第一講
日本芸能史といふこの課題の目的に答へることが出来るか、どうか訣りません。或は雑駁なお話になるかも知れません。
最初に芸能とはどういふ意味であるか、といふことに就て、私らの見るところを申上げたいと思ひます。大体「語」といふものは、実感をもつて使つてゐる間は、定義によつて、動いてゐるものではありません。使つてゐる間に語が分化して来て、そこで始めて、定義づけてみようといふ試みが行はれるのであります。
我々は芸能といふ語を使つて来、また或点まで、その意味をこまやかに掴んでゐるつもりでもありますが、最近の芸能といふ語の使ひ方には、少くとも二つの中心があつて、その為に、どちらつかずになつてゐると思ひます。而もその間には、調和の出来ぬやうな二つの点に、芸能といふ語の意義が立てられてゐるやうであります。その一つは御承知の通り、今日普通に教育の上で言はれてゐる「芸能科」といふ、あの芸能といふ語の使ひ方であります。この種のものは、我が国に於て従来使はれなくもなかつたでせうが、あのやうに世間話に使はれた例は、なかつたやうに思ひます。つまり、芸能科の芸能といふ使ひ方は、シナの熟語としての芸能に近いもので、いはゆる「芸と能と」というた、従来の辞典式意義を感じてゐるものゝやうであります。
シナにも勿論、史記其他に、芸能といふ語の使はれてゐる例は、尠くないやうですが、従来我が国に於ける芸能といふ語の使ひ方は、さうしたものとは、違つてゐたやうに思はれます。私共の知つてゐるものでは、「兵範記」の仁安二年十一月の条に使はれてゐるのが、一番古い用例であると思ひますが、恐らく、もつと古くから使はれてゐるのに違ひありません。
つまりこれは高倉天皇の御宇ですから、平安朝の末になる訣で、従つてこの語は、もつと溯れることであらうと考へられます。それから後には、「吾妻鏡」にも、あちらこちらに散見しますので、鎌倉時代に熟して来て、盛んに使はれるやうになつたと見られます。一時代一つづゝ拾ひあげるといふのもをかしいのですが、吉野朝の頃になると、辞書に出て来ます。後花園天皇の御代に出来たものと考へられてゐる「下学集」に出て来ますが、この辞書には芸能に関する部門があります。
その中には、純粋の日本語に当て字をした字も、大分あります。従つてこのやうに辞書に使用されたのだから、芸能といふ語の意義は、「下学集」あたりから始めて考へるのが、具合がいゝやうです。
元和版の「下学集」をみますと、芸能に当るところが、「態芸門」と書かれてゐます。これはつまり、芸能といふ語を逆にしたものだと思はれますが、ところが元和版の信用出来ないのは、その最初の目次の部類分けの名称は、「芸態部」といふ風な書き方をしてゐることであります。昔の人は文字を書くのにも、新しく書き代へる時にも、かなり不注意でも通つてゐたのだといふことが、かういふことからも訣ります。そこでその「下学集」の態芸門をみても、驚くことには、非常に分類のむちやくちやになつてゐることであります。その点から少しお話してみませう。
この態が略字になつて能となつたと見られることであります。だから正しく云へば、能芸でよい訣です。譬へば、宮廷の御神楽には、「才男態」と書いてあります。この態といふことをば、我々は才男のしぐさといふ風にみてをりまして、最初のうちはよく訣らなかつたのですが、つまり、ものまねといふことだつたのであります。そして、このものまねといふやうな意味における態の、心を除いてしまつて、能としたことが考へられました。従つてこれを初期になうと読んでゐたかどうか訣りませんが、日本風に読めば、何とか読み方もあつたのでせう。或は態の代りに能としても、共にわざと読んでゐたかどうか訣りませんが、ともかく態から能の方に移つて行つたと見られます。併し、「下学集」などが、当時態芸と書いてゐるのだから、早くから、芸能といふ語ばかりが有力に行はれてゐたとは、思はれません。一方に能といふ発音が、守られてゐたといふことであります。
そこで、能といふのは字はさうなつてゐるが、この能といふ字からは、芸能に関聯した意義を抽き出すことは出来ないのです。つまり、それは、シナの辞書・文献を調べてみれば、どんな意義でも、豊富に抽き出すことが出来るでせう。
だがさういふことは、学者のする遊戯に過ぎません。世間に普通行はれてゐる語は、そんなに珍しげなものではないのです。だから、普通の意義を見てゆかなければなりません。ともかく、芸能といふ語を芸態といつた時代も、能といふことを態といつた時代もあつたと考へられますが、それが何時の間にか能・芸能、といふ語が普通なものになつて来た、とかういふ風に見ることが出来ると思ひます。
古い学問といふものは、何事も分類が不正確で、「下学集」の態芸門を見ても、譬へば、その中には、風流・早歌・曲舞・反閇・申楽・田楽・松囃・傀儡・蹴鞠・笠懸・犬追物といつたものが、並べてあります。
その同じ態芸門の中に、すました顔で芸能といふ語が載せられてをり、その中には大嘗・忌部・綸旨・除目・月俸・碩学・堪忍・大手搦手・野心・籠居・婚姻といふものまでも、這入つてをります。つまり、分類が雑然としてをり、どこにその中心があるのか訣らぬやうに見えるが、だからといつて、態芸門の芸態が、他の意義をもつたものでなかつたに、違ひありません。
たゞ昔の人のふつゝかな分類法が、色々のものを、中に処置するといふことなのだと思ひます。そして配列の位置からいへば、上の方の方々に関係あることの語が、先の方に出てゐるが、ともかく、この態芸門に於て芸能に属するものは、略かういふものだといふことは、現れてゐると思ひます。だから態芸門といふのは字はさう書いてゐるが、態を「のう」と読ましたのかも訣りません。而も分類の中で書いてゐる「のう」は能となつてゐるが、芸と能とを特に語つていふものではないのだと思ひます。
そこでそれはものまねといふことになると思ひますが、これは現代の語で言へば、演芸といふ語になるのでせう。即、私共は、芸能といふ字のさういふ組み合せで表されてゐた範囲をば、大体現代の人のいふ演芸といふ範囲と、同じものだといふ風に考へます。或はもつと猥雑な要素をもつてゐるかと思ひますが、演芸といへば、大体芸能といふ語のもつてゐる内容が、あまり間違はない程度に訣つて来ると思ひます。
次いでこの芸能史といふものを話します前に、まづ申さねばならぬことは、果して芸能史といふことが、普通の歴史のやうに何時代々々々といふ風に分けて言へるか、どうか、といふ問題のあることであります。
実は、芸能の行はれてゐる範囲は、非常に広いことではなく、日本全国としますと、芸能の行はれてゐる所と、行はれてゐない地方があつたに違ひありません。
つまり芸能を見たくても見られぬ地方が、昔からあつたに違ひないのです。ところがさういふところに芸能が行くと、今まで入つた芸能が多少その形を変へつゝ残るといふこともあり、或は保存する力がそれ程ないやうなところで、偶然に古いものを残すといふこともあります。
だから譬へば田楽といふものにしても、鎌倉時代にはどういふもので、室町戦国時代にはどういふ形になつた、といふやうなことは、ほんたうはいへないのではないかと思ひます。何でも概括的にものを言へば、学問だ位に考へる人もあるが、さういふ風に考へるとすれば、日本の国の芸能には当て嵌りません。
おなじ田楽で言へば、あるところでは、古い田楽の形を濃厚に残してゐるかと思ふと、ある地方では、非常に崩れ散乱しかけてゐるといふことが、時を同じくして、見ることが出来るのです。それでも田楽となると、はつきりしてゐるが、他のものでは、一層そのやうなことが、言へなくなつて来ると思ひます。だから、おそろしい程古い形を残してゐるかと思ふと、こんなものがと思はれる程変化してゐる場合があるが、これが日本全体の芸能の形かも知れません。
従つてさういふものを掴へて来て、申楽・田楽を考へてみればかうだといふことは、言へば言へぬ事はないが、ほんたうではないと思ひます。
つまりほんたうの意味で、芸能史といふものを語ることは、出来ぬのではないかと憂ふるのです。併し個々の一々の芸能については、時代との関聯において、その進んで行き退いてゆく行き方を掴へることは出来ます。いづれにしても、一般の歴史の如き意味の芸能史といふものは、ほんたうの意味で考へることは出来ぬわけなのです。
だから厳格に申しますと、芸能史は、民俗学風に扱つて行くより外に、方法はないのではないかと考へられます。つまり我々にとつては、或時代にかういふ芸能が、かうなつてゐた、と言ふことは望ましいが、同時に、その芸能自身が、どういふ形で進退したか、とみることを以て満足する外ないかと思ひます。
恐らくその外に、芸能史といふものゝ掴み様はないのではないかと考へます。我々の先輩、或は同輩の中でも、譬へば高野辰之さんや、猿楽を発生風によい体系を示された能勢朝次さんは、いはゆる歴史式に扱つて、或点まで成功せられてをります。
これは、根本は、都が芸能の中心であつた、といふことであります。つまり結局平安の都を主にしてみてをるといふことです。勿論京都に於ける芸能の変化については、時代区分的な見方も出来ませう。その点において失敗してをりません。
併しそれから一歩出て、範囲を広めれば広めるほど、さういふ立場は、失敗に帰する虞れがあります。同時に、さういふいはゆる歴史式な形においてみなければ、従来の歴史欲が満足しないといふこともありませうし、後の学者にも不平を言ふものがあるかも知れません。
併しさういふ不平を言ふ学者があるとすれば、それは学者の方が、古い方法しか知らぬのです。ともかく芸能史といふ以上、一地方の個々の芸能を時代区分式に見るのでなく、日本全体に渉つて、芸能をみるのでなければならぬでせう。
さうなると単に、従来の歴史式な立場からみることは、不可能になるのです。さうは申しますものゝ、私共のしてゐることは、高野さんや、能勢さんのせられたことよりも、多くの材料が用意してあるといふ訣でもありません。貧弱な材料を料理しながらしてゐることですから、或は空想や、独断に似ないとは言へません。たゞ、かういふ考へを出発点として、今後のよい芸能史が出来てもらひたいと言ふ存念から、この乏しい試みをして来たのであります。
何事も発生学風に研究して行くことであります。その態度からは芸能にしても、最初から何かはつきりした目的を有つて出て来たと考へることは、間違つてゐると言へるでありませう。むしろ最初は、目的はなかつたのでせうし、或はあつたとしても、現在の我々の考へてゐるのと全然違つた目的から出て来た、といふことが考へられるのかも知れません。
文学を例にとりましても、現在の文学に対する我々の考へるやうな目的を以て、文学そのものが最初から出発して来たといふことは言へません。つまり目的が、次々に展開して来てゐる、と考へなければ、文学のほんたうの発生も発展も、訣らぬと思ひます。而も芸術味の深い文学でさへもさうだとすれば、どちらかと言へば卑近な、猥雑味を交へ易い芸能といふ側になると、その目的は容易に把握できるはずではなく、単純に発生の目的をかうだと決めてかゝることの、危険は極りないのであります。
だからこの点については、どういふ機会に芸能が生れて来てゐるかといふことを先、考へてみることが適当であらうと思ひます。さうすれば、芸能の最初の目的も、おのづから訣つて来るか、と考へられるからであります。
平たく申しますと、芸能はおほよそ「祭り」から起つてゐるものゝやうに思はれます。だが、このまつりといふ語自身が、起原を古く別にもつてをりますので、或は広い意味に於て、饗宴に起つたといふ方が、適当かも知れません。つまり宴会の形において、まつりが行はれてをりましたが、まつりの形自身も世の中が進むと共に変つて来たのです。現代人はまつりといへば、社々に行はれるまつりしか考へうかべぬ様にさへなつてゐますが、昔のまつりは、もつと家庭のやうな、雰囲気と感情と、人間とをもつてゐるところから出来てくるのであつて、決して始終森閑として何にもないところにまつりが行はれてゐたといふ、天狗祭りの様なことではなかつたのであります。
譬へば一軒の家の中に、時を定めて非常に盛んなる饗宴が催される、さういふ時に、既にある形に達した芸能が興つて来たものだ、といつて大体差支へないと思ひます。
前に芸能といふものは、漠然と演芸式なもの、といふ風に限つておきました。つまり、どんな芸でも芸能となり得ぬものはない、といふことが言へるわけです。古い時代の芸は、芸能になれるやうなものだけであつた、といふことなのです。
それだから文学などゝいつて、やすつぽい宗教文学が行はれてゐたといふことにもなるのでせう。つまり、演劇・歌謡・曲芸・武技・相撲等といふやうなものが、すべて芸能になることが出来るものをもつてゐます。さういふものがどうして出来て来て、どうして別々の領域をもつやうになつたか、といふことを申上げてみたいと思ひます。其が此話の目的です。
前に申し述べた様な意味のまつりにおいて、つまり神様が出て来られなければ、まつりにはならぬのです。その点教育を受けたものが一番不幸で、神様の現実にゐられぬまつりなるものを感じてをりますが、かへつて教育を受けぬ人には、まつりには神様がそこに来てゐられるといふことが信じられたのです。つまり、教養のある者は、空つぽのまつりを祭りだと考へてゐるのです。此はよくないことです。
今日はそれが普通のやうになつて来てゐますが、茲にはこの点について話すつもりではないのだから、略しておきます。ともかくまつりには実際に、神様が来られるものと信じてゐた時代の話です。それがある一つの大きな家だといふことで、推察して頂きたい。そして、もと芸能とすらも感じてゐなかつたものに、だん/\一つの目的が生じて来ますが、同時にまた、その目的観が芸能を次第にまとめ、つくり出して来ることになります。
その目的観をもつて来る動機から、先、考へてみなければならぬと思ひます。いつたい目的を生ずるといふことは、その前にある動作が固定して来なければならぬ、つまり習慣になつて来なければならない、といふことでせう。そしてその習慣を繰り返してゐるうちに、それがどういふ訣で繰り返されてゐるかといふことで、その目的を考へて来ることになるのです。さうしてその目的らしいものをとり出して来て、今度はその目的に合つたやうな風に、だん/\芸能の形を変へて来ます。謂はゞ変改されて行く訣です。つまり、まだ芸能といふことが出来ぬ時代ですが、それが形式化し固定し、儀式の上に出来て来ます。――儀式の中には勿論、芸能化せぬものもある。――儀式が芸能だといふことを、あやしくお感じになられる方があるかも知れぬが、我々のもつてゐる芸能は、皆さういふところを通つて、今日に至つてゐるのであります。それはともかく、かう言ふ儀式を繰り返してゐる間に、熟練して来て批評したり、鑑賞したりする自由が生じる訣です。そして、儀式をどんなに巧みに行つたか、否か、といふことが、批評や鑑賞を生み出す根本になります。
さういふ風になると、儀式は次第に芸能に変つて来ます。つまり儀式を行ふ為に、練習といふより訓練を受ける機会が多くなり、更に芸能になると、それが演出する人の監督によつて行はれる、といふことになつて来る訣なのでせう。儀式の時代には修練を指導する人は必要であつたが、演出するといふことはない訣です。
そこでこれを引き延して考へて見ますと、かのまつりに、遠い所から神様が出ておいでになる。更にいへば、ある晩を期し、いつも必、ある大きな家へ遠来の神が、姿を現される、といふことになりますが、其際、沢山の伴神を連れての来臨の場合が多いのです。
そこでその家の主人が、その来臨せられた神達を饗応することになりますが、その主となる神がまれびとなのです。つまり、横座の神であります。横座といふのは、左右の座に対して、真中の座になるが、左右の方から言へば横座になる訣で、そこに坐して居られる神なのです。
そして饗宴が行はれる訣ですが、やがてその神が立つて、めい/\定つただけの儀式的な舞踊のやうなものを行はせます。と同時に、この時に歌謡なり或は詞章を唱へるといふことも、あつたに違ひない。我が国の後世の宴会には、この形がよく残つてゐます。この来臨の神の行動と共に、主人側から舞をまひ、謡ふものが出て来るといふ順序になつてをります。これは恐らく主人側が先で、来臨の神の方が後と思はれるが、この点はまだ、はつきりと申されません。
これは饗宴に現れて来る神を中心とした儀式の輪廓の想定ですが、そこへ出て来た神々が、謡つたり舞つたりするといふことは、簡単なことではないので、根本には必、指導者が居て教養を与へてゐるに違ひありません。さういふ修練を繰り返したまつりの時に、実際は出て来る訣です。その点もつと詳しく神様の姿で申してみませう。