Volver
安藤昌益
Table of Contents
安藤昌益
狩野亨吉
Reading Settings
Tamaño de fuente
18px
Tema
Claro
Oscuro
Sepia
Protección ocular
Interlineado
Modo de lectura
Traducción Pagera AI
Original Public Domain
Chapter 4 of 5

4

偖て話は前へ戻る。安藤は自分が親から生れたことを事實ととつたと云ふことは、取りも直さず自分と親との間に成立する彼我相對の關係を事實と認めたのである。ところがかうした彼我相對の事實は客觀的に到る處に見出される。親子がそれである。夫婦がそれである。兄弟がそれである。君臣がそれである。而して孰れも彼我關係が成立してゐるのであるから、二つの中どちらか一つを失つたら、他の一つは全く意味を爲さない事になる。此意味に於て彼我相對の事實は何にも五倫に限つたことではないので、自然に於ける事物は有形無形を問はず、悉く皆かかる對峙をなしてゐるのである。即ち苦樂、和爭、善惡、正邪、信疑、空有、因果等あるとあらゆる事物は皆單獨には考へられないもので、必ず相手があつて成立するものであることが明白となつて來る。もし相對のことが明白でないものがあるならば、之を自他に兩斷する法をとれば相對の事實が現れて來ることは論理を知つてゐる者は直ぐと氣付くことであらう。しかし安藤は是を知識の上に持行くことをせず、總てを事實と取るのである。即ち自然の事物を悉く相對的と見、相對性を有する者に非らざれば成立することを得ずと考へたのである。この相對性のことを互性の二字で表し、成立の状態を活眞の二字で現はし、茲に於て自然の事物は互性活眞なりと云ふのである。進んでは又これが自然の作用であると云ふ意味で自然眞營道とも稱するのである。

相對が實際に於て成立する以上、決して偶然のものではないので、其兩極を爲してゐる事物は本來不離不即であると云ふ考は自然と起來るのである。此考を統道眞傳の智を論じたる末に述べて曰く、眞道は自然の進退にして一眞道なり。則ち轉定にして一體、日月にして一神、五穀にして一穀、男女にして一人、牝牡にして一疋、雌雄にして一番、善惡にして一物、邪正にして一事、是非にして一理、表裡にして一般、生死にして一道、苦樂にして一心、喜怒にして一情、一切審かに皆二別を見るは即ち一眞營の進退なり。此進退は一眞營なり。安藤はかうした樣な意味のことを到る處に繰返してゐる。

自然眞營道には事物の相對性を自明の理として、殆ど何等説明する所がない。縱に因果的に對峙するもの、横に共存的、反對的、排他的に對するもの、兩斷法によつて生ずるもの等更に選ぶところなく無差別平等に之を互性活眞と稱するのである。又かの不離不即の機制の如きも自然の眞營と稱する以外に何等説明を試みない。實に荒削りの考方である。しかし同じく相對とは云ひ互性活眞には慥に特色がある。どこまでも事物を離れずして、事物其物なりと取つて行く所に、素朴乍らに甚だ力強いものがある。何となれば之を事物に即して見るが故に、事物を離れて存在する絶對を作出す如き見方を自然に防止することが出來るからである。かの哲學は之を知識の上に即して考ふるが故に、動もすれば事物を離るる恐れがあり、相對に對して絶對を誘導成立せしむることは自然の勢ひである。佛教の如きに至つては更に思想の操縱を恣にし、二重三重に相對を振して遂に迷妄に陷つたものである。之を思へば安藤の考方は素朴なるがため却て迷妄に陷るを避け得たもので、彼にとつては實に幸ひであつた。

互性活眞は安藤の到達し得たる思索の極致である。究竟的立場である。法世を壞るも是れ、自然世を造るも是れ、一切事物の生滅は皆この互性活眞に待つものである。是即ち自然の大法であるからである。安藤は之を以て、直に救世の利劔となし、法世を自然世に化成するに當つて殺活自在の妙用を發揮せしむるのである。

六 救世觀

凡そ一切の事物は皆互性活眞である。價値も之に洩るるものではない。互性であるから自然の上ではどちらにも重きを置く譯のものではない。雙方相持でなければならない。もし偏重偏輕にして互性の實を擧ぐること出來ないとなれば最早成立を許さない。善惡、美醜、正邪、曲直皆互性なるを以て偏重偏輕を許さざるものとなる。是に於て古今東西の教法は悉く意味を爲さざるものとして、十把一紮げに廢棄せらるるのみか、人を罪に陷るるための惡法なりと迄攻撃せらるるのである。統道眞傳佛失を糺す卷の中に曰く、是れ惡を去れば善もなし。善を去れば惡もなし。左の手は善右の手は惡、右の手を切れば則ち左の手のみにて用を達し難し、大腸に糞ありて惡なり、胸には神ありて善なり。大腸を去り胸のみ之あるべけんや。夜は暗くして惡、晝は明かにして善。夜を去つて晝のみあるべけんや。故に物は善惡にして一物、事は善惡にして一事、轉定にして一體、日月にして一神、男女にして一人なり。自然の妙を知らざる故に勸善懲惡と云ひ、或は衆善奉行諸惡莫作と云ふは甚だ私の失りなり。――諸の聖人釋迦は世を迷はし罪の穴に落し入るること大なる失りなり。と、かく論じ去るのである。此論法は直に又法律にも應用することの出來る性質のものであるから、そこで一切の政法も亦無效なりと申渡さるるのである。かくして法世の教法政法皆悉く互性活眞の蹂躙に委せられ、法律の權威も道徳の尊嚴も遂に三文の價値なしとせらるるに至るのである。

社會から在來の政教を全く取去つたとすれば、後は修羅の巷となるであらうと思ふのは普通の人の考へる所であらうが、之は理論的には必ずしもさうとは取れない。殊に安藤は政教に代ふるに自然の道を以つてし、法世に代ふるに之に優る社會組織を以てしようと考へて居たこと故、政教を蹴飛したのは當然のことで何も惡いこととは思つてゐない。此間に處する彼の信念の篤き意氣の盛なる實に驚歎すべきものがある。しかし是は自惚れから出た暴擧と取れないこともない。何となれば彼は自然を互性とのみ取り、因果と取ることを知らない。全く知らないではないが見方が徹底しない、是は甚しい片手落と云はなければならない。自然を横斷的靜的に觀ずれば彼の云ふところに道理はあるが、之を縱續的動的に觀ずれば一切の事物は因果の形式に現れ來り、皆必然性を帶びて何等誤りのないものとなるのである。而して歴史の意義は此見方よりして生じ來ることを忘れてはならない。私は今此以上に穿ぐる事は止めるが、安藤は重大なることを見落してゐたことを指摘して置くのである。そこで先づ教法の支柱を失ひ土崩瓦壞に至らんとする社會に、安藤は如何なる應急手當を施すかを見よう。

安藤は忽ち又互性活眞を振翳すのである。法世を屠つた利劔を以て又之を活かさうとするのである。彼曰く、爭ふ者は必ず斃れる。斃れて何の益があらう。故に我道には爭ひなし。我は兵を語らず。我戰はず。なるほど互性のものであつて見れば相持でなければならないのであるから爭ふべきものではない。若し爭へば爭ふものの一方が斃れるか、雙方が共斃となるか、又いつまでも爭を繼續するかに極まる。共斃の場合は論外として、一方だけが斃れ、片方が殘つた場合は、互性の見方からすると意味を成さないこととなる。又いつまでも喧嘩する位なら寧ろ早く和睦して互性の實を擧げた方が道にも協ひ幸福でもあるのである。ずつと前に安藤の平和主義は彼の思索の中樞をなしてゐる所から派生し來るのであると云つて置いたが、即ちかうした見方を云つたのである。この見方にも突込んで吟味せなければならない所もあるがお預けとする。却て宇内平和策とか無戰論とかを主張する人、殊に又具體的主義主張を以て爭はんとする人に此見方を勸めて見たい。就ては餘談でもあり適例でもないが、安藤の主張には多少關係があるからお話して見たいことがある。私は前に神の國は不渡手形だと云つた。それで思出したのだが、讀者諸君にも記憶新しいと思ふ。先年大學の新進氣鋭の學者が西洋の左傾派の人の言説を紹介した節、學生が共鳴して一騷ぎを起し當事者と爭つたことがある。其學生の申分は神の國も無政府の如きものであるから、無政府主義もよいではないかと云ふことであつた。其理由となつた神の國は不渡手形であると氣付いたら學生は起たなかつたのであらうし、又一切事物を互性と見たらば、人騷がせをする樣な事は先以て初から起らなかつたのであらう。かれ安藤の如きは無政府虚無主義などを振して喧嘩をするのは子供のする事で、何も大人が子供の眞似をして、打つたのはたいたのと云ふ苦々しい經驗をする必要はないと見てゐる。是は實行に訴へる迄もなく考へただけで直ぐ分る。故に彼は百年を期する。又常に互性活眞の劔を懷にしながら唯之を撫するのみで、決して人に切付けない。そこに武士の情がしのばれてゆかしいところがあるではないか。敵味方ともに見傚つて貰ひ度いものである。

男女の關係の亂るることが爭鬪の端をなすのは周知のことである。是は大切なことであるから特別の扱ひを要する。安藤は性の樂は無上にして念佛の心も起らずと云つたり、倫理を裏返しにしても解釋の付かないことを認めたりして、甚だ同情を表するものであるが、もし彼を立川派の亞流と見たり、現代無法主義の先驅者と見たりしては全く彼を冒涜することとなるのである。そこで彼は嚴肅なる一夫一婦制の主張者であることを聞いたら失望する族もあるかも知れないが、致方がないから説明する。偖て茲にm男n女ありとすれば各男各女と結付く可能性あるが故に、m男n女の混合物を想像することは、之を實驗に訴へなくとも容易である、就中一男數女或は數男一女の集團も出來る。しかし尤も坐りよき釣合を保つものは一男一女の結晶である。而して其結合の強固なる理由は爭ひの起ること少いからであらねばならない。この爭ひを少くすると云ふ理由の基に一夫一婦制を主張するのである。若しこの制に戻るものありと見れば安藤は王公と雖も許さず、彼一流の痛罵を浴せる、這般の消息を語る言葉に一夫數婦は野馬の業なりといふがある。一婦數男を聞いたら蜂蟻の行ひに如かずとして笑つたであらう。

右の定理の系として、獨身はいけないこととなる。男女は互性活眞の理に協ふ樣に一男一女の配偶をとらなければならないから、獨身は片輪である。所謂一男一女にして初めて完全なる社會人となるのである。此意味に於て男女を人と訓讀せしむるのである。

安藤は互性活眞の利劔を以て世相を切捲り、其矛盾不合理を摘發し、法世をして完膚なきに至らしめ、かかる不都合なる法世を現出せしめたる重なる原因は、思想の指導者たる聖人及び宗教家にありとするのである。彼等は自然を覺らず正智を得ざるに氣付かず、妄迷的なる亢偏智を以て自然を曲解し、種々なる價値觀を立て講説、文章、藝術、暴力等あるとあらゆる方法を以て其誤りたる理想を實現せんと努めたる結果、人々皆高きを思ひ、貴きを思ひ、利を思ひ樂を思ひ、之を求めんとして遂に罪惡を作るに至つたのである。人々は慾を煽られ罪惡を犯すに至つたとすれば、之を煽つた者は尚更深い罪惡を犯した者と見ざるを得ない。此見方を爲すことに由り安藤は聖人格の人を糞に比し、其言を聞く者を青蠅と云ふのである。又或所では自分は糞と呼ばるるも意とせず、却て聖人と呼ばるるを恥づと云ふのである。其理由は糞でも聖人より有益である。

此見方は頗る峻酷である。安藤は亢偏智を弄する者と取り免さなかつたであらうが。知らずして善意を以て爲す者と見たら免さなければなるまい。しかし知つてゐるが故に人欲を煽り己の爲めにするものありとすれば是は免すべからざるものである。聖人を擔る徒にも往々此の如き者を見出すに至つては實に法世の爲めに悲まざるを得ないところである。かうした不都合も食ふ爲めの職業であつたり商賣であつたりする上に、又其所に種々祕密な關係があつたりするので、爲政者も大目で見て置かねばならない樣な所がありとすれば、法世は文化の進歩につて却て欺瞞の陳列場の如き觀を呈し、一方には奢侈逸樂を助長し、一方には怨嗟失望を誘致し、人心を惡化せしむることあるも、終に如何ともすること能はざるに至るのではないかと考へられる。此傾向は慥にあるものと認めざるを得ない。色目鏡を外づせば歴然として目前に現れる、隱匿辯護の餘地はないのである。是は實に法世の缺陷であり病氣であるのである。これあるがために罪惡を犯すもの盡きざるも亦明白なる事實である。而て其缺陷其罪惡の根本的救治は之を律法に求むるも得べからず、之を教法に求むるも亦得べからざることは、既往と現在とに徴して是亦餘りに明白なる事實である。かかる明白なる事實は事實なるが故に之を如何ともすべからざるものと見ることも出來る。是は頗る透徹したる見方である。しかし法世の見方はここまでは徹底し得ない。どうしても相も變らぬ教法を以て糊塗することに勉むるの外ないのである。然らば即ちその根本的救治策は到底成立の見込立たざる性質のものであらうか。これは是れ眞に世を憂ふるものの夙夜忘るべからざる問題でなければならない。しかしかかる問題を單に提起するさへ容易のことではない。まして成案を作るに至つては彌以て至難のことと云はざるを得ない。法世を捨て自然世に向はせしめようとする安藤は責任上此問題に對する具體案を示さざるを得なくなつた。勿論聖人も考付かなかつた新しい試みであるから、少しは驚く樣なことがあるかもしれない。其代り所謂百年を期するので、決してクーデターに出づる樣な政略的卑劣のことはしない。全く相談的に出るのである。其上安藤は口不調法でいけないから私が彼の考へたことの意味を代演する。

Chapter 4 of 5
|