Chapter 1 of 10

東光院の堂塔は、汽動車の窓から、山の半腹に見えてゐた。青い木立の中に黒く光る甍と、白く輝く壁とが、西日を受けて、今にも燃え出すかと思はれるほど、鮮やかな色をしてゐた。

長い/\石段が、堂の眞下へ瀑布を懸けたやうに白く、こんもりとした繁みの間から透いて見えた。

『東光院て、あれだすやろな。』

お光は、初めて乘つた汽動車といふものゝ惡い臭ひに顏を顰めて、縞絹のハンケチで鼻を掩ふてゐたが、この時漸く斯う言つて、其の小じんまりとした、ツンと高い鼻を見せた。

小池は窓の外ばかり眺めて、インヂンから飛び散る石油の油煙にも氣がつかぬらしく、唯々乘り合ひの人々に顏を見られまいとしてゐた。

『こないに汚れまんがな。』

口元の稍大きい黒子をビク/\動かして、お光はハンケチで小池の夏インバネスの袖を拂つてやつた。

『耐らないな、歸りには汽車にしやうね。二時間や三時間待つたつて、こんな變なものに乘るよりやいゝや。』

小池は初めて氣がついたらしく、肩から膝の邊へかけて、黒い塵埃の附いてゐるのを、眞白なハンケチでバタ/\やつて、それから對ひ合つてゐるお光の手提袋の上までを拂つた。

『そやよつて、もつと待ちまへうと言ひましたのやがな。あんたが餘まり急きなはるよつて、罰が當りましたのや。』

底を籠にして、上の方は鹽瀬の鼠地に白く蔦模樣の刺繍をした手提げの千代田袋を取り上げて、お光は見るともなく見入りながら、潤ひを含んだ眼をして、獨り言のやうに言つた。

『知つてる人に見られると厭やだからね、この方角へさへ逃げて來れば、大抵大丈夫だからね。……逃げるは早いが勝だ。乘り物の贅澤なんぞ言つてゐられなかつたんだよ。』

斯う言つて小池は、力一杯に窓の硝子戸を押し上げた。

汽動車は氣味のわるい響きを立てつゝ、早稻はもう黄ばんでゐる田圃の中を、十丁程と思はるゝ彼方に長く横はつた優し氣な山の姿に並行して走つてゐた。

『これから先きへ汽動車はまゐりません。先きへお出での方はこの次ぎへ來る汽車にお乘り下さい。』と、車掌が節を附けて唄ふやうに言つたので、小池もお光も同時にハツと頭を上げて車室を見渡すと、自分たち二人の外には、大きな風呂敷包みを背負つた老婆が、腰を曲げてまご/\してゐるだけで、多くの人々は早や改札口をぞろ/\と出て行くのが見えてゐた。

『何處へ行きますのや、……一體。……』と、お光はあたふたと車室を出る小池の後から、小走りに續きながら聲をかけた。

『僕は東京の人だもの、こんな遠方の片田舍の道は知らないからね。……君が案内をするんだよ。』

屋臺店を稍大きくした程の停車場を通り拔けると、小池は始めて落ちついた心持ちになつたらしく、燐寸を擦つてゆツたりと紙卷煙草を吹かした。青い煙がゆら/\として、澄み切つた初秋の空氣の中に消えた。

『私かて、知りまへんがな、……こんなとこ。……』

琥珀に刺繍をした白い蝙蝠傘を、パツと蓮の花を開くやうに翳して、動もすれば後れやうとする足をお光はせか/\と内輪に引き摺つて行つた。

駄菓子を並べた茶店風の家や、荒物屋に少しばかりの呉服物を附け加へた家の並んでゐる片側町を通つて、漸と車の通ふほどの野道の、十字形になつたところへ來ると、二人は足を止めて、何う行かうかと顏を見合はした。小學校歸りの兒童が五人八人ぐらゐづつ一塊になつて來て、二人の姿をヂロヂロ見やつては、不思議さうな顏をして駈け去つた。

眞ツ直ぐに行かうとしても、一筋道が長々と北へ續いてゐるだけで、當てもなく歩くといふ氣にはなれなかつた。右の方を見ると、山の上に何かありさうだけれど、たゞ歩いてゐても汗を催ほしさうな日に、坂道を登るのはと、お光が先づ首を振りさうであつた。

『彼處へ行つて見よう。』と、小池は大仰に決斷した風に言つて、左の方へさツさと歩き出した。

行手には、こんもりとした森が見えて、銀杏らしい大樹が一際傑れて高かつた。赤く塗つた鳥居も見えてゐた。二人はそれを目當てに歩いた。お光は十間餘りも後れて、沈み勝にしてゐた。

田圃の中の稻の穗の柔かに實つたのを一莖拔き取つて、まだ青い籾を噛むと、白い汁が甘く舌の尖端に附いた。小池はさうやつて、三つ四つ五つの籾を噛み潰してから、稻の穗をくる/\と振りはしつゝ、路傍に佇んで、後れたお光の近づくのを待つた。

『あゝ、しんど。……此頃はちよツとも歩きまへんよつて、ちいと歩くと、直きに疲勞れますのや。』

蝙蝠傘を擔ぐやうにして、お光は肩で息をしてゐた。薄鼠の絽縮緬の羽織は、脱いで手に持つてゐた。

『御大家のお孃樣……だか、奧樣だか、……阿母さん……だか知らないが、お駕籠にでも召さないとお疲れになるんだね。』と、小池は冷かに笑つた。

『矢つ張り稻の穗を噛むのが癖だすな。……東京に居やはると、稻もおますまいがなア。……春は麥の穗を拔いて、秋は稻の穗や。決つてる。』

冷かな小池の言葉には答へないで、お光は沈んだ調子ながらに、昔しの思ひ出を懷かしみつゝ語つた。

Chapter 1 of 10