Chapter 1 of 4

一、大錦の皮肉

今度は相撲の稽古を思ひ立ち師匠には大錦卯一郎君を見立てた。何も素人の痩つぽちを弄くつて貰ふのに斯程の大力士を煩はさんでもよいのである。併し稽古の始めは大抵抛り出されて許り居るに決まつてる。同じ抛り出されるなら相手が無名の丸太ン棒であるよりは天下の横綱なる方が自尊心を傷ける程度が薄いといふものだ。大錦君は巡業の帰路上州高崎に居たのを訪うて志を申入れた。大錦君が失笑した。それでも承知して湯にも入れ晩餐も一しよに喰はうと言つて呉れた。新弟子にしては叮嚀過ぎた扱である。湯殿には雲突く許りの力士が二人裸に締込みして待受けて居た。少しギヨツとした。湯槽から上つて来る自分を掴へ石鹸を塗り小判型の刷毛で擦り始め自分は体量十五貫ある体格検査でも上の部だが側に相撲取りが寄ると誠に見栄えが無くなる。其のうち背中を共同で洗つて居た取的二人がつまらぬ争ひを始めた。『ヤーイわれの手をモツとねきへ寄せんかい、邪魔になつて洗やへん哩』『ねきへ寄つたら洗ふ処有らへん哩』『どだい、こんな小つこい背中へ二人かかるんのが阿呆やい、足へ廻れ/\』で弟弟子が脚へ廻つた。脚とても同様小つこくて洗ふ処があらへん訳だ。随つて暇潰しに同じ部分を擦る、痛い、それに脚の刷毛は背の刷毛よりも余程毛が硬相だ。夫も其筈一方のは横綱用の刷毛、一方はお客に使ふ素人用の刷毛だ。膚の触り具合から考へて此硬い/\刷毛を平気で受ける大錦君の皮膚は少くとも馬より丈夫で無ければならない。

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