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国文学の発生(第二稿)
折口信夫
呪言の展開
一 神の嫁
国家意識の現れた頃は既に、日本の巫女道では大体に於て、神主は高級巫女の近親であつた。併し、其は我々の想像の領分の事で、而も、歴史に見えるより新しい時代にも、尚村々・国々の主権者と認められた巫女が多かつた。
神功皇后は、其である。上古に女帝の多いのも、此理由が力を持つて居るのであらう。男性の主権者と考へられて来た人々の中に、実は巫女の生活をした女性もあつたのではなからうか。此点に就ての、詳論は憚りが多い。神功皇后と一つに考へられ易い魏書の卑弥呼の如きも、其巫女としての呪術能力が此女性を北九州の一国主としての位置を保たして居たのであつた。
村々の高級巫女たちは、独身を原則とした。其は神の嫁として、進められたものであつたからだ。神祭りの際、群衆の男女が、恍惚の状態になつて、雑婚に陥る根本の考へは、一人々々の男を通じて、神が出現してゐるのである。
奈良朝の都人の間に、踏歌化して行はれた歌垣は、実は別物であるが、其遺風の後世まで伝つたと見える歌垣・歌会(東国)の外に、住吉の「小集会」と言うたのも此だとするのが定論である。
だから、現神なる神主が、神の嫁なる下級の巫女を率寝る事が普通にあつたらしい。平安朝に入つても、地方の旧い社には、其風があつた。
出雲・宗像の国造――古く禁ぜられた国造の名を、尚称しては居たが、神主としての由緒を示すに止まつて、政権からは離れてゐた――が、采女を犯す事を禁じた(類聚三代格)のは、奈良朝以前の村々の神主の生活を窺はせるものである。采女は、天子の為の食饌を司るもの、とばかり考へられてゐるが、実は、神及び現神に事へる下級巫女である。
国々の郡司の娘が、宮廷の采女に徴発せられ、宮仕へ果てゝ国に還ることになつてゐるのは、村々の国造(郡司の前身)の祀る神に事へる娘を、倭人の神に事へさせ、信仰習合・祭儀統一の実を、其旧領土なる郡々に伝へさせようと言ふ目的があつたものと推定することは出来る。現神が采女を率寝ることは、神としてゞ、人としてゞはなかつた。日本の人身御供の伝説が、いくらかの種があつたと見れば、此側から神に進められる女(喰はれるものでなく)を考へることが出来る。
その為、采女の嬪・夫人となつた例は、存外文献に伝へが尠い。允恭紀の「うねめはや。みゝはや」と三山を偲ぶ歌を作つて采女を犯した疑ひをうけた韓人の話(日本紀)も、此神の嫁を盗んだ者としての咎めと考へるべきものなのであらう。此事が、日本に於ける初夜権の実在と、其理由とを示して居る。出雲・宗像への三代格の文は、宮廷にばかり古風は存して居ても、民間には、神と現神とをひき離さうとする合理政策でもあり、文化施設でもあつたのだ。
地物の精霊の上に、大空或は海のあなたより来る神が考へられて来ると、高下の区別が、神々の上にもつけられる。遠くより来り臨む神は、多くの場合、村々の信仰の中心になつて来る。「杖代」とも言ふ嫁の進められる神は、此側に多かつた様である。時を定めて来る神は、稀々にしか見えぬにしても、さうした巫女が定められて居た。常例の神祭りに、神に扮して来る者の為にも、神の嫁としての為事は、変りがなかつた。此は、村の祭り・家の祭りに通じて行はれた事と思はれる。
二 まれびと
新築の室ほぎに招いた正客は、異常に尊びかしづかれたものである。
新室を踏静子が手玉鳴らすも。玉の如 照りたる君を 内にとまをせ(万葉巻十一旋頭歌)
と言ふのは、舞人の舞ふ間を表に立つ正客のある事を示して居るのであらう。家々を訪れた神の俤が見えるではないか。
新室の壁草刈りに、いまし給はね。草の如 よりあふ処女は、君がまに/\(万葉巻十一旋頭歌)
は、たゞの酒宴の座興ではない。室ほぎの正客に、舞媛の身を任せた旧慣の、稍崩れ出した頃に出来たものなる事が思はれる。
允恭天皇が、皇后の室ほぎに臨まれた際、舞人であつた其妹衣通媛を、進め渋つて居た姉君に強要せられた伝へ(日本紀)がある。嫉み深い皇后すら、其を拒めなかつたと言ふ風な伝へは、根強い民間伝承を根としてゐるのである。
来目部ノ小楯が、縮見ノ細目の新室に招かれた時、舞人として舞ふ事を、億計王の尻ごみしたのも、此側から見るべきであらう。神とも尊ばれた室ほぎの正客が弘計王の歌詞を聞いて、急に座をすべると言ふ点も、此をかしみを加へて考へねばなるまい。
まれびとなる語が、実は深い内容を持つて居るのである。室ほぎに来る正客は稀に訪ふ神の身替りと考へられて居たのである。恐らくは、正客が、呪言を唱へて後、迎へられて宴の座に直つたものであらう。今も、沖縄の田舎では、建築は、昼は人つくり、夜は神造ると信じて居る。棟あげの当日は、神、家の中に降つて鉦を鳴し、柱牀などを叩き立てる。其音が、屋敷外に平伏して居る家人の耳には、聞えると言ふ。勿論、巫女たちのする事なのである。
八重山諸島では、村の祭りや、家々の祭りに臨む神人・神事役は、顔其他を芭蕉や、蒲葵の葉で包んで、目ばかり出し、神の声色や身ぶりを使うて、神の叙事詩に連れて躍る。村の祭場での行事なのである。又、家の戸口に立つては、呪言を唱へて此から後の祝福をする。大地の底の底から、年に一度の成年式に臨む巨人の神、海のあなたの浄土まやの地から、農作を祝福に来る穀物の神、盂蘭盆の家々に数人・十数人の眷属を連れて教訓を垂れ、謡ひ踊る先祖の霊と称する一団など皆、時を定めて降臨する神と、呪言・演劇との、交渉の古い俤を見せて居る。
沖縄本島の半分には、まだ行はれて居る夏の海神祭りに、海のあなたの浄土にらいかないから神が渡つて来る。其を国の神なる山の神が迎へに出る。村の祭場で、古い叙事詩の断篇を謡ひながら、海漁、山猟の様子を演じるのが、毎年の例である。
万葉人の生活の俤を、ある点まで留めてゐると信ぜられる沖縄の島々の神祭りは、此とほりである。一年の生産の祝福・時節の移り易り、などを教へに来る神わざを、段々忘却して人間が行ふ事になつた例は、内地にも沢山ある。
明治以前になくなつて居た節季候は、顔を包む布の上に、羊歯の葉をつけた編笠を被り、四つ竹を鳴して、歳暮の家々の門で踊つた。「節季に候」と言うた文句は、時の推移と農作の注意とを与へた神の声であらう。万歳・ものよしの祝言にも、神としても、神人としても繰り返して来た久しい伝承が窺はれる。
「斎の木の下の御方は(如何今年を思ひ給ふなどの略か)」「されば其事(に候よの略)。めでたく候」(郷土研究)と言ふ屋敷神との問答の変化と見える武家の祝言から、今も行はれる民間の「なるか、ならぬか。ならねば伐るぞ」「なります。なります」と、果物の樹をおどしてあるく晦日・節分の夜の行事などを見ると、呪言と言ふよりは、人と精霊との直談判である。見方によつては、神が精霊にかけあふものゝ様にも見える。併し、此は見当違ひである。其は万歳と才蔵との例でも知れる事だ。
万歳について来る才蔵は、多分「才の男」から出たものだらう。又せいのうとも発音したらしく、青農と書いて居る事もある。但、此場合は、人形の事の様である。才の男は、人である事もある。内侍所の御神楽に「人長の舞」の後、酒一巡して「才の男の態」がある(江家次第)。此は一種の猿楽で、滑稽な物まねであつた。処が、人形の青農を祭りの中心とする社もちよく/\ある。殊に、八幡系統の社では、人形を用ゐる事が多かつた。一体、今日伝はる神楽歌は、石清水系統の物らしい。此派の神楽では才の男同時に青農で、人形に猿楽を演ぜしめたのではないかと思はれる。
才の男は最初、神に扮し、神を代表したものであらうが、信仰の対象が向上すると、神の性格を抜かれて置去られて了ふ様になつた。そこで、神の託宣を人語に飜訳し、人の動作にうつして、神の語の通辞役に廻る事になつたのであらう。神の暗示を具体化する処から、猿楽風の滑稽な物まねが演出せられる様になり、神がして、才の男がわきと言ふ風に、対立人物が現れる事になつたのであらう。狂言の元なる能楽の「脇狂言」なども、今日では誠に無意味な、見物を低能者扱ひにした、古風と言ふより外に、せむもない物になつたが、以前は語りを主にするものではなく、今の狂言が岐れ出るだけの、滑稽な、寧、能楽の昔の本質「猿楽」の本領を発揮したものであつた筈である。神事能の語りは、武家の要求につれて、おもしろい「修羅物」などに偏つて行つたのである。
内容は段々向上して、形式は以前の儘に残つて居る処から、上が上にと新しい姿を重ねて行く。狂言やをかしなどが、わきの下につく様になつたのも此為である。
「俄」「茶番」「大神楽」などにも、かうした道化役が居て、鸚鵡返し風なおどけを繰り返す。前に言うた旋頭歌が形式に於て、此反役をして居るが、更に以前は、内容までが鸚鵡返しであつたものと思はれる。問ひかけの文句を繰り返して、詞尻の?を!にとり替へる位の努力で答へるのが、神託の常の形だつたのである。
三 ほかひ
寿詞を唱へる事をほぐと言ふ。ほむと言ふのも、同じ語原で、用語例を一つにする語である。ほむは今日、唯の讃美の意にとれるが、予め祝福して、出来るだけよい状態を述べる処から転じて、讃美の義を分化する様になつたのである。同じ用語例に這入るたゝふは、大分遅れて出た語であるらしい。満ち溢れようとする円満な様子を、期待する祈願の意である。たゝはしと言ふ形容詞の出来てから、此用語例は固定して来たものと思はれる。讃美したくなるから、讃はしと言ふのではないらしい。
再活用してほかふ、熟語となつて、こと(言)ほぐと言うたりするほぐの方が、ほむよりは、原義を多く留めて居た。単に予祝すると言ふだけではなかつた。「はだ薄ほに出し我や……」(神功紀)など言ふ「ほ」は、後には専ら恋歌に使はれる様になつて「表面に現れる」・「顔色に出る」など言ふ事になつて居る。併し、神慮の暗示の、捉へられぬ影として、譬へば占象(うらかた)の様に、象徴式に現れる事を言ふ様だ。末(うら)と、秀(ほ)とを対照して見れば、大体見当がつく。「赭土(あかに)のほに」など言ふ文句も、赭土の示す「ほ」と言ふ事で、神意の象徴をさす語である。此「ほ」を随伴させる為の詞を唱へる事を、ほぐと言うて居たのであろうが、今一つ前の過程として、神が「ほ」を示すと言ふ義を経て来た事と思ふ。文献に現れた限りのほぐには、うけひ・うらなひの義が含まれてゐる様である。
ある注意を惹く様な事が起つたとする。古人は、此を神の「ほ」として、其暗示を知らうとした。茨田(まむだ)の堤(又は媛島)に、雁が卵を産んだ事件があつて、建内宿禰が謡うた(記・紀)と言ふ「汝がみ子や、完に領らむと、雁は子産らし」を、本岐(ほぎ)歌の片哥として居る。常世の雁の産卵を以て、天皇の不死の寿の「ほ」と見て、ことほぎをしたのである。寿詞が、生命のことほぎをする口頭文章の名となつて、祝詞と言ふ語が出て来たものと思はれる。原義は、其一に書いたとほりの変遷を経て来るのである。唯ほぐ対象が生命であつた事は、事実らしい。
くしの神 常世にいます いはたゝす 少名御神の神ほき、ほきくるほし、豊ほき、ほきもとほし、まつり来しみ酒ぞ(記)
と言ふ酒ほかひの歌は、やはり生命の占ひと祝言とを兼ねて居る事を見せて居る。敦賀から上る御子品陀和気の身の上を占ふ為に、待ち酒を醸して置かれたのである。一夜酒や、粥占を以て、成否を判断する事がある。此も、酒の出来・不出来によつて、旅人の健康を占問ふのである。さうして帰れば、其酒を飲んで感謝したのであらう。
酒ほかひと言ふのは、唯の酒もりではない。酒を醸す最初の言ほぎの儀式を言ふのだ。どうかすれば、酒をつくる為の祝ひ、上出来の祈願の様に見えるが、其は当らない。「……ますら雄のほぐ豊御酒に、我ゑひにけり」(応神紀)は、ほぎしの時間省略の形である。此は、待ち酒の恒例化したもので、酒づくりの始めを利用して、長寿の言ほぎして占うたものなのである。此部分が段々閑却せられて来ると、よく醗酵する様に祈ると言ふ方面が、ことほぎの一つの姿となつて来る。酒ほかひなる語が、酒宴の義に近づく理由である。かうした変化は、どの方面のほかひにもあつた事なのである。唯、酒は元もと神事から出たものだから、出発点に於ける占ひの用途を考へない訣にはいかない。