Chapter 1 of 12

私とキャッチ・ボールをしてください

金曜日の午後、高等学校からの帰り道、いつも乗る私鉄の十二両連結の電車のなかほどの車両から、三年生の伊藤洋介はプラットフォームに降りた。どの車両からも、何人かの乗客が、それぞれになぜか疲労した様子で外へ出てきた。線路をむこうへまたぐ木造の建物が、プラットフォームの端にあった。誰もがそこにむけて歩いた。

歩きながら伊藤洋介は空を仰いだ。梅雨のあいまの曇った日だった。空は均一に灰色だった。空を見渡したあと、彼はふとふりかえった。おなじクラスの女性が歩いて来るのを、洋介は見た。遠山恵理子という名の女性だった。

洋介の視線が彼女の目と合った。恵理子は淡く微笑した。いつ見ても静かに落ち着いた雰囲気を保っている、聡明そうな美少女だ。洋介は立ちどまった。恵理子を待った。そしてふたりは肩をならべて歩いた。恵理子と洋介はおなじ背丈だった。

発車した電車は駅を出ていき、すぐむこうにある一級河川にかかる鉄橋にむけて、走り去った。

「いつもここで降りるの?」

洋介がきいた。

「そうよ」

「知らなかった」

「私は知ってたわ」

「どうして?」

「何度も見かけたから」

木造の建物の階段を、ふたりは上がっていった。線路を越え、反対側の階段を降りた。駅の北口からふたりは外へ出た。

洋介が母親とふたりで住んでいる部屋のある建物まで、駅から歩いて十分かからなかった。部屋のある位置を洋介は恵理子に説明した。恵理子も家の場所を教えた。ふたりが住んでいる場所は、歩いて五分ほどの距離だけ離れていることが、おたがいにわかった。

駅前から続いている商店街を、ふたりは抜けていった。やがて正面にT字交差が見えた。

「あそこを僕は右へいく」

と洋介は言った。

「私は左です」

恵理子が答えた。そして、

「川へいってみましょうよ」

と、彼女は言った。

ふたりはT字交差を右へ曲がった。住宅地のなかを道なりにまっすぐいくと、やがて川の土手が正面に見えた。その高い土手に造ってある階段を上がった。

土手の道に立つと、川幅が広いところで三百メートルはある川のぜんたいを、左右へ視界いっぱいに見渡すことができた。都市部を流れる川の平凡な光景が、その視界のなかに続いていた。

土手の上の道をふたりは川下にむけて歩いた。このあたりの川原は国が管理する公園施設となっていた。粗末なバックネットの立つ野球のグラウンドがふたつ、土手に沿ってならんでいた。手前のグラウンドでは、会社勤めに見える人たちが、試合をおこなっていた。隣りのグラウンドに人はいなかった。

恵理子と洋介は立ちどまって試合を見た。

「練習試合だね」

洋介が言った。

恵理子は洋介に顔をむけた。彼の横顔を見てひと呼吸だけ置き、

「野球の選手だったのですって?」

と彼女はきいた。

洋介は苦笑した。

「ずっと以前だよ。リトル・リーグ。僕はキャッチャーだった」

洋介の返答に、恵理子はうれしそうに微笑を深めた。洋介は子供の頃もいまとおなじく、細身の優しそうな少年だった。しかし、外見が人にあたえる印象とは大きくちがって、彼は頼りになる優秀なキャッチャーだった。

「なぜ知ってるの?」

洋介はきいてみた。

「クラスの人が言ってました」

土手の道をさらにしばらく川下へ歩き、やがてふたりはおなじ道を引き返した。練習試合がおこなわれているグラウンドの上まで戻って、ふたりはしばらく試合を見た。

「もう野球はしないの?」

恵理子がきいた。

洋介は首を振った。

「ゲームは楽しいけれど、最後は勝ち負けになってしまうから」

「明日の土曜日は、なにをしているの?」

「なにもしてない」

「私とキャッチ・ボールをしてください」

「キャッチ・ボールを?」

「ええ」

「きみが?」

「そう。私が」

「キャッチ・ボールを」

「してください」

「雨は降らないかな」

「だいじょうぶよ」

「グラヴは?」

「持ってます」

「野球のボールなんか、僕はもうずいぶん投げてないよ」

「ひさしぶりに」

「そうだね。よし、明日はキャッチ・ボールをしよう」

「午後、このあたりで」

きれいに澄んだ熱意が、彼女の口調のなかをまっすぐにとおっていた。

「二時くらいかな」

「そうね」

「ここで会おう」

という約束をした日の夜、洋介はグラヴを捜してみた。子供用のキャッチャーズ・ミットが、かちかちになって現れた。大人用のグラヴもひとつ見つかった。遊撃手が使うグラヴだった。人にもらったものであることを、洋介は思い出した。みすぼらしく古びていた。ボールはどこにも見あたらなかった。

次の日は晴れた。午前中、十時前に、洋介は部屋を出た。電車で都心へ出て、スポーツ用品のディスカウント・ストアへいった。野球用品の売り場で、キャッチャーズ・ミットの本格的なものをひとつ、彼は選んだ。ボールも買おう、と彼は思った。硬式と軟式とのあいだで、彼は少しだけ迷った。それぞれを手に取った彼は、どちらをも遠山恵理子のイメージに重ねてみた。恵理子は軟式のボールではなかった。だから洋介は、「プロの試合にも使用されています」と能書きの添えてある硬球をひとつ、ミットとともに買った。

お昼過ぎに彼は部屋に戻った。母親の小夜子が昼食を作っていた。彼はそれを途中から手伝った。

「野球のグローブを買いにいったの?」

小夜子がきいた。

「グラヴ」

洋介が答えた。

「なんですって?」

「グローブではなくて、グラヴ」

「そうですか、ではグラヴ」

「素晴らしいのを買ってきた」

「野球をするの?」

「キャッチ・ボールだよ」

小夜子は洋介が中学一年のときに離婚した。ひとりだけいた子供である洋介を彼女が引き取り、現在に至るまでふたりだけの生活が続いていた。小夜子は成人教室で書道の講師をしていた。実家は書道教室のチェーンを持ち、彼女の父親は、そして祖父も、名を知られた書家だった。

小夜子はほっそりした体つきの、姿のいい女性だ。美人、と誰もが言っていた。美人であることは確かだが、彼女はほとんどいつも静かで目立たなかった。人にあたえる印象が常にきっちりとしていて、崩れたところがまったくなかった。しかしそれは彼女に対して人が感じてくれる、安心感や信頼感でもあった。縁なしの眼鏡をかけることがあり、そのようなときには、端正な印象がよりいっそう強くなる、四十歳の女性だった。

昼食を終って食器をすべて洗ったあと、洋介はミットとボールを持って川原へいった。靴はいつものバスケット・シューズのままだった。恵理子はすでに来ていた。ハイキング用のカーキー色のショート・パンツに、黒いTシャツを着ていた。帆布製の小さなトート・バッグを彼女は持っていた。

「こんなにいいお天気なのに、誰も人がいないのよ」

「みんな仕事なんだ」

「そうなのね」

「僕はミットを買ったよ」

ミットとボールを洋介は恵理子に見せた。土手の道から下の川原へ、ふたりは階段を降りていった。

「今日は湿気があるね」

洋介が言った。

「暑いわ」

「動くと汗をかくよ」

「タオルを持って来ました」

洋介はテニスに使うタオル地のリスト・バンドをポケットから取り出し、右の手首にはめた。恵理子はトート・バッグからグラヴとボールを取り出した。ボールは硬球だった。グラヴには使いこんだ貫禄があった。彼女のグラヴを洋介は自分の手にはめてみた。いい使い方をしている人のグラヴであることが、すぐにわかった。ボールは洋介が持って来た新品を使うことにした。恵理子は自分のボールをトート・バッグに落とした。

野球のグラウンドへ出ていき、洋介はピッチャーズ・プレートを恵理子に示した。

「あそこから投げて、僕が受けるよ。プレートからだと、遠すぎるかな」

プレートへ歩きながら、恵理子はふりかえった。洋介に首を振ってみせた。彼女はいつのまにか髪をうなじで束ねていた。束ねた黒い髪が、陽ざしのなかで左右に動いた。

プレートのすぐむこうに立った恵理子にむけて、洋介は山なりの球を投げた。グラヴにそれをおさめ、さりげなくセット・ポジションを取った恵理子は、第一球を洋介に投げた。まっすぐの速い球だった。自分の体から出し得る力というものを、恵理子はきわめて無理のない形でひとつにまとめ、投げる球にそれを乗せていた。

相当に緊張して、洋介は彼女の第一球をミットに入れた。いい音がした。彼は満足感を覚えた。彼女の投げた球の力と、見た目の恵理子の印象とのあいだにある大きな落差に、洋介はとまどいも覚えた。

ふたりのキャッチ・ボールは、ピッチャーとキャッチャーとに、最初から役目が決まっていた。自分はキャッチャーのつもりで川原へ来た洋介は、恵理子をピッチャーズ・プレートへいかせ、自分はホーム・ベースのうしろの捕手の定位置に立ったから、自動的にそうなった。そしてそれは正解だったのだと、ひとしきり球を投げ合ったあと、洋介は自覚した。

恵理子は完全にピッチャーとして球を投げていた。癖のついていない、きれいなフォームで、のびのある速球を彼女は常にまっすぐに投げた。ほっそりした体の恵理子は、じつは確かな骨格と筋肉とを持っていることに、やがて洋介は気づいた。上体と腕の動きに、無理のない一体感があった。窮屈さをまったく感じさせない肘の使いかたと胸の張りに、洋介は感心した。そして、このピッチャーは上半身の力で投げるタイプだと、彼は判断した。

「野球をやってたことがあるの?」

小休止したとき、洋介は恵理子にきいてみた。恵理子は首を振った。

「女の子だけのチームで、じつはエース・ピッチャーだったとか」

「まったくそんなことはないのよ」

「でも、相当に練習しないと、あんなふうには投げられない」

「前に住んでた町にバッティング・センターがあって、もとプロ野球の選手が経営してるの。打つのではなくて、投げるのを教えてくださいと頼んだら、面白がって教えてくださったの。このグラヴも、そのかたが私の誕生日にプレゼントしてくれたの」

恵理子とのキャッチ・ボールは、飽きなかった。彼女の体の使いかたはとてもいいから、相手をしている洋介の気持ちが、弛緩したり疲労したりすることがなかった。彼女のテンポに合わせて球を受けていると、どこまでもついていくことができそうだった。だから彼はついていった。

力の入れかたを誤ると、しかし、投手・恵理子の投げかたは、めりはりを欠いたものになった。背中のうしろへ腕を無理に引きこみ、そこから力まかせに腕を抜き出して振りまわす、という投げかたになった。投球フォームのいちばん最初のところで、早くも力んだりもした。テイク・バックで左肩に力が入りすぎたり、球の直進を意識するあまり、フィニッシュのときに体の力が前脚に乗らずに終ることも目についた。キャッチ・ボールの後半、彼はキャッチャーとしてきちんとしゃがんで、恵理子の球を受けた。

次の週の土曜日、午後のおなじ時間に、彼らは二度めのキャッチ・ボールをした。キャッチ・ボールに関する彼女の熱意の出発点がどこにあるのか知りたい、と洋介は思った。だが、その質問は次の機会にしよう、と彼は思いなおした。

教室では、ふたりはほとんど話をしなかった。どのクラスでも、なぜか男性と女性はふたつに別々の世界に分かれたまま、固定していた。恵理子が自分だけに見せる笑顔や微笑があることに、洋介は気づいていた。教室では、だから、それで充分だった。話はキャッチ・ボールの前後に、いくらでもすることができた。

それからさらに二週間続いて、週末には雨が降らなかった。だから彼らはキャッチ・ボールをした。四度めのとき、キャッチ・ボールを終えたあと、土手のスロープの階段にすわって、なぜキャッチ・ボールにこれほどに熱心なのか、洋介は恵理子にきいてみた。

「好きなのよ」

と恵理子は答えた。

「と言うよりも、好きになったの。いまでは、大好き。でも、そうなるまでは、じつは長い話なのよ」

長い話、というところで、恵理子はふと大人びた口調と表情になった。長い話を聞きたいと言った洋介に、恵理子は語りはじめた。

「私は長女でひとり娘で、父親は男のこが生まれるのを望んでいたのね。望む、というような生やさしい気持ちではなくて、ほんとに心の底から、男のこを切望してたのですって。ところが、女のこが生まれて、それはそれでいいのだけど、がっかりする部分も大きくあったのね。父親は子供の頃はまるっきりの野球少年で、自分の子供にも野球を教えて野球をさせてたくて、だから子供はどうしても男のこでなければいけなかったみたい」

「そういう人って、多いかもしれないね」

「多いと思うわ。私が覚えているかぎりでは、父親は最初から野球のことばかり話題にしてたわ。おまえが男のこならとか、男のこだったらとか。でも、なにも教えてはくれないのよ。男のこだったら、と言ってるだけで、女の子でも野球はできるはずなのに、キャッチ・ボールも教えてくれないの」

「わかった。きみは父親に反抗して、よその人にキャッチ・ボールを教えてもらったんだ」

「男のこでなくてごめんなさい、という気持ちがずっとあって、でもそれだけだといつまでたっても私としてはつらいだけなのね。ごめんなさい、という気持ちがそのまま続くだけだから。父親は仕事が忙しいし、顔を合わせることすら珍しい状態がいつもあったりするから、自分でまずキャッチ・ボールができるようになろうと、私は思ったの」

「だからバッティング・センターへいった」

「打つのも面白そうだけど、球がちゃんと投げられないと、つまらないわね。基本中の基本だから」

「正解だよ」

「だから、教えてもらったの。男のこではなくてごめんなさい、という気持ちを、男のこでなくておあいにくさま、というふうに変えたいと思ったわ。男のこでなくておあいにくさま、でもそのへんにいくらでもいる男のこより、私のほうがずっとうまいのよ、と誰にでも言えるようになりたかったの」

「すでにたいへんうまいよ。僕たちの高校の野球チームで投げたら、打てない奴はいっぱいいると思う」

「ピッチャーは面白いわね」

「キャッチャーもいいよ。どのポジションも、みんな面白い」

「試合をしてみたいわ。でも、打ったり走ったりは、ぜんぜんしてないから、選手としては使いものにならないわね」

「ピッチャーとしてなら、基本は出来てる」

「まっすぐな球しか投げられないのよ」

「ときどき大きく曲がるよ。内角ぎみに入って来て、ストライク・ゾーンから外へ逃げていく球がある」

「偶然にそうなってるのね」

「ゴロを捕る練習をしようか」

「楽しそう」

「走りかたはきれいだよ」

「フライを捕るとか」

「投げるのがとてもうまいことは、お父さんは知ってるの?」

と、洋介はきいてみた。恵理子は首を振った。

「なにも知らないわ」

「教えてないわけだ」

「まだなにも言ってないわ。ふっと教えてしまうのが、なんとなく口惜しいという気持ちもあるの」

「わかるよ」

「それに、父親とはあまり話をしないし。母がいないから、父親とふたりだけなのだけど」

「そうなのか」

思いがけないところにちょっとした新鮮な発見をした気持ちで、洋介はそう言った。

「私が小学校五年のときに、両親は離婚したの」

「僕のとこは、僕が中学一年のときだよ。父親はほかの女性と再婚してまったく別の生活をしていて、僕は母親とふたり」

洋介の説明に恵理子は小さくうなずいていた。彼が母親とふたりで生活していることを、彼女はすでに知っていた。

「小学生のときだと大変だよね」

と洋介は言った。

「いまでも大変よ」

「どんなふうに?」

「人の奥さんになるとこうなのかなあ、と思うわ。奥さんが専業でいつも部屋にいると、家の用事をみんなひとりでしていても、自分のことは相手の男性になにも知ってもらえないのね。そのことの練習をしてるような気持ち」

「高校を出たら、どこかにひとりで住めばいいんだ」

洋介の言葉に恵理子は空を見てうなずいた。

次の週は日曜日の午後に彼らはキャッチ・ボールをした。

午後遅く、汗だくになった洋介がミットとボールを持って部屋に帰ると、母親の小夜子が趣味のいい和服をきっちりと着て、玄関にいた。自分もいま仕事から帰ってきたところだと、小夜子は言った。

「最近のあなたは、野球をしてるの?」

彼女は洋介に言った。

「キャッチ・ボールだよ」

「誰と?」

「クラスの人と」

「どこで?」

「川原のグラウンドで」

「陽に焼けましたね」

やや珍しい観察の対象を見るような視線で、小夜子は洋介を見た。母親である小夜子から、少しだけ顔見知りの他人のような感触を受けることが、洋介にはしばしばあった。いまのように小夜子が和服を完璧に着こなしているときには、特にそうだった。

小夜子は人に対して冷たいのではなかった。自分の息子も含めて、すべての人に対する距離の取りかたに、彼女独特のものがあるだけだ。粘ったところのまったくない、あくまでもさらっとした距離感であり、なにごとにせよ相手に無理に引受させることをいっさいしないかわりに、相手に対する過剰な期待もなにひとつ持たないという、わかりやすいと言えばたいへんにわかりやすい距離の取りかただ。

小夜子という母親とふたりで生活していて、洋介にはふと驚くときがかなり頻繁にあった。小夜子を、母親としてよりもひとりの女性としてとらえることが、彼には多いからだ。この年上のきれいな女性と、なぜ自分はここに親しくふたりでいるのだろうかと思うと、その思いは、軽いけれどそのつど新鮮な響きにつながった。そうだ、この女性は自分の母親なのだ、と頭のなかで訂正するとき、洋介は小夜子に対してもっとも親近感を覚えた。そしてその親近感の土台は、小夜子から消えることのない優しさや丁寧さ、そして誠実な気持ちのありかただった。

一週間、雨が続いた。そして梅雨は明けた。湿気を充分にはらんだ強い真夏の陽ざしが、日常のぜんたいをくまなく押さえつけるように、あらゆるものの上に注いだ。伊藤洋介と遠山恵理子がかよう私立の高等学校は、夏休みとなった。

次のキャッチ・ボールの約束をしないままでいた洋介のところへ、恵理子から二日後に電話があった。小夜子が取りついだ。

「川原へいきましょう」

と恵理子は言っていた。

次の日の午後、ふたりはキャッチ・ボールをした。二時間続けてから、川原から土手を越えて商店街のほうへ、ふたりは歩いていった。書店に寄りたい、と恵理子は言った。洋介は彼女といっしょにいくことにした。商店街のはずれから駅へむかっていると、むこうから小夜子が歩いて来た。小夜子が先に気づいて笑顔になり、その笑顔に洋介も気づいた。洋介は右手を上げて小夜子を示し、

「僕のお母さんを見て」

と、恵理子に言った。

薬局の角に立って三人は話をした。恵理子がきれいに初対面の挨拶をし、小夜子は心から感心している表情で恵理子を見つめた。

「さきほどは電話を取りついでいただきました」

と言う恵理子に、

「あなただったの? 声と喋りかただけですけど、なんて素敵な人だろうと、あのとき私は思ったのよ。こんな素敵な人だったのね」

我がことのように、小夜子はうれしそうに恵理子を見た。そして、

「よかったわ」

と言った。

「なにをしてたの?」

小夜子は洋介にきいた。

「キャッチ・ボール」

「恵理子さんと?」

「そうだよ」

「あなたのキャッチ・ボールの相手は、恵理子さんだったの?」

純粋に驚いて、小夜子はふたりを見くらべた。

「いい球を投げるよ」

ボールを持った手で洋介は恵理子を示した。

「あらまあ、ほんとに、お世話になります」

真剣に心からそう言って、小夜子は恵理子に頭を下げた。思わず恵理子は笑い、洋介は苦笑してみせた。

私は部屋へ帰るところです、と小夜子は言った。書店へ寄ってから僕も帰る、と洋介は答えた。三人はそこで別れた。恵理子とふたりで書店を経由してから、洋介は部屋へ戻った。シャワーを浴びたあと、小夜子がおこなっている夕食のしたくを彼は手伝った。恵理子について小夜子からきかれるままに、知っているすべてを洋介は説明した。聞き終ってから、

「いい女のこよ」

と小夜子は言った。

「女のこ、と言ってはもう失礼ね。たいへんいい女性です」

高校三年の夏休みに、洋介はなにも予定がなかった。大学へはいかないことにきめていた。小夜子も賛成だった。

「しかし、その若さで、いまの日本の世の中にまきこまれるのも、哀れだわ。どうしたらいいかしら」

と小夜子は言っていた。夏のあいだふたりで考える、という課題がふたりにはあった。小夜子の実家で何日かを過ごす予定だけが、きまっていた。その帰りに、夏の旅行としてどこかへ寄ってみましょうか、と小夜子は言っていた。

ふたりで住んでいる4LDKの、あちこちの補修や掃除、整理、手入れなどの作業を、洋介は小夜子から命じられていた。どこをどうしたいのか小夜子からよく聞いた彼は、すべてをノートに書き取っていた。段取りを自分で考え、材料や道具をそろえて実行に移せばそれでよかった。

強い陽ざしが連続する夏の日々のなかで、恵理子がピッチャーとして投げる球を洋介はキャッチャーとして受けるというキャッチ・ボールを、ふたりは続けた。洋介は濃く陽焼けした。

「よく飽きないわね」

と小夜子は言った。

「僕ではなく、彼女が飽きないんだよ」

「あなたは飽きてるの?」

「飽きてない」

「ほらごらんなさい」

「今日はこのくらいにしよう、と言うのはいつも僕だよ」

「それは愉快だわ」

「言わないでいると、いつまでも続ける」

「いいことよ」

「だから僕も続ける」

「ますますいいことです」

小夜子の実家へ行く予定になっている週の、ひとつ手前の週のはじめに、恵理子とのキャッチ・ボールのあと、洋介は恵理子に次のような提案をしてみた。二、三日まえ、我ながらいいアイディアとして、ふと思いついたことだった。

「お父さんは野球ができるんだよね」

と洋介は言った。

「会社のチームでは、ピッチャー。まだエースかしら」

「子供の頃から野球をしてたのだったね」

「高校生のとき、甲子園に出てるのよ」

「それなら心強い。三人でキャッチ・ボールをしよう」

しばらく恵理子は考えた。そして、じつにすっきりと華やいだ笑顔で、

「それはいい提案だわ」

と答えた。

「ぜひ」

「父に言ってみます」

「今週の、たとえば土曜日にでも」

「面白いわ」

「グラヴは持ってるよね」

「会社のロッカーに置いてあるはず」

そしてその土曜日、恵理子の父親が参加してもしなくても、恵理子と洋介は約束のとおりキャッチ・ボールをすることになっていた。

洋介が川原へむかう一時間まえに、恵理子から電話があった。

「いっしょにいきます」

と恵理子は言った。

「グラヴは?」

「会社から持って帰ったのですって」

「約束の時間のとおりでいいかな」

「いきます。いっしょに」

川原には洋介が先に到着した。待っていると恵理子が父親とともに土手の上に現れた。かなり距離があるところから、恵理子の父親は洋介におじぎをしてみせた。

恵理子とその父親は、まったく似ていなかった。やせ型、と誰もがいう体型の、背の高い、おとなしくて気の弱そうな印象の人だった。運動神経はありそうに見えた。

「僕はリトル・リーグでキャッチャーをやってました」

と洋介は彼に言ってみた。

強くはにかんだまま途方にくれたような表情で、恵理子の父親はつらそうに微笑を浮かべた。しかし洋介の目をまっすぐに見て、

「高校の野球部で三年間、ピッチャーをやってました」

と彼は言った。高校の名をつけ加えた。野球に関してしばしば聞く名だった。

それぞれにグラヴを持ち、三人は三角形に散った。ボールは恵理子が持っていた。その恵理子は洋介へ球を投げた。洋介から恵理子の父親へ、そして彼から恵理子へ、ボールは返った。いつまでも、父親だけがぎこちなかった。本当に困ったような顔をして、ぎくしゃくと球を投げ、そして受けた。

しばらくそれを続けてから、洋介は恵理子に合図した。高いフライをあの方向へ、という意味の合図だ。合図のとおりに、恵理子は高くボールを投げた。落下地点へ洋介は斜めに走った。落ちて来るボールをミットにおさめると同時に、素早く恵理子の父親に体をむけ、そのときはすでに力いっぱい、彼にむけて洋介はボールを投げていた。

恵理子が鋭く声を上げた。洋介から飛んでくるボールにむけて父親は精悍に走り、ボールを正確に捕り、ほぼおなじ瞬間、ふりむきざま恵理子にむけてそのボールを投げた。さきほどまでの自分の位置へ駆け戻りながら、今度は洋介が声を上げた。父親からのボールを捕って間髪を入れず、恵理子はそれを洋介に投げた。本塁を想定した洋介は、滑りこんでくる架空の走者に対して、絵に描いたようなブロックの姿勢を取った。恵理子からのボールをミットにおさめると同時に、彼は模範的なタッチをした。

「アウト!」

恵理子の父親が言った。

ただ単なるひとつのアウトではなかった。洋介にとっては、これでゲーム・セット、そして自分たちの勝ちだった。だから彼は、

「ゲーム・セットで勝ちです」

と恵理子の父親に言った。

恵理子の父親は笑った。その笑いのなかに、ほんの一瞬、実際に野球の試合に勝ったときの、少年の笑顔があった。

それからひとしきり、三人はキャッチ・ボールを続けた。恵理子の父親はぎくしゃくしなくなった。ボールを投げる方向を逆にすることを、彼らは何度かくりかえした。恵理子からのボールを受けるとき、父親は二度、いい球だなあ、と言った。

洋介の母親が土手の上に立って見ていることに、恵理子が気づいた。父親からのボールをグラヴにおさめ、小夜子にむきなおって恵理子は礼をした。小夜子は笑顔で土手の内側の階段を降りてきた。彼女の細身な長身の魅力を、くすんだ淡いブルーの、シャツ・ドレスのような木綿の夏服が、もの静かに増幅していた。階段を降りる動きにつれて、ゆったりした長めのスカートがきれいに動いた。幅の広い水平な肩に、ゆとりのある袖とドロップ・ショルダーは正解だった。恵理子が、そして洋介と恵理子の父親が、土手の階段へ歩み寄った。

恵理子は父親を小夜子に紹介した。ふたりの大人がごく普通に挨拶し合うのを、恵理子と洋介はかたわらで見ていた。

「邪魔をするつもりではなかったのよ」

小夜子は恵理子に言った。そして洋介に顔をむけ、

「見物に来たの」

と笑顔のまま言った。

「恵理子さんはいい球を投げるとあなたが言うから、いい球とはなにかと思って、見に来たのよ」

「見ましたか」

洋介がきいた。

「見ました。まっすぐに速く投げるのね」

「いつもは僕がキャッチャーになって、受けている」

「そうですか」

というような話を、四人はおたがいの間でまわしていった。すぐに区切りが来た。その区切りと同時に、小夜子は彼らに体を斜めにむけ、階段を上がりはじめた。

「私は買い物にいきます」

と彼女は洋介に言った。

恵理子とその父親に会釈し、さらに階段を上がっていこうとする小夜子を、ふと思いついたままに洋介は呼びとめた。

「僕が手伝うから、夕食は四人分作って」

と洋介は言った。

小夜子は洋介を見た。恵理子は小夜子の反応を観察していた。恵理子の父親は、三人を見くらべて柔和に微笑していた。

「ここにいる、この四人」

と洋介はつけ加えた。四人で夕食をしようという思いつきは、洋介にとっては、キャッチ・ボールに恵理子の父親も加えようという提案の、ごく自然な延長だった。

「自分ひとりで勝手にきめてはいけないわ」

小夜子は言った。言葉はひどくまともだが、彼女の顔は緊張を解いた笑顔だった。

「私も手伝います」

恵理子が言った。

「四人分で足りるかしら」

小夜子が洋介にきいた。

「食後は私が皿を洗います」

恵理子の父親が言った。

その場の雰囲気に合わせて、彼はごく率直にそう言った。だが、結果としては、ものすごく型にはまった展開だけのあるTVドラマの、パターン演技と台詞の模範のように、はからずもなっていた。タイミングが絶妙だった。そのおかしさに、三人は純粋に笑った。恵理子の父親も笑っていた。

「お口に合わなかったら、手伝ってくれた人たちがいけなかったことにします」

あっさりと、小夜子は結論を出した。そして階段を上がっていった。彼女のうしろ姿の、誰が見てもたいへんに姿のいい様子に、ほっとする安心感とうれしさを、洋介は同時に覚えた。

小夜子が土手の向こうへ見えなくなって、三人はふたたびキャッチ・ボールを続けた。ひとしきり続けてから、

「僕がキャッチャーをやります」

と、洋介は恵理子の父親を示していった。キャッチャーの指示として、父親はそれを受けとめた。洋介が示すピッチャーズ・マウンドへ恵理子の父親は歩き、洋介はキャッチャーの位置に立った。ミットの中を右手の拳で叩き、

「思いっきり」

と言った。そして定位置にしゃがんだ。

恵理子の父親は足もとをならした。早くも気持ちが上ずっているのを、その様子に洋介は感じた。真剣に困ったような表情を無理に引き締めて、彼はセット・ポジションを取った。そして見事なまでにばらばらなフォームで、第一球を投げた。その投球フォームの途中で、洋介は腰を浮かす動作を素早く起こした。斜め一メートル以上前にワン・バウンドする球にむけて、立ち上がりつつ洋介は横飛びに飛びついた。限度いっぱいにのばしている彼の左腕の先を、ボールは地面にむけて浅い角度で入っていき、土くれをひとつ蹴り上げ、バウンドして飛び去った。

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