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犬酸漿
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犬酸漿
キングスフォードアンナ
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Chapter 3 of 6

第三章

彼は暗い自室に戻った。碌に陽も射さず、大きな書物と髑髏と化石とそして、深紅のバラを着けいつまでも変わらぬ姿で彼を迎える美しい少女の絵が掛かった小さな部屋だ。ベランダのベラドンナから漂うアロマが部屋一杯に染み渡り、老哲学者の魂を隅々まで静かな寛容の気で満たした。

彼は書棚の前に立ち、躊躇いがちに一巻一巻、萎びた指を書物の上に這わせた。私は既に彼の胸を過った考えを知っており、香りを立ててその高貴なる犠牲的行為を援護した。次いで彼は本を取り出した――一冊、二冊、三冊――彼がとりわけ珍重していた古典の大層古い版で、彼のような学者や目利きにとってはまさにエルドラドにあたる書籍だった。彼は震える程に優しい手つきで本を開き、そのページの上に愛情のこもった視線を落とし続けた。あたかもそれらの書物が生涯の友の顔であるかのように。そして暗い隅にある絵に目を向けた。一つの名前が唇から零れた。柔らかな響きのドイツ語の縮小辞が。だが、同時に漏れた溜息が余りに長引いたため、ほとんど聞き取れなかった。しかし私には、この瞬間、彼の広い心が二重に楽しみを捨てたことが判っていた。彼は不滅の天才たちの高貴な著作を宝としていたのに負けない程、過ぎ去りし愛情が遺してくれた贈り物を慈しんでいたからだ。

彼は本を脇に抱えて静かに部屋を出、町に戻った。開けた広場や市場を避け、薄汚くうねる路地に沿って行き、狭い街路の暗い感じのする背の高い家までやって来た。そこでリッテル氏は立ち止まって中に入り、前庭を通って家の裏手にある大きな部屋に足を運んだ。そこには一人の紳士がおり、気楽そうにアームチェアに凭れていた。ついさっきまでそこで寝ていたのだろう。象牙のペーパーナイフを使って、手に持った本のページを切っていた(*5)。我々が入り込んだその部屋は、奇妙な合成物めいて見え、私にはそれを何と言ったものか判らなかった。部分的には出版社の倉庫のようであり、部分的には文学館のようであり、あるいは単なる金持ちの homme de lettres の私設宝物室のようでもあった。

リッテル氏は三冊の分厚い本をテーブルの上に乗せた。そのテーブルには古い手稿やベラム革のカバーのついた化石じみた古書が所狭しと散らばっていた。

「ああ、こんにちは、先生!」と紳士は手許の本から目を上げて言った。「何をお持ちで?」

彼は話しながら近づいて来ると、老人がテーブルの上に積んだ山の中から一番上の本を開いて扉を検めた。

「おお、マリア様!」彼は叫び、とたんに態度全体が気楽な無関心から真剣な興味へと変わった。「なんと、遂にこれを手放すのですか? これはまたどうした風の吹き回しで。ローマではピストール金貨二百枚積んでも売っていただけなかった本じゃありませんか。どれほどカネを出されてもこれは売らん、と仰って!」

「ああ、シニョール、ですが、今は売るのです。」

ああ、物惜しみしない喜捨だ。だが、その心痛は耐え難い程であり、この殉教者はどうして僅かな溜息をつくだけでいられるのだろう!

「同じお値段ですね、先生? 価格交渉はなしってことで。猊下ならこの手の本をたっぷり持っとりますが、先生、貴方は貧乏だ、ねえ。」

彼はどこか馴れ馴れしい感じで恩着せがましく老ドイツ人に頷いた。「慎ましくしなさるな、力になりますよ!」とでも言いたげに。

しかし、先生はそんな言葉にも気配にも上の空で、だが私には、その瞬間、よれよれの外套の下では彼の心臓が滅多にないやり方でひっくり返っているのだろうと思われた。

「同じ値段で、それでよければ、シニョール。」

我々の前にいるこの心優しい人物は枢機卿の代理人のようだと私は思った。突如として、驚いたような吟味するような視線を哲学者の穏やかで威厳のある顔に鋭く飛ばし、口笛で二音からなる短くて陽気なアリアを吹いた。これを手助けにして、歯ごたえのあるごちそうを噛み砕き、精神的に咀嚼してみせようとしていたのだ。次いで肘の所にある鉄枠の銭箱の方を向いて鍵を開け、約束通りの額を取り出して手早く数えると、老ドイツ人に手渡した。彼は震える指で金を集めた。あたかも友人を裏切った報酬でもあるかのように。そして高貴な頭をがっくりと胸まで落とした。まるで激越な最前線で戦う軍馬が、心臓まで撃ち抜かれたかのように。

彼の行いは天の帳簿に記録された。

「さようなら、先生。」

「お元気で、ご主人。」

リッテル氏は家に戻らなかった。我が家を、昼の陽に焼かれ水ぶくれができそうなその緑のベランダを通り過ぎ、牧場を越えてローラ・デルコールの陋屋に向かった。彼女は開けたままのドアの所に座り、透き通った両の掌を祈りを上げるかのようにきつく握りしめ、その大きな瞼は暗く重く、のしかかる苦痛の程を物語っていた。ああ、ローラ! ローラ! 「幸福なるかな、悲しむ者。その人は慰められん!」(*6) だがそれは人の手になるこの世界ではなく、ああ、地上の娘よ、こんな世界ではないのだ、この後に御神が創り賜う新たなる世に於いてである!

「リッテル先生! 行ってくださったのですね? 姉が何と申したか仰って! ティスタは今いません、薬草を採りに森に行っています。」

「ティスタにはどこまで話したのですか?」

「この件で? 何も。自分で――のことを――伺ってから――」

彼女はリッテル氏を歓迎しようと痛いほど興奮し切って腰を挙げた。が、そこで蹌踉いてしまった。私は彼女が倒れたに違いないと思ったのだが、そうなる前に老人が優しく抱きとめていた。

「安心しなさい、ローラさん。」と囁いた。「良い知らせですぞ。」

彼女は木の椅子に倒れ込み、血の気の失せた両手で顔を覆った。喜びに啜り泣いているのだ。長い苦しみに一人で耐えぬいた婦人だけがこのように泣くことができる。

寄り添って立つリッテル氏は親切な目で見つめつつ、彼女が思う存分泣く間、声を出さずに白髭を撫で続けた。彼女の幸せそうな黒い瞳は夢見心地で、涙を一杯に溜めていたが、再び彼の顔を見上げた。夏の日照りに干上がった池が、慈雨を受けたかのようだった。

「姉は何て言っていました? メモか伝言をくれましたか?」

リッテル氏は金貨を取り出して彼女の膝に乗せた。

「持って参りましたぞ。」とこれだけ言って。

「イエス様、マリア様! 姉がこんなに! なんていい人なんでしょう! なんて気前がいいのでしょう! 私が受け取っていいのですよね、先生?」

「これはティスタのものです。奉公に出るためのお金です。ですが、条件がありましてな。奥さん。『この贈り物の贈り主が何者か、ティスタに知らしてはならない。未知の友人からだと説明しなさい。大きくなれば自然にわかるだろう。』ということです。」

「親切な私のロッタ! すると、自分を愛せるくらいティスタを成長させてからどんな親切をしたか教えようというのですね! あの子の為なら、私はお金を受け取るしかないでしょう、ねえ先生? ですが、私は姉の所に行って自分からありがとうといいたいのです、構いませんよね?」

「今は駄目です、ローラ。お姉さんは明日の朝ここから他所に行かねばならんのです。シニョール・ネロに約束があって、そうせざるを得ず、そこで当座のところ儂にこれを託したのですよ。敬意と別れの挨拶と共に。」

落ち着いた柔和な目で彼女を見ながら、老人は小屋の壁にもたれ、銀の髭を撫でた。

地上の娘よ、御神をして裁かしめよ。御神のみが死すべき人間の心を知り給うが故。自分についていうと、地の塵より生じた花に過ぎぬ私が、それでも尚、老哲人の嘘は少なくともカルロッタ・ネロの率直さに比して、より気品がありまた情け深いと考えたことを告白する。

「ローラ、幸せかね?」

彼女は目を上げて微笑んだ。

この微笑みを見て、哲学者は報われたのだ。

その後まもなくバッティスタ・デルコールは町の薬種商の見習いになり、もう有頂天だった。だが尚、彼の母もリッテル氏も未知の友人の名を告げなかった。やがて夏が終わりに近づき、森の羊歯類が色褪せ始める頃、ドローレス・デルコールは患い付き、寝込み、日に日に血の気を失っていった。もう仕事は全くできず、ティスタとリッテル氏のお陰で生きている状態になった。

私についていえば、その時もなお緑の屋根のあるベランダで花を付け、いつも暗い部屋を覗き込んでいた。そして、一冊一冊と、老ドイツ人の書棚から黴臭い大部の本が消え、金に換わっているのに気づいていたのだ。

しかしある朝、ちょうど東雲来る前、悲しい名前(*7)と苦難の生涯を持った女性が眠ったまま息を引き取った。夜明けと共に、悲しみに心臓が破れそうなティスタがリッテル氏の許に現れ、母の死を告げた。老人は外を見やった。東の靄った青い空の先に海があり、いましもそこから金色の曙光が輝き出さんとしていた。老人はいつもの静かな、忍耐強いやり方で、この日は近いと思っていたとだけ答えた。

私には老人の言葉がよく判った。しかし、少年にとっては無意味だった。

ある夜が来た。その日書棚は頭蓋骨と化石だけを残して空しく立ち、リッテル氏の穏やかな顔には奇妙に明るい表情が浮かんでいた。その陰影は、光も影も、地上のものではなかった。この五日間一片のパンも口にしなかった彼は、窮乏と高齢のために身動きがとれず、さりとて訪ねてくるような友人もいなかったのだ。ティスタは、思うに、今では自分のことで忙しかったのだろう、最近ではめっきり足が遠のいていた。彼が不親切だったのではない、若さで一杯だったのだ、若く逞しい愛情で。笑いとお祭り騒ぎに浮かれた耳にとっては、リッテル老人の話は退屈だった。何よりも、彼はこの老哲人にどれ程のものを負うているか知らなかった。リッテル氏は尚も沈黙を守っていたからだ。

蒸し暑い秋の日だった。風は空の遠くの一隅で眠り惚けているようで、そよとも吹かず、牧場の草も穂を垂らしたまま、熱し渇いた静寂が四方をじっと覆っていた。

だが、暮れなんとする西方に目を遣ると、長い地平線の其処此処からむくむくと積雲が湧き、その頂上に赤々と炎が燃え立つのが見えた。沈み行く陽から放たれる動乱の太き光軸、天を目がけて打ち上げられ、焼け付くその剣は、死の都市の上に振りかざされるが如く空にかかっていた。

リッテル氏はその夜遅くまで起きたまま、一包みの虫食いのある手紙を読んでいた。ベッドの下の小さな木箱にしまってあったものだ。読みながら、一枚一枚ランプの炎に投じていった。年月に黄色く変じた一つの小さな紙片が、焦げながらも破壊を免れ、テーブルから浮き上がり窓枠を超えベランダにまで飛んできて、私の側に落ちた。紙片の上には強張ったドイツの文字で何か書いてあった。その文字は一点一画、鉤印に至るまで几帳面にきっちりと認められていた。その言葉というのは:――

「余は、余が娘との婚姻について、富と名声とを得べき機会をば単なる斑気のために抛擲する如き愚物に対し、これをきっぱりと拒絶するものである。昨日、貴君は提供されたる教授職を辞退するの暴挙に及んだ。その理由たるや職に附随する条件が自分に合わぬからだという。貴君は自身がその条件に適わぬと空想し、あたら好機を逸した。大変結構だ。貴君は余が娘もまた逸したのだ。明らかに貴君には世の中を渡るべき由なく、故に決して富裕になることなく、また余が娘と妻合うこともあり得ぬ。貴君と余が娘との縁談はなかったものと考えられたい。」

ああ! さてはこれが深紅のバラの物語であったのか!

最後の手紙がテーブルの上で灰と化した時には夜はすっかり更けていた。そして眠りにつこうとした老ドイツ人は、着替える暇もなくよろよろと暗い隅の小さなベッドに倒れ込んだ。ランプの油は燃え尽きようとしており、物憂い光をちらちらと、飢え窶れ襤褸外套の上で組まれた両手と気品のある顔に投げかけていた。青ざめた瞼を閉じ、忍耐強く唇を結び、大理石の王の顔を思わせる物静かで断固たる表情だった。頭上には深紅のバラを着けた美しい女性がいた。気まぐれな炎のままに明滅を繰り返し、これはまさに嵐の夜に瞬く信号灯に似て、難破船から投げ出され波間に翻弄される命にとって、最後の希望の光となるのだ。彼はこれまで生きてきたように、沈黙の裡に死んだ。屠られた殉教者として、持ち場を死守した戦士として果てたのである。

その時、ピエモンテ一帯を暴風雨が襲い、休息から復活した巨人の如く風が吹き荒れた。この巨人は黒い雷雲を呼び、次いで、飛び退る世界の上に吠え立てる悪魔めいて、その力の切っ先を唸らせた。すると棘のような雹と雨が鋭く激しい音を上げ、ハリケーンが叫び暴風が轟々と恐怖のロールを鳴らし、天の果てから果てまで揺るがした。どうしたことだ! どうしてこんなに荒れ狂うのだ、かくも温和で静かな魂がこの世を去る定めの夜だというのに!

一瞬、私は再び彼を見た。眩い稲妻の一閃が見せたのだ、ランプの消えた静かな小部屋全体を、焦げた手紙の燃え滓が散る木の机の上を、鏡を見るかのようにはっきりと。

彼は白布を掛けたベッドの上で動くことなく横たわっていた。勝利の絶頂で倒された英雄、広き額はさながら騎士の如くして、静かなる唇は永遠に言葉を失った。穏やかに威儀正しく、ローラと同様に、眠りの休息が彼を平安へと連れ去った。

もはや彼にとっては嵐も、闇も、諍いも存在しなかった。完全なる日の光の下で御神と対面していたのである。

漸くのことで静々と、鈍色の風景の最果てから白っぽい幽鬼のような日の出がやってきた。風の叫びや荒れ狂う暴風の騒乱は水っぽい空の中に消え、雲の一団も西の方、水平線の彼方へと去っていった。しかし鉢植えのベラドンナはベランダの石床の上に枯れ落ちていた。霰と風にうち裂かれ、茎と蔓は雷に焼かれ、紫の花は散り散りとなって割れた鉢や荒れた小部屋の床に散らばる燃え滓と入り混じっていた。

明けゆく朝の白い高みでは、神の御心へと帰りゆく風がその無限の翼の上に二つの重荷を運んでいた。滅んだ花の精と、優しき生という名の供物と。

厳粛にして朗々たるその抑揚は、始まりと同じく、短調のオルガン曲の終結部の響きへと沈み込んでいった。亡霊の顔つきは不明瞭に揺らぎ、私を取り巻く仄暗い紫の大気の中に溶け込んだ。だが、私は花の精の燃える視線が自分の顔面に注がれているのを感じていた。私はそのゆらゆらと浮かぶ存在に向かって両手を差し出して懇願した。触ることのできない彼女の衣をなんとかして掴むことができたら。

「花の精よ!」私は叫んだ。「もう一つだけ質問があります! ティスタ少年は間違いなくその朝やって来て、ついに、遅きに失したとはいえ、知られざる友人が誰だったのかを知ったのでしょうか?」

「命限られたる者の娘よ、」今しも消えなんとする亡霊の声が返ってきた。「吾には判らぬ。地上における我が使命はその夜終わったのだ。而れども彼の死者の墓間に咲く我が妹花が、神の息、即ち気まぐれなる天の微風に乗せて折々伝言を寄越す。妹らの言によれば、ピエモンテ州の大きな町に住む一人の富裕なる薬種商が、リッテル氏の安息の地に大きな白い十字架を建立したと聞く。そは豊かで見目好き若人であり、名はバッティスタ・デルコールである。十字架の台座には次の言葉が金文字で彫ってある:『神と父の御前にあって汚れ無き信仰は斯くの如し。苦しみ喘ぐ父なき子と寡婦とを訪いて世の濁りを受けざりき。』」

再び声がした、「まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、即ち我に爲したるなり」(*8)と。

完

Chapter 3 of 6
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