Chapter 1 of 1

Chapter 1

兄さんの打った球が、やぶの中へ飛び込むたびに辰夫くんは、草を分けてそれを拾わせられたのです。

「なんでも、あのあたりだよ。」と、兄の政二くんは指図をしておいて、自分は、またお友だちとほかの球で野球をつづけていました。

「困ったなあ。」と、思っても、しかたがなかったので、辰夫くんは、しげった草を分けて、ボールをさがしにやぶの中へ入りました。

さっきまで、はるぜみが、どこかで鳴いていました。その声が、ぴたりと止まってしまいました。

「あの、やさしい声のはるぜみをつかまえたいな。」と、思いました。そして、背の高い草を分けて、下の方を見ると、そこには、不思議な、静かな緑色の世界があって、土には、きれいな帽子をかぶった茸がはえていますし、葉の上には、花びらのついているように、珍しい蛾が休んでいますし、また生まれたばかりの、おはぐろとんぼが、うすい、すきとおる羽をひらひらさして飛んでいますし、青い、青い色をした、きりぎりすのような虫もいますし、よく見ると、名を知らない草が、かわいらしい花を咲かしたりしていました。

「きれいだなあ。」と、辰夫くんは、ボールを探すことも忘れて、はじめて気のついた、異った世界の景色に、うっとりと見とれたのです。そして、じっとそこにうずくまって、

「僕も、お仲間に入れてくれない?」と、いいますと、蛾は相談をしにいくのか、ちらちらと飛んで、あっちのしげみに入ってゆきました。すると、おはぐろとんぼも、あわてて逃げ出しそうにしましたから、

「僕は、生まれたばかりの、君なんかつかまえはしないよ。」と、辰夫くんは、おはぐろとんぼを呼びとめました。

おはぐろとんぼは、はじめて安心したように、大きな目をくるくるさせて、

「いま、蛾さんが帰ってきますから、すこしお待ちください。」と、いって、自分は、大きな葉の蔭に姿を隠してしまいました。

たぶん、蛾がいって相談したのでありましょう。ジイー、ジイーといって、すぐ近くで、はるぜみの鳴く声がしました。

「いいなあ、僕こんなところに、いつまでもじっとしていたいな。」と、辰夫くんは、思いました。そして、もう、ボールなど探しに入って、この小さいお友だちを驚かしたりしたくはなかったのです。

このとき、兄の政二くんのかけてくる足音がして、

「辰夫、まだ見つからない?」と、いいましたので、辰夫くんは、

「見つからないよ。」と答えました。

「おかしいな。」と、いって、政二くんは、大きなくつで、草の上を遠慮なしに踏んで入ってきました。虫たちは、どんなに驚いたかしれません。たちまち大騒ぎとなりました。

「なければ、いいよ。もうお昼だから、お家へ帰ろう。」と、政二くんは、いって、やぶの中から出ました。辰夫くんも、つづいて出ました。

「兄さん、午後から釣りにいくの?」と辰夫くんはききました。

「いくかもしれない。」

「つれていってね。」

しかし兄さんはだまっていました。ご飯を食べてしまうと、政二くんは、釣りざおを出して用意をしました。

「兄さん、僕もつれていってね。」と、辰夫くんは、また頼んだのです。

「みみずを取っておいで、つれていってやるから。」

辰夫くんは、すぐにみみずを取りにいきました。しばらくするとぼんやりと帰ってきて、

「どこにも、みみずはいないよ。」と、いいました。

「じゃ、つれていかない。」と、政二くんがいいました。

辰夫くんは、泣き出してしまいました。天気がつづいて、みみずのいそうなところを探してもいなかったのでした。

さっきから、このようすを見ていたお姉さんは、

「なんで、そんな意地悪をするんですか。釣りにいくときは、道具をみんな小さな弟に持たせるくせに、機嫌よくつれていかれないのですか?」と、政二くんにおっしゃいました。

「いっても、じきに帰るというから、いやなのだよ。」と、政二くんは、答えました。

「うそだい、僕に、さおを一本も貸してくれないんだもの、僕つまらないから、帰るといったんだよ。」

「なぜ、一本ぐらいさおを貸してやらないのです。」

「釣れはしないんだ。ただ、針を引っかけて糸を切ってしまうばかりだもの。」

こう、政二くんがいうと、辰夫くんは顔を赤くして、

「だれが、もうボールなど拾ってやるものか。」といいました。

「だれが、釣りになど、つれていってやるものか。」と、政二くんがいいました。

「辰夫さん、つれていってもらわなくても、晩に、お姉さんが、夜店へつれていってあげるから。」と、お姉さんがおっしゃいました。

辰夫くんの機嫌は、すぐに直ってしまいました。兄さんたちが、釣りにいった後で、原っぱで、ほかのお友だちと遊びながら、晩になるのを楽しみに待っていました。晩になりました。政二くんはお姉さんと辰夫くんが出かけるのを見ても、やせ我慢をして、つれていってくれといいませんでした。

「辰夫、金魚を買ってもらってこいよ。」と、ただ一言、政二くんは、いったきりです。

辰夫くんとお姉さんは、明るい金魚屋の前へ立ちました。たくさんの色とりどりの金魚が浅いおけの中で泳いでいました。

「まあきれいなこと。」と、お姉さんはおっしゃいました。しかし、ほんとうなら、日が暮れると、すべての魚たちは、水草の蔭に隠れて、じっとして眠るのであるが、この金魚たちは電燈の光に照らされて、子供らの出す、さおの先についている針に追いまわされているのでした。

「辰夫さん、あんたも釣ってごらんなさい。」と、お姉さんはおっしゃいました。

辰夫くんは、無理やりに、針の先にひっかけて、金魚を釣る気になれなかったのです。

「かわいそうだもの、僕、金魚をほしくないよ。」といって、辰夫くんは、その前からはなれたのでした。

「せっかくきて、つまらないじゃないの、なにかほかのものを買ってあげましょうか。」と、お姉さんはおっしゃいました。

二人は、並んだ店を見ながら、歩いていました。

「あれは、なんですか?」

「海ほおずきよ、きれいですね。」

「僕、あんなの、ほしいけど。」

「女の子の持つものよ。」

「買っては、おかしい?」

「おほほほ、ほしければ、私が買ってあげますから。」

「僕、ここに待っているよ。お姉さん、買ってきておくれ。」と、辰夫くんはいいました。

「まあ、恥ずかしがりやね、そんならここに待っていらっしゃい。」と、いって、お姉さんは、海ほおずきを売る店の前へいかれました。

辰夫くんは、今日、やぶの中で見た、不思議な世界のことを思い出していました。

貝がらのような蛾、赤い茸、おはぐろとんぼ、いい声で唄をうたうはるぜみなど。そして、またこの海ほおずき。なんという美しいことであろう。しかし、金魚を買わずに、海ほおずきを買って帰ったら、きっとお兄さんが笑うとは思ったけれど、辰夫くんは、やはり、金魚をいじめたくなかったのでした。

●図書カード

Chapter 1 of 1