Chapter 1 of 1

Chapter 1

土曜日の晩でありました。

お兄さんも、お姉さんも、お母さんも、食卓のまわりで、いろいろのお話をして、笑っていらしたときに、いちばん小さい政ちゃんが、

「ぼく、きょうペスを見たよ。」と、ふいに、いいました。

すると、みんなは、一時にお話をやめて、政ちゃんの顔を見ました。

「政ちゃん、ほんとうかい。」と、正ちゃんが叫びました。

「ほんとうに、見たよ。」と、政ちゃんは、まじめくさって答えました。

「まあ、逃げてきたんでしょうか?」と、姉さんは、おどろいた顔つきをなさいました。

「ペスなら、逃げてきたんでしょう。よく逃げてこられたものね。」と、お母さんは感心なさいました。

「ペスでない、きっとほかの犬だよ。政ちゃんは、なにを見たのかわかりゃしない。」と、いちばん上の達ちゃんが、いいますと、

「うそかい、ぼく、ほんとうに、見たんだから。」と、政ちゃんは、目をまるくしました。

みんなが、そう疑うのも、無理はありません。昔から、犬殺しにつれられていって、帰ってきた犬は、めったにないからです。

「お母さん、ほんとうでしょうか。ペスだったら、いいけど。」と、お姉さんは、いいました。

「ペスだったら、うちで、飼ってやろうね。」と、正ちゃんがいいました。

「印刷屋の犬じゃないか。」

「だって、あすこでは、もうかまわないのだもの、どこのうちの犬でもないだろう。」

お兄さんたちは、この後、ペスをどうしてかばってやったらいいかと議論をしました。

「まだ、ほんとうに、ペスかどうか、わかりゃしないじゃないの。」と、お姉さんが、いいますと、お母さんは、ぼんやりとして、お兄さんたちの話をきいている、政ちゃんをごらんになって、

「もう、政ちゃんは、ねむいんでしょう。きっとペスの帰ってきた、夢でも思い出して、いったのでしょう。」と、笑いながら、おっしゃいました。

「あるいは、そんなことかもしれん。」と、いままでペスの今後の相談をしていた、達ちゃんと正ちゃんは、そのほうの話を中止して、もっと、くわしいことを知るために、

「政ちゃん、どこで、ペスを見たんだい。」と、まず正ちゃんは、たずねました。

「橋のところで、遊んでいて、見たんだよ。」

「政ちゃん、ひとりしか、ペスを見なかった?」と、正ちゃんは、さらに、ききました。

「健ちゃんも、徳ちゃんも、みんな見たから……。」と、政ちゃんは、疑われるのが、不平でたまらなかったのです。

「じゃ、明日、徳ちゃんなんかにきいてみるよ。うそなんかいったら、承知しないから。」と、正ちゃんが、いいますと、

「なにも、怒ることはないでしょう。」と、お姉さんが、正ちゃんをにらみました。

「だって、うそをつくことは、わるいことじゃないか。」

「うそをつこうと思っていったのでない。まちがいということは、あるもんでしょう。」と、お姉さんが、おいいなさると、

「まちがいじゃない、ほんとうに、ペスだったよ。」と、政ちゃんは、頭を振って、がんばりました。

お母さんも、お姉さんも、政ちゃんの、いつにない真剣なようすを見て、おかしそうに、お笑いになりました。

「なぜ、政ちゃんは、ペスを呼ばなかったのだい。」と、いちばん年上の達ちゃんが、こんどは、たずねました。

「ぼく、ペス、ペスと呼んだよ。」

「そうしたら。」

「こっちを、じっと見たよ。」

「飛んで、こなかったかい?」

「いくら、呼んでも、こなかった。そして、とっとと、あっちへいってしまった。」と、政ちゃんが答えました。

「どっちの方へ、いってしまったい。」と、だまってきいていた、正ちゃんが、ききました。

「原っぱの方へ、川について、とっとと、いってしまったよ。あっちの、赤い空の中へ、はいっていってしまったよ。」

政ちゃんは、寒い、木枯らしの吹きそうな、晩方の、なんとなく、物悲しい、西空の、夕焼けの色を、目に描いたのです。

「どっちから、ペスが、歩いてきたか、知っている?」と正ちゃんは、政ちゃんに、たずねました。

「市場の方から、歩いてきた。」

「そのとき、ほかの子は、ペス、ペス、と呼ばなかったの。」と達ちゃんがききました。

「呼んだとも、健ちゃんも、徳ちゃんも、呼んだけれど、ペスは、振り向かんでいってしまったよ。」

お母さんも、お姉さんも、政ちゃんの、そういうのをきくと、はたしてペスが帰ってきたのかしらんと考えるようになりました。そして、子供たちの話を、いまは、じっときいていられたのであります。

「おかしいね、あんなに、いつも、走ってきて飛びつくのに、呼んでも、こないのは……。」と、達ちゃんが、頭をかしげました。

「おかしいね。やはり、ペスでは、ないんだろう。」と、正ちゃんがいいました。

「ペスだよ。」

「そんなら、どうして、呼んでもこなかったのだい、政ちゃんにわかる?」と、正ちゃんが、いいました。政ちゃんはだまっていました。お母さんも、お姉さんもしばらく、政ちゃんの顔を見ていられました。

政ちゃんは、頭の中では、わかっているが、どう言葉に、あらわしたらいいかと、惑っているようすでした。が、どもりながら、

「また、人間が、だますと思ったから、こなかったのだろう……。」と、いいました。

「だますから?」と、正ちゃんが、ききかえすと、

「政ちゃんのいうことは、よくわかるじゃないの。いつも、あんなに、かわいがっていて、見殺しにしたからというのだよ。」と、お姉さんは、目に、涙がためていらっしゃいました。

「ほんとうに、そうだな。すぐにわかったら、もらいにいってやればいいに、印刷屋でも、うちでも、まただれも、犬殺しにつれられていったぎり、もらいにいってやらなかったのは悪いと思う。」と、達ちゃんも、同意しました。

ひとり、達ちゃんばかりでありません。みんなは、政ちゃんの、いうことをきいて、ほんとうだと思いました。平常、かわいがっていながら、ペスが、犬殺しに、つれられていったと知っても、もらいにいってやらぬというのは、なんたる不人情なことだろう。ペスは、心のうちできっとだれかもらいにきてくださると思っていたのにちがいない、そして、とうとうだれもきてくれないと知ると、死にもの狂いで逃げ出してきたのだ。心のうちで、みんなの不人情をうらんでいるのだ。もうけっして、人間を信じてはならない。それは、政ちゃんの、いうとおりだと思ったからです。

「まあ、それにしても、よく逃げ出して、きたものね。」とお姉さんは、感嘆なさいました。

「生きたい、一念で、逃げ出してきたのでしょう。」と、お母さんも、おっしゃいました。

「ワン、ワン、ほえたり、かみついたりしたんだろうな。」と、正ちゃんが、いうと、

「ばか、そんなことをすれば、すぐなぐり殺されてしまうじゃないか。」と、達ちゃんがいいました。

「そんなら、どうして、逃げてきたんだい。」と、正ちゃんが、ききました。

「すきを見て、いっしょうけんめいに逃げてきたんだろう。」と達ちゃんがいいました。

その夜は、ペスが帰ってきたことにして、みんなは、いろいろ話をしましたが、夜が、明けたら、それを、たしかめようと、達ちゃんと、正ちゃんとは、めいめい胸に思って、やがて、床の中に入ったのであります。寒い晩で、木枯らしの音がきこえていました。床にはいってからも、正ちゃんは、風の音に耳をすまして、逃げてきた、かわいそうなペスのことを思って、なかなか眠りつかれなかったのでした。

翌日は、日曜日でした。朝飯を食べると、正ちゃんは、外へ駆け出してゆきました。往来で、徳ちゃんたちが、遊んでいました。徳ちゃんは、政ちゃんと同じ年ごろでした。

「徳ちゃん、ペスが帰ってきたって、ほんとうかい。」

正ちゃんは、徳ちゃんの顔を見ると、すぐこうたずねました。

「ああ、昨日見たよ。」と、徳ちゃんは答えたのです。

「ほかの犬だろう。」

「そうじゃない、ペスだよ。日の丸が、ついていた。」と、徳ちゃんは、いいました。

「日の丸が、ついていた?」と、正ちゃんは、念を押しました。日の丸というのは、ペスの白い脊中に赤い毛のまるい斑があったので、みんながそういっていたのでした。

「日の丸があったよ。」と、徳ちゃんははっきり答えました。

そうきけば、もうペスの帰ってきたのに、疑う余地がなかったのです。正ちゃんは、走って、家へもどると、その話を達ちゃんにしたのです。

ちょうど、そのとき、小田と高橋が、釣りざおとバケツを下げて達ちゃん兄弟を誘いにきました。日曜日に、川へ寒ぶなを釣りにゆく、約束がしてあったからです。

「どうしよう? ペスをさがしにゆくのをよして、釣りにゆこうか。」と、正ちゃんは、兄の達ちゃんを見上げました。

「おまえは、釣りにいってもいい。僕は、ペスをさがしにゆくから。」と、達ちゃんが答えました。

小田も、高橋も、よくペスのことを知っていました。達ちゃんと正ちゃんの話をきくと、

「僕たちも、いっしょに、ペスをさがしにゆこう。そして、はやく見つかったら、みんなで釣りに出かけよう。」と、小田がいいますと、高橋も賛成しました。

「釣りざおとバケツを、ここに置いてくれない。」

やがて、みんなが、一団となって、ペスをさがしにゆきました。その中に、小さい政ちゃんもはいっていました。

橋のところから、ペスのいったという、道を歩いて、原っぱへ出て、半分は、散歩の気分で、愉快そうに話しながら、足の向く方にあるいていったのであります。

あちらに、自動車や、自転車の走っているのが見える、駅の付近にきたとき、

「ほら、あすこに、ペスがいるじゃないか。」と、ふいに政ちゃんが、指さしました。見ると、なるほど、牛肉屋の前に白い毛に日の丸の斑のはいった、ペスそっくりの犬がいました。

「ペスかしらん。」と、正ちゃんは、駆け出してゆきました。あとから、みんながつづきました。しかし、その犬は、ペスと兄弟のように似ていたけれど、やはり、ペスではありませんでした。政ちゃんや、徳ちゃんの見たのは、この犬だとわかると、みんなは道をもどることにしました。

「ああ、ペスは、もう殺されてしまったのだろう。」といって、中にも、達ちゃんと正ちゃんは、ペスを助けなかったのを、後悔しながら、木枯らしの吹く中を、みんなと歩いていたのです。

●図書カード

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