Chapter 1 of 16

故郷へ帰らうか、それとも京都へ行かうか、平三は此の問題に二日間悩まされた。同じことを積んだり崩したりして何時までも考がまとまらなかつた。

彼は毎年夏季休暇には帰省するを常として居たが、今年は最初から京都で暮さうと思つて居た。それは故郷の生活の単調無為なのに懲りて居るのと、他に厭な事情もあるのと、一つは京都は彼の第二の故郷とも言ふべき土地であり、その上もう六七年も行かなかつたので、其間に親戚故旧の間に種々の変化もあつた様だから、久振に其等の人々に遇つて色々と話合つたら嘸楽しい床しいことであらうと思つたからである。勿論長い間だから八月丈け京都に居て其前後は東京で暮さうといふ予定であつた。併し故郷へは明かにさうと言ひにくい事情もあるので、今年は東京に居て勉強せねばならぬから帰られないと手紙を出して置いた。

一度京都へ行くことに決してからは、彼は一二ヶ月の間は来るべき夏の生活を非常に愉快なものと種々都合の宜い様に想像して楽んで居た。彼の心を牽きつけたものは京都の山水でもなく名所旧蹟でもなく、彼の今迄の生活に最も影響のあつた、且つ最も意味が深いと彼自身に思はれる過去の生活の追想であつた。少年の彼を中心とした小さい京都の社会を、今の彼が想出す其の心持が当時の生活に種々の色をつけ形を与へて、益彼の心をそゝり立てたのである。

姉、伯父母、従兄弟姉妹、此等の人々の俤を思ひ浮べて、此人には斯う、彼の人にはあゝと一人一人に話す材料や話方等まで想像して、何だか恋人にでも遇ふ様な懐しい胸のわく/\する思で居た。

今一つ彼をして此夏京都の生活を楽しく思はせた理由がある。友のSが七月下旬東京を出発して信濃飛騨を旅し、美濃路を経て八月上旬京都に出て、二週間ばかり滞在しようといふ予定であつたので、是を機会にして、伊勢、尾張、近江、播磨などに夫々帰省して居る友達が同時に京都に落合はう、藤村の「春」の人物が、富士山麓の吉原の宿に東からと西からと落合つた様に、各方面から同時に京都に落合つたらどんなに心ゆくことであらうと云ふ様なロマンチックな空想がそれであつた。兎に角さういふことに定めて、幸ひ、平三の親類の家が宿屋であるので、彼から手紙で室のことや宿料のことまでも交渉して置いた。

七月の始めには皆夫々国へ帰つて、残つたものは平三とSばかりとなつた。平三は別段何をするでもなく、只だ月日の早く経つのをのみ待つて居た。

所がもう五六日で出発しようといふ時になつて、Sから「種々都合悪しく旅行は出来ない、少くとも京都へは行けないから不悪……」と言つて来た。平三はひどく失望した。早速Sを訪うて最初の計画を実行する様に勧めた。けれどもSは種々家事上の都合があつて到底不可能であつた。

「ぢや僕も京都はよさう。君が行かないのなら。」

平三は斯う言つて別れた。では如何するかといふ考もなかつたが、実際其時は止めようと思つた。恰も彼の京都行の動機は単に友達と一緒に落合ふといふ事のみであつたかの如く、其のために最初の動機も破れて了つた。今迄色々に思ひ浮べて居た楽しい連想や空想は一時に消えて了つた。最初の予望が大きかつただけ、それだけ失望も大であつた。今迄懐しく床しく思つて居た親戚故旧との会合や、其後の変化などは左程心を動かさぬ様になつた。「あの人とあんな風な話をし、この人とはこんな風に話をするといつた所で、只だそれ限りだ、それが何で面白からう。話すことはこれ限りだ、聞くこと見ることはこれ丈だ、別段してもしなくても宜いことだ、又必ずしも今年に限らない、よし又行つたとしても一週間位は面白からうが迚も一ヶ月余は居られまい、単調になり淋しくなるは矢張り同じことだ、矢張り一人ぼつちだ、行つたとてつまらない……。

「止さう。――では何処へ行かう? 東京に居るのは厭だ、温泉か海水浴か、それは経済が許さぬ。では国へ帰らう。それより仕方がない……。

「が考へれば故郷は厭だ、毎年の経験が止せ/\と言ふ、そればかりでない、今年は妹は肺病で死にかゝつて居る、去年帰つた時にも伝染せぬかと心配した、今年は尚更だ、もう一年で学校が済む、卒業間際に伝染しては困る……。

「否、それだから尚更帰らねばならぬ、妹が死にかゝつて居る、それを知つて帰らぬのはあまり不人情過ぎる、母に対して義理がすまぬ、母は義理の母だ。妹は其連子で義理の妹だ、たとひ死んでも勉強中の自分には帰れと言つて来ぬに定つて居る。だがそれを却てよいことにして顧みないとは良心が許さぬ、今まで妹のことなどは少しも気にかけて居なかつた、が如何にも心配して居るらしく、手紙を出す毎に真先に妹の容子を尋ねた、自己を欺き両親を欺き妹を欺いて居た、それが人の道か……。

「国へ帰れ、故郷へ! 両親が待つて居る、瀕死の妹が待つて居る、死に目に遇つてやれ、空気が清い、青い海が手を広げて居る、新鮮な魚がある、静かに英気を養ひ潜勢力を貯へて来い、身体が大切だ!

「然り身体が大切だ、だから帰郷したくないのだ、妹が肺病だ、伝染したら何うする 己は今年は二十五の厄年だ、ひよつとすると伝染するかも知れぬ、恐しい!

「父に遇ひたい、が恐るべき病人と一つ家に居るのは、――あゝ思うても慄然とする、苦痛だ、気が晴れぬ、――京都へ行け、姉が居る、死んだ伯父の跡を弔ひたい、色々の人と色々の話をしたい。楽しさうだ、だがそれまでだ、思うた程愉快でないかも知れぬ……。

「故郷、京都、何処へ行かうか、何らでも宜い、何処へ行つても同じことだ、価値の等差がない、何れを選んでもよい、だから選択に困る、本来ならば故郷へ帰るべきだ、だがもしも……それに京都にも未練がある、では両方へ行けばよい、併し最早時日が足らぬ、彼方へ行き、此方へ行きしてる間に休暇がなくなる、勉強もしなければならぬ。」

こんなことを彼は昨今二日の間果てしもなく考へて、遂には何が何だか分らなくなつた。最初は気分だけで京都行に決定したことが後には帰郷と実際的の利害得失を比較商量する様になつた。京都と故郷とに於ける自分の生活状態を詳かに胸に描いて見て、其利害を比較して見たが、何れも軽重がない様に思はれ、何れを選んで宜いか困つた。

彼は考へあぐんだ結果何れとも定めかねたので、兎に角何処へ行つてもよい様な荷を拵へ、翌朝停車場へ行つて切符を買ふ刹那に決定しようと思つた。

翌朝彼は新橋へ行つた。車の上でも絶えず京都と故郷とを繰返した。けれども只だ如何にも忙しく両方の地名が楯環するのであつた。

が彼は逐に故郷への切符を買つて了つた。

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