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贋物
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贋物
葛西善蔵
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Traducción Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 5 of 7

五

四月も暮れ、五月も経って行った。彼は相変らず薄暗い書斎に閉籠って亡霊の妄想に耽っていたが、いつまでしてもその亡霊は紙に現れてこなかった。

ある日雨漏りの修繕に、村の知合の男を一日雇ってきた。彼は二間ほどもない梯子を登り降りするのに胸の動悸を感じた。屋根の端の方へは怖くて近寄れもせなかった。その男は汚ない褌など露わして平気でずぶずぶと凹む軒端へつくばっては、新しい茅を差していた。

彼は屋根の棟に腰かけて、ほかほかと暖かい日光を浴びながら、健康に育った子供の時分のことを想いだして、不甲斐なくなった自分の神経をわれと憫笑していた。一度もまだはいって行ってみたことのない村の、黝んだ茅屋根は、若葉の出た果樹や杉の樹間に隠見している。前の杉山では杜鵑や鶯が啼き交わしている。

ふと下の往来を、青い顔して髯や髪の蓬々と延びた、三十前後の乞食のような服装の男が、よさよさと通って行くのが、耕吉に見下された。

「あれは何者だ?」

「あれですかい、あれは関次郎というばかでごいす」

「フーム、……そうか」

彼は何気ない風して言ったが、呼吸も詰るような気がされた。「なるほど俺もああかな、……なるほど俺と似ているわい」

彼はそこそこに屋根に下りて、書斎に引っこんでしまった。

青い顔して、人目を避けて、引っこんでいる耕吉の生活は、村の人たちの眼には不思議なものとして映っていた。「やっぱしな、工藤の兄さんも学問をし損じて頭を悪くしたか……」こう判断しているらしかった。でそうした巌丈な赭黒い顔した村の人たちから、無遠慮な疑いの眼光を投げかけられるたびに、耕吉は恐怖と圧迫とを感じた。新生活の妄想でふやけきっている頭の底にも、自分の生活についての苦い反省が、ちょいちょい角を擡げてくるのを感じないわけに行かなかった。「生活の異端……」といったような孤独の思いから、だんだんと悩まされて行った。そしてそれがまた幼い子供らの柔かい頭にも感蝕して行くらしい状態を、悲しい気持で傍観していねばならなかった。

永い間、十年近い間、耕吉の放埒から憂目をかけられ、その上三人の子まで産まされている細君は、今さら彼が郷里に引っこむ気になったという動機に対して、むしろ軽蔑の念を抱いていた。

「あなたには他人への迷惑とか気の毒とかいう心持が、まるで解らないんですねえ、まったく平気なんだから……」

細君は何にかにつけて、耕吉の独立心のないことを責めたてた。弟の手に養われて、それをよいことかのように思っている良人の心根が、今さらに情けなくも心細くも思われるのであった。

「あなたはあまり気がよすぎるですよ、……正直すぎる」

こうも言って、彼が他人の感情に鈍感で、他人の恩恵を一図に善意にのみ受取っている迂遠さを冷笑した。「ばか正直でずうずうしくなくてはできないことだ」細君は良人の性質をこうも判断した。

「ばか言え、お前なぞに何が解る……」彼は平気を装ってこう言っているが、やはり心の中は咎められた。……

下の谷間に朝霧が漂うて、アカシアがまだ対の葉を俯せて睡っている、――そうした朝早く、不眠に悩まされた彼は、早起きの子供らを伴れて、小さなのは褞袍の中に負ぶって、前の杉山の下で山笹の筍など抜いて遊んでいる。

「お早うごいす」

暗い中に朝飯を食ってそれぞれ働きに行く村のおやじどもが声をかけて行く。それがまたまじめで、健康で、生活とか人生とかいうことの意味を深く弁えている哲人のようにも、彼には思われたりした。そしてこの春福島駅で小僧を救った――時の感想が胸に繰返された。

「そうだ! 田舎へ帰るとああした事件や、ああした憫れな人々もたくさんいるだろう。そうした処にも自分の歩むべき新しい道がある……」

しかしその救いを要する憫れな人というのは、結局自分自身にすぎなかったことに気がついて、さすがに皮肉を感じないわけに行かないのであった。

離れていても、継母はおりおり耕吉への皮肉な便りを欠かさなかった。「あまり勉強がすぎても身体に毒だから、運動がてらその辺の往来の馬糞を集めておいてくれ」といったようなことである。耕吉はそんな便りを聞くたびに、妻子の前へも面はゆい思いのされたが、苦笑にまぎらしているほかなかった。

「お継母さんはあのとおり真向な、念々刻々の働き者だからいい人だと思うけれど、何しろあの毒舌には敵わん。あれだけは廃してくれるといいと思うがなあ。老父までもかぶれてすっかり変な人間になっちゃったよ。俺も継母が来てから十何年にもなるけれど、俺は三月といっしょに暮したことがないもんだから、俺は俺の継母ほどいい継母というものは日本じゅうどこ捜したってあるまいと思ってたんだがね、今度ですっかり継母の味というものが解っちゃった」

耕吉は酒でも飲むと、細君に向って継母への不平やら、継母へ頭のあがらぬらしい老父への憤慨やらを口汚なく洩らすことがあった。細君は今さらならぬ耕吉の、その日本じゅうにもないいい継母だと思っていたという迂愚さ加減を冷笑した。そして「私なんか嫁入った当時から、なかなかただの人ではないと思ってた」と、誇らしげに言った。

「私なんかには解りませんけど、後妻というものは特別に可愛いもんだといいますね。……後妻はどうしても若くもあるし、……あなたも私とあのようになっていたら、今ごろは若い別嬪の後妻が貰えてよかったんでしょうに」

「そうしたもんかもしれんな。してみると老父へも同情しなければ……。俺はいっこうばかだから、そうしたことさえお前に聴かないと解らないんだ。……俺などには何も書けやせん」

亡霊の妄想を続ける根気も尽き、野山への散歩も廃めて、彼は喘ぐような一日一日を送って行った。ともすると自然の懐ろは偉大だとか、自然が美しいとかいって、それが自分とどうしたとかいうでもない、埒もない感想に耽りたがる自分の性癖が、今さらに厭わしいものにも思われだした。晩酌の量ばかりがだんだんと加わって行った。十円の金のほとんど半分は彼の酒代になった。その結果はちょいちょい耕太郎が無心の手紙を持たされて、一里の道を老父の処へ使いにやらされた。……継母が畑へ出た留守を覘うのであった。それでも老父は、

「耕太郎可愛さにつき金一円さしあげ候、以来は申越しこれなきよう願いあげ候」といったような手紙の中に、一円二円と継母に隠した金を入れて寄越した。

「俺もせめて二三年前に帰ってくるとよかった。そして小面倒な家族関係で揉まれていたら、今ごろはもう少し人間が悧巧になっていたかと思うけれど、何しろのっぽう一方で暮してきたんだから自分ながら始末にいけない。そこへ行くと惣治の方は俺と較べてよほど悧巧だ。あれはどんなに酔払っても俺にもそんな話はしないが、俺はこのごろになってようよう、彼がああして家を出て他郷で商売をする気になった心持が解ったよ。彼は老父たちにさえそうした疑念を抱かせないような具合にして、いつの間にかするりと家を脱けていたんだからね、よほど悧巧なところがある」

「そりゃ惣治さんの方は苦労してるからあなたとは違いますとも。だからあなたもいっそ帰ってなぞこなければよかったんですよ。どう気が変って帰ってなぞきたんでしょう。親たちがどんな生活をしてるかもご存じなしに、自分ほどえらいものはないという気でいつまでも自分の思いどおりの生活をして通した方が、あなたのためにはよかったんでしょう。……あなたの芸術というもののためにも、その方がどれほどよかったかしれないと思いますがね、私たちにはわかりませんけど」一生亭主と離れていても不自由ないという自信でも持ってるらしい口吻で、細君は言った。

「そうだったかしれない」と耕吉も思った。

「やはり俺のように愚かに生れついた人間は、自分自身に亡霊相手に一生を終る覚悟でいた方が、まだしもよかったらしい。柄にもない新生活なぞと言ってきても、つまりはよけいな憂目を妻子どもに見せるばかしだ」さりとて継母の提議に従って、山から材木を出すトロッコの後押しに出て、三十銭ずつの日手間を取る決心になったとして、それでいっさいが解決されるものとも、彼には考えられなかった。

初夏からかけて、よく家の中へ蜥蜴やら異様な毛虫やらがはいってきた。彼はそうしたものを見るにつけ、それが継母の呪いの使者ではないかという気がされて神経を悩ましたが、細君に言わせると彼こそは、継母にとっては、彼女らの生活を狙うより度しがたい毒虫だと言うのであった。

彼は毎晩酔払っては一時ごろまでぐっすりと睡りこんだ。眼が醒めては追かけ苦しい妄想に悩まされた。ある時には自分が現在、広大な農園、立派な邸宅、豊富な才能、飲食物等の所有者であるような幻しに浮かされたが、また神とか愛とか信仰とかいうようなことも努めて考えてみたが、いずれは同じく自分に反ってくる絶望苛責の笞であった。そして疲れはてては咽喉や胸腹に刃物を当てる発作的な恐怖に戦きながら、夜明けごろから気色の悪い次ぎの睡りに落ちこんだ。自然の草木ほどにも威勢よく延びて行くという子供らの生命力を目の当り見せられても、讃美の念は起らず、苦痛であった。

Chapter 5 of 7
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