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中世の文学伝統
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中世の文学伝統
風巻景次郎
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Chapter 4 of 20

二

中世というのは鎌倉時代・吉野時代・室町時代そして安土桃山時代の始まるまでを包括して便宜的に使った名称である。この時代は平安時代の伝統を承け継いで、全く京都の宮廷を中心にした公家の間に和歌の伝統が流れる時代である。近世の江戸時代になると、京都の公家の和歌はいわゆる堂上家の歌といわれて、幾分旧式のように見られ庶民の間に新しい和歌の流れが根を張ってくる。大体この庶民階級に和歌熱が生れてくる以前が中世の下限という位に見て扱おうと思う。

さてこの時代の和歌の根本的特質は、それが唯一の日本文学の伝統であったということである。漢詩と相対立する唯一の日本語の詩であったということである。しかしそういえば、諸君はただちに、平安朝時代にすでに美事な物語、ことに『伊勢物語』や『源氏物語』や『夜半の寝覚』がつくられているではないか、それにまた『蜻蛉日記』や『枕草紙』や『更級日記』やのような美しい日記随筆の類が生れているではないか、そしてそれらはいずれも立派な文学ではないか、と考えられるかも知れない。勿論そうもいえるし、それが今日までの常識でさえもある。けれどもそれらが今日から見て文学と感じられるようになったのは和歌風に彩どられた感情的表現にたすけられて、それによって文学と感じられるものが随分多いのであって、つまりは和歌を主軸にしてその周辺に咲き出た花であった。そして物語の主軸は実は文学という点にはないのであって、それは古代の歴史伝承の方法であった語部の物語が、文字に移された過程の延長なのである。だから、平安朝の物語の主題には何か神の世界から縁の切れきっていないものが多い。その事は『竹取物語』のように、月世界から罪によって下界へ堕ちた天女が、再び月世界へ昇天してしまうというような話にははっきり感じる事が出来るであろうけれども、実は光る源氏の君でも現実の人間の写実的描写とばかりは決していい切れないのである。源氏の君も何かの垂跡であって、その本地が探られ得るのでないかという気もする。とにかく物語という名称には文字のなかった時代のもの語りの古い観念が残っているのである。だから平安時代にはまだ物語と歴史との概念は充分分化していないのである。その証拠は、『源氏物語』の調子で藤原道長を中心に藤氏の栄華の歴史が書かれると、それは『栄華物語』である。その同じ主題が大宅世継の昔話として書かれると世継物語ともいえたし『大鏡』ともいえた。世継物語とは歴史物語の意だし、『大鏡』の鏡は支那の『資治通鑑』などの鑑と同じく、支那史学の立場から見た歴史の意味を持っている。とにかくに物語の主軸は歴史だったので、平安時代には物語はすでに文字的創作文学に変質しつつあったにしても、一方にまだ厳として物語即歴史という観念を保存しておった。そうした中では『源氏物語』が今日の文学というに適わしい所まで変質しきった形を見せている最初のものといってよいかも知れない。

それに比べると、『枕草紙』のような随筆は、その発想に和歌に近いものがあったようである。日記にもそれがよく出ているようである。つまり物語よりも一層文学的であったのである。

ところで私は不用意に文学という言葉をときどき使ったが、その文学とは、せまい意味の文学的な今日いうところの文学のことなのであって、それの本質は、個人の心情を通した抒情である。随ってそれはまた、読者の個人的心情を抒情的にする。その意味からして、平安時代から中世を通じての文学伝統の主軸は和歌であったと見なければならぬ。物語などはまだ歴史と詩との間に揺らいでいたのである。以上のように文学伝統の主軸であるという意味から見ると、中世の和歌はなかなか重大な意味を持つものとなってくるのである。だから中世和歌を考えることは、宮廷を中心とした唯一の文学伝統の主軸を考えることになるのである。

さてその和歌の軸になるものは、歴代の勅撰の和歌集である。これが平安時代に六集、鎌倉時代に十集、吉野・室町時代に五集、併せて二十一集撰ばれている。これを併せて二十一代集と名づけている。これは後々まで必要だから、次にその表を掲げて置くことにしよう。

一体『万葉集』にも勅撰説があるのだし、あるいはそれは有力な考えになりはしないかとも思うのであるが、明確でないから避ける。『古今集』以後の和歌集が勅によって撰ぜられたのは、『経国集』・『文華秀麗集』・『凌雲集』などの詩集が勅によって撰ばれたのに倣ったのであるが、一度『古今集』が出てからは、これが永く御歴代の催しとなった。和歌の伝統が宮廷に確立したことがそこにもあらわれているわけである。

右の表を見られると分るが、『古今集』が二十巻になったので、その後も殆ど二十巻である。それから右の表には出してないが、歌の部立、つまり分類も、『古今集』が春・夏・秋・冬・賀・離別・羇旅・物名・恋・哀傷・雑・雑体・大歌所御歌としてから、大体この方針が承け継がれた。物名や大歌所御歌などは後ではなくなったり、神祇・釈教の部が立てられたりしたが、四季・恋・雑の三大部は『古今集』この方、勅撰集の根幹となった。そうした歌集編纂の分類形式にまで、『古今集』の型が根強く承け継がれた。

そうした形式の上だけにとどまらず、勅撰二十一代集が文学の主軸をなした時代というものは、歌の声調までが古今調であったのである。『万葉』の声調と『古今』の声調との間には、かなりのひらきがある。勿論一から十までそうというのではなく、『古今集』の中でも割に古い歌と思われる読人不知の歌、つまり作者不明の歌には、万葉風の感じられる歌もあるが、大体の特色をなす声調は、『万葉』と『古今』とではかなりちがっているのであって、ことに、『古今集』の方には、宮廷の雅会に引きつけられた貴族的な、教養人的な感じが深い。二十一代集は全くその『古今集』の声調を承けていて、万葉集的なところは感じられないのである。こうした作品自体の性質までが、『古今集』への信頼をあらわにした伝統を背負っているのを見ると、宮廷中心の和歌の主軸がどのようにはっきりしたものであるかということがわかるのである。このことは、別に一々例を挙げて説明するまでもなく、実地に読めば誰にも分る事実なのだから、一つの基礎条件として念頭にとどめて置くことにしよう。

さて、そうした予備智識をはっきりさせた上で、今一度右の表を見直すと、平安末期の『金葉集』と『詞花集』とだけが十巻になっていて、歌数もはるかに少ないことが著しく眼につくであろう。それに、『古今』の後に撰び、遺れるを拾うという題号にもあらわれているように、『古今』『後撰』『拾遺』の三集は互に先の集を承けて仕事をしている意識が題の上にもはっきり出ている上に、歌風も殆ど同じといってよい。『拾遺集』で少し感じが変るけれども、大体同じと見てよいのである。だからこの三つを併せて三代集と名づける。『古今集』の歌風のもととなる集は、『古今集』だけでなく、三代集を指すのが普通になって来ているのである。そして、そのつぎは『後拾遺』という風に、やはり前を承けた態度で題名もつけているのであるが、『金葉』『詞花』となると、題名も全く別の詞花言葉を愉しむというような風雅の宴遊気分に立脚したような、題名になっている。これはいわば、『古今集』この方の感じ方うたいかたがここだけで力を失くしておることになるのであって、なかなか注意に価することなのであり、それだけにつぎの『千載集』で、ふたたびもとの伝統的な型に復しているという現象も、なみなみでなく注意しなければならぬ問題なのである。

一度崩れ出した伝統は、並みのことではもとに復するものではない。大方は新しい流れに押されて行ってしまうものである。それが立ち直ったのだから、『千載集』の復古主義は非常に力の強い、旗幟鮮明な運動であったことを承知しなければならない。ここに実は中世文学の開始があったのだともいえるのであろうが、とにかくこの現象は並々のものではない。そこで一体こうした出来ごとはどうして生じ得たのであろうか。私はこの問題に托して、中世和歌の説明をはじめることとしよう。

和歌、というよりは京都宮廷の文化の一転機が、『拾遺集』から『後拾遺集』の頃にはらまれつつあった。花山・一条の御代から後三条・白河の御代にわたる頃で、御堂関白道長から、その子宇治関白頼通の頃、美術史の方でいえば法成寺や宇治の平等院が出来たいわゆる藤原時代の頂上で、文学史の方でいえば『枕草紙』『源氏物語』『狭衣』『夜半の寝覚』『浜松中納言物語』『更級日記』などの生れた頃である。

この頃の芸術全体の上の特色は絵画的要素の支配した点であった。絵画的ということは、彫刻や建築やを一層視覚的快楽に奉仕させるようになる。線条は繊細に、色彩は美麗になる。絵画には仏像画ばかりのところへ風景画が成立する。そして広大な空間を感じさせる画面が成立するようになる。文学の上では描写が成立して、読む中に、まざまざと視覚的映象をよびさますような技巧が生れる。これを文芸的な方でいえば、『枕草紙』などは絵画的特色の粋ということが出来るであろう。日本の歴史の上で未だあらわれたことのないものであった。

たとえば、

五月ついたちなどの頃ほひ、橘の濃く青きに、花のいと白く咲きたるに、雨の降りかゝりたるつとめてなどは、世になく心あるさまにをかし。(三十四段)

ここに橘を、葉の濃青と花の白さとでとらえている、色彩感覚的な技法を、記憶にとどめられたい。しかもそれはあかるい昼の日なたでもなく、はなやかな夕陽の中においてでもなく、ただ雨の降っている早朝の、冷え冷えとした、ほのあかるさの中の橘をのみたたえているのである。

もちろん橘そのものは『万葉集』以来、王朝の貴人になじみの深いもので、紫宸殿の御庭先にも植えられている右近橘である。題材としての新しみは何もない。にもかかわらず、右の表現が印象的なのは、眼で見た橘の性格をはっきりと感覚していて、それを一ばん強調できる時刻とか、天候とかに配合して見せたからである。つまりは空気と光線との中でものを見た。これが絵画的な効果の源なのであるが、そのことは、ちょうどこの時代から生れてくるのである。

勾欄のもとに青き瓶の大きなる据ゑて、桜のいみじく面白き枝の五尺ばかりなるをいと多くさしたれば、勾欄のもとまでこぼれ咲きたるに、昼つ方、大納言殿の直衣の少しなよらかなるに濃き紫の指貫、白き御衣どもうへに濃き綾のいとあざやかなるを出だして参り給へり……うらうらとのどかなる日の気色いとをかしきに……(二十段)

などは、うららかな春昼、満開の桜の枝と大納言(若い皇后定子の兄君伊周公である)との配合の美しさである。

秋は夕ぐれ、夕日はなやかに射して、山の端いと近くなりたるに、烏の寝所へゆくとて三つ四つ二つなどとびゆくさへあはれなり。(一段)

にしても、

日は入日、入りはてぬる山際に光のなほとまりてあかう見ゆるに、薄黄ばみたる雲のたなびきたる、いとあはれなり。(二〇五段)

にしても、入日の美しい場合をはっきりと捕えている。こうした絵画的な美しさがどうして生れたかは第二として、これがひたむきな感動の表白などでなく、鋭い感力でしずかに細かく対象を感受しているものだということは分ろう。そしてその美しさは詠嘆調の美しさではなく、感性的な美しさであることもたしかである。こうした美しさは、近代でいえば木下利玄の歌に見えた視覚的な美しさであった。根源には視覚によっているけれども、冷徹な智的判断の是非とも要り用なものなのである。そして『枕草紙』で成功した、こうした美しさを、和歌が採り入れはじめたのである。

山ざくら花の下風吹きにけり木の下ごとの雪のむらぎえ    (康資王母)

山深み杉の群ら立ち見えぬまで尾の上の風に花の散るかな   (経信)

木の下の苔の緑も見えぬまで八重散りしける山桜かな     (師頼)

このような歌が出来はじめた。勿論これは『新古今集』に取られた歌で、『金葉』『詞花』の頃にはまさかこんな歌は取られていない。今少し『古今集』この方の抒情調に近い形のものが取られている。

梢には吹くとも見えで桜花かをるぞ風のしるしなりける    (金葉)

風吹けば蓮の浮葉に玉こえて涼しくなりぬひぐらしの声    (〃)

この里も夕立しけり浅茅生に露のすがらぬ草の葉もなし    (〃)

鶉鳴く真野の入江の浜風に尾花なみよる秋の夕暮れ      (〃)

白川の春の梢を見渡せば松こそ花のたえまなりけれ      (詞花)

掃く人もなきふるさとの庭の面は花ちりてこそ見るべかりけれ (〃)

名残なく時雨の空は晴れぬれどまた降るものは木の葉なりけり (〃)

これは金葉時代の大立物源俊頼の歌ばかりであるが、『金葉』『詞花』に取られたのは大体この程度であった。けれどもとにかくこの感覚的に対象を捕えようとする技法が取られるようになったということは、理智的な技巧がものをいいはじめたことであって、そのために歌の抒情の要素がそこなわれるようになったのである。

ところが、絵画的ということに附随して歌の方に流れ込んだ今一つの特色があった。それは駄洒落である。一体古代の笑いは敵魔懾伏の魔法であったことが民俗学の方から次第に明らかにされて来ているが、そこまでは溯らなくても、奈良・平安時代の御神楽には、天鈿女命が岩戸の前で踊ったように、おかしな身振りをしたり、人を笑わせるつもりで、こそぐりをいったりすることがつきものになっていた。神の心をすずしめるには、人間のよろこぶものと同じものが必要だったのである。そうしたことが、後宮の女房の間にもなかったとはいえぬ。『万葉集』には志斐嫗というのが戯言で持統女帝の御相手を申しあげているが、そうした役の女房が後宮にも必要であった。皇后や中宮やのおそばをつとめる身分高い女房は、時には后の宮の妹君がつとめられたり、公卿の娘がつとめたりする。その中で下級の殿上人の娘くらいの者が、尻軽るにちょこまかと細かな役をつとめる下役の女房になる。駄洒落や軽る口をたたいて、宮の内に笑を作るのもこの身分のものである。清少納言などもそうした女房の一人であった。『枕草紙』にも「をかし」という形容詞が頻発するのを、ただ軽く「おもむきがある」という風に置き換えて読んでいると少し見当がちがうようである。とにかく清女の笑いは、彼女がそうした役目を引きうけるに最も適した性格の持主であったためもあろうけれど、単に自発的な笑いであるよりは、多分に宮仕えのつとめとしての笑いでもあったようだ。『枕草紙』はそうした任務にあったために後天的にも一層そうした心の角度でものを捕えるようになった一女性の印象記であるともいえるであろう。

神楽の闇夜の篝火のそばで、採り物の歌の後、御酒をいただいた楽人たちがたくらんだ戯言と同じ性質の笑い言が、清女の筆を通して文学の形を取り得た頃、同じように、駄洒落は和歌の中へも流れ込んできた。『千載集』の撰者藤原俊成が、その名著『古来風体抄』の中で『詞花集』を批評していった次の言葉に目をとめられたい。

詞花集は殊に様はよく見えはべるを、余りにをかしき様の振りにて、ざれ歌ざまの多く侍るなり。

この言葉は本当である。

今日よりはたつ夏衣うすくともあつしとのみや思ひわたらむ

山彦のこたふる山の時鳥ひと声なけばふた声ぞ聞く

胸は富士袖は清見が関なれや烟も波もたたぬ日ぞなき

我が恋は蓋見かはれる玉櫛笥いかにすれども合ふかたぞなき

これはみな『詞花集』の歌であるが、こうした狂歌まがいの作品が、勅撰集をかざるようになったということは驚くべき事実であった。

『枕草紙』にけざやかにあらわれた感覚的な絵画的な叙景文や、ものを「をかし」と感ずる随想は、たしかに新文学の発生であった。しかしこの新傾向が『後拾遺集』頃から芽を出して、『金葉』『詞花』を飾ったのは、同時にまた歌における新傾向の発生であったとだけはいいきれぬものがある。つまりは、和歌にとっての非常な危機がここにめぐってきていたのだといえると思う。それに引きかえて、『源氏物語』を読まれた諸君はもちろん、与謝野晶子女史の『新訳源氏物語』の類を通読された人でも感じられた事と思うが、『源氏物語』のあの散文描写には、『伊勢物語』の和歌などにも見えることであるが、言いようもないふかぶかとした抒情調が存しているのである。このことも仇やおろそかに見すごしてしまうことは出来がたい大問題なのである。

それまで歌であらわしていたしみじみとした抒情を、かえって、物語の方が美事にしてのけて、それによって『源氏物語』のような立派な描写文学が成立する一方で、和歌はこれまでうたいつづけた行き方では立ち行かなくなって、『金葉』『詞花』のように感覚的表現や戯言にたよるようになっていったということは、とおい平安時代のこととして気楽に見てはすごせないものである。和歌が短歌の形式を守る限り、その頃の堂上人たちは、自由に楽に抒情をすることが出来にくくなっていたのである。短歌文学の危機であったと思われる。

それを暗示する一つの逸話を挿むことにしよう。それは『今鏡』という鎌倉の初期に書かれた歴史文学の「村上源氏、にひまくら」の章にのっている話だが、源雅定が若い頃、石清水臨時祭へ勅使となって臨んだことがあったが、式がすんで退出するとき、松の梢に時鳥の鳴くのが聞えた。時の陪従、つまり勅使のお供をして、神前に音楽を奉納するお供の楽人であるが、その陪従の一人が『金葉集』の撰者の源俊頼であった。雅定は俊頼に向っていった、「木工の頭の殿はあの声をお聞きですか」。すると俊頼はすぐ、「思いもかけぬ春鳴けばといった趣でございますな」と答えた。これは『後拾遺集』春下に、

三月つごもりに時鳥の鳴くを聞きてよみ侍りける 中納言定頼

郭公思ひもかけぬ春なけば今年ぞ待たで初音聞きつる

とあるのを思い浮べての返事であった。『今鏡』の筆者は、突差の場合、下手な歌など無理に詠んだりするよりは、この方がはるかに立派だと評している。そして驚くべきことに、批評された相手は当代第一の歌の大家なのである。こうした説話が伝わっている所を見ても、和歌は親しむべきものでなく、漢詩などと共に、なかなかやかましい教養とか学問とかいった風のものになってきておったことが分るであろう。つまり和歌が行きつまっていたと言うことである。

『金葉』『詞花』という前代の集に異を樹てたような集名といい、それが、十巻しかないことといい、歌の特色の上に顕著な変化が生じたことといい、それらはかくて、短歌自体に危機の迫っていたことを意味するほかのものではなかったのである。

『千載集』はそのあとを承けて編纂された。どうして『金葉』『詞花』時代の和歌の足どりの乱れは立ち直ったのであろうか。これを問題に立てて考えを進めれば、中世和歌の伝統は、割合に誤りの少ない見透しをつけることが出来ると思うのである。

註 右の部分の考え方については、拙著『新古今時代』を参考していただければ幸である。

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