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我らの哲学
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我らの哲学
丘浅次郎
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Traducción Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 10 of 10

一〇 結論

以上はわれらのつねづね考えたことの中から二、三を選み出して、きわめて不完全に述べただけであるが、この文の初めにも断わっておいたとおり、他の人々の考えとは大いに異なったところがある。推理の出発点も、考えを進めてゆく方法も、従来の人々がいかにしていたかということには毫も頓着せず、ただ自分でこれがもっとも良いと思うところを採用した。一体哲学なるものは、すこぶる個人的のもので、十人寄れば十種もできるゆえ、他人の哲学と区別するためにはめいめい自分の哲学には何とか名をつける必要も生ずる。あたかもビールにキリンとか、エビスとか、アサヒとか、サッポロとかいちいち名がつけてあるごとくに、哲学にも、エンピリシズムとか、ラシオナリズムとか、プラグマチズムとか、インチュイショニズムとかさまざまな名がつけてあるが、要するに考え方によって、何とでも考えられるということに帰着する。われらは別に自分の考えと他人の考えとを比較して見る必要を感ぜぬが、われらのここに述べたことを読む人があるいはこれをもって、従来世間に知られていた何々論とか何々説とかの中のいずれかに属すると思うことがあるかもしれぬゆえ、少しばかりその特徴を明らかにしておく。

われらが神ありと信ずる必要がないというと、ある人はこれを無神論と名づけるかも知れぬ。むろんそれでもいっこう差支えはない。ただし、われらは神はあるかないかという問題を取り上げて、神ありと信ずべき証拠が充分でないと判定したわけではない。考えの出発点が違い、考えを進めてゆく方法が違うので、かような問題に出あわずにいるだけである。火事のあるときに煙を見れば方角だけは知れるが、距離が分からぬために、新宿の火事を江戸川辺かと思うたりすることが往々あるが、世間の人はとかく、自分の考えと一致せぬ考えを聞くと、ただちにこれを自分の考えと正反対の極端のところに位するものと勝手にきめて、そのつもりでしきりに弁駁することが多い。われらは神ありとか神なしとかいう議論には接触せず、ただ側から眺めているだけであるが、有神論者からは極端な無神論のごとくにみなされるであろう。

またわれらが霊魂ありと信ずるにおよばずというのを聞いて、ある人はこれを唯物論と名づけるかもしれぬ。これも前と同様で、われらはかく呼ばれてもいっこうにかまわぬ。ただしこの場合にもわれらは決して唯心論と唯物論とをくらべてみて、その中の唯物論のほうを採用したというわけではない。考えの出発点が違い、考えの方法が違うために唯心論か唯物論かのうち、いずれか一つをとらねばならぬというような境遇に立ちいたらぬゆえ、そのようなことを知らずにすましているだけである。またわれらが宇宙は二階造りとするにおよばずと説くのを聞いて、ある人はこれを一元論と名づけるかも知れぬ。もしもかような考え方を一元論と名づけるならば、われは一元論者であると言われることを決して拒絶せぬ。ただしわれらの一元論は、二元論を排斥して立った一元論ではなく、子供の心からそのままに延びてきた一元論であって、二元論と対立しているなどとは毫も思うていない。また一歩一歩誤りの入りきたることのないようにと十分に注意し、信ずべき証拠があると認めた上でなければ、考えを先へ進めぬという点では、実証論と見なされてもよろしい。また知り得ぬことは知らぬとしておく点では、不知論と名づけられてもよろしい。われらは哲学の一系統を造ったわけではなく、ただかようなところから出発し、かような方法によって進んだならば、一つ変わった哲学ができるであろうという考えを提出したに過ぎぬ。きわめて不充分な説き方ではあったが、もしもこれが、宇宙のことを深く考えてみようと欲する若い篤学者のためにいくぶんかの暗示ともならば、それでこの文を書いた目的は充分に達せられたわけである。

(大正十年四月)

●図書カード

Chapter 10 of 10
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