一
府立病院の二等室は、其の頃疊が敷いてあつた。竹丸の母は其の二等室に入つてから、もう四ヶ月の餘にもなる。一度竹丸をよこして呉れと、度々父への便りに言つて來たけれど、父は取り合ひもしなかつた。
千代松といふ子供のやうな名を有つて居る人があつた。四十二の厄年が七年前に濟んだ未の八白で、「あんたのお父つあんと同い年や」と言つてゐるが、父に聞くと、「やいや、乃公は亥の四緑で、千代さんより四つ下や」と首を振つてゐた。けれども竹丸の眼には却つて父の方が老人に見えた。竹丸は今年十二で、二十歳ぐらゐの人はもう年寄のやうに思つてゐた。
千代松といふ人は頭髮を丁髷に結つてゐた。幾ら其の頃でも、村中で丁髷はただこの千代松の頭の上に見らるゝだけであつた。年に比べて髷が大きいといふことで、人々はよく千代松の髷のことを「××の金槌」と呼んでゐた。
其の千代松のところへ病院の母から、是非竹丸を連れて來て呉れといふ手紙があつたさうで、千代松は其の手紙を懷中にして竹丸の家へ來た。
竹丸の家は、天滿宮の別當筋で、別當は僧體であつたから、血脈は續いてゐないが、第四十五世別當尊祐の代になつて、國の政治に改革が起り、封建が廢れたので、別當の名で支配してゐた天滿宮の領地二ヶ村半、五百石を上地し、別當は還俗して神主になり、名も前田道臣と改め、髮の伸びるまでを附髷にして、細身の大小を差し、頻りに女を買つて歩きなぞした。それが竹丸の父である。
「あんたの阿母の來やはつた時は、えらいこツちやツた。七荷の荷でなア。……今でも納戸におまツしやろ、あの箪笥や長持は皆阿母が持つて來やはつたんや。あの長押に掛けたある薙刀も。……嫁入りの荷の來る時、玄關で薙刀を受け取るのが難かしいいうて、わたへや忠兵衞はんが竹竿で稽古したもんや。」
丁ど道臣が朝の日供に拜殿へ出てゐたので、千代松は竹丸を相手にして、社務所を兼ねた家の勝手口でこんなことを喋舌つてゐた。
「あんた、まア一つおあがりやす。直ツきに戻つて來やはりますさかい。」
女中のお駒が、かう言つて番茶を汲んで出した。煙草を吸はぬ千代松は、手持無沙汰で丁髷の鬢を撫でたり、出もせぬ咳をしたりしてゐたが、
「相變らず別嬪やなア、お前幾つや。」と、竹丸を棄ててお駒の方へ向き直つた。お駒はただ笑つてゐたけれど、
「ほんまに幾つや。」と、千代松が重ねて問ふので、
「六でおます。」と羞かしさうに、袖で口を掩うた。
「二十六?」
笑ひながら千代松の嘲弄ふのを、お駒は眞面目に受けて首を振つてゐた。
「けんど十六とは見えんなア、十八九、二十歳に見る人もあるやろ、大柄やさかい。」と、千代松はまじ/\と、お駒の眞ん圓い、色の白い顏の、眼のパツチリとした、睫毛の長いのに見入つてゐた。
もうそろ/\春先きで、逸早く這ひ出した蟻が、黒光りになつた臺所の大黒柱の根方の穴へ歸つて行くのを見て、
「あゝ蟻さんのお歸り/\。」なぞと、お駒は他愛もないことを言つた。
「お前も家の旦那と定はんと兩方では、骨が折れるなア。」と、千代松は丁髷頭を搖り/\、にや/\して言つた。
「知らん、嫌ひ。」と、お駒は長い袂を振つて立ち上つた。
「けんど用心せんといかんで、旦那は好きやさかいなア。お前も奧さんみたいな病氣になるで。……」
「へえ――。」と、お駒は中腰になつてゐた。
「眞言律で、魚は喰へず、牝猫も飼へなんだのが、還俗したんやもん。張りきつた馬の手綱を切つたやうなもんや。……平野屋のお源を手初めに、方々撫で斬りや。」
「家には昔馬がゐたんだすてなア。」と、お駒は珍らしさうにして訊いた。
「さうや、あの納屋の横に馬小屋があつて、旦那が馬に乘つて平野屋へ散財に行かはつたんや。お源に惚れはつてな。……もう十七八年も昔のこツちや。」
かう言つて千代松は、ヂツと考へ込む風をした。
「わたへのまだ生れん前のことだすな。……妙なもんや。」と、お駒も何か考へ出したやうで、また其處の板の間に坐つた。
「何が妙や。……お前がまだ生れん先きから女子狂ひしてた人と、何んするのが妙やちふんかいな。」と、千代松は元の笑顏になつた。
「またあんなこと言やはる。嫌ひ。」
お駒はさツと紅を刷いたやうな顏色になつて、俯いてゐた。
「まツさら嫌ひでもあるまい。頭が禿げてても、旦那は親切やろ。」
「うだ/\いうとくなはんな。あんたとこのお時はんに恨まれまんがな。」
お時といふ名を聞くと、千代松は忽ち急所でも突かれたやうに默つて了つた。
「あんた、ちよツとも白髮がおまへんな。毛も多いし、入れ毛してなはるんか、眞ン中は禿げてまツしやろ。」
やゝ暫くしてから、お駒は罪もない物の言ひ樣をして、千代松の丁髷を見詰めた。
「何んの禿げたるもんか、入れ毛なんぞしてえへん。」と、千代松は頭の祕密を押し隱すやうに、右の手で月代の邊を押へた。
「や、禿げたるさかい、そんなわげ(髷の事)に結うてはるのや。」
「禿げたるも絲瓜もあるもんか。」と、千代松は周章てたやうにして言つた。
「それ、言やはつた。」と、お駒は崩れんばかりに笑つた。千代松も氣が付いて共に笑つた。
言葉の間に「絲瓜」といふことを挾むのが千代松の癖で、村の人々は「絲瓜の千代さん」といふ綽名を命けてゐるのである。
二人で笑つてゐる最中に、道臣が拜殿から歸つて來た。風折烏帽子に淨衣、利休を穿いて、右の手に笏を持つてゐる。出入の度に門の敷居を跨ぐ時、「えへん、えへん」と空咳をするのが、この人の癖であつた。