七 結語
八坂瓊之曲玉、精しくは八坂瓊之五百箇御統之曲玉は、わが三種の神器の一として、ことに貴き神宝の御名である。しかしながらそれは特に天照大神から天孫瓊瓊杵尊に賜わったという、貴き由来を有する神器の御事で、いわゆる八坂瓊または八坂瓊之曲玉とも言うべきものは、もとは単に連珠に対する普通名詞として、一般民衆までも往々これを服飾に用いたものであった。それは文献のこれを語り、実物のしばしば墳墓から発見せられるのみならず、埴輪土偶にも往々にしてこの形があらわれ、石器時代の土偶にまで、時に連珠、特にいわゆる曲玉を交えた連珠を帯びたもののあることによっても知られるのである。しかしてその連珠を佩ぶるの遺風は、今も奥羽地方の女巫イタコ、琉球の女巫ノロクモイ、あるいは北海道アイヌの婦女の首飾などに保存せられているのである。しかもこれはひとりわが国のみならず、『魏志』には馬韓人にこの俗のあったことを記し、現に台湾、南洋等の未開人、ないし欧米の文明を誇る人々の婦女の間にも、ある形のもとにこの風習は行われているのである。しかしいわゆる八坂瓊之曲玉なる名称は、ことに貴き神器の御名として用いられるがゆえに、他の場合においてはいつしかその名称が廃せられ、もっぱら神器のみに対し呼ばれることとなってしまった。
なおさらに考うべきはこれら連珠の中にあって、ことさらに今のいわゆる曲玉なるものが珍重せられ、またそれがほとんどわが国特有のものといってしかるべき事情である。いわゆる曲玉の発見地域は、ひとり内地のみならず、西南は沖縄、宮古、八重山諸島から、西北は朝鮮半島の南部に及び、またこれを時代からいえば、古くは石器時代から、大正、昭和の今日までも、現に琉球のノロ社会には、それが特に珍重せられているのである。もっとも奥羽地方のイタコや、北海道のアイヌ族は、今では単に連珠を首にかけるだけで、特にいわゆる曲玉を珍重することを忘れているが、蝦夷時代のものと思わるる奥羽地方の古墳はもとより、北海道室蘭附近や江別兵村〔(江別市)〕の古墳からは、やはりそれが発見せられ、岩手県和賀郡更木〔(北上市)〕発見、本山彦一氏所蔵の土偶、また秋田県仙北郡石名館発見、小西宗吉氏所蔵の土偶に、その首飾の連珠の中央にその形があらわされていることなどによって、古代のアイヌ族もまた特にそれを珍重したことが知られるのである。
しからば何がゆえにこのいわゆる曲玉がことさらに然く珍重せられたか、またその特異なる形態がいかにして発生したか、ないしその材料として石器時代以来わが国に産出せざる硬玉が、しばしばそれに使用せられていることに関して、いかなる径路が尋ねらるべきか。これらについては学者おのおのその見解があろう。余輩またおのずからその説がないでもないが、今はもっぱら連珠なる八坂瓊之曲玉のことのみに限り、すべて他日を期して筆を擱くことにする。
終りに臨んでこの小篇が、奥羽地方旅行中の汽車の中や客舎の褥中において起稿せられたがために、携帯のメモ記する以外はすべて記憶に基づくものであり、したがって史料の引用不十分であり、時に正確さを欠くものあるべきことを告白して、読者の宥恕をお願いする。(昭七・一一・二二、尻内駅にて)
●図書カード