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脳細胞日記
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脳細胞日記
太田健一
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Chapter 6 of 6

七月二日(日)

推定脳細胞総数 149億3870万個

小竹向原の無線室が逆探知されたことを隼人が知ったのは、朝食のホットサンドを食べ終え何気なくテレビのスイッチをひねったときだった。無線室の空家を背景に実況アナウンサーが記事を早口で読み上げ、時々警官や鑑識係の人間がせわしく画面の枠に出たり入ったりするのがうかがえる。

「ご覧下さい」アナウンサーが言った。「これが三日前、そして昨夜私たちのテレビを妨害した海賊放送の発信源です」

空家からパソコンや無線機が運び出されるのを見ると隼人はやりきれないような焦燥を覚え、にわかに全身が熱くなってきた。こんなに早く発見されるなんてとんだ計算違いだ。隼人は心の中で何度もそう反芻した。ひょっとしたらグリーンが何らかの方法で警察が無線室を発見するように仕向けたのではないかという想念が一瞬脳裏をよぎり、グリーンのせいにするのは少し飛躍し過ぎるという同時に湧き起こった理性がすぐにそれを否定した。テレビのアナウンサーは海賊放送の被害の大きさと犯人に対する非難を熱意をこめて感情的に語り続け――しかし同時にそれは他の事件の場合でも同じようにやるであろう形式的で興醒めた口調に過ぎない、と隼人には思われた――隼人は反射的にテレビを消した。

とにかく今すぐ無線室へ行ってみようと隼人は衝動的に思った。今無線室に近づけばむしろ下手をすると警察から目をつけられるかもしれないという理性はその衝動を抑制するにはあまりに弱すぎ、気がつくと隼人はアパートを出て駐車場の自分のバイクにまたがり、スロットルグリップを回しながらアクセルを思い切りふかしている自分を見出していた。クラッチレバーを握り、チェンジペダルをローに入れてゆっくりレバーを離し、発進するとすぐセカンド、駐車場前の路地に入るとサード、路地を抜け大通りに出るとトップという具合に順に上げていった。

新宿通りを麹町方向に進み、迎賓館前を通って首都高速に乗る。道は思ったより空いていた。スロットルグリップを全回して加速すると風の抵抗で上半身が後方に押し返される。スピードメーターの針は確実に上がり、カーディガンともつれ合うやけに耳障りな風の音がスピードオーバーを告げるブザーをかき消してしまう。隼人は頬を嬲る向かい風が自分を叱責しているような気がして身が引き締った。加速するにしたがって近くにあるものはぼやけ、間隔を置いて植えられているはずの街路樹はガードレールに溶け混じり、不明瞭な色の一つの帯となりかけていた。遠くの建物だけはやけにはっきりと目に入った。右側の車線を時々走り抜ける対向車はもはや原形をとどめず半分は透明になり、ただ自分の横を通り過ぎて行く度に風を切る鋭い音を残すことで隼人はかろうじてその存在を認識できた。名状し難い空虚な挫折感が徐々に隼人の内部を蝕んでいくのを自覚しつつ、このまま加速すればバイクごと全身が風に同化するのではないかと思われ、またそうなってほしいとも願った。自分は一体何を為し遂げたのか。自分の計画はどの程度まで成功だったと言えるのか。どういう部分に自分の手落ちがあったのか。様々な想念が繰り返し湧き起こっては頭の中をかき回すが、もはや何も考える気力のない疲労しきった脱力感がその問いかけに答えることを拒絶し、拒絶してもなお執拗に反芻される内的葛藤が隼人を苛んだ。

もうすぐ発作が起こることを察知するある種の病人のように、隼人は頭を破裂させかねない突然の激しい耳鳴りからグリーンとの交感が近づいていることを感覚的に悟り、三日前に交感したばかりの自分のバイオリズムの周期からは信じられないことだといぶかった。だがグリーンは陰険な執拗さで話しかけてきた。一瞬目眩を覚えたので隼人はハンドルを強く握り、故意に目を大きく見開いて意識をしっかりさせようと自分に言い聞かせた。結局ハオマエノヤッタコトハスベテ無駄ダッタノダ。オマエハタダ自己満足ヲ得ル以上ノコトハ何モシテハイナイノダ。いやそんなことはない、そんなことがあってはたまるものかと隼人は思った。外界に対しても自分自身に対しても俺は何かをやり遂げたはずだ。その手応えだってある。オマエハ卑怯者ダ。オマエハ自分ノコトシカ考エテイナイ。いや考えているはずだ。ダッタラ何故オマエモ諦メテ透明ナ糸ヲ体カラ生ヤソウトシナイノダ。透明ナ糸サエ生ヤセバオマエハ何モ考エルコトモ悩ムコトモナク、タダ私ノ命令二従ッテイルダケデ生キラレルノダ。

首都高速を降り環七通りを進んで行く。コンビニエンスストアの脇の路地を曲がりギアをサードに落として徐行すると交差点が見え、そこを左に曲がってすぐのところに無線室の空家があった。空家の周囲は立入禁止を意味する白いロープで囲まれ、警官や鑑識係がせわしく動き回っている。隼人はバイクを路地の道端に停め、ロープの外側で見物している野次馬たちの群衆に混じった。

「あの装置で電波を流してたのよ」隼人の側にいた主婦らしい女性が無線室から空家の庭に運び出された無線機を指さしながら隣の女性に言った。

「あたしなんかテレビずっと見てたわ」隣の女性は答えた。「こんな近所に海賊放送の発信源があるなんてちょっと恐くない?」

「そうねえ。でもどんな人が犯人なのかしら」

「さあ、どっかのテロリストか奇人変人の類なんじゃないかしら」

隼人はしばらくその場に佇んでいたが、やがて力なく欠伸をするとバイクに乗り、行くあてはなかったがとにかくできるだけこの場から遠くへ逃がれたいという思いで走り去った。

煙草の臭いがしみ込んでいる狭い楽屋の中で陽子たちはコンサート直前の最終調整に余念がなかった。今日のステージではギターの西田増美とサックスのケリー田口が正規のサイバネテイック・スキゾイドのメンバーに助っ人として加わっていた。勝美は張り替えたばかりのベースの弦をはじいては止め金の閉め具合を神経質に吟味しながら調律している。ギブソンのギターで増美はオープニング曲のイントロの箇所を何度も繰り返し弾いている。亜理沙はスティックを片手に落ち着きなく楽屋の中を何度も往復し、時々立ち止まってはコンサートが終わったとき客席にスティックを本当に投げ与えていいのか陽子に確認した。その度に陽子は無言のままうなずくだけだったが、あまり何度も聞き返すのでそのうちに少しいら立って口を開いた。

「何度も言ってるでしょう。普通のコンサートだったらドラマーは二人くらいいるけど、二人とも必ずスティックはお客にプレゼントするじゃないの。それが慣習ってものよ。今回は亜理沙がパーカッションをやるときはリズムボックスを使うから一人でしょう。だったらなおさらよ。スティックを手に入れるためだけにライブ聴きに来る客もいるわけだし」

「でもこのスティックは特別のやつなのよ」亜理沙が言った。「蛍光塗料が塗ってあって舞台を暗くすると光る工夫がしてあるスティックなの。こんなのあげたらもったいないじゃない」

「ケチなこと言わないでよ」

「そう言えばさあ」勝美がベースを弾く手を休めて言った。「話変わるけどこの前の録画撮りのディレクター覚えてる? あの人“やらせ”で有名なんだって。インタビューだってまるで台詞棒読みの芝居だったじゃない。自分の言葉で一言もしゃべらせてくれなかったわ」

「あら、あれが普通よ」陽子が言った。「本当だったら最初からシナリオ渡されてリハーサルを済ませてからやるものなのよ。そりゃあ、アドリブの要素はいつだってあるだろうけど……まあ、あんなもんよ。バラエティー番組なんてドラマ以上にドラマなのよ」

「なるほどね」亜理沙が言った。

「だけどさあ」勝美は言った。「昔こういう事件があったの覚えてる? テレビのドキュメント番組で不良少年たちの実態をテーマにしたのがあったの。それでどうしても不良少年たちがさあ、集団で浮浪者をリンチするところが撮りたくなったわけ。そこでディレクターが不良少年たちにギャラを払って“やらせ”のリンチを仕組んだのよ。その結果プータローが死んじゃってさあ、警察が介入して調べてみると“やらせ”で殺したってことがバレちゃった事件」

「知ってるわよ」亜理沙が言った。「結構大きな社会問題になったじゃない」

「あのときのディレクターがこの前の人らしいのよ」勝美は言った。

「嘘」陽子は頓狂な声を上げた。

するとそこへマネージャーの木村丈太郎が入って来た。木村は若い頃ハードロックのギタリストで鳴らした男で引退後はもっぱら裏方に回り、新人バンドの発掘と育成、レコーディングのプロデュース、ツアーのプロモーター関係を主な仕事としていたが、元ミュージシャンだったキャリアを生かしコンサートの音楽監督や曲のアレンジなども担当することがあった。今回西田増美とケリー田口の二人を助っ人として調達できたのも彼の顔のおかげだった。

「さあ、そろそろ準備はいいかな」木村は言った。「あまり緊張しない方がいいぞ。リラックスしてやるんだぞ」

陽子たちは楽屋を出て狭く陰湿な廊下を渡り、ステージの裏口のところまで来た。階段を上りほとんど暗闇に近い薄明りの中を様々な音響機器に体をぶつけないよう注意しながら自分の場所へすみやかに進んで行く。客席の方からはあたしたちの姿は完全に見えないのだろうと陽子は思った。全員スタンバイしたのを確認すると西田増美はギターでイントロを奏で始め、タイミングよく照明の青白い光線が暗闇の中に彼女の姿をぽつねんと浮かび上がらせる。客席から短い拍手と喝采が起こる。続いて亜理沙が暗闇の中で緑色に光るスティックを振り回しながらハイハットシンバルとスネアドラムを交互に叩き、しばらくすると赤いスポットライトが亜理沙を包み込んだ。ギターとドラムで醸し出す複雑なリズムのサウンドが緊迫感を頂点まで上りつめると突然ステージ全体が明るくなり、同時にバンドの全員が暴力的で破壊的な主旋律にそれぞれのパートで参加する。

客席からの悲鳴に近い歓声や曲のリズムに合わせた手拍子が溶け混じる。陽子はキーボードを激しく叩きながら叫ぶように歌った。理性をかき乱すような曲のテンポやステージと一体化しつつある客席の熱気に陽子は闘争本能にも似た生理的な高揚を覚え、喉をからさんばかりに熱唱しながら客席を眺め下ろした。何百人という群衆が一人残らず自分たちの攻撃的なロックに魂を抜かれ、惚けた屍の顔になったと陽子は感じつつ怒りと憎悪の念を燃やし続けた。それははっきりとした対象も理由もない、ただひたすら憎悪したいから憎悪するといった不条理な感情に違いなかった。陽子は心の中で豚どもめと叫び続けた。

気がつくと汗が額からしたたり落ちてくる。H・Hのアトリエを密閉すると室温が異常に上がるのを思い出し、浩は縦長の窓を開けた。窓から吹き込む折からの風が心地よく肌に浸透してくる。

「佐川先輩、まだ休憩じゃないんですか」音響担当の安雄が言った。「もういい加減疲れましたよ」

「まだまだだ」浩は毅然と答えた。「まだ肝心の第十三場ができてないじゃないか。ここがちゃんとできるまで休憩はなしだ」

アトリエには浩たち“同時代”の部員の他に、今回『太陽は地平線から昇る』に特別出演することになっている他の演劇サークルの人間が数名混じっていた。演劇関係の団体は大学内で一つの共同体になっていて、自分たちが公演するときはよそから人材を借り、そのかわりよそが公演するときは自分たちが人材を貸すという慣習があった。浩は台本を片手に第十三場に登場する役者たちを集め、もう一度一つ一つの台詞と動作のタイミングについて説明を繰り返した。

「いいかい、ここの場面が全体の中で一番重要なんだ。ここで少年Aは舞台の中央に立つんだ。すると青の照明が少年Aを照らし、周囲は暗くなる。しばらくして音楽が流れ始めたら少年Aは台詞を言い始める。いいね。照明を入れた練習は実際に舞台入りしてからやるけど、今は音楽だけでやってみよう」

浩が手を打って開始の合図をすると、少年Aに扮する政雄を残して全員がアトリエの隅に下がる。政雄はしばらく直立不動の姿勢を保っているが安雄が間を置いて音楽を流すと歌うように長広舌を始める。

「おれは何者なんだ。何者でも構いはしない。一人であればもともと名前なんか必要ないんだ。おれはこの無人島にたった一人で住んでいる。この島はおれの国だ。おれというたった一人の国民から成る国なのだ。おれはこの国の為政者であるとともに人民だ。おれはあらゆる財やサービスを生産するとともにあらゆる財やサービスを消費する。一体、おれの国は資本主義国家なのか共産主義国家なのか。この国のあらゆる富はおれというたった一人の国民の私有物であり、同時におれというこの国を構成する国民全員の公共物である。一人という状態。これには特別の意味がある。一人と二人の違いは二人と三人の違いよりはるかに大きい。一人であることと二人以上であること、ここには天国と地獄に匹敵する大きなへだたりがある。そして……おれは一人なんだ」

するとそこへ悪魔に扮する雅史が上手から突然現れ、同時に舞台の奥では英一と早苗が操り人形の動作をまねたパフォーマンスを始める。安雄は音楽を止める。

「おまえは何者だ」少年Aは驚いて二、三歩後退する。「いや、おまえはおれが作り出した幻覚なのか」

「幻覚じゃありませんぜ」悪魔は嘲けるように微笑を口元に浮かべながら言った。「小生はグリーンという下級悪魔ですよ。何か願い事でもありませんか。ありましたら何なりとお申しつけ下さい。三つまではかなえてあげましょう。ただそのかわり、あなたが死んだときは魂を小生がいただきますがねえ」

「うせろ、おれの幻よ。おまえはおれの幻覚にすぎないはずだ」

「そんなことはありませんよ。いいですか、一つ面白い話をして差し上げましょうか。あるところに日記を書く男がいた。彼は一日中日記ばかりを書いていて他のことは何もしない。だから彼の日記にはもともと書くことなど何もないのだが、彼は日記の第一行目に『おれは狂ってる』と書き始め行変えして『おれは狂ってる、と今日日記に書いた』と続ける。更に三行目は『おれは狂ってる、と今日日記に書いた、と今日日記に書いた』、四行目は『おれは狂ってる、と今日日記に書いた、と今日日記に書いた、と今日日記に書いた』という具合に無限に反復されていく……」

浩はまだ台詞が頭に完全に入っていない様子の雅史に少々腹が立ったが、全体的にうまくまとまっているので中断せずそのまま芝居を進行させることにした。政雄や雅史が口に出す言葉の一つ一つを吟味するように聞いているうちに隼人は何か隠された暗号をこれらの台詞の中に忍び込ませたのではないかという考えがふと浮かび、浩は昨日〈いーぐる〉で隼人が自分に語りかけたことを思い出そうとしたがほとんど忘れてしまっていた。

「とうとうしっぽを出したな」少年Aは言った。「その物語はおれが昔考えたものだ。一年前、自分の日記に書いた物語だ。それをおまえが知っているということは、おまえはおれの空想の産物だったということではないか」

「どうですかな」悪魔は言った。「小生は悪魔ですよ。あなたの心を読むことぐらい朝飯前ですよ。それにあなたがそんなことを言うこと自体が心のどこかで小生の存在を認めている証拠なのです。悪魔たる小生は実は故意にあなたを悩まし続けているのです。果して今自分の目の前にいる悪魔は本当に存在しているのか、それとも単なる幻覚か」

「いいか、おまえは存在していないんだ。おまえはおれの悪夢の中の登場人物にすぎないんだ」

「じゃあ、あなたは自分のことを狂っていると認めるわけですね」

「騙されないぞ。おまえはおれ自身が作り上げた虚像なんだ。おまえは存在していないんだ」

少年Aは悪魔に飛びかかろうとするが悪魔は素早く身を翻し、下手の方へ消えてしまう。英一と早苗も悪魔の雅史が消えると同時に退場する。

「おれは知ってるぞ」後に残された少年Aの政雄が言った。「あいつはおれの空想の産物なんかじゃない。あいつは本当に存在していやがるんだ」

「ちょっと待ってくれ」浩が言った。「そこはもう少し間を置いてからしゃべってほしいんだ」

浩は自分でその部分の演技をして見せながら、間を置くことで台詞に重みが出てくるような効果をねらっていることを政雄に説明した。政雄は途中で演技を中断されたきまり悪さからかそれとも細かい一挙手一投足に到るまで妥協しない浩の執拗な演出にあきれたのか浩の話をしぶしぶ聞いていたが、もう一度そこの部分をやらせてみると驚くほど正確に浩の意図通りの動きをしてみせた。

浩が休憩を許可すると自動販売機のジュースを買いにアトリエにいたほとんどがいなくなった。しばらくして全員アトリエに戻ってくると一年生の男子が集まってジャンケンをやり、一番負けた安雄が弁当を買いに行くことになった。

「ついてないぜ」安雄はそう言いながら会計係の町子から部費の五千円札を受け取った。

「今日は日曜だから近くの弁当屋は多分休みだろう。どこへ行ったらいいかなあ」

「弁当屋がなかったら〈デイリークイーン〉へ行ってハンバーガーでも買って来たら」早苗が言った。「あそこならやってるわよ。きっと」

壁にもたれかかった浩は台本を読み返しながら次の第十四場の演出をあれこれと再検討してみたが、どうももう一つこれといったアイデアが浮かばない。あきらめて台本から顔を上げてみると、玉乗りの曲芸をまねてコーラの空き缶の上に乗ってうまくバランスを保ちながら静止していた雅史が、ふとした拍子に足を滑らせて尻もちをつくのが目に入った。転ぶ瞬間を見ていた者は浩を除いて全員爆笑した。雅史本人までが笑っていた。何が起こったのか分らない早苗は安雄にみんながどうして笑っているのか尋ねた。だが何故か浩だけは笑う気になれなかった。

「ねえねえ先輩」政雄が笑いながら話しかけてきた。「今の中島のズッコケるところみなかったんですか」

政雄は腹をかかえて笑い転げ、しきりに雅史が空き缶の上から足を滑らせて転んだことを説明しようとするのだが、こみ上げてくる笑いがそれを邪魔してうまく話せない。

浩は政雄の爆笑する様子を見ながらふとどこか芝居じみていると思った。テレビの中でよく目にする人工的に作られた、しかしそれでいて本物よりも本物らしい劇的で生き生きした偽物の笑い……他人が空き缶の上から転ぶところを目撃した場合こんな風に激しく笑うものだという無意識のうちに記号化され、情報化された既成の感覚……だが現実を生きているという確かな手応えが直接肌で感じられるような、魂を切り刻む生々しい血の通った体験がそこにあるだろうか。現実の人間の感情はもっと起伏の少ない落ち着いた平静さを保っているはずだ。浩は政雄がまだ芝居を続けているような錯覚にとらわれた。

浩は昔二つ年上の兄の隆が高校を退学した日のことを思い出した。当時隆は四、五人の仲間を先導してシャコタンにしたオートバイで夜の大通りをジグザグ運転したり、自動販売機をバットで破壊して缶ビールを盗んだり、空地でアンパン(空き缶にシンナーを入れたもの)のパーティーを開いたりして何回か警察に補導されていたが、高校二年の夏休み前に学校から退学処分が言い渡された。母親とともに学校から帰ってきた隆は悄然とした面持ちで無言のまま応接間のテレビを見続けていた。隣では母親がしきりに「元気を出して」とか「もう一度やり直そうよ」と言い聞かせていたのを覚えている。そのとき側にいた浩は「もう一度やり直そうよ」という母親の言葉がどこかで聞いたことのある無意味な言葉の空転のように思え、奇妙な違和感にとらわれた。「もう一度やり直そうよ」――浩はその台詞から刑事物のテレビドラマを思い浮かべる。殺人を犯した凶悪犯に恋人が泣きながらすがりつき、何度となく「もう一度やり直そうよ」を繰り返す場面。だがあくまでそれはフィクションの世界の台詞にすぎない。こういう立場に置かれたときはこういう言葉を唱えたりこういう態度を示したりするものだ、人生とはこんなものだという平面的で無味乾燥な虚構の認識をただ再生するだけの、もはや現実であることを放棄した色褪せた現実。そこには機械仕掛けの冷たい美しさを湛えたイルュージョンの下で、生きているというもっともらしい芝居を続ける透明で無機質な時間が流れている。「もう一度やり直そうよ」――テレビドラマの中の凶悪犯の女は言い、現実の世界の不良少年の母親は復唱する……。

「佐川さんもいいとこ見逃しましたよ」政雄はまだ笑いつづけている。「見ればよかったのに。あれはマジで笑えましたよ」

浩は無言のまま冷ややかな軽蔑をこめて政雄を凝視した。窓から差し込む日ざしが壁際の政雄を照らし、黒いはずの髪が光を反射して金色に見える。浩はなおも凝視する。政雄はいつまでも笑い続ける。政雄が何気なく体の向きを変えようとすると光線がある微妙な角度を保って照射するわずかの間、政雄の全身からピアノ線より細かい無数の糸状のものが操り人形のように生えているのを浩はふと垣間見た気がした。

環七通りを真直ぐ走り続けていくうちに気がつくと高円寺の方まで来ていたので隼人はいささか驚いた。中央線に沿って進むとやがてサンプラザの白いビルが見えてくる。隼人はバイクを公園に停めて中野ブロードウェイに入り、本屋で立ち読みしたり喫茶店でコーヒーを飲んだりして時間を潰したが、ふとした気まぐれから中野通りを渡ってサンプラザの前を通ると“サイバネティック・スキゾイド”のポスターがたまたま目に入った。

今からの入場は立ち見になるという内容の書かれたプラカードが下がっている受付で当日券を買い、赤い絨毯が敷かれた長く広い階段を小走りで上がって行く。会場のドアを開けると脳細胞をかき回さんばかりの強烈な音響が隼人に襲いかかり、一瞬気おくれがした。立ち見の客がドアのところに何人も群がっていて、中に入るにはラッシュ時の電車に乗る要領で自分を体ごと押し込めなければならなかった。

歌っている陽子の姿が遠くの方にあるステージに小さく見出せた。周囲の若者たちは全員拳を振り上げ、ロックの二拍子に合わせてドアを強くノックするような動作を繰り返していた。色とりどりのレザリアムが目まぐるしく変化を続け、ステージを様々な角度から切り取るように照射したり暗闇の中に隠したりした。バンドの背後には巨大なパネルスクリーンが備え付けられ、白黒の昔の恐怖映画にカラフルなオリジナルのアニメーションがちぐはぐに編集されているという実験映画じみたアバンギャルドなフィルムが上映されている。作り物だと一目で分るメーキャップの巨人のフランケンシュタインが下手な演技でミニチュアのビルを破壊する不自然さが、むしろ最新のSFXを駆使した今のスプラッタ映画より不気味だと隼人は思った。

曲が終わると舞台は暗転し、拍手の余韻が冷めやらぬうちに今度は落ち着いたテンポのバラードが始まり、天井から吊り下げられたミラーボールが光線を乱反射させてステージを明るくした。陽子の奏でるポリフォニックシンセサイザーから透明な無重力感を帯びた音色のメロディーが流れ、カメラのシャッターを思わせる不思議な効果音がそれに和した。すると隣にいた知らない青年がなれなれしく肩を組んできたので驚いて周囲を見回すと、会場にいるほぼ全員が肩を組んで曲に合わせて体を左右に揺らしている。隼人はうんざりしたが仕方なく自分の左手をあつかましく肩を組んできた隣の青年の背にのせ、体を左右に揺らすと踊りに加わった。たかが音と映像の刺激だけでこんな風にいささかの自我の反発もなく単純に連帯意識を抱いてしまう彼らの軽薄さに生理的な嫌悪と軽蔑の入り混じった感情を覚えつつ、隼人は周囲に同化できない異端者の自分を誇らしくも孤独に思えた。

バラードが終わると陽子はマイクを持ち、拍手がやむのを待ってからしゃべり始めた。「みんなありがとう」陽子が額から汗を流しながらそう言うと、会場は短い拍手と歓声で埋まる。

「あたしの友達にE君っていう男の子がいるんだけど、彼はあるとき不思議なことを発見したの。大人になると人間の体には目に見えない糸が生えてきて、身動きが取れなくなっていく……。E君はそれをみんなに知らせるために自分でテレビ局を作って放送したんだけど、一体理解してくれた人は何人いたんでしょう。次の曲はそんなE君の孤独に捧げる『インビジブル・スレッド』」

サックスが空間を引き裂くような狂った音を無秩序に響かせ、それとは対照的にベースが規則正しいリズムを刻んでいく。途中からギターが入ってくると次第にサックスが形あるメロディーラインを作っていく。ドラムが緊迫感を高め、不意に爆発したように陽子のキーボードが重々しい主旋律を奏で始める。隼人は突然全身に火が流れるような歓喜の高揚を覚え、引き付けたように身を震わせた。隼人は興奮した。頬がほてってくるのを自覚した。リズムは更に激しく理性を吹き飛ばす勢いでドラムから掻き鳴らされ、隼人の脳細胞に直接響いた。曲は歌のないインストルメンタルだ。ステージの中央で巧みにキーボードを操っている女性を自分は知っている。少なくともこの会場にいる誰よりもよく知っているのだという思いが隼人の全身を閃光のように走った。これは俺の音楽だ。この狂おしいリズムは俺というたった一人の存在を謳歌するための野性の血だ。隼人は狂ったように上気してステージの方へ駆け出した。それは今まで心の中にくすぶっていた何かが発火し、勢いよく燃え上がったような爆発的な感触だった。隼人は自分がすっかり理性を失っていることを自覚しつつ、それでもなお走り続けた。舞台に駆け上がろうとすると背後から抗い難い力で引き戻され、気がつくと二人の警備員が両腕を押えていた。

「俺だ。陽子、会いに来た」

隼人は舞台に向かって声をかぎりに叫んだ。しかしその声はアンプから流れるギターに掻き消され、陽子の耳には届きようもなかった。警備員は力ずくで隼人を会場から連れ出した。

警備室でさんざん注意を受けた後、隼人はサンプラザを出て四谷のアパートに戻った。窓からコバルトブルーの光が夕方の薄暗い空間に浸透し、部屋の中の事物を青白く染めていた。冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぎ、一息で飲み干すと冷たい液体がゆっくりと喉を下がっていく感触がある。牛乳はどこか固形物を思わせた。唇を舐めてみるとこんなにも喉が渇いていたのかと驚かせるほどカサカサに干からびている。隼人はもう一杯牛乳を飲んだ。

明りをつけないままテレビのスイッチを入れてベッドに全身を投げ出し、徐々に体中に浸透してくる快い疲労に身を任せる。軽くうたた寝した後身体を起こし、テレビのチャンネルをいろいろ変えてみる。この時間はどの局でもニュースか天気予報をやっているらしい。だが海賊放送に関するニュースはどこにも見出せなかった。隼人はふと自分以外の何者かが突然海賊放送を始めるのではないかという考えに捉われる。ひょっとすると今すぐにでも目の前のニュースが流れているテレビから、地球征服を企むグリーンと人類から一切の自由を剥奪する透明な糸の神話について自分以外の何者かが音と映像のメッセージを送ってくるかもしれない。あるいはもっと別の神話について――それは第二次世界大戦で本当は同盟国側が勝利したのだが何らかの原因で連合国側が勝利したという偽の歴史を世界中の誰もが信じ込まされているという神話かもしれないし、地球は二十一世紀には住めない惑星になるので国連では秘密裏に生き延びるに値すると判断したエリートたちを火星に居住させているという神話かもしれないし、自我をもったAIが人類を支配する計画を詳細に計算し続けているという神話かもしれないが――自分の知らない誰かが語りかけてくるかもしれない。何が真実で何が倒錯か、誰がまともで誰が狂っているのか、そんなことははじめから分りはしない。重要なのは懐疑的に生きること、今まで信じてきたものをもう一度神経を集中させて凝視してみることだ。もし自分以外の何者かが海賊放送をまねたとしたら、それは自分のやった試みが成功だったということなのだろうか。それとも海賊放送を企てること自身が単なる透明な糸に支配された受動的な行為に過ぎなかったということなのだろうか。隼人はもしかすると自分にも透明な糸が生えているかもしれないと思い手足をさすってみたが、結局それだけではどちらとも分らなかった。

部屋の中は夕方の仄明るさから夜の闇へいつの間にか移行していた。静寂が支配する暗い部屋の中でテレビだけが生き物のように光と音を活発に発散し続ける。見慣れた車のコマーシャルが目に入る。隼人は立ち上がって電灯をつけ、窓のカーテンを閉めた。

テレビの画面では早朝の人気のない街中を白いボディーの車が徐行している。日の出間近の淡い明るさの中に浮かんだ街の光景を構成する空間が、車の形に歪曲されてボンネットとフロントガラスの表面をなめらかに流れていく。

隼人は大きく伸びをして再びベッドに腰かけた。最も通俗で取るに足らないはずのものの中に――ありふれたテレビのコマーシャルの中に、地下鉄の車内に貼られた褪せたポスターのコピーの中に、あるいはサイバネティック・スキゾイドのコンサートの最中にいきなり舞台に駆け上がろうとする狂気じみた動物的な衝動の中に――忌わしい透明な糸を断ち切る秘策としてのメッセージが、無味乾燥な日常の惰性に火花を散らす血の祈りが隠されている。あるいはメッセージを発信することそのものの中に、魂の呼吸を肌で感じながら人間が人間として生きるための最後の手掛りが残されている。

メッセージ――それは閃光のように美しく気高く、心の一番深いところまで届く研ぎ澄まされた啓示でなければならない。

隼人はなおもテレビを見続けながらその中に隠されたはずのメッセージについて、そして自分が再びメッセージを発信する手立てについていつまでも考えをめぐらしていた。

●図書カード

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