思い出草
赤蜻蛉
私は麹町元園町一丁目に約三十年も住んでいる。その間に二、三度転宅したが、それは単に番地の変更にとどまって、とにかくに元園町という土地を離れたことはない。このごろ秋晴れの朝、巷に立って見渡すと、この町も昔とはずいぶん変ったものである。懐旧の感がむらむらと湧く。
江戸時代に元園町という町はなかった。このあたりは徳川幕府の調練場となり、維新後は桑茶栽付所となり、さらに拓かれて町となった。昔は薬園であったので、町名を元園町という。明治八年、父が初めてここに家を建てた時には、百坪の借地料が一円であったそうだ。
わたしが幼い頃の元園町は家並がまだ整わず、到るところに草原があって、蛇が出る、狐が出る、兎が出る、私の家のまわりにも秋の草が一面に咲き乱れていて、姉と一緒に笊を持って花を摘みに行ったことを微かに記憶している。その草叢の中には、ところどころに小さい池や溝川のようなものもあって、釣りなどをしている人も見えた。
蟹や蜻蛉もたくさんにいた。蝙蝠の飛ぶのもしばしば見た。夏の夕暮れには、子供が草鞋を提げて「蝙蝠来い」と呼びながら、蝙蝠を追い廻していたものだが、今は蝙蝠の影など絶えて見ない。秋の赤蜻蛉、これがまた実におびただしいもので、秋晴れの日には小さい竹竿を持って往来に出ると、北の方から無数の赤とんぼがいわゆる雲霞の如くに飛んで来る。これを手当り次第に叩き落すと、五分か十分のあいだに忽ち数十匹の獲物があった。今日の子供は多寡が二疋三疋の赤蜻蛉を見つけて、珍しそうに五人六人もで追い廻している。
きょうは例の赤とんぼ日和であるが、ほとんど一疋も見えない。わたしは昔の元園町がありありと眼の先に泛かんで、年ごとに栄えてゆく此の町がだんだんに詰まらなくなって行くようにも感じた。
茶碗
O君が来て古い番茶茶碗を呉れた。おてつ牡丹餅の茶碗である。
おてつ牡丹餅は維新前から麹町の一名物であった。おてつという美人の娘が評判になったのである。元園町一丁目十九番地の角店で、その地続きが元は徳川幕府の薬園、後には調練場となっていたので、若い侍などが大勢集まって来る。その傍に美しい娘が店を開いていたのであるから、評判になったも無理はない。
おてつの店は明治十八、九年頃まで営業を続けていたかと思う。私の記憶に残っている女主人のおてつは、もう四十くらいであったらしい。眉を落して歯を染めた、小作りの年増であった。聟を貰ったがまた別れたとかいうことで、十一、二の男の児を持っていた。美しい娘も老いておもかげが変ったのであろう、私の稚い眼には格別の美人とも見えなかった。店の入口には小さい庭があって、飛び石伝いに奥へはいるようになっていた。門のきわには高い八つ手が栽えてあって、その葉かげに腰をかがめておてつが毎朝入口を掃いているのを見た。汁粉と牡丹餅とを売っているのであるが、私の知っている頃には店もさびれて、汁粉も牡丹餅も余り旨くはなかったらしい。近所ではあったが、わたしは滅多に食いに行ったことはなかった。
おてつ牡丹餅の跡へは、万屋という酒屋が移って来て、家屋も全部新築して今日まで繁昌している。おてつ親子は麻布の方へ引っ越したとか聞いているが、その後の消息は絶えてしまった。
わたしの貰った茶碗はそのおてつの形見である。O君の阿父さんは近所に住んでいて、昔からおてつの家とは懇意にしていた。維新の当時、おてつ牡丹餅は一時閉店するつもりで、その形見と云ったような心持で、店の土瓶や茶碗などを知己の人々に分配した。O君の阿父さんも貰った。ところが、何かの都合からおてつは依然その営業をつづけていて、私の知っている頃までやはりおてつ牡丹餅の看板を懸けていたのである。
汁粉屋の茶碗と云うけれども、さすがに維新前に出来たものだけに、焼きも薬も悪くない。平仮名でおてつと大きく書いてある。わたしは今これを自分の茶碗に遣っている。しかし此の茶碗には幾人の唇が触れたであろう。
今この茶碗で番茶をすすっていると、江戸時代の麹町が湯気のあいだから蜃気楼のように朦朧と現われて来る。店の八つ手はその頃も青かった。文金高島田にやの字の帯を締めた武家の娘が、供の女を連れて徐かにはいって来た。娘の長い袂は八つ手の葉に触れた。娘は奥へ通って、小さい白扇を遣っていた。
この二人の姿が消えると、芝居で観る久松のような丁稚がはいって来た。丁稚は大きい風呂敷包みをおろして縁に腰をかけた。どこへか使いに行く途中と見える。彼は人に見られるのを恐れるように、なるたけ顔を隠して先ず牡丹餅を食った。それから汁粉を食った。銭を払って、前垂れで口を拭いて、逃げるようにこそこそと出て行った。
講武所ふうの髷に結って、黒木綿の紋付、小倉の馬乗り袴、朱鞘の大小の長いのをぶっ込んで、朴歯の高い下駄をがらつかせた若侍が、大手を振ってはいって来た。彼は鉄扇を持っていた。悠々と蒲団の上にすわって、角細工の骸骨を根付にした煙草入れを取り出した。彼は煙りを強く吹きながら、帳場に働くおてつの白い横顔を眺めた。そうして、低い声で頼山陽の詩を吟じた。
町の女房らしい二人連れが日傘を持ってはいって来た。かれらも煙草入れを取り出して、鉄漿を着けた口から白い煙りを軽く吹いた。山の手へ上って来るのはなかなかくたびれると云った。帰りには平河の天神さまへも参詣して行こうと云った。
おてつと大きく書かれた番茶茶碗は、これらの人々の前に置かれた。調練場の方ではどッと云う鬨の声が揚がった。焙烙調練が始まったらしい。
わたしは巻煙草を喫みながら、椅子に寄りかかって、今この茶碗を眺めている。かつてこの茶碗に唇を触れた武士も町人も美人も、皆それぞれの運命に従って、落着く所へ落着いてしまったのであろう。
芸妓
有名なおてつ牡丹餅の店が私の町内の角に存していたころ、その頃の元園町には料理屋も待合も貸席もあった。元園町と接近した麹町四丁目には芸妓屋もあった。わたしが名を覚えているのは、玉吉、小浪などという芸妓で、小浪は死んだ。玉吉は吉原に巣を替えたとか聞いた。むかしの元園町は、今のような野暮な町では無かったらしい。
また、その頃のことで私がよく記憶しているのは、道路のおびただしく悪いことで、これは確かに今の方がよい。下町は知らず、われわれの住む山の手では、商家でも店でこそランプを用いたれ、奥の住居ではたいてい行燈をとぼしていた。家によっては、店先にも旧式のカンテラを用いていたのもある。往来に瓦斯燈もない、電燈もない、軒ランプなども無論なかった。したがって、夜の暗いことはほとんど今の人の想像の及ばないくらいで、湯に行くにも提灯を持ってゆく。寄席に行くにも提灯を持ってゆく。おまけに路がわるい。雪どけの時などには、夜はうっかり歩けないくらいであった。しかし今日のように追剥ぎや出歯亀の噂などは甚だ稀であった。
遊芸の稽古所と云うものもいちじるしく減じた。私の子供の頃には、元園町一丁目だけでも長唄の師匠が二、三軒、常磐津の師匠が三、四軒もあったように記憶しているが、今ではほとんど一軒もない。湯帰りに師匠のところへ行って、一番唸ろうという若い衆も、今では五十銭均一か何かで新宿へ繰り込む。かくの如くにして、江戸っ子は次第に亡びてゆく。浪花節の寄席が繁昌する。
半鐘の火の見梯子と云うものは、今は市中に跡を絶ったが、わたしの町内にも高い梯子があった。或る年の秋、大嵐のために折れて倒れて、凄まじい響きに近所を驚かした。翌る朝、私が行ってみると、梯子は根もとから見事に折れて、その隣りの垣を倒していた。その頃には烏瓜が真っ赤に熟して、蔓や葉が搦み合ったままで、長い梯子と共に横たわっていた。その以来、わたしの町内に火の見梯子は廃せられ、そのあとに、関運漕店の旗竿が高く樹っていたが、それも他に移って、今では立派な紳士の邸宅になっている。
西郷星
かの西南戦役は、わたしの幼い頃のことで何んにも知らないが、絵草紙屋の店にいろいろの戦争絵のあったのを記憶している。いずれも三枚続きで、五銭くらい。また、そのころ流行った唄に、
紅い帽子は兵隊さん、西郷に追われて、
トッピキピーノピー。
今思えば十一年八月二十三日の夜であった。夜半に近所の人がみな起きた。私の家でも起きて戸を明けると、何か知らないがポンポンパチパチいう音がきこえる。父は鉄砲の音だと云う。母は心配する、姉は泣き出す。父は表へ見に出たが、やがて帰って来て、「なんでも竹橋内で騒動が起きたらしい。時どきに流れだまが飛んで来るから戸を閉めて置け。」と云う。わたしは衾をかぶって蚊帳の中に小さくなっていると、暫くしてパチパチの音も止んだ。これは近衛兵の一部が西南役の論功行賞に不平を懐いて、突然暴挙を企てたものと後に判った。
やはり其の年の秋と記憶している。毎夜東の空に当って箒星が見えた。誰が云い出したか知らないが、これを西郷星と呼んで、さき頃のハレー彗星のような騒ぎであった。しまいには錦絵まで出来て、西郷桐野篠原らが雲の中に現われている図などが多かった。
また、その頃に西郷鍋というものを売る商人が来た。怪しげな洋服に金紙を着けて金モールと見せ、附け髭をして西郷の如く拵え、竹の皮で作った船のような形の鍋を売る、一個一銭。勿論、一種の玩具に過ぎないのであるが、なにしろ西郷というのが呼び物で、大繁昌であった。私などは母にせがんで幾度も買った。
そのほかにも西郷糖という菓子を売りに来たが、「あんな物を食っては毒だ。」と叱られたので、買わずにしまった。
湯屋
湯屋の二階というものは、明治十八、九年の頃まで残っていたと思う。わたしが毎日入浴する麹町四丁目の湯屋にも二階があって、若い小綺麗な姐さんが二、三人居た。
わたしが七つか八つの頃、叔父に連れられて一度その二階に上がったことがある。火鉢に大きな薬罐が掛けてあって、そのわきには菓子の箱が列べてある。のちに思えば例の三馬の「浮世風呂」をその儘で、茶を飲みながら将棋をさしている人もあった。
時はちょうど五月の初めで、おきよさんという十五、六の娘が、菖蒲を花瓶に挿していたのを記憶している。松平紀義のお茶の水事件で有名な御世梅お此という女も、かつてこの二階にいたと云うことを、十幾年の後に知った。
その頃の湯風呂には、旧式の石榴口と云うものがあって、夜などは湯煙が濛々として内は真っ暗。しかもその風呂が高く出来ているので、男女ともに中途の階段を登ってはいる。石榴口には花鳥風月もしくは武者絵などが画いてあって、私のゆく四丁目の湯では、男湯の石榴口に水滸伝の花和尚と九紋龍、女湯の石榴口には例の西郷桐野篠原の画像が掲げられてあった。
男湯と女湯とのあいだは硝子戸で見透かすことが出来た。これを禁止されたのはやはり十八、九年の頃であろう。今も昔も変らないのは番台の拍子木の音。
紙鳶
春風が吹くと、紙鳶を思い出す。暮れの二十四、五日ごろから春の七草、すなわち小学校の冬季休業のあいだは、元園町十九と二十の両番地に面する大通り(麹町三丁目から靖国神社に至る通路)は、紙鳶を飛ばすわれわれ少年軍によってほとんど占領せられ、年賀の人などは紙鳶の下をくぐって往来したくらいであった。暮れの二十日頃になると、玩具屋駄菓子店などまでがほとんど臨時の紙鳶屋に化けるのみか、元園町の角には市商人のような小屋掛けの紙鳶屋が出来た。印半纒を着た威勢のいい若い衆の二、三人が詰めていて、糸目を付けるやら鳴弓を張るやら、朝から晩まで休みなしに忙がしい。その店には、少年軍が隊をなして詰め掛けていた。
紙鳶は種類もいろいろあったが、普通は字紙鳶、絵紙鳶、奴紙鳶で、一枚、二枚、二枚半、最も多いのは二枚半で、四枚六枚となっては子供には手が付けられなかった。二枚半以上の大紙鳶は、職人か、もしくは大家の書生などが揚げることになっていた。松の内は大供小供入り乱れて、到るところに糸を手繰る。またその間に娘子供は羽根を突く。ぶんぶんという鳴弓の声、かっかっという羽子の音。これがいわゆる「春の声」であったが、十年以来の春の巷は寂々寥々。往来で迂闊に紙鳶などを揚げていると、巡査が来てすぐに叱られる。
寒風に吹き晒されて、両手に胼を切らせて、紙鳶に日を暮らした三十年前の子供は、随分乱暴であったかも知れないが、襟巻をして、帽子をかぶって、マントにくるまって懐ろ手をして、無意味にうろうろしている今の子供は、春が来ても何だか寂しそうに見えてならない。
獅子舞
獅子というものも甚だ衰えた。今日でも来るには来るが、いわゆる一文獅子というものばかりで、ほんとうの獅子舞はほとんど跡を断った。明治二十年頃までは随分立派な獅子舞いが来た。まず一行数人、笛を吹く者、太鼓を打つ者、鉦を叩く者、これに獅子舞が二人もしくは三人附き添っている。獅子を舞わすばかりでなく、必ず仮面をかぶって踊ったもので、中にはすこぶる巧みに踊るのがあった。かれらは門口で踊るのみか、屋敷内へも呼び入れられて、いろいろの芸を演じた。鞠を投げて獅子の玉取りなどを演ずるのは、余ほどむずかしい芸だとか聞いていた。
元園町には竹内さんという宮内省の侍医が住んでいて、新年には必ずこの獅子舞を呼び入れていろいろの芸を演じさせ、この日に限って近所の子供を邸へ入れて見物させる。竹内さんに獅子が来たと云うと、子供は雑煮の箸を投り出して皆んな駈け出したものであった。その邸は二十七、八年頃に取り毀されて、その跡に数軒の家が建てられた。私が現在住んでいるのは其の一部である。元園町は年毎に栄えてゆくと同時に、獅子を呼んで子供に見せてやろうなどと云うのんびりした人は、だんだんに亡びてしまった。口を明いて獅子を見ているような奴は、いちがいに馬鹿だと罵られる世の中となった。眉が険しく、眼が鋭い今の元園町人は、獅子舞を見るべく余りに怜悧になった。
万歳は維新以後全く衰えたと見えて、わたしの幼い頃にも已に昔のおもかげはなかった。
江戸の残党
明治十五、六年の頃と思う。毎日午後三時頃になると、一人のおでん屋が売りに来た。年は四十五、六でもあろう、頭には昔ながらの小さい髷を乗せて、小柄ではあるが色白の小粋な男で、手甲脚絆のかいがいしい扮装をして、肩にはおでんの荷を担ぎ、手には渋団扇を持って、おでんや/\と呼んで来る。実に佳い声であった。
元園町でも相当の商売があって、わたしもたびたび買ったことがある。ところが、このおでん屋は私の父に逢うと互いに挨拶をする。子供心に不思議に思って、だんだん聞いてみると、これは市ヶ谷辺に屋敷を構えていた旗本八万騎の一人で、維新後思い切って身を落し、こういう稼業を始めたのだと云う。あの男も若い時にはなかなか道楽者であったと、父が話した。なるほど何処かきりりとして小粋なところが、普通の商人とは様子が違うと思った。その頃にはこんな風の商人がたくさんあった。
これもそれと似寄りの話で、やはり十七年の秋と思う。わたしが、父と一緒に四谷へ納涼ながら散歩にゆくと、秋の初めの涼しい夜で、四谷伝馬町の通りには幾軒の露店が出ていた。そのあいだに筵を敷いて大道に坐っている一人の男が、半紙を前に置いて頻りに字を書いていた。今日では大道で字を書いていても、銭を呉れる人は多くあるまいと思うが、その頃には通りがかりの人がその字を眺めて幾許かの銭を置いて行ったものである。
わたしらも其の前に差しかかると、うす暗いカンテラの灯影にその男の顔を透かして視た父は、一間ばかり行き過ぎてから私に二十銭紙幣を渡して、これをあの人にやって来いと命じ、かつ遣ったらば直ぐに駈けて来いと注意された。乞食同様の男に二十銭はちっと多過ぎると思ったが、云わるるままに札を掴んでその店先へ駈けて行き、男の前に置くや否や一散に駈け出した。これに就いては、父はなんにも語らなかったが、おそらく前のおでん屋と同じ運命の人であったろう。
この男を見た時に、「霜夜鐘」の芝居に出る六浦正三郎というのはこんな人だろうと思った。その時に彼は半紙に向って「……茶立虫」と書いていた。上の文字は記憶していないが、おそらく俳句を書いていたのであろう。今日でも俳句その他で、茶立虫という文字を見ると、夜露の多い大道に坐って、茶立虫と書いていた浪人者のような男の姿を思い出す。江戸の残党はこんな姿で次第に亡びてしまったものと察せられる。
長唄の師匠
元園町に接近した麹町三丁目に、杵屋お路久という長唄の師匠が住んでいた。その娘のお花さんと云うのが評判の美人であった。この界隈の長唄の師匠では、これが一番繁昌して、私の姉も稽古にかよった。三宅花圃女史もここの門弟であった。お花さんは十九年頃のコレラで死んでしまって、お路久さんもつづいて死んだ。一家ことごとく離散して、その跡は今や阪川牛乳店の荷車置場になっている。長唄の師匠と牛乳屋、おのずからなる世の変化を示しているのも不思議である。
お染風
この春はインフルエンザが流行した。
日本で初めて此の病いがはやり出したのは明治二十三年の冬で、二十四年の春に至ってますます猖獗になった。われわれは其の時初めてインフルエンザという病いを知って、これはフランスの船から横浜に輸入されたものだと云う噂を聞いた。しかし其の当時はインフルエンザと呼ばずに普通はお染風と云っていた。なぜお染という可愛らしい名をかぶらせたかと詮議すると、江戸時代にもやはりこれによく似た感冒が非常に流行して、その時に誰かがお染という名を付けてしまった。今度の流行性感冒もそれから縁を引いてお染と呼ぶようになったのだろうと、或る老人が説明してくれた。
そこで、お染という名を与えた昔の人の料簡は、おそらく恋風と云うような意味で、お染が久松に惚れたように、すぐに感染するという謎であるらしく思われた。それならばお染に限らない。お夏でもお俊でも小春でも梅川でもいい訳であるが、お染という名が一番可憐らしくあどけなく聞える。猛烈な流行性をもって往々に人を斃すような此の怖るべき病いに対して、特にお染という最も可愛らしい名を与えたのは頗るおもしろい対照である、さすがに江戸っ子らしいところがある。しかし、例の大コレラが流行した時には、江戸っ子もこれには辟易したと見えて、小春とも梅川とも名付け親になる者がなかったらしい。ころりと死ぬからコロリだなどと知恵のない名を付けてしまった。
すでに其の病いがお染と名乗る以上は、これにりつかれる患者は久松でなければならない。そこで、お染の闖入を防ぐには「久松留守」という貼札をするがいいと云うことになった。新聞にもそんなことを書いた。勿論、新聞ではそれを奨励した訳ではなく、単に一種の記事として、昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、それがいよいよ一般の迷信を煽って、明治二十三、四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙札を軒に貼り付けることが流行した。中には露骨に「お染御免」と書いたのもあった。
二十四年の二月、私は叔父と一緒に向島の梅屋敷へ行った。風のない暖い日であった。三囲の堤下を歩いていると、一軒の農家の前に十七、八の若い娘が白い手拭をかぶって、今書いたばかりの「久松るす」という女文字の紙札を軒に貼っているのを見た。軒のそばには白い梅が咲いていた。その風情は今も眼に残っている。
その後にもインフルエンザは幾たびも流行を繰り返したが、お染風の名は第一回限りで絶えてしまった。ハイカラの久松にりつくには、やはり片仮名のインフルエンザの方が似合うらしいと、私の父は笑っていた。そうして、その父も明治三十五年にやはりインフルエンザで死んだ。
どんぐり
時雨のふる頃となった。
この頃の空を見ると、団栗の実を思い出さずにはいられない。麹町二丁目と三丁目との町ざかいから靖国神社の方へむかう南北の大通りを、一丁ほど北へ行って東へ折れると、ちょうど英国大使館の横手へ出る。この横町が元園町と五番町との境で、大通りの角から横町へ折り廻して、長い黒塀がある。江戸の絵図によると、昔は藤村なにがしという旗本の屋敷であったらしい。私の幼い頃には麹町区役所になっていた。その後に幾たびか住む人が代って、石本陸軍大臣が住んでいたこともあった。板塀の内には眼隠しとして幾株の古い樫の木が一列をなして栽えられている。おそらく江戸時代からの遺物であろう。繁った枝や葉は塀を越えて往来の上に青く食み出している。
この横町は比較的に往来が少ないので、いつも子供の遊び場になっていた。わたしも幼い頃には毎日ここで遊んだ。ここで紙鳶をあげた、独楽を廻した。戦争ごっこをした、縄飛びをした。われわれの跳ねまわる舞台は、いつもかの黒塀と樫の木とが背景になっていた。
時雨のふる頃になると、樫の実が熟して来る。それも青いうちは誰も眼をつけないが、熟してだんだんに栗のような色になって来ると、俗にいう団栗なるものが私たちの注意を惹くようになる。初めは自然に落ちて来るのをおとなしく拾うのであるが、しまいにはだんだんに大胆になって、竹竿を持ち出して叩き落す、あるいは小石に糸を結んで投げつける。椎の実よりもやや大きい褐色の木の実が霰のようにはらはらと降って来るのを、われ先にと駈け集まって拾う。懐ろへ押し込む者もある。紙袋へ詰め込む者もある。たがいに其の分量の多いのを誇って、少年の欲を満足させていた。
しかし白樫は格別、普通のどんぐりを食うと唖になるとか云い伝えられているので、誰も口へ入れる者はなかった。多くは戦争ごっこの弾薬に用いるのであった。時には細い短い竹を団栗の頭へ挿して小さい独楽を作った。それから弥次郎兵衛というものを作った。弥次郎兵衛という玩具はもう廃ったらしいが、その頃には子供たちの間になかなか流行ったもので、どんぐりで作る場合には先ず比較的に拉の大きいのを選んで、その横腹に穴をあけて左右に長い細い竹を斜めに挿し込み、その竹の端には左右ともに同じく大きい団栗の実を付ける。で、その中心になった団栗を鼻の上に乗せると、左右の団栗の重量が平均してちっとも動かずに立っている。無論、頭をうっかり動かしてはいけない、まるで作りつけの人形のように首を据えている。そうして、多くの場合には二、三人で歩きくらべをする。急げば首が動く。動けば弥次郎兵衛が落ちる。落ちれば負けになるのである。ずいぶん首の痛くなる遊びであった。
どんぐりはそんな風にいろいろの遊び道具をわれわれに与えてくれた。横町の黒塀の外は、秋から冬にかけて殊に賑わった。人家の多い町なかに住んでいる私たちに取っては、このどんぐりの木が最も懐かしい友であった。
「早くどんぐりが生ればいいなあ。」
私たちは夏の頃から青い梢を見上げていた。この横町には赤とんぼも多く来た。秋風が吹いて来ると、私たちは先ず赤とんぼを追う。とんぼの影がだんだんに薄くなると、今度は例のどんぐりに取りかかる。どんぐりの実が漸く肥えて、褐色の光沢が磨いたように濃くなって来ると、とかくに陰った日がつづく。薄い日が洩れて来たかと思うと、又すぐに陰って来る。そうして、雨が時々にはらはらと通ってゆく。その時には私たちはあわてて黒塀のわきに隠れる。樫の技や葉は青い傘をひろげて私たちの小さい頭の上を掩ってくれる。雨が止むと、私たちはすぐに其の恩人にむかって礫を投げる。どんぐりは笑い声を出してからからと落ちて来る。湿れた泥と一緒につかんで懐ろに入れる。やがてまた雨が降って来る。私たちは木の蔭へまた逃げ込む。
そんなことを繰り返しているうちに、着物は湿れる、手足は泥だらけになる。家へ帰って叱られる。それでも其の面白さは忘れられなかった。その樫の木は今でもある。その頃の友達はどこへ行ってしまったか、近所にはほとんど一人も残っていない。
大綿
時雨のふる頃には、もう一つの思い出がある。沼波瓊音氏の「乳のぬくみ」を読むと、その中にオボーと云う虫に就いて、作者が幼い頃の思い出が書いてあった。蓮の実を売る地蔵盆の頃になると、白い綿のような物の着いている小さい羽虫が町を飛ぶのが怖ろしく淋しいものであった。これを捕える子供らが「オボー三尺下ンがれよ」という、極めて幽暗な唄を歌ったと記してあった。
作者もこのオボーの本名を知らないと云っている。わたしも無論知っていない。しかし此の記事を読んでいるうちに、私も何だか悲しくなった。私もこれによく似た思い出がある。それが測らずも此の記事に誘い出されて、幼い昔がそぞろに懐かしくなった。
名古屋の秋風に飛んだ小さい羽虫とほとんど同じような白い虫が東京にもある。瓊音氏も東京で見たと書いてあった。それと同じものであるかどうかは知らないが、私の知っている小さい虫は俗に「大綿」と呼んでいる。その羽虫は裳に白い綿のようなものを着けているので、綿という名をかぶせられたものであろう。江戸時代からそう呼ばれているらしい。秋も老いて、むしろ冬に近い頃から飛んで来る虫で、十一月から十二月頃に最も多い。赤とんぼの影が全く尽きると、入れ替って大綿が飛ぶ。子供らは男も女も声を張りあげて「大綿来い/\飯食わしょ」と唄った。
オボーと同じように、これも夕方に多く飛んで来た。殊に陰った日に多かった。時雨を催した冬の日の夕暮れに、白い裳を重そうに垂れた小さい虫は、細かい雪のようにふわふわと迷って来る。飛ぶと云うよりも浮かんでいると云う方が適当かも知れない。彼はどこから何処へ行くともなしに空中に浮かんでいる。子供らがこれを追い捕えるのに、男も女も長い袂をあげて打つのが習いであった。
その頃は男の児も筒袖は極めて少なかった。筒袖を着る者は裏店の子だと卑しまれたので、大抵の男の児は八つ口の明いた長い袂をもっていた。私も長い袂をあげて白い虫を追った。私の八つ口には赤い切が付いていた。
それでも男の袂は女より短かった。大綿を追う場合にはいつも女の児に勝利を占められた。さりとて棒や箒を持ち出す者もなかった。棒や箒を揮うには、相手が余りに小さく、余りに弱々しいためであったろう。
横町で鮒売りの声がきこえる。大通りでは大綿来い/\の唄がきこえる。冬の日は暗く寂しく暮れてゆく。自分が一緒に追っている時はさのみにも思わないが、遠く離れて聞いていると、寒い寂しいような感じが幼い心にも沁み渡った。
日が暮れかかって大抵の子供はもう皆んな家へ帰ってしまったのに、子守をしている女の児一人はまだ往来にさまよって「大綿来い/\」と寒そうに唄っているなどは、いかにも心細いような悲しいような気分を誘い出すものであった。
その大綿も次第に絶えた。赤とんぼも昔に較べると非常に減ったが、大綿はほとんど見えなくなったと云ってもよい。二、三年前に靖国神社の裏通りで一度見たことがあったが、そこらにいる子供たちは別に追おうともしていなかった。外套の袖で軽く払うと、白い虫は消えるように地に落ちた。わたしは子供の時の癖が失せなかったのである。(明治43・11俳誌「木太刀」、その他)