬでもなかった。それに就いてはこの譚に少し関係のある挿話もあるので、序でにそれを述べて置くが、沖野がその決心を抱くようになったより二三週間ばかり前のこと、彼等三人はその時何気なく犯罪に関する、雑談を交していた。が、やがてその雑談もぼつぼつ終り際になった時、竹中は最後の結論をでも与えるかのように、ふと次のようにいったのである。

「や、しかしだね。これで案外沖野君などが人殺しをやりかねないぜ」

沖野はその時ギョッとした。そしてすぐと何か適切なことをいわなければいけないと思いながら、いつものように顔を真赤にして、口を無暗にもぐもぐさせた。

「あら、どうして? まさか沖野さん、そんな方じアありませんわねえ」

良子がそんな風にいってくれたが、すると竹中は揶揄うようにニヤニヤした。

「オヤオヤ良子さん、そんな言い方をしてはいけませんよ。まさか沖野さんだなんて、そのまさかが何だかへんじゃありませんか。幾分かは肯定の意味が入ってますよ」

「だって――」

「ほら、そのだってというんだってへんでしょう。ハッハハハハ。いや、失敬々々、何も僕は君がほんとうに人殺しをやるっていうのじゃないさ。ただ、沖野君のような穏和しい人が、案外真面目に人殺しなんかを計画するんじゃないかと思うのだね。ねえ、そうじゃないかしら、沖野君――」

後で考えれば、この時竹中は良子と二人で何処かへ行くという約束でもしていて、それで沖野がいつまでも彼等の仲間に加わっていたのを、内心じれじれとしていたのかも知れなかった。しかし沖野は、その無礼極まる相手の言葉を、どう返事していいかひどく困った。

「ハッハ、そうかねえ。だ、だが、この僕にも何処か犯罪者に特有な容貌でもあるのかい。え、どこにそんなものがあるのだね、額かい、それとも顎の辺かい?」

可哀相にも、沖野はわざとおどけた眼付をして、自分の顔のあちらこちらを押えて見せた。そしてそのおどけた顔が、自分自身、泣くように引き歪められていることを知っていたのだった。

Chapter 1 of 6