Chapter 1 of 1

Chapter 1

荷物を背中に負って、薬売りの少年は、今日も知らぬ他国の道を歩いていました。北の町から出た行商群の一人であったのです。

霜解けのした道は、ぬかるみのところもあるが、もう日の光に乾いて、陽炎の上っているところもありました。村はずれに土手があって、大きな木が立っていました。かさのように枝を空へ拡げていました。

「なんの木だろうな。」

少年は、よくこうした景色を見るのです。ゆくところ、どこにも同じような村があり、人が住んで、笑ったり、怒ったりしていると思うと、なんとなくこのあたりの風景を見てもなつかしいのでした。そしてここにはもう春がきていて、木の下には、青い草が芽ぐみ、紫色のすみれの花さえ咲いているのが、目の中に入ったのです。

少年は思わず、故郷の方を振り返りました。青空遠く雲は流れていて、もとよりその方角すらたしかでなかったが、曇り日がつづき、冷たい雪が降っていることと思われました。彼は、青草の上へ腰をおろそうとしたが、そばに小さな茶店があるのに気づいたので、さっそく入って腰掛けへ休みました。

「いらっしゃいまし。」と、おかみさんが、愛想よくお茶を注いでくれました。

「この村へ、薬屋がやってきますか。」と、少年は、たずねたのであります。

「あなたは、お薬屋さんですね?」と、おかみさんは、少年を見ました。

「そうです。どんな薬でも持っています。今年置いてゆきまして、来年またまいりましたときに、お使いになった薬のお代をいただくのですが、どうか、ここへも一つ置かしてくださいませんか。」といって、薬売りの少年は、頼みました。少年は、おかみさんが、どういうだろうかと心配しながら返答を待ちました。

「よろしゅうございますよ。このへんは、町へ出るには遠いし、お医者さまもいない、まことに不便なところですから、万一の場合に困ってしまいます。私の家ばかりでなく、きっと喜ぶ家がありますから、このへんをお歩きになってごらんなさい。」と、おかみさんは、しんせつにいってくれました。少年は、いいところへきたと思って、たいそう喜びました。

「こちらは、暖かでいいところでございますね。」

少年の目には、おかみさんから、やさしい言葉を受けたので、土地までが、和やかな慕わしいものに感じられたのでした。

「気候はいいが、さびしいところですよ。」

行商人は、かえって汽車などの通らないところ、町のないところ、不便なところほど、得意を造るのに都合がいいとされていましたので、少年とて、不便やさびしいということは、覚悟でありました。ただ、こうして歩いていて、ありがたくも、うれしくも、また悲しくもしみじみと感ずるのは、人の情けであると思いました。

少年は、その茶店から出て、おかみさんに教えられた道の方へ、荷を負って、とぼとぼと歩みをつづけたのです。

松原へつづいている小道で、一人の少女がしきりに下を向いて、なにかさがしていました。

「この松原の奥にもお家がありますか?」といって、薬売りの少年は、たずねたのです。女の子は、両手についた砂をはらって、少年の顔を見ました。

「ええ、ずっと奥の、がけの上に一軒家があってよ。」といいました。

「一軒きりですか?」

「ええ、一軒だけ、そして、たった一人だけ住んでいるの。」

「一人だけですか……。」

「先生が一人住んでいるの、変わった人なの。」

「どんなに変わっていますか?」

「そうね、よく知らないわ。おもしろい人ね。」

少女は、笑って、こう答えると、また下を向いて、なにか草をさがしていました。

「嫁菜をつんでいるのですか?」と、少年は、道ばたの青い草を見ました。

「いいえ、おんばこをさがしているの。」と、少女は、答えたのです。

「おんばこをさがして、なんになさるのですか。」と、少年は、ききました。

「せきのお薬にするのよ。兄さんが、せきをしてなおらないのですもの。」

「ああ、せきの薬ですか、せきのお薬なら、私がたいへんきくよい薬を持っています。」と、少年は、いいました。すると、少女は、驚いたふうで、少年をながめました。

「あんた、お薬屋さん?」

「ええ、私は、薬屋ですよ。いい薬を持っています。あなたのお家はどこですか?」と、少年は、いったのでありました。

「おじいさんに聞いてみるわ。私の家はあすこなのよ。」と、少女は、先になって、小道を走っていきました。薬売りの少年は、すこしおくれて従いていくと、

「おじいさん、お薬屋さんをつれてきた。」と、いう声がきこえたのでした。その家の周囲は、桃の木の林になっていました。鶏小舎があって、鶏がのどかな声でないていました。おじいさんの前へいってあいさつすると、

「年の若い薬屋さんだな、いくつになるかな。おお、うちの孫より五つは多いが、感心なこった。孫もその年になったら、独りで船に乗って、父親のいるハワイへいくことができるだろう。孫も、かぜをひいて、せきがなかなかしつこくて困っているが、よくきく薬があったらもらって、すぐ飲ましましょう。」と、おじいさんは、かわいい孫のことで、心がいっぱいだったのです。

薬売りの少年は、荷を下ろして、薬を出す間にも、自分にもこんなやさしいおじいさんがあったらば、と思われるのでした。

「このお薬をあげてください。せきによくききますから。」

この声をききつけて、臥ている男の子は、

「ありがとう。」と、薬売りの少年の方を向いて、お礼をいいました。まくらもとの壁には父親がいっている、ハワイの風景の写真が貼られていました。

「坊ちゃん、早くなおってください。」と、少年がいいました。

「また、来年きてください。僕、待っているから。」と、臥ている、男の子がいいました。

「きっと、まいりますよ。」

少年は、振り返って、あいさつしながら、出ていくと、後ろ姿を少女とおじいさんが見送っていて、

「気をつけて。」と、おじいさんが、いってくれました。

少年が、がけの上にあるという、一軒家をたずねていったのであります。それが、自分の職業であるうえは、たとえ一軒といっても捨ててしまうわけにはいきませんでした。小さな門があって、開けると、二、三人の子供が花壇のところで、遊んでいました。南の海から吹く風が暖かなせいか、もう、ヒヤシンスが咲き、すいせんや、フリージアなどが咲いていました。

「だれかきた。」と、一人の子供が、いいました。

「いま、先生は、お留守ですよ。」と、他の子供が、少年を見ていいました。

「薬売りですが、お留守ですか。」と、少年は、いって、恍惚として、かなたに輝く青い海をながめたのです。

「カナリヤにやる、はこべを採りにいらしたのだからすぐお帰りになるわ。」と、女の子がいいました。

「いい景色ですね。」と、思わず口に出して、薬売りの少年は、がけっ鼻の方へ歩きました。

「この家は、あぶないのだよ。先生は、変人だから、人の住まない家に住んでいるのだ。」と、一人の子供が、いいました。薬売りの少年は、おんばこを摘んでいた少女が、いった言葉を思い出したのです。

「どうして、変人なんですか?」

「だって、がんこなんだもの、人があぶないといっても平気でいるからさ。けれど、先生は、僕たち子供だけはかわいがってくれるよ。」

「いい人ではありませんか?」

「それは、いい人さ。けれど、大風が吹いたり、地震があったりしたら、この家は、がけがくずれてひっくり返るかもしれん。そうすれば、僕たち安心して、本を習うこともできないだろう。」と、子供が、いいました。

薬売りの少年は、下を見るとはるかに波が岩に砕け、日の光が射して、美しい虹を描いています。なるほど、がけの下まで、土は削り落とされて、五色に彩られた潮の匂う海が迫っていました。汽船がいくとみえて水平線に、一抹の煙が上り、沖の小島には、夜になると煌々として光を放つ燈台が、白い塔のようにかすんでいます。

「あれは、燈台ですか?」

「そうだよ、あの燈台の明かりは、先生のお家の座敷へ入るのだよ。」

「坊ちゃんたちは、日本海の冬の海を知らないでしょう。それは、すごいですよ。」と、薬売りの少年がいいました。

「そうかい、そんなにすごいかい。けれど、台風がくるのは、たいていあちらの南の方からだぜ。そのときは、大きな風が吹いて、波も高いのだよ。」

「なるほど、台風がきますね。」

少年は、沖の方を見て、茫然としていますと、そこへ、先生が片手にはこべを持って、門を開けて入ってきました。

「おまえは?」

先生は、けげんな顔をして、少年の前に立ちました。

「私は、薬売りですが、この後ごひいきにしていただこうと上がりました。」と、少年は頭を下げました。

「ここには、病気にかかる人はいないよ。」と、先生はそっけなくいって断りました。

「でも、万一ということがあります。どうか一袋置かしていただきます。」と、少年はもう一度頭を下げました。

「薬など置いていかれると、病気を引き起こすようなものだ。いらないからさっさと帰ってくれ。」と、先生は少年をしかりつけるようにいいました。薬売りの少年は、なるほどがんこな人だと思いました。そして、こういう人は、話し相手もなく独りぼっちでいて、どんなに寂しかろうと想像されたので、

「お一人でいらしって、お心細いことはありませんか。」と、少年は、いったのでした。

「なんの、さびしいことがあるものか。人の声を聞きたいと思えばラジオがあるし、カナリヤは、一日じゅうこの窓でさえずっているし、ここは、前が海だから、台湾、上海、ハワイ、どこのラジオも手に取るように入ってくるのだ。」と、先生は、海原を見やって、誇らしげに語ったのです。

「ハワイからのラジオも聞こえますか?」

「夜の十時ごろには、手に取るようによく聞こえる。」

先生は、はこべをカナリヤにやろうとして窓のところへ近づきました。

「あ、カナリヤの足から血が出ていますよ。」と、薬売りの少年は、おどろいて、叫びました。

「ねずみか、からすにやられたとみえる。このあたりに、悪いからすがいるからな。」

先生は、案外カナリヤの痛々しい傷を見ても平気でした。

「かわいそうに。」

少年は、こういって、荷物の中から、傷薬を取り出しました。

「おい、薬なんかいらないよ。」

「いえ、お代をいただくのではありません。ちょっとこれをつけてやってください。」

少年が、白い塗り薬を出すと、

「おまえは、なかなか感心だ。」と、先生は、機嫌がよかったのです。少年が、ここから去ろうとすると、

「お薬屋さん、また来年くるの?」と、子供たちは、少年を取りまいてききました。

「あの、桃の木のある家へまいりますよ。」

「あ、重ちゃんの家だ。」

子供たちは、なんと思ったか、喜んで、手をたたきました。

「もしきたら、ここへもお寄り。」と、先生が、いいました。

「みんなが、あぶないといいますから、早くこの家をお移しなさい。」と、少年がいうと、

「はっ、はっ。」と、先生が、笑いました。

●図書カード

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