Chapter 1
人物
田代三夫
同ぬい子
劉鯤
瑩芳
舞台は、横浜郊外にある田代三夫の家の応接間。
外人の設計になる瀟洒なヴィラを、特別の事情で安く借り受け、愛妻ぬい子と二人きりで、結婚後三年の今日、まだ蜜月の生活を楽しんでゐる田代は、永く海外で暮した結果、何処か日本人離れのした神経の鈍さと、それを補ふ感情の濃やかさがある。
細君のぬい子は、生粋の横浜ツ子で、両親は、外人相手の土産物商をしてゐたのだが、彼女の結婚後は、店を人に譲り、鶴見辺に隠居所を建てゝ、豊かな余生を送つてゐる。
田代は現在、南洋貿易を専業とする某商会の庶務課長で、三十六にして既に頭髪の半ばを失ひ、十二違ひのぬい子は、それがために、思ひ切つた若作りのできないことが唯一の憾みである。
正月のある日の午後。
田代は、ヴェランダで新聞を読んでゐるが、やがて、応接間へはひつて来る。
田代 僕はやつぱり家にゐよう。なんだか、急に用事ができさうだ。ほんたうなら一寸店へ顔を出すところなんだが、家にもゐないとなると、まさかの時困るよ。ぬい子 (隣りの部屋から下着だけの半身を出し)あら、そいぢや、あたしは……? 折角、もう用意をしてるんぢやないの。田代 だから、お前さんだけ行つて来ればいゝぢやないか。さうおしよ。ね。お父さんやお母さんは、結局、お前さんの顔が見たいだけなんだ。御年始はもうすんでるんだから、またゆつくりした時遊びに行くつて、さう云つてくれ。ぬい子 つまんないわ。あんたと一緒だからと思つて、こんなにおめかしをしたんぢやないの。田代 そんな駄々をこねるもんぢやない。女がおめかしをして損になつた例しなんかない。ぬい子 それより、電話でお店の様子を訊いてみたらどう?田代 用事は何ん時起るかわからないんだ。休みの後つていふものは、臨時の用件が多いんでね。ぬい子 そんなら、ちやんと朝から、お店へ出てれば文句はないんだわ。今日鶴見へ行かうなんて云ひだしたのは、あんたなのよ。田代 それやわかつてるさ。あゝいふ案内も来てるし、お前さんも楽しみにしてたんだから、出来ればさうしようと思つたんだ。しかし、考へてみると、近頃、少し、怠け過ぎてるからね。ぬい子 ぢや、あたしも、今日はよすから、これからお店へ行つてらつしやい。田代 そんなことしなくつてもいゝさ。お前さんは行つておいでよ。僕は僕でいゝやうにするから……。ぬい子 それより、あんたこそ、先へお出掛けなさいよ。あたしはあたしで勝手にするから……。田代 怒つたんだね。よし、そんなら、よし……。ぬい子 なにが、よしなの? (外套をひつかけて出て来る)あんた、少し、変よ。あたしを追ひ出しといて、一体、後でどうしようていふの?田代 後でどうする? どうもしないさ。そんなにぢろぢろ人の顔を見るもんぢやない。第一、この顔になんにも書いてありやしないよ。ぬい子 書いてある。書いてある。ちやんとわかるわ。田代 どう書いてある?
長い沈黙。
ぬい子 あたしが出た後で、お店でなく、どつかへ行くつもりなんでせう。どつかで、誰かと会ふ約束をしたんでせう。田代 そんなら、店へ行つて、その足で会ひに行くさ。ぬい子 あたしを家に置いとくとあぶないから、鶴見かどつか、遠くへやつとかうと思ふんでせう。それには、自分も行くやうな顔してないと、人がいやだつて云ふと思つて……。田代 そんなら鶴見まで送つて行つといて、一人で引返して来るよ。ぬい子 それだけの手数をはぶくつもりなのよ。田代 そんなに心配なら、僕の帽子と靴を、戸棚へしまつて、鍵をかけて行き給へ。ぬい子 スリツパを穿いてだつて行けるわ。田代 帽子のことは云はないね。ぬい子 いゝぢやありませんか。あんたは禿がお得意なんだから……。田代 別に得意でもない。たゞ、お前ほど気にしないだけだ。ぬい子 そいぢや、折角髪まで結はせたんだから、一人で行つて来るわよ。田代 あゝ、行つといで……。
ぬい子は、諦めて部屋にはいる。
田代 僕が家にゐるかどうか、向うから電話をかけて御覧。僕の声は覚えてるだらう。
(彼は、さう云つてるうちに、だんだん焦ら焦らしはじめる。部屋中を歩きまはる、時々額に手をあてゝ考へ込む。)
ぬい子が、いきなり、飛び出して来る。今度は外套も付けず、露はな両腕を胸にあてゝ、威嚇するやうな身構へをする。
ぬい子 あんた、誰かを待つてるんでせう。田代 誰を……?
長い沈黙。
ぬい子は、夫のとぼけた顔を尻目にかけて、部屋へひつ込む。やがて、また、不意に顔を出す。
田代 なんだい。ぬい子 なんでもない。(首をひつこめる)
今度は、田代が部屋の戸を開けに行く。
ぬい子 あら、失礼ぢやないの。田代 早くしろよ。日が短いんだぜ。ぬい子 (洋服の襞を直しながら現はれる)田代 自動車を呼んで来てやらうか。ぬい子 (長椅子に腰をおろし)隠すならいゝわ、隠したつて……。その代り……その代り……。田代 泣くやつがあるかい。なにを隠してるつていふんだ。ぬい子 隠してるから隠してるつていふんだわ。そんなことぐらゐわからなくつてどうするの。田代 お前さんは恐ろしい女だなあ。それとも、おれは硝子みたいな男かな。ぬい子 そつちよ。田代 なんにも隠しやしないよ。これだけは、お前さんが知らずにゐた方がいゝと思つたまでだ。ぬい子 それ御覧なさい。田代 だから、そんなに云ふなら、話してやるよ。たゞ、驚いちやいけないよ。ぬい子 待つて……。あたしがそんなに驚くことなの?田代 驚くだらうと思ふね。驚いた方が自然だね。ぬい子 あんたは平気なことなの?田代 それが、さうは行かないんだ。ぬい子 さうでせう。昨夜から、あんたはどうも変だわ。田代 度を失つてる形だね。ぬい子 そわそわしてるわ。田代 床へはひる前に、わざわざ靴の紐を結び直すなんか、生れてから、昨夜が初めてだ。お前さんの云ふことは、半分しか耳へはひらない。ぬい子 耳はどうだか知らないけれど、眼附も丸で違ふわ。田代 それやさうだらう。僕にしてみれば、生きるか死ぬかの問題だ。ぬい子 そんな大事件なの?田代 うん、大事件だ。ぬい子 それを、あんた一人で心配してるの? あたしには相談してくれないの?田代 さう云つてくれるのは有りがたい。だが、これだけは、さつきも云つた通り、お前さんの耳に入れずに済まさうと思つたんだ。ぬい子 お店のことで、何か間違ひでも起したの。田代 そんなことならなんでもない。店をやめちまふまでのことだ。ぬい子 だから、お金のことなんかで……。田代 違ふ。そんなら、家の中をうろうろしてる暇に、外をあつちこつち駈け廻るさ。ぬい子 誰か、人が来ることは来るんでせう。田代 かうなればしかたがない。云ふだけは云つとくよ。あとは僕に委しときなさい。お前さんは、兎に角、家にゐない方がいゝ。早く鶴見へ行きなさい。ぬい子 (極度の不安に襲はれ)わかつた。田代 わかつたか。ぬい子 あの人が来たのね。田代 さうだ。劉が日本へやつて来たんだ。ぬい子 (愕然として起ち上り)あゝ!田代 それ御覧。そんなに驚くぢやないか。ぬい子 (急に田代の腕に取り縋り)あんた、どうしませう……。ほんとにどうしませう。田代 しかたがないさ。ぶつかつてみるだけだ。ぬい子 どうして、それがわかつたの。田代 昨日、店へ電話がかゝつたんだ。僕は出なかつたが、取次のものに、明日夕方行くから家で待つてろと云つたさうだ。ぬい子 人違ひぢやないの?田代 南京から来た劉鯤と云へば、ほかに誰がゐる。ぬい子 なにしに来たんでせう。田代 日本へ来たのは別に不思議はないさ。あの当時の様子では、また出て来られるとは思はなかつたが、その後、事情がどう変つたか、音信不通の間柄で、わかる筈がない。ぬい子 こゝへ来るとすれば、やつぱり、あの問題でせうね。田代 それをどう問題にするかが寧ろ問題だ。先生は、日本にも長くゐたんだから、まさかわれわれの気持がわからない筈はないと思ふんだが、支那人つていふ奴は、何処か執念深いところがあつて、ことによると、思ひ切つた解決を目論んでゐやしないかとも考へられるんだ。ぬい子 さうよ、普断はおとなしさうに見えて、なんかつていふ時には、いつでも、薄気味の悪い調子が出るのよ。はじめ、あたしを呉れつて云ひ出した時なんか、断ればどんなことをされるかわからないつて気がしたわ。田代 そん時、断つといたら、こんなことにはならなかつたんだ。ぬい子 でも、母さんが、とても乗気だつたの。なにしろ、お金は唸るほどもつてるし、家柄はあつちでもいゝつて云ふんだし、日本の大学は出てるし、それに父さんも、あたしに直接話を持ち出さなかつたつていふところが、すつかり気に入つたんだわ。田代 で、結局、お前さんも承知したんだから、今更、何を言つたつてはじまらないさ。ぬい子 だから、はじめは、すぐにうんとは云はなかつたのよ。田代 僕は、南京で先生と親しくなつた当座、そんな話は、丸で知らなかつたんだ。ところが、僕が日本へ帰るつていふ前の晩だ。先生は、僕を晩飯に呼んで、是非頼みたいことがあると云ふんだ。ぬい子 (眼を伏せる)田代 なんだと云ふと、実はこれこれで、日本に許嫁がある。三ヶ月といふ約束で、遺産の整理かたがたちよつと帰つて来たんだが、なにしろ、土地の管理人を呼び集めるだけで一月はかゝるといふ始末で、その上訴訟事件に引つかゝつて、三ヶ月といふ約束は、もう過ぎてしまつた。手紙だけでは、相手も不安心だらうから、君が帰つたら、一つ、本人を始め両親にも会つて、よく事情を話してくれ。決して約束を履行しないつもりぢやない。それどころか、一日も早く式を挙げに帰りたいと思つてゐる。もうあと三ヶ月待つてくれ。ぬい子 その三ヶ月が、また駄目だつたんだわ。田代 いや、しかし、僕が、はじめてお前さんの家へ行つた時、劉君の言づけだけを伝へて、それで満足すれば、なんのことはなかつたんだ。つまらない用事にかこつけて、その後、しげしげと足を運んだのがわるかつた。帰りが、もうあと三ヶ月延びるといふ知らせがあつた時、僕たちは、内心、ほつとしたもんだ。ぬい子 やつぱり、あたしは、あの人を愛してなかつたんだわ。田代 それにしても、男として、友人の信頼を裏切るやうな真似はできない。僕は、決心して横浜を去らうとした。いや、お前さんのそばを遠ざからうとした。ぬい子 あたしが許さなかつたのね。田代 僕は、だから、虜も同然だ。しかし、罪はお前さんばかりにあつたんぢやない。ぬい子 もちろんよ。だけど、あたしが、劉さんに出した手紙、あんたも読んだわね。田代 その返事はたうとう来なかつた。黙つてゐるのは承諾のしるしとばかり、どしどし事を運んだのは、今から考へてみると、少し乱暴だつた。ぬい子 あたしたちを、それや恨んでるつていふ話、誰から聞いたんだつけ……?田代 南京領事館の落合さ。君の手紙をもつて、先生のところへ呶鳴り込んだつていふんだ。日本人は見下げ果てた人種だつて云つたさうだ。ぬい子 あたし、今だから云ふけど、あの人があたしを殺しに来た夢を、何度見たか知れないわ。田代 僕も今だから云ふけれど、かうしてゐて、一日も暢気な日つていふのはなかつたんだ。あの男は、話によると香港で伊太利の士官と決闘をしてるんだよ、日本に来る前だ。中学の学生の頃だよ。ぬい子 へえ、ちつとも知らなかつたわ。田代 相手の奴はピストルで、先生は短刀さ。それで、相手が喉をやられたんだよ。グサッとね……。
この時、玄関の呼鈴が鳴る。両人、ギクリとして顔を見合はす。田代はぬい子に、奥にはいれといふ合図をする。ぬい子、不安げに隣室のドアを開け、姿を消す。
また呼鈴が鳴る。田代、意を決してその方に行く。
やがて、劉鯤、支那服にて現はれる。
顔は純粋の東洋型であるが、色は白く、眼は鋭く、癖のある唇に意味ありげな微笑を泛べたところ、凄味は十分である。田代が、その後からはひつて来る。何か云はうとするが、舌が硬ばつてゐるに違ひない。たゞ、空ろな眼が、頻りに動いてゐる。
劉 この家は、なんだか見覚えがあるよ。永く住んでるのかい。田代 いや、うん、丁度三年目だ。劉 結婚と同時だね。細君はゐるかい?田代 うん、いや……いま一寸……。劉 ゐないのかい?田代 ゐるにはゐるが……いま、その……。劉 先へ、細君に会はしてくれ。田代 さうか。(渋々隣室にはいる。やがて、ぬい子をかばふやうにして現はれる。ぬい子は顔を伏せてゐる)劉 やあ、ぬい子さん、しばらく……。ぬい子 ……。劉 僕が、かうしてやつて来たことを、意外にお思ひですか?ぬい子 (殆んど聞き取り難き声で)いゝえ……。劉 しかし、びつくりなすつたでせう。ぬい子 いゝえ……。劉 びつくりしたといふよりも、怖ろしくお思ひになつたでせう。ぬい子 ……。劉 (田代に)君は、しばらく座を外してゐてくれ給へ。田代 僕かい?劉 しばらく、君のゐないところで、奥さんに話したいことがあるんだ。田代 (躊躇した後隣室へはひらうとする)劉 そこぢや話声が聞えるだらう。すまないが、外へ出てゐてくれ。
田代が、しぶしぶ、裏の方へ歩いて行くのを、劉とぬい子とが見送つてゐる。
劉 僕が、何時かあなた方の面前に現はれるといふことは、あなたも覚悟しておいででしたらうね。ぬい子 えゝ……。劉 そこで、かうして、僕が今、あなたの前にゐます。なんのためにゐるんでせう?ぬい子 ……。劉 あなたは、僕になにかおつしやることはありませんか?ぬい子 なんにも申上げることはありません。みんなおわかりになつてゐる筈です。劉 それは別問題です。あなたとお別れして以来、僕はまだ、あなたの心変りについて、なに一つ意見を述べたことはありません。ぬい子 しかし、それは……。劉 あなたが、若し、僕との約束を忘れておいでにならなければ、僕があなたに、何を求めてゐるか、それがおわかりの筈です。ぬい子 でも……。劉 今迄のことは、今迄のことでよろしい。過ぎ去つたことは、なんと云つても取り返しがつきません。しかしです。こゝで、あなたに、十分冷静になつていたゞきたい。僕が、これから、何を云ひ出しても、うろたへちやいけませんよ。ぬい子 (また顔をあげる)劉 さうです。僕の眼を御覧なさい。僕は、男の名誉と、自分の熱情にかけて、あなたに要求します。――僕との約束を実行して下さい。ぬい子 ……。劉 わかりませんか。僕と結婚して下さい。そして、明日、一緒に、支那へ発ちませう。ぬい子 そんなこと……。劉 できないとおつしやるんですか。なぜです?(間)ぬい子 なぜつて……。劉 田代君といふ夫があるから……。さうですね。ぬい子 (黙つて眼を伏せる)劉 それはなんでもないでせう。日本の法律は、幸ひ、かういふ場合を予想してゐます。ぬい子 (また眼をあげる)劉 離婚なさい。ぬい子 (驚いて)え?劉 田代君とお別れなさい。ぬい子 いゝえ、それはできません。劉 出来ない筈はないでせう。日本の女性は、たしか、さういふ分別を弁へてゐる筈です。ぬい子 いゝえ、それはできません。それだけは、なんとおつしやつても……あたくしにはできません。劉 よろしい。そんなら、僕は、田代君の手から、あなたを奪つてみせます。ぬい子 (キツとなり)どういふ風にしてですの? あの人が、それをさせると思つてらつしやるんですか。
この声を聞きつけて、田代が駈け込んで来る。
田代 なにをするんだ。(が、劉の燃えるやうな眼に射すくめられて、二三歩、後にさがる)劉 (急に調子を和げ)僕は、今、奥さんにある提議をしたんだ。奥さんは承知してくれない。この上は、止むを得ない。君に要求する。――ぬい子さんを、僕に返してくれ。ぬい子さんを、君の手から自由にしてくれ。田代 僕は、君から、どんな刑罰を与へられても、それは甘んじて受けるつもりでゐる。しかし、その要求だけは、勘弁してくれ。劉 しかし、僕がかうして遥々日本へ来たのは、それ以外に目的があるだらうか。君は、今日、僕が来るのを待つてゐた筈だね。僕が何か、ほかの要求をするとでも思つてゐたのか?田代 僕は、自分だけで、君の出方を想像してゐたことはゐた。それは、二つのうちの一つだと思つてゐた。劉 云つてみ給へ。田代 先づ、第一に、君の人物から推して、――同時に、これは僕の唯一の願ひだつたのだが――君が笑つて僕に手を差し出してくれることだ。劉 あの永い苦しみの後でか? 断じて、そんな気持はないよ、僕には。それから、もう一つといふのは?田代 もう一つは、これは、悲しむべきことだが、君が僕に命を要求することだ。劉 君の命……? そんなものは欲しくない。第一、君の命を貰つてどうするんだ。しかしだよ。君が若し、ぬい子さんをどうしても手放さないといふなら、これやしかたがない。田代 (身構へる)劉 待ち給へ。三年前、あの夏の蒸し暑い晩、君の手を握りながら、くれぐれも頼んだ僕のあの心中を、もう一度、こゝで見せられゝば見せたいのだ。ぬい子さんの手紙は、僕を気狂ひのやうにした。いや、実際、君たちを殺してしまはうとさへ思つたのだ。待ち給へ。僕も、しかし、少しは教育を受けた男だ。君たちにも、君たちの道徳がある筈だ。僕は、今日まで自分を制し、君たちの態度を観察してゐたんだ。しかし、もうこれ以上、黙つてゐるわけに行かない。僕は、僕がまだ生きてゐるといふことを、君たちに見せなけれやならない。今、かうして、君たちの眼の前にゐる僕は、決して、三年前の僕と変りはないんだ。今ぬい子さんが、誰を愛し、誰を愛してゐなからうと、そんなことは訊く必要がない、僕は明日、ぬい子さんを連れて、もう一度、あの海を渡るのだ。田代 僕は、命にかけて、ぬい子を護つてみせる。劉 命にかけて……? 面白い。君がさう出るなら、僕にも考へがある。決闘をする気だね。田代 え?劉 決闘をする気だらう?田代 まあ、さうだ。劉 僕に決闘を挑むんだね。田代 挑みはせん。劉 挑んだのも同様だ。よし、承知した。ぬい子 (田代の袖に縋る)あなた……。田代 しかたがない。ほかに解決の方法はない。ぬい子 いけません。そんなこと、あたしが承知しません。劉 あなたは、もう、なんにも口を出す権利はない。男同志の解決に総てをお委せなさい。では、何処でやるね?田代 何処でもいゝ。劉 外へ出ようか?田代 今すぐかい?劉 立会人もいるまい。田代 明日にしてくれ。明日の朝にしてくれ。劉 その必要はなからう。さ、用意をし給へ。(時計を見て)今が、三時五分前……。もう五分間待たう。僕は、短刀を持つてる。君の武器は、なんでも御勝手だ。田代 (決然と)おい、ぬい子、僕の部屋から、帽子とピストルを持つて来い。劉 帽子はいらんだらう。田代 帽子はいゝから、ピストルを持つて来い。よし、自分で取りに行く。ぬい子 (田代の洋服をつかみ)いけません。ねえ、劉さん。この人の命を取るかはりに、あたしを殺して下さい。あたしはどうなつてもいゝんです。ねえ、後生ですから、あたしを殺して……(泣きながら、今度は、劉の足下に跪く)
この時、玄関の呼鈴が、けたゝましく鳴り響く。
田代とぬい子が、顔を見合はせてゐる問に、劉は、悠々と玄関に出て行く。
やがて、一人の支那婦人を連れて入つて来る。
劉 先づ、紹介をしておかう。これは瑩芳と云つて、僕の家内です。田代 えツ? 君に……細君が……。劉 だからさ、君たちが離婚をして、ぬい子さんが僕のところへ来るにしても、僕の方では、この先生に暇を出さなけれやならないわけだ。ところが、これが頗る難問題だ。瑩芳 シヤーオー ピンハオメイユーフーリヨー田代 なんてね?劉 実際、それは難問題だと云ふんだ。なるほど、さうだらう。話をしなければわからんが、ぬい子さんが君と結婚するといふ話を聞いて、それこそ日夜煩悶をしてゐた僕を、心から慰め労つてくれたのは、当時僕の秘書として働いてゐたこの瑩芳なんだ。(そつちを顧みて)ウワンニヨイプー瑩芳 リヤンヤーオ劉 これで日本語は一言もわからないんだ。今、僕たちは、久々で会つて、非常に睦しい話をしてると思つてるんだ。そこで、この先生の真心が、次第に僕の傷いた心を捉へ、僕はまた再び生きる悦びを感じはじめた。二人は、目出度く結婚をした。それが二年前だ。田代 ふん。劉 相思相愛の結果が、不幸を齎す道理はない。田代 おほきに。劉 二年の月日は夢のやうに過ぎた。劉夫人は、現在身重らしいんだ。田代 それはそれは……。劉 南京は、知つての通り気候も悪いし、この際、保養かたがた観光を兼ねて、日本の温泉巡りを思ひ立つたわけだ。そこで思ひ出したのは、君達のことだ。自分の幸福な結婚生活を、しみじみ味ふにつけて、君達は、今、どんな気持ちで暮してゐるだらう。さぞ僕のことを考へて、何時までも晴々しないことだらう。出来れば、不愉快な記憶をお互に忘れ、その上、昔の友情を取戻すことができたらと、少しセンチメンタルだが、まあ、あからさまに云へばそんな動機で、かうしてこゝへやつて来たんだ。瑩芳 シンフオーライチユータオミヤンナー・トーレンナンキン。劉 君たち二人で、是非、南京へ来てくれと云つてる。田代 やあ、ありがたう。劉 しかし、考へてみると、僕が突然、君たちの前に現はれて、過去を一切水に流さうと云つたところで、君たちに取つては、それほど有難くもないだらうと思つてね。それに、これは僕流の潔癖さといふか、迷信といふか、現在の気持に到達した径路を、ひと通り君たちに見せておきたかつたのだ。然し、その結果は、二重に僕を安心させたんだ。予想以上にといふと失礼だが、実際、申分なく君達が愛し合つてゐるといふことを知つたからだ。これなら大丈夫だ。田代 すると僕たちを試したわけだね。劉 結果に於てはね。だが、怒りはすまいね。友達にもいろいろ種類がある。かういふ友達も、一人ぐらゐ持つてゐ給へ。田代 いや、いづれ、落ちついてよく考へることにしよう。お礼を云つても間違ひはないと思ふんだが、かう物事が急激にやつて来ると、喜怒哀楽のけじめがつかなくなる。ぬい子 (突然、長椅子に打ち伏して、声をあげて泣く)瑩芳 (そのそばに近づき、のぞき込むやうに)チヨンマイホー、チヨンマイホー。劉 そんなにうれしいのかつて訊いてますよ。
――幕――
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