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それができたら
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それができたら
岸田国士
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Chapter 3 of 5

三

為木音也は四国の生れである。貧農の家に育ち、小学を終へるとすぐに丁稚奉公に出された。高松のペンキ屋で五年の年季をすますと、人にすゝめられて神戸へ渡つた。塗料会社といへば大きいやうだが、職人はたつた三人で、彼は昼夜をわかたずこき使はれ、そして、二年足らずで首になつた。親方の仕事にケチをつけたといふ理由であつた。彼は、当てもなく大阪をさ迷ひ歩き、やつと洗ひ屋の下仕事の口を見つけたと思つたら、そこでは、能率があがらぬと言つて、賃金を人の半分しかくれず、彼は業を煮やしてそこを飛げ出し、世話するものがあつて、ある法華寺の寺男に住み込んだ。これはかなり長続きしたのだが、戦争で徴用になり、どういふはずみか、あちこちの軍事工場へ転々と引き廻され、処もあらうに、上州の山の中の、焼け石とスヽキの原のまんなかで、労務に適せずといふ軍医の証明をもらつて、やつと自由なからだになつた。

大阪で寺男をしてゐる頃、住職の肝入りで、血色のよくない銭湯の出もどり娘と祝言をあげた。期待は小さかつたが、得るところは大きかつた。しつかりした、よく気のつく女房で、裁縫が得手であつた。子供が五年の間に六人でき、そのうち二人は、幸か不幸か育たなかつた。

徴用の紙ぎれを前において、彼は妻と相談した。妻は、子供さへゐなければ、と言つた。住職は、寺に必要なのは屈強な男の手であつて、女や子供の手は、いく本あつても間に合はぬと断言し、残していく妻子の身のふり方を考へてはくれなかつた。彼は止むなく、郷里の実家へ頼んで、母子五人の面倒を引きうけさせた。思つても暗い月日であつた。

徴用解除の日、彼がまづ身を寄せたのは、顔見知りの運送屋深井某の家であつた。

「どこへ行つても働くあてはないで、しばらくこの土地で厄介にならうと思ふが、どうだらう」

と、相談をもちかけた。

「わしのところでよけれや、なんていふことなしに、ちつたあ、おめえの仕事ぐらゐあるべえ」

深井某は、それでも、土地の顔役である。

「なにぶん、よろしく頼みます」

為木音也は、それ以来、トラックの助手、荷馬車曳き、薪の伐り出し、時には、畑仕事や、鶏小舎の世話までさせられた。それで、妻子の手許へは一文も送れなかつた。

「言ひにくいこつたが、わしは、自分ひとり食はせてもらふために、こんな労働をせにやならんのかね?」

ある時、彼は、思ひ余つて、親方の深井某につめ寄つた。

「それが不服なら、どうしようつていふんだ? いゝ気になりやがつて……」

「いゝ気になつてるのは、そつちのことぢやないかね? 煙草銭にも事を欠いて、それで仕事をする張合があるか、どうか……」

「ねえなら、はつきり、ねえと言ひな。いつでも、どこへでもやつてやるから……。いゝ年をしやがつて、餓鬼の手間にも追つつかねえぢやねえか!」

さう言はれゝば、さういふところもある。早い話が、薪伐りの仕事は、一束いくらといふ貸仕事になつてゐる。直接それだけの現金を受けとるわけではないが、一日がかりで彼の仕上げる薪束はやつと六十束そこそこである。小学生でも上級になると、楽に八十束といふのが標準になつてゐるのだから、彼の能率がどんなに上らぬかといふことは、親方でなくても万人これを認めるところである。そこで、彼は三度の麦飯にありつくだけで、小遣などは親方がよほど機嫌のいゝ時でないと、鐚一文もらつたことはない。

酒は一滴も飲まず、バクチの真似はしたことがなく、女には戯談ひとつ言へない彼が、働いても働いても、配給の煙草さへ買へぬ始末はこれでやうやくわかつたが、このことは必ずしも、彼自身の罪ばかりではない、といふことを、彼はぼんやり感じてゐた。

彼の顔面は、日一日と硬直し、笑ひたくても笑へなくなり、ひとに誘かけられても、返事をするのが億劫になつた。

世間はこれを自業自得とみるのが普通であるが、駐在の有馬巡査は、ある日、彼をつかまへてかう言つた。

「どこかほかへ、働き口をみつけたらどうだ。今のまゝぢや、どうにもなるまい」

「働かしてくれるところが、ほかにあれば、だが……」

「なくはないぜ。君さへその気なら、わしが世話するがどうだ? ほれ、楢沢の別荘地に疎開してござる神田さんちふを知つとるだらう?」

「知らん」

「知らんこたねえよ。誰でも知つとるえれえ学者だ。もうえゝ年で、隠居も同然だが、ちつとばかり畑を作つたり、薪を割つたりするに、男手がほしいつて言つてござるんだ。奥さんと、お嬢さんと、三人暮しだで、用心もわるかんべえ。たしかな留守番にもなるやうな、ひとり者の男はねえかつていふ話を、ついきのふ聞いたばかりさ。君、行つてみる気はねえか?」

「わしはひとり者ぢやねえ」

「ひとり者も同然ぢやないか」

「いくら出すちふかね?」

「さあ、それが、話のしやうだと思ふがね。現在よりわるいことはねえと、わしは保証するよ」

「そんなら、行つてみるか」

神田老博士は、大学を停年でやめ、著述に専念してゐる植物学の地味な学究である。東京の家を焼け出されて、この山荘へ命からがら逃げ出して来た、おそらく最後の疎開者の一人である。ほかの季節ならばともかく、酷寒の生活が思ひやられるところから、どうしても、使ひ走りをする男が必要であつた。細君のゆかり女史も、どこを切りつめても、労働力だけは確保したいと、切に望んだ。

有馬巡査の紹介で、早くも為木音也といふ見るからに適任らしい人物が現れたことを、神田夫妻はよろこんだ。

よろこんだのは束の間、三月もたゝぬうちに、まづ、細君のゆかり女史が、夫博士に向つて苦情を並べだした。

「ねえ、あなた、あのひとは、てんでダメですよ。第一、呼んでも返事をしませんよ。用事を頼むと、きまつてそつぽを向きますよ。わかつたか、つて念を押してごらんなさい、眉間に皺を寄せて、へえつていふだけですよ。それから、ちよつと面倒な仕事を言ひつけでもすると、しばらく考へて、なにやら、ぶつぶつ、口の中で言ふんです。それが、きまつて、かういふことなんです。だいたい自分にこんなことをさせるやうになつた原因はどこにある? はじめから、気をつけて、こんな面倒なことにならないやうにすべきではないか? 今ごろになつて、やいやい言ふのは、言ふ方がをかしい。この仕事がどんなにバカげた仕事かといふことは、実際に手をつけるものでないとわからない。簡単なことだと思はれては、甚だ迷惑だ。つまり、さういふことなんです」

「まさか、その通り言やすまい」

と、老博士は、細君の弁舌に釘を刺す。

「もちろん、言葉どほりぢやありませんけれど、あのひとの言ひたいことは、さうなんです。顔つきでわかりますもの」

「うん、多少、頑固なところはあるやうだね。だが、とにかく、頼んだことを、一度で、すぐやつてくれんのは困るな。わたしが、門柱が曲つてるから直しておけと言つたこと、鶏小屋を鷹がねらはないやうに、上へ十文字に綱を張つておけといつたこと、そのどつちも、もう三日になるが、まだやつてない」

「さうなんですよ。いやに勿体ぶるところがあるんですよ。自尊心が強いんでせうか?」

「さういふところもないぢやないね。しかし、結局、スローモーションなのさ」

「スローでもいゝから、すぐにかゝつてくれゝばいゝんですがねえ」

「だからさ、次の仕事に移る、その移り方もスローなのさ。さうだらう、どこも平均してスローでなければ、スローとは言へんからね」

「さうですよ、あなたみたいに、あることだけ、せつかちなひとがありますものね」

「まあ、わたしにまで当りなさんな。為木のことは、折をみて、わたしから注意してみよう」

「注意ぐらゐでなほるもんなら、あたくしはこんなにぢりぢりしませんわ。もう、匙を投げました、匙を……」

「それに、百姓のことは、てんで興味がないらしいね。どうも、畑仕事をみてると、われわれよりうまいとは言へんね。どうだい、肥タゴを担いでるのを見たことがあるかい?」

「ありません。それも、あたくしが、再三、お茄子とキウリに薄い下肥をやつてくれるやうにつて、言つてあるんです。かうなると、スローなんていふ問題ぢやありませんわ。むしろ、怠慢そのものですわ。横着以外のなにものでもありませんわ」

「いや、いや、そこまで言ふと言ひすぎだ。ねえ、ゆかり、わたしはね、あの男の、かくれた美徳を、たつた一つ発見したんだ」

「なんですの?」

「いゝかい、昨日のことだがねえ、家の前をトラックが一台通つた。夕方のことだ。君は多分台所にゐたから知るまいが、そのトラックが炭をいつぱい積んでゐるんだ。ところが、丁度家の曲り角で、車輪が石ころかなにかに乗りあげて、えらく揺れたんだ。その途端、積んである炭俵の口があいたらしく、炭がばたばた道の上へ落ちこぼれた。拾ひ集めたら、あれでも一貫目以上あつたらう。わたしは、もつたいないな、と思つた。すると、すぐ道ばたの畑でジャガイモの土寄せをしてゐた為木のやつが、ちらとそれを見て、あとは知らん顔をしてゐる。実は、わたしは、彼が後で、それをどう始末するかと思つて、今朝、ちよつと散歩の序でに、たしかめてみた。驚くぢやないか。この炭代の高い時代に、彼は、その炭に手をつけようともしないのだ。ひとの落したものは、自分のものぢやないと信じきつてゐるんだ。どうだい、ゆかり、かういふ人物なんだよ、あの為木といふ男は」

「感心なさるほどのことぢやないわ。それほど、頭の廻転が鈍いんですよ」

「鈍きものに幸あれ、か。わたしは、ちよつと見どころがあると思つてるんだ」

しかし、好漢為木音也は、夫博士の支持にも拘はらず、ゆかり夫人の神経をいらだたせることおびただしく、遂に、半年目の終り、もう楢の葉が色づきはじめる頃、突如として解雇を申し渡された。

Chapter 3 of 5
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