Chapter 1 of 5

第一場

山間の小駅――待合室

真夏の払暁。

発車の直後といふ気配。

二三の旅客に交つて、都会のものらしい夫婦連れが、改札口の方から現れる。一隅を選んでそこに手荷物を置き、汗を拭ひ、左右を顧み、やがて、女が先に、男がそれに続いて腰を下ろす。

他の旅客は、待合室を通り過ぎるだけである。

男は出来合ひらしい白の洋服、女は現代風のかなり整つた身じまひ。――手荷物は、服装の割に野暮な信玄袋と行李鞄、それに、中型のシューツケース。

亮太郎  疲れたらう。あや子  やつぱり眠れなかつたわ。どつかに顔洗ふところないか知ら……。亮太郎  朝飯を食へば、前の宿屋で洗へるけれど……まだ早すぎるだらう。それとも軽便を一つ待つて、六時のに乗つたつていいや。あや子  六時のだと、何時に着くの。亮太郎  七、八、九、まあ、九時だね。あや子  それでもいいわね。折角買つたお弁当が無駄になるけど……。亮太郎  お土産にちやうどいいよ。あや子  お弁当のお土産つて、あるか知ら……。(間)あたし、さうする。亮太郎  待てよ、ちよつと、見て来よう、もう起きてるかどうか(出て行く)あや子  (待つてゐる間、信玄袋の上に両腕を托し、それに額を当ててゐる)亮太郎  (首を振りながら入つて来る)駄目。駄目だ。あと一時間かかるつて……。それぢや六時のに間に合はない。あや子  その次は何時?亮太郎  (時間表を見ながら)六時の次が、七時三十分……その次が九時三十分……。あや子  ぢやいいわ。まだおなかはすいてないし、それに、顔なんかどうだつていいんでせう。見る人なんかゐやしないわね。亮太郎  見る人はゐるよ。みんな見るよ。それこそ、通る奴通る奴、みんな振り返つて見るよ。君のやうな女は、開闢以来、あの村に現れた例しはないんだから……。あや子  いやな方……。でも、お化粧なんか気をつけて見る人はないでせう。これでいいのよ。亮太郎  でも気持がわるかないかい。あや子  いいの、面倒臭いわ。亮太郎  そんならいいさ。軽便一時間半、馬車一時間、谷を下り、坂を上ること二十分、橋を渡ること二度、梯子段十七段、門から玄関までざつと十間、廊下二十歩、それでやつと座敷へ通ると、おやぢとお袋の口上が短く見積つて滔々十五分、着物を着替へて風呂へはひり、昨夜は寝てないからと言つて一休みするまで、なかなか暇がかかるぜ。あや子  いくらなんだつて、着く早々寝られやしないわ。お母さんは優しい方?亮太郎  だから不断さう言つてるぢやないか――お袋は、僕の言ふことならなんでも聴く。恐らくお嫁さんにも同様だらう。うちには女の子がゐないから、きつと珍しがるよ。甘えてやり給へ。あや子  甘えられるお母さんだといいわね。(間)ねむいのよ、あたし……。(また信玄袋の上に突つ伏す)亮太郎  寝てろよ。まだ三十分ばかりある。(間)恐ろしい霧だ。

間。

あや子  あれ、霧なの。さうだわ、変ね、あたし、さつきから、なぜ煙みたいなものが一杯あるのかと思つてたの。やつぱり気候のせゐね。亮太郎  気候のせゐさ。海抜二千九百尺、これからまだ登りになるんだ。君は白樺といふ木を見たことはないだらう。それから、落葉松、えぞ松といふやつ……。(間)眠れるかい。あや子  ええ。亮太郎  話はやめようか。あや子  いいのよ。聴きながら眠るから……。亮太郎  洒落たこと言つてらあ……。君に、栗の木のこと話したか知ら……。あや子  なに?亮太郎  栗の木さ……。屋敷にある大きな栗の木さ。あや子  ええ。亮太郎  話したかい。あや子  ええ。亮太郎  なんて話したつけな。あや子  村で一番の栗の木だつて……。亮太郎  あれや、全く見ものだよ。二抱へある栗の木つていふのは珍しいだらう。栗が落ちる頃は、毎朝、うちぢゆうの女が出て拾ふんだが、朝の間だけでは拾ひきれないほどなんだ。あや子  ……。亮太郎  この秋は、東京へ送らせることにしよう。独りぢや、栗を焼いて食ふ気にもならないからね……。(間)だけど、家ん中が穢いのをびつくりしちや駄目だよ。田舎の家なんていふものは、古いのを自慢にしてるんだからね。煤けてるほど値打があると思つてるんだ。その代り、風が吹いたつてぐらぐらするやうなことはない。あや子  もうあと幾分?亮太郎  三十分。あや子  まだ三十分? さつきとおんなじね。亮太郎  おんなじだ。あや子  時計が止つてやしない?亮太郎  止つてやしないよ。あや子  ……。亮太郎  軽便まで誰か迎へに来てるかも知れないよ。弟が来てるか、おやぢが来てるか。あや子  お父さん、そんなにお達者なの。亮太郎  達者もなにも、急ぐ時でなきや、馬車なんかへ乗りやしないよ。あや子  お歩きになるの、馬車で一時間の処を……?亮太郎  あたり前さ。田舎者つて、そんなものだよ。畑だつて、自分でするんだよ。あや子  あら……。だつて、人を使つていらつしやるんでせう。亮太郎  使つてるさ。使ふもんも一緒になつて働くんだよ。あや子  そんなもんなの。亮太郎  そんなもんさ。あや子  さうでせうね。あたし、早くお父さんが見たい。亮太郎  おやぢの方で腰をぬかすか、君の方で眼をまはすか、僕も早くそれが見たいよ。あや子  なぜ?亮太郎  なぜつて、お互に意外だらうからね。君が想像してる僕のおやぢと、おやぢが想像してる僕の家内と、その両方とも、僕にはどうやら見当がついてる。実際と違ふ程度が、どつちも同じやうなものだよ。あや子  さうか知ら……。お父さん、お髭を生やしてらつしやる?亮太郎  さあ、髭つていふより、毛に近いものを生やしてたかも知れない。どうして?あや子  髪は分けてらつしやる? それとも……。亮太郎  禿げてるかつていふんだらう。まだ禿げてやしなかつたらう。薄いには薄いがね。だが、分けてるなんと思ふと大間違ひだぜ。第一……もう止さう、そんな馬鹿な話……。君は、駄目だよ。わからないかなあ、田舎の百姓爺がどんな恰好をしてるか……。あや子  百姓爺つたつて、普通のお百姓ぢやないんでせう。亮太郎  その差大ならず。僕が櫛を使つてたら、息子が女の真似をするやうになつたつて村中言ひふらしやがつた。あや子  まさか。亮太郎  (笑ひながら)まあ、そんなもんだよ。(間)今のうちに眠つとけよ。あや子  もうねむくなくなつたわ。少し寒いか知ら……。亮太郎  自分はどうなんだい。羽織はすぐ出せるやうにしてあるんだらう。朝晩はこの調子だよ、これから……。あや子  夏涼しいと変ね。亮太郎  夏だと思はなけれやいいさ。なにしろ、裏の森ぢや鶯が啼いてるんだからね、今頃……。あや子  さうですつてね、去年の夏、軽井沢へ行つた友達がさう言つてたわ。軽井沢とそんなに違はないんでせう。亮太郎  もつといいとこだよ、変な毛唐なんかうろうろしてなくつて……。あや子  あなたは西洋人が嫌ひね。亮太郎  嫌ひだよ、あんな化物みたいなもの……。それはさうと、僕の方の田舎にね、初めて毛唐がやつて来たことがあるんだ。もう二十年も前だけれどね。それが、今で言へば山岳旅行をやつたんだね、毛唐のことだから……。すると、一人の百姓が、山の中でその毛唐に出くはしたらしいんだ。その百姓、びつくり仰天して、山を駈け降りて来たのさ。さうして天狗がゐた、天狗がゐたと、村の者に注進に及んだからたまらない、その頃は青年団なんていふものはなかつたから、屈強な若いものが、手に手に得物を携へて天狗退治に出かけた、といふのは嘘らしいが、兎に角、あとで、それが毛唐だとわかり、なるほど鼻は高かつたと、みんなが……。あや子  うそばつかし、そんな話……。だけど、ありさうなことね。(と言つて、今度は、腹を抱へて笑ひ始める)亮太郎  それ見ろ、面白いだらう。君、毛唐好きか。あや子  好きでも嫌ひでもないわ。亮太郎  そんならいいや。あや子  何がいいのよ。亮太郎  なんだか忘れた。あや子  ……。亮太郎  兎に角、栗の木は見ものだよ。花が咲いてれば、一里手前から見える。あや子  あたし、お弁当たべようか知ら……。お茶がないわね。さうだ、お茶がない。どうするつもりだつたのか知ら……。亮太郎  飲まないつもりだつたんだらう。水で我慢するさ。この辺の水はいいよ。それに薬かも知れないよ。ラヂウムかなんか含んでて……。あや子  そんなら、すまないけど、汲んで来て頂戴。亮太郎  何へ?あや子  何かへよ、きまつてるぢやないの、その辺に空壜か何か落ちてないこと?亮太郎  よし、君が、それだけ徹底してくれりや、水も汲んで来甲斐がある。待つて給へ。(出て行く)あや子  (弁当を開いて食ひ始める)

この間に、温泉廻りの上方者らしい男が、芸者か仲居風の女を連れて、汽車の時間表を見に来る。が、しばらくすると、また何処へか行つてしまふ。

亮太郎  (ビール壜を提げて帰つて来る)あや子  (片手でそれにさはつてみて)あら、熱いのね。お茶を貰つてらしつたの。亮太郎  男子意気に感ずれば、お茶ぐらゐ貰つて来るよ。僕も食ふぜ。(腰をおろし、弁当を食ひはじめる)この魚、大丈夫か。あや子  お茶、どうして飲むの。亮太郎  自分で考へろ。あや子  かうすんの? (と言ひながら、喇叭飲みをしようとするが、思はしく行かない。徒らに唇を尖らすばかり)亮太郎  (素知らぬ顔で)飲んだら、こつちへよこせ。あや子  (すぐに)ぢや、はい。亮太郎  何だ。飲んでないぢやないか。(流石に、手際よく壜を傾ける)あや子  これで、折角の、紳士旅行も台なしね。亮太郎  台なしなもんか。あや子  だつて、あの汽車の中のすまし方はどう。あたし、可笑しくつて……。不断のみもしない葉巻なんかふかしてさ……。脚をかう組んで、額に八の字をよせて、そして文芸春秋を読んでる光景は、たしかに歴史的よ。亮太郎  君はどうだ。……止さう、顔が赧くなる。あや子  おつしやいよ。あたしのどこが可笑しい?亮太郎  可笑しいさ、あんなに何べんも時計を見ちや……。あや子  時計? あら……。(笑ひながら)汽車に時間はつきものよ。亮太郎  駅長ぢやあるまいし……。しかし、君は案外可愛いらしいところがあるよ。四十円の腕時計で、たうとう一晩の睡眠を棒に振るなんて。あや子  (もう相手にならない)おいしくないのね、このお弁当……(ちよつと顔をしかめ)どら、お茶を飲まして……。亮太郎  おやぢより、弟を見てびつくりしやしないかなあ。あや子  なぜ。亮太郎  無愛想な奴だからさ。あや子  そんな?亮太郎  いつか、模範青年つていふんで県で表彰されたんだがね、なんでも、そん時、知事なんかゐる前で、この免状みたいなものは、なんにもならないから返すつて言つて、問題を起しやがつたんだ。あや子  でも、痛快な方ね。亮太郎  痛快でないこともないが、誰にでもその調子だからね。君なんかにも、平気でどんなことを言ふかも知れないよ。あや子  それがわかつてればいいわ。でも……。亮太郎  乱暴なことはしやしないよ。ゐるかゐないかわからないやうな男だからね。十日も口を利かないことがあるよ。あや子  まあ。亮太郎  だから、こつちから、あんまり話なんかしかけない方がいい。うるさいと思ふと、返事をしないんだ、誰にでも……。あや子  あなたにでも……。亮太郎  (曖昧に)うん。(間)自然、みんなとの折合が悪くつてね。それはまあ、近頃のことなんだがね。あや子  みんなつて、おうちの方と……?亮太郎  それより、村の顔役なんかとね。そのくせ傭人にはいいらしいんだ。変なもんだね。使つてるものの評判は馬鹿にいいんだ。あや子  社会主義ぢやない?亮太郎  さうかも知れんよ。(間)そんなこともあるまいがね。あや子  ずつと、おうちにいらつしやるのね。亮太郎  師範を中途でよしてね、嫌ひなんだ学校が……。本はなかなか読むらしい、何処で探して来るか。あや子  でも、さういふ方も面白いわね。あたし、朴訥な方、好きよ。亮太郎  馬鹿ぢやないんだよ。あや子  馬鹿なんて、そんな……。ぢや、東京の者なんかはお嫌ひでせう。亮太郎  都会といふものを軽蔑はしてるね。あれで、なかなか、理窟を言はせると、言ふらしいね。あや子  油断がならないわね。兄さんを負かしやしない。亮太郎  こつちは、理窟は苦手だからね。農村問題なんか、真つ平だ。あや子  あなたは、もうすつかり都会人ね。亮太郎  さうでもないが、所謂「根こぎにされたもの」の一人には違ひない。その点、弟の偉いところも、わかるにはわかるんだ。あや子  それやさうだわ。生れた土地を離れないつていふことは、善し悪しは別として、美しいことだわね。亮太郎  (妻の顔をつくづくと見つめ)君にしてその言あり、世は挙げて郷土主義に靡くかと思はれるね。あゝあ、山川にして情あらば、嘗て一度志を立てて郷関を出でたる我れ、今、身に錦は飾らずとも、美しき妻を携へて、再び汝の懐に還り来れるを喜び迎へよか。ブウブカドン、ブウドンドンだ。あや子  おや、おや……。亮太郎  (やけに茶を飲む)

長い沈黙。

あや子  霧が霽れてよ。亮太郎  霽れた。(時計を見て)さ、出掛けよう。もうあと十分で出る。あや子  軽便までは遠かないんでせう。亮太郎  一足だよ。そこに見えてるぢやないか。あれの一時間は優に汽車の五時間草臥れる。大丈夫か。あや子  大丈夫よ。亮太郎  大丈夫か。そいぢや、弁当の空なんかいつまでも持つてないで、そいつを一つ持つた。(シューツケースを頤で指し、自分は信玄袋と行李とを両手に提げる)あや子  (惶てて弁当の空を椅子の下に投げ込み、起ち上る)亮太郎  (歩き出しながら)旅行といふものは不思議なもんだね。動くことが苦にならん。あや子  (これも歩き出し)ねえ、あなた、ちよつと待つて頂戴、(と言つて背中を夫の方に向け)帯、ちやんとなつてる?亮太郎  なつてる。

両人、再び歩き出す。

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