Chapter 1 of 8

新秋の一日、――私は大隈会館の庭園の中を歩いていた。午後の空が曇っているせいか、手入れの行きとどいた庭園でありながら、何となく荒廃したかんじが視野の中にあふれている。昔は樹立のふかい、雅趣のゆたかな庭であった。時代とともに錆びついた色彩が、チラチラと記憶の底からよみがえってくるだけに、今はあとかたもなく変りはてた、がらんどうの広場をゆびさしながら、此処が昔は落葉に埋もれたほそい道で、老侯爵は毎日必ず食後の散歩をされるのが習慣になっていました、――と、自信にみちた調子で語りつづけるN氏の声から、私は何の印象をさぐりあてることもできなかった。

戦災で焼け落ちたあとに、「大隈会館」と呼ばれている、あたらしくつくられた集会所式の建築が、私の記憶の中に残る古色蒼然たる庭園の風致と調和していないためでもあった。

昔は底の知れぬほど宏大であると思った庭が、これほど小じんまりとした寸の詰った地域に限られていることにさえ私は先ず驚愕の眼を瞠った。まだ季節は九月も半ばをすぎたばかりで風のつよい日であったが残暑はしっとりと大気の底にねばりついている。雲は低く垂れさがってはいたけれども、しかし新秋の爽かさは、ときどき、しいんと身うちに迫るようであった。庭園の周囲にあった杉の並木も、ことごとく戦災のために枯れつくして、昔ながらの形をとどめている樹木なぞは一本も残ってはいないというのだから、荒廃のかぎりをつくしたものらしい。その焼あとの中から、これだけの原形をさぐりだすことさえ容易な仕事ではなかったかも知れぬ。

その日の午後、私は新橋駅から自動車を走らせ、正門前らしいところで車をとめると、すぐ本部に、あらかじめ打合せのしてあったN氏を訪ねた。N氏は三十年前、私の在学時代の先輩である。私はN氏の案内で、正午すぎのひとときを、足にまかせて校庭の内部を彷徨い歩いた。歩きながら私の心はたちまち幻怪な思いに打ちのめされた。私の記憶の底に三十年間いつも同じかたちで夢のようにたたみこまれている学校のすがたは、もはや影さえも残してはいない。私は数年前、久しぶりで矢来坂上にあるS出版社を訪れ、その帰りみちに何の計画もなしに、わざわざ自動車を遠廻りさせて学校の前を通りすぎたことがある。季節はちょうど今と同じ九月であったが、おそらく懐旧やる方なしという思いに唆られたものであろう。正門の前に自動車を待たせ、ふらふらと校庭の中へ足を踏み入れたとたんに、私は奇妙な光景にぶつかった。三十年間、母校の校庭を歩いたことのない私にはもはやどこに何があるのか見当のつくべき筈もなかった。門を入ったときから何か唯ならぬ気配をかんじていたが、正面の教室らしい大建築の正面に演壇が設けられ、小柄な一人の学生が何かわめくような声で叫んでいた。

その前には「レツド・パーヂ反対」と大書したプラカードを持った学生が列を組んでならんでいた。学生の数は多く見つもっても二百人か三百人程度と思われたが、この一団の学生の周囲に、雑然と入りみだれた群集(もちろん彼等も学生であったが)が立っていた。正面に整列している学生の一隊と彼等をとりかこんでいる雑然たる群集とのあいだには、一見しただけで、ぬきさしのならぬ感情の距離があり、ひた向きな正面の一隊とくらべると群集の表情はほとんど無感動といってもいいほど低徊的であった。

演壇に立っている指導者らしい男の声は私の耳にはよく聴きとれなかったが、一段落つくごとにプラカードがうごき、それにぴったりと調子を合せたように、整列している学生の列から、わあっと嵐のような叫び声が起った。私は群集の列を押し分けるようにして前へ出ていった。演壇の両側には、生徒監ともつかず、教授ともつかぬ中年の背広服を着た紳士が立っている。近づくにつれて、彼等の顔には、この殺気立った空気と結びつくことのできないような、冷たくこちんとした感情が翳のように沁みついていることがハッキリわかった。演壇に立って、煽動演説をやっている男は、自分の声に響きのないことがもどかしくてたまらないらしく、絶えず上体をはげしくゆすぶりながら、しきりに声を張りあげようとしているが、しかしいくらあせっても彼の声は中途でかすれてしまう。私は片手で頭をおさえながら、じっと彼の声に耳を澄ました。

「諸君、学校は学生の学校である、学生は自由に教室に出入りする権利がある、その教室の使用を禁ずるとは何事であるか、――われわれはこの横暴なる学校当局に対して」

そこまで聞いたとき、私は妙な気恥かしさのために、われ知らず胸がきゅうんと締めつけられた。妙な、――というのは、この青年の声の中に三十年前の自分の姿をぼうっと思いうかべたからである。しかし、今、私の前で広場の正面に列をつくり、スクラムを組んで恰かも組織された軍隊のように整然と隊伍を整えている学生の表情は一定の法則を保って硬化してしまっているように見える。私の耳に聞えた言葉は三十年前とほとんど渝るところのない響きをもつ同じ言葉であったにしても、しかし、この雰囲気はあまりにも冷たく陰惨であった。彼等の集団の上にうかびあがった表情の中には、もはや三十年前の学生生活を彩る底のぬけた明るさもなければ、無際限にひろがってゆく青春の、野放図な動きさえもない。むしろ、一種の律儀といってもいいほど小さな枠の中にとじこめられた感情の神経的な動きを見るだけである。立っているうちに次第に切なく、味気ない思いにうちのめされてゆく私のうしろから、そのときだしぬけに異様などよめきが起った。慌てて振りかえってみると、ひとりの背広服の男が数人の学生に両腕をおさえられて、ぐいぐいと力まかせにひきずられながら、前へ前へとおし出されてゆくところなのである。

ああ、そこにも三十年前の情景が同じ翳をうかべている。今まで黙々として傍観していた群集は急に活気づいたように動きだした。背広服の男はおそらく学生に偽装した刑事なのであろうか。すると、演壇に立っていた指導者らしい男が、またしても咽喉からしぼりだすような嗄れた声で何か叫んだと思うと、正面に陣どっていた一隊が、スクラムを組んだまま前へ進んでゆく。

私はもはや、そこに居たたまれない気持ちで自動車を待たせてある正門の方へ引っかえした。

一瞬にして消え去った情景ではあったが、私が眼のあたり見たものは、伸びやかな夢を孕む学生生活が自然にかもしだす「青春の場」へ、何の遠慮もなく土足で踏み込んでくる陰鬱な政治の足音である。夢と香りにみちた若さのひとときを根こそぎに奪い去ってゆく、骨組のがっちりとした大人の表情である。私は時の変化をこれほど心に沁みてかんじたことはなかった。

私はともすればチグハグになる自分の感情を、一つの方向にねじ向けたまま、N氏の案内で校庭の中を足にまかせて歩きながら、今や私の記憶の外へ完全にはみだしてしまっている宏壮な建築を眩しい思いで仰ぎ見るのである。

輪奐の美、――というほどではないにしても、これが私の若き日をすごした学校だとはどうしても考えることのできないほど、今日の「早稲田大学」は堂々たる外観を備えて聳えている。私は、母校という感情につながる、さまざまな色彩や形や、きらめくような思い出とはまったく縁もゆかりもなくなってしまっているような、遠いところへ来てしまったという感懐にうたれた。

変っていないのは私の上級生だったN氏の顔だけで、どの建築にも見おぼえのある筈はなく、擦れちがう学生たちの、精彩にみちた若々しい顔にぶつかると私はどきっとして胸をときめかすのである。どの顔にも彼等の表情をかすめる、あたらしい時代の翳が、何の淀みもなくくっきりとうかびあがっている。どこを歩いても私にとっては結局同じことであった。私の記憶では正門を入るとすぐ左側に青いペンキの剥げ落ちた木造二階建の講堂があり、その横に田舎の中学校の雨天体操場を思わせるトタン屋根の学生控所があった。教室という教室は木造の二階建で、唯一つ、小高い丘の上から赤い煉瓦のあたらしい色を湛えて嶄然とうかびあがっていた恩賜館の建築も、今はどこにあるのか見当もつかぬ始末である。

その頃は正門から少しはなれて高等予科の門があり、その門が小さい通路をへだてて鶴巻町の一角を領有している大隈侯爵邸と向いあっていた。

「ほら、――此処から真正面に見えるホールの入口のところに大きな石が見えるでしょう」

庭園の奥にある、小さい流れの前へ来たところでN氏が立ちどまった。「あそこが、大書院のあったところで、昔ながらの原形をとどめているのは、あの沓脱ぎ石だけです」

N氏は、きょとんと眼を瞠っている私を振りかえった。あのへんが侯爵夫妻の寝室で、こっちが、応接室のあったところです、とそれらしい地点をゆびさしながら、一つ一つ丁寧に説明するN氏の声を私は虚ろな思いで聴きながしたまま、ゆるやかな曲折を描く小川の水面に視線をおとした。底がすけて見えるほど浅い流れに雲のかげが映っている。

その流れの音に、じっと身を澄ましていると、夢のごとくに過ぎた三十年前の思い出が私の心に湧くようにひろがってくる。今は校庭のどのあたりになるか方角さえもわからなくなっているが、昔は正門を入ると、すぐ突きあたりに、大きく傾斜面をひろげた芝生があり、われ等の総長、大隈重信の銅像がその正面にあった。その情景を思い描くだけでも、なつかしさに心のひきしまる思いであるが、始業式と卒業式の祭典の開かれるのはこの芝生の広場で、ざわめきたつ全校の学生がそれぞれの位置に整列している左手の通路を、杖を片手に、びっこを曳きながら、ゆるゆるとのぼってくる大隈老侯の姿ほど、世にはなやかであり、荘厳であり、英雄的な感銘をあたえるものはなかった。

振鈴が鳴りわたると、今まで、がやがやと騒いでいた学生の列が急にしいんと鳴りをしずめる。今、思いだしただけでも胸がおののき、両足がふるえるようだ。式帽であるツバのない菱形の制帽を心持ち斜めにかむり、真紅のガウンを羽織った老侯のあとから、高田早苗、天野為之、坪内雄蔵の三長老が同じ恰好で悠々と通路をのぼってくるときの壮観は文化の粋を誇るといっても嘘ではあるまい。これにつづく、田中穂積、塩沢昌貞、金子馬治、等々の教授が、つぎつぎに壇上に席を占めると、やがて、老侯がゆったりと立ちあがる。彼の身のこなし方から発声法まで大きくふくよかな親和力にみちあふれて、自然にかもしだされるユーモアが、みるみるうちに若い学生たちの感情を和やかな雰囲気の中へたたみこんでしまう。彼こそは人生の達人というべきであった。私が大隈重信をはじめて見たのは私の中学時代、――それもたしか二年か三年の頃であったから、年代的に言えば彼が長い失意の時代を経て、ふたたび総理大臣たるべき偶然の機運に恵まれた直前であった。そろそろ八十にちかい頃だったと思う。民間の一布衣として全国遊説の途にのぼっていた彼が、私の中学のあった岡崎へ立ち寄ったときである。そのとき、駅から岡崎の市街まで鉄道馬車が通じていたが、全市(当時はまだ岡崎町であった)は、この維新の元勲を迎えようとする人波によってごった返していた。私たちが駅の前に整列していると、汽車が着いて、従者の肩に両腋を支えられながら、ゆったりとした足どりでプラットホームを歩いてきた。この老人の姿は今でもありありと私の眼先きにちらつくようである。その頃、岡崎の町に、はじめて一台だけ出来たゴム輪の人力車が彼を乗せて私たちの前をすべってゆくとき、俥の上に上体を反りかえるようにして乗っていた老政客は軽く右手をあげ、山高帽子のふちをおさえて宙に浮かせるような恰好をしながら、いかにも満足したらしい微笑をうかべた。そのときの、若々しく屈托のないかんじにくらべると、大正六年、私が高等予科に入学したとき、始業式に臨んだ彼の姿にはすでに老衰の色が濃く、辛うじて壇の上に自分の身体を支えているというかんじが、彼自身、私たちを失望させまいと努力しているだけにひとしお痛々しい思いをふかめた。態度と物腰だけは、いかにも昔のとおりであるが、身体全体からうける印象にはすでに精彩が失われていた。

彼の言葉は非常に低く、最初のうちはほとんど聴きとれなかったが、しかし学生たちにとっても彼のしゃべってる言葉の内容なぞはもはやどうでもよかった。当時の、彼に好意を寄せる新聞用語をもってすれば、この楽天的な大人物は、高遠の理想を一枚看板とする大風呂敷と呼ばれていた。高遠の理想というものは、まったく茫漠として、学問や思想をもってしては到底捕捉することのできるものではない。当時においてさえ、いかに考えても彼はすでに旧式の古典的人物であり、彼の識見と抱負に耳を傾けようとする学生はほとんど一人もいなかった。唯、この大風呂敷の中へひとりでにまきこまれてゆく楽しさだけが、何の批判もなしに私たちの心へぐいぐいと迫ってくるのである。

私は彼の右手が高く、ゆるやかな動きをみせて、恰かも舞台の上に立つ名優の所作のごとく、同じ位置を幾度びとなく旋廻するのを見た。

前の席を占めている学生のあいだから割れるような拍手が起った。その波がしずまるのをじっと眺めてから、彼は上体を前へ乗りだした。

「青年は勇気を持たねばならぬ。勇気は常に自由と独立の精神から生れる」。

われ等の総長は、口をへの字なりにおしゆがめ、それからぐっと肩をそびやかした。

「諸君は知るであろう、――ワーテルローの一戦において、ナポレオンを一敗地にまみれしめたところの」

ゆっくりゆっくりと、押しだすように出てくる言葉が、此処まできて急に途切れた。一瞬間、老侯爵は心持ち首を右にかたむけ、二、三度同じような素振りで芝生をうずめる学生の列を見わたしたと思うと、急に、くるりとうしろを振りかえった。誰れの眼にも、彼のそうするのがいかにも自然であると思われるほど、落ちつきのある身のこなし方であった。

一座は、たちまち水を打ったようにしいんとなった。

「浮田博士はおらぬか、――吾輩の政治顧問である浮田博士は?」

その声には、彼が会衆を前に、身体を斜めにして叫んでいるにもかかわらず、彼の演説よりも大きく、つよいひびきがこもっていた。すると、華奢な身体つきをした、ほそおもてのフロックコートを着た初老の紳士が、演壇の左側に位置を占めている教授席の端しの方から及び腰になって小刻みに老侯爵の前にちかづいてきた。政治史を担当する浮田和民博士である。われ等の総長は、かすかな微笑をうかべ、前かがみになっている博士と何かひそひそと話し合っている様子であったが、おそらく二人の会話はものの一分とはかからなかったであろう。われわれが、ハッと気がついたときには老侯爵は早くも以前の姿勢にかえっていた。彼は右手を高くあげた。

「その、ウエリントンである、ナポレオンをやぶったウエリントンが」。

会場の隅々から湧き立つ拍手のあとから、どっと、あふれるばかりの哄笑が起った。そのあとから、また拍手が鳴りひびく。彼はウエリントンの名前をわすれていたのである。それを何の悪びれるところもなく、聴衆を前にして彼自ら信頼している政治顧問を呼んで訊きかえす態度の明るさが、何の凝滞も遅疑すらもない彼の演技を一層素晴らしいものにしてしまったのである。老侯爵はなお格調の正しい口調で、ゆっくりゆっくりとしゃべりつづけていたが、このとき学生たちの感激はほとんど絶頂に達していた。

「ウエリントンは万雷のごとき熱情をこめた拍手をもって彼を迎える大英国の民衆に向って言った。ワーテルローの勝利は自分一個の負うべき偶然の運命ではない、自由と独立の精神を体得して、余すところなき子弟の教育の然らしむるところである。――満堂の諸君よ、およそ青年たるべきものは野心と勇気を持たねばならぬ。ウエリントンは偶々ナポレオンを相手とするワーテルローの戦場において彼の真髄を発揮したが、およそ高遠なる理想を行わんとする場所は人生の到るところにある、吾輩は諸君に向って何ものかになれなぞというケチなことは申さぬ、学生たるべき諸君は先ずおのれの心を屈して学問を修得すべきである。然る後に、諸君はひとたび校門を出ずるや、百里を往くものは百里、千里を往くものは千里、――諸君はいかなる外来の力に妨げられることなく思う存分の活動に任ずべきである。吾輩が早稲田大学を創造した動機も此処にあり、精神もまた此処にある。学者たるもよく、政治家たるもよく、あるいは商人たるもよく、天下の改革に任ずる国士たるもよく、諸君がいかなるところに能力を発揮するにしても、早稲田大学によって学び得た確固不抜の精神は必ずや諸君を天下の第一人者たらしむるであろう。これこそ独立自由の研究から得られたところのものであり、特定の政略や目的によって生じたものではない。およそ、思想や政策は人が変り時代が変れば必ずその形体は一変する。然るに学問の独立、自由の研究を根底とする学校の精神は、将来いかに時代が変化したところで断じて変るものではない。変らぬどころか、次第に進歩発達して絶対に退くことのないところのものである。すなわちわが早稲田大学は安全に堅固に、永久に存在することは火を看るよりも瞭かである。早いはなしが、今、吾輩が此処に立ってしゃべっている壇上のうしろには吾輩の銅像が立っている、――かかる場所に吾輩の銅像を立てられたことは校友諸君の絶大なる好意に基くものであるんである。これを吾輩一個人の光栄と名誉のためと考うるならば、まことに不徳不才、自らかえりみて慚愧のいたりに堪えざるところであるが、この銅像の中には、早稲田大学の前身である「東京専門学校」の創設にあたって、苦心惨憺、ついに血を吐いて倒れた小野梓君をはじめ、本日此処に列席されている高田早苗君、それから天野為之君、坪内雄蔵君たちによる異常なる努力と献身的精神が日本における新教育の基礎を築いたものであると信じている。その大精神、すなわち、ようやく形を整えた早稲田大学の学風と学問に対する校友諸君の忠実にして熱烈なる意志が、この銅像となってあらわれたと信じて、吾輩は喜び勇んでこれを受諾した次第である。もはや、ひとたびこの銅像が立った以上、何ものの力をもってしてもわが早稲田大学をつぶすことは出来ないであろう。考えようによっては、これは学校にとって一つの装飾であり、墓である。墓といえば不祥のようであるが、すなわち紀念物である。決して吾輩の徳を顕わすというわけのものではない。永久の紀念物である。吾輩は骨を銅像の下にうずめようという意志は一つもないが、この銅像の中には吾輩の精神が宿っている。わが早稲田大学も今後、時勢の変化に伴って学校の形態もおのずから変ってゆくであろう、しかし、この銅像の存するかぎり、われ等の理想は永遠であり不朽である。興廃浮沈は吾輩の関するところではない。――早稲田の学風を慕って来り学ばんとする青年の跡を絶たぬかぎり、学園の前途は洋々たる希望にみちみちているんである」。

この日、老侯爵は特に上機嫌であったらしく、ふたたびうしろを振りかえって教授席にいた高田博士と視線がぶつかると、

「のう、高田君、坪内君、天野君」。

と、ほがらかな微笑をうかべ、大きく無造作な態度で呼びかけると、嵐のような拍手が鳴りひびいた。

Chapter 1 of 8