第六章
学期があらたまり、私は幹事をつづけ、民主主義の産物である自治会等の役もひきうけるようになった。私は何でもぽんぽん云ってのけた。それは愛校心とか、自由主義思想とかいう名目の下ではなく、面白いからであった。しかし私達の要求は殆ど学校当局にはきき入れてもらえず職員会議で一応相談の上という逃げ口上ですべて校長の独断で事ははこばれた。それでも私には大した影響はないと考えていたから、又何かの事件を持ち出してはその話を呈供することを喜んでいた。学校復興のバザーだとか学芸会音楽会がしきりにもよおされるようになった。私は劇に出たり、独唱したりピアノをひいたり自作のうたを舞台の裏でうたったり(――何という心臓の強かったことだろう――)平気でやり、又人気を集めた。机や手提げカバンの中に贈物や手紙の類が舞いこんでいる。私の姿を廊下で追いまわしたりする人や、私の体にぴったり体をひっつけて泣き出す人や、私は別にうるさがらないで、それぞれ御礼の返事を出した。妙な快楽であった。その頃、やっと一軒家がみつかって、私達の家族だけ其処へ引移っていた。それは学校のすぐ下で、焼けた家からも近くであった。私は二階の半坪の洋間に、本棚と机をいれてやっと椅子を動かすことが出来るだけの狭さを喜んでいた。私は毎晩、四五通の手紙を書かなければならなかった。
その中に一人、女の教師の手紙があった。彼女は、以前私がその皮膚を愛した国語の教師の後を引ついでやはり国語文法を教えてくれていた。彼女には何の魅力も持たなかった。彼女は肥満した肉体をころがすように教場へはいって来て、よく透る声で古文をよんだ。アナウンサーになればよいのにと級長達と共に云っていた位、珍らしくはっきりしたそして暖みのある声であった。彼女は私によく居残りを命じ、山へ散歩しようと勧誘した。私はお供しながら、翻訳小説を静かに語ってくれたり、美しい詩を暗誦してくれたりする彼女の後に従って歩いた。ある国語の時間、一人ずつ五分聞演説をさせられた。私は喋ることを得手としていた。何でもいいから喋らなければならない。自分の幼い時に起った話、空襲の話、家の話、出席簿の順番に私があたり、私は自分のことは喋りたくないと云って何かペスタロッチと吉田松陰のことを喋ったようだった。とにかく、よみかきそろばん、という口調のよい言葉を大層嫌っていたので、その言葉をくそみそにやっつけたように思う。彼女は憎々しく私の意見に反対した。私はそれに反駁するだけの知識を持っていなかったので無表情のまま眼を引きつり上げて彼女の顔をみた。その日の放課後、彼女は私のその時の表情がかわいかったと私に告げた。私は少しばかりの憤りを感じたが黙っていた。彼女はしばしば私に手紙をよこすようになった。私は彼女に、気随に書いた詩や雑文をみせて批評を乞うた。彼女は私の詩を愛してくれた。けれど、彼女は私の数珠をきらった。
「ゆめをみるの、あなたの手が、血みどろになった手だけが、私を追いかけてくるの、その手に数珠がきらりと光る。私は毎夜、そんなゆめをみるの」
彼女は私に数珠などはずしてしまえと度々云った。私は離さなかった。
彼女は一人で学校の礼法室の片隅に自炊していた。私はその部屋で日が沈むまで寐ころびながら彼女と二人で話をした。職員室の間では、私と彼女の関係があまり目立ちすぎるというので私は主任から叱られ、彼女は校長から注意された。私は別に彼女を愛したのではない。しかし彼女は話題が豊富であり、話の仕方が上手かったし、その声にふれることはたのしいことであった。それに、私は人に甘えることを今まで知らなかった。家庭に於いても、常に礼儀や服従を守らなければならなかったし、母は一段と高いところの人であったのだ。だから私は彼女に時たま御馳走してもらったり――それは南瓜の御菓子だとか、重曹が後口にぐっと残る蒸しパンであった――髪の毛をくしけずってもらったりすることが大きな喜びであった。その頃、私の家は財産税などで、だんだん土地を手ばなしたり家財道具を売りはなしはじめたりしていた。そうして父は衰弱し神経をふるわせてばかりいたし、兄が胸を患いはじめたり、姉の婚期が近づいたりして、ごったがえしていた。一家だんらんなど言葉で知っていてもどんなものかわからなくなっていた。帰宅して食事を採り、黙って各々の部屋へ引揚げ、寐る時刻になると勝手にふとんを敷いて寐てしまう。子供達は二階、父母は階下。そして各自に何が起ろうと全く知らない状態であった。子供は親のやり方に一切口出しは出来なかった。たとえば一つの物品を売るにしても、父の消極的な態度で損ばかりしていたけれど、一言でも文句を云えば父は怒り、親を侮辱するなと云った。私達子供は家産がどの位残っていてどんな風な経済状態にあるのかは知らなかった。唯、焼けた私の生家の土地も、本家の邸跡も、六甲の別荘も人手に渡っているらしかった。人の気持が金銭の問題で荒れて来るということは大へん歎かわしいと思った。それに私が女学校を出てから、先生になり度いから上級学校へ行かせてくれと頼んだ時、父母は真向に反対し、女は家で裁縫や料理をするものだとしぶしぶ肯定させられてしまう事件があった。丁度その前に、身体がよくなった姉も更に医者になり度いから医専へ行き度いという申出を拒否されていた。そんなことが益々親子の感情を対立させ疎遠させた。私の姉は、数学が飛びぬけてよく出来、夜通しでも、三角や因数分解をとくことがたのしみの一つだという位、女性に珍しい理科系の頭脳の持主であった。数字をみれば嘔吐したくなる私とは気持の上でも合う筈がなかった。姉はすぐに計算し、計算の上で行動した。私は無鉄砲向う見ずに気分のままで行動した。そしてお互に衝突しながら、衝突した途端に自分をひきさげ、奥までつっこんで行こうとはしなかった。姉もエゴイストであり私もエゴイストであった。
家庭内の不和を私はかの女の教師に告げて、自分の位置をどうすればよいのか相談した。彼女は常識的に親の意見に従うべきだといつも云った。私は腹立しく思ったが、別に彼女と喧嘩はしなかった。
そのうちに、学校で私にとって大きな問題が勃発した。一学期の終り近い倫理の時間であった。教師払底の時で、倫理を教える人は教頭という名目だけの凡そ倫理とかけはなれている音楽の教師であった。私は彼を心から軽蔑していた。というのは音楽をやりながら音楽的な感覚を持たない人であったから。彼はピアノをガンガン鳴らした。まるでタイプライターを打っているようだった。又彼のタクトはメトロノームと寸分の変りなく、拍子だけでその中に感情は全くはいっていなかった。その人が、勤続十何年のために教頭の位置にあり、倫理――公民と呼ぶ時間――を教えるのは全く滑稽であった。
私は彼が黒板に、善悪や意識だとか行動だとかいう文字をかき、それを説明するのをノートにとるのさえ馬鹿げているような気がして、いつも他のことを考えていた。その日もぼんやりしていると、突然、これから二十分間に自己の行為を反省し、善悪を理性で判断し、悪だと思った点を紙に書いて提供せよ。それを倫理の試験の代りにすると云ったらしい。紙がくばられた。私は隣の生徒に何事だと問うた。彼女は彼の云った言葉を忠実に私に伝えた。私は立ち上った。私は立てつづけにべらべらと喋った。私は絶対に嫌だと何度も云ったのだ。生徒はざわついた。彼は渋い顔をした。
「何のためにそんなことをするんですか」
彼は自己反省は大切なことである、と簡単に云った。私は反省は自分だけでやるものだと云い張った。そしてそれを試験がわりにするなどもっての他だと云った。私の言葉に、彼は更に怒号し、命令だと云った。私はどうしても受け入れないとつっぱった。そして最後には、
「失礼ですが、懺悔僧でもないあなたが、四五十人もの生徒の懺悔をききただしてその負担がどんなに大きいかお気附きじゃありませんか。私は自分の行為は自分で処理します。あなたに告白したところで何にもなりますまい。自分の悪い行為を人に告げてその苦しみが軽くなるようには私には思えません。しかもです、あなたは、たかが音楽教師にすぎないじゃありませんか」
私はそんなことを長々と喋ったように思われる。彼はピリピリと眉を動かし他の教場にまできこえる位の大声で私をののしった。私はかっとなってますます反対を押し通しだした。他の級友の中で、二三人が私を支持した。
「日記は人にみせるものではありません」
私へ毎日手紙をくれる瞳の大きい背の低い子がそう云った。他の大勢は半ば彼をおそれ半ばこの事件に時間がつぶれることを喜ぶような表情で私と教師の顔を見比べていた。私は自分の熱い頬に涙が垂れるのを知った。これは少女的な興奮の涙であった。
「悪趣味ですね、人の悪なる行為をききたいとは……」
私はへんな笑いを浮ばせながら、涙声で云った。私は自分の罪をふっと目の前に浮ばせた。窃盗。カンニング。偽った行動や言葉。私は椅子にどっかり腰をおろした。
「先生。今あなたの満足がゆくように、私が従順に書いたとすれば、答案紙をひろげたあなたは驚愕と恐怖とそして後悔、そうです。あなたは自分の行為に後悔してしまう。たとえば、私が、淫売行為をしたとする……」
組の中では大きな笑い声が発散した。しかし、この言葉を知らない人の方が多かった。教師は、私にあきれて物が云えないというような表情で私の顔を凝視していた。
「あなたは答案紙に勿論、可、あるいは不可とつけるでしょう。私の心理も、私の行為の動機も知らないで。唯、不可とつけるあなたは、実に無責任なことです。あなたがそこで若し、倫理の教師として考えることをしたならば、不可をつける前に、自分の責任が大きすぎて後悔するでしょう。感情的なおどろきおののきの後で……」
彼は、非常な怒りでチョークを投げつけ、このことは一時おあずけだというような曖昧な言葉をのこして出て行った。
私のこの事件はすぐに学校中ひろまった。私に対する生徒の眼がすっかり変ってしまった。私は不良少女だということになった。教員室では私の導き方をどうすればよいかと論議されていることをかの国語の女教師より耳にした。私は主任から又叱責をうけた。
学期が終り、通知簿の公民のところに、良としてあったことは私は全くおかしくてたまらなかった。
不良少女は二学期になってもその名は消えなかった。私のファンはだんだん減って行った。あの事件の時、私の意見に賛成した少女だけは私にまだ、すみれの花のカードなどくれた。私はゴヤの絵のような彼女をかわいがった。私はだんだん学校に興味を持たなくなった。そしてつまらない学課の体操や裁縫や商業の時間は殆ど欠課した。体があまり丈夫でなく、戦時中の疲労がその頃になって出て来て、私は歩くことさえ苦痛であったから、医者の診断を出して時々の欠課を大目にみてもらっていた。私は休養室で寐ながら、青空をみていた。小さな翻訳小説をふとんの中に押し入れてよんだりした。だんだん大胆になって、早退し、帰りに古い洋ものの活動写真をみに行ったりした。不良少女はほんものになって来た。私は一日学校をさぼって京都の寺院を訪ねたりすることもした。家には内緒で欠席届をかいて出した。私は、空気が自分の体に痛みを与えるように感じだした。秋の空気は真空のようであった。私は自分が生きてゆくことが非常に不安になりだした。何故生きるんだろうかと考えた。そこには何も幸福らしい幸福は発見出来なかった。私は、勝手気儘に生きたいと思いながら、それが不可能であることを知っていた。規則。法律。そして、未だに封建的な固いからをかぶっている家庭。学校での興味のない生活。数学をといても、商業の形式をならっても私とは凡そかけはなれた無理な勉強であった。私は何も喜びを見出すことが出来なくなった。束縛を嫌い、しかもその束縛からぬけ出る方法を知らなかった。私は、自分の感情だけで自由奔放に生きてゆきたいのだ。それなのに、家庭。学校。社会。すべて自分の感情を抑制し、無視し、自分らしい自分を伸ばすことが出来ないで生活しなければならない。人間とは、何とつまらない生活をしているのだろう。私は何事もする元気を失った。私は数珠を最期的に手から捨てた。私はすでに、神や仏を信じてはいなかった。称号を唱える刹那に於いても、不安と疑いの念がむくむくと心から湧いていた。私はすべてから虚脱状態にはいってしまった。私は仏教の書物を売ってしまった。そのわずかなお金で私は街に出た。街といっても戦後の殺風景なバラック建の店屋である。そして闇市。ここには中国人の濃い体臭と、すえた食物の臭いがぎっしりつまって細い道の両側は喧噪としか思われなかった。私は何か欲しいものはないかと考えた。何もなかった。夕ぐれ、私は絶望と混迷と疲労とで家にかえった。その日から、私は死にたいという衝動的な欲望が連続して頭の中をからまわりした。私は学校をずっと休んだ。国語の教師や、友達が見舞いに来た。私は、死にます、と云った。彼女等は冗談でしょう、と云った。私も苦笑した。死ぬ手段を考慮しておらなかった。私は首をくくろうと思った。「にんじん」の一場面が頭に浮んだ。私は、二三日後、それをこころみた。然し死ねなかった。私の行動に気付いた肉親達は私を警戒した。説諭もうけた。親は、自分達が苦労して育てたということをくりかえしくりかえし云った。そのことが私を余計腹立しくさせた。私は、しかし、死ぬ死ぬと云ったまま一週間死なないでいた。私は死ぬことも出来ないのだった。死ねば、死体がのこるだけだと思っていたけれども、唯、死ぬ方法が見当らなかったのだ。
私の手許に、生きて下さい、という手紙がたくさん舞いこんだ。田舎へ帰ってしまっていた前の国語の教師からも、
――私は何もあなたを慰め、あなたを説き伏せることは出来ない。でも、どうか、生きていて下さい。生きていて下さい。――
と云って来た。友達からは、
――あなたが死んでしまったということを想像した時、私はもう泣く涙さえないでしょう。あなたと御目にかかれるだけが私の幸福なんですもの。私をかわいそうだと思って頂戴。――
太った国語の教師からは、
――常識を嫌うあなたをわかることは出来ますが、あなたの才能のためにも生きてほしい。もう少し、あなた自身をかわいがっておやりなさい。――
この手紙は一番滑稽とさえ思われた。私自身を愛することなど、どうして出来よう。私には、世の中や人々や常識を嫌悪すると同じ位、自分自身を嫌悪しているのだし、自分に若し才能があるとしてもそれは生きてゆく上に何の役立もせぬものだから。
白雲や気儘気随に空を飛ぶ
この掛軸を常に居間にかかげている私の好きなある婦人からは、
――夫にさきだたれて十三年。孤独の中に生きているのです。誰かを愛して、心から熱愛して、そのために生きること。あなたも愛することです。――
という紫の紙にかかれた手紙が来た。死んだ人を愛しながらまだ生きてゆくという彼女の生命の血が、私には不思議にさえ思われた。彼女は、私の友達の母であり、その友達以上に私と親しくしていた。未亡人もやはり、世の常識をきらっていた。そして、自分は今まで白雲のように生きて来たのだと云っていた。彼女は彼女の恋愛のため、家から縁をたたれ、たった一人の夫のみで生きて来たのだったと云った。私にとっては、亡夫にあやつられている魂のない人形のように思えるのだった。そして、ちっともそう云った生活は自由でないと思った。無形の力に縛られているのに、彼女はそれを苦しまないでいる。まだ恋愛を知らない私は彼女の気持を理解することは到底出来ないでいた。
私を除いての家族会議が毎夜行われているようだった。私は学校へ行かないし、親にとってみれば今までかつてない事件だったろう。私はどうなってもいいと思って毎日ごろごろ寐ころんでいた。
母の意志で、私は大阪にある音楽学校へゆかされるようになった。もう後五カ月で卒業だという間際である。私は変った世界に飛びこまされることを拒否出来なかった。或いは其処に何か見出すかも知れないという淡い期待があったわけなのだ。私は始め聴講生という名目ではいった。ピアノと声楽とを修めるのだった。私は殆ど手がかたくなってしまっていたし、練習曲をしていなかったからまるで何もひけなかった。隣の教会のぼろぼろのピアノで毎日下さらいをせねばならなかった。朝、通学に二時間たっぷりかかる。そして、小さな練習室にはいってガンガン鳴らす。音楽理論や作曲法や実技がある。そして又二時間たっぷりかかって帰る。
その生活は最近の女学校生活の時より、もっと不愉快であった。凡そ音楽的な感覚のふんいきと云うものは見られなかった。私はよく狂人にならないことだと不審に思った。防音装置がたしかでない練習室なので、隣や向いの部屋のピアノの音が絶えず耳にはいる。バッハやショパンやエチュードが、ごったがえしになっている。だからそれぞれ、ピアニッシモはそのままフォルテを継続してひかねばならない。戦争中のあの弾の音よりも、もっとかなしい音である。それにピアノはがたがたで狂っている。私は他の生徒が平気なのが不思議で仕方なかった。音楽ではなかった。街の雑音の方がまだしも音楽的であった。私は一週間目に行く気がしなくなった。作曲法や理論の時間だけ顔を出し、他の日は毎日大阪で映画をみてかえった。朝家を出て、かの未亡人のところで一日遊んでいることもあった。冬休みが始まると同時に私はその学校もよしてしまった。私は神経衰弱になっていた。熟睡することが出来ず絶えずバッハのインヴェンションが頭の中にぐるぐるまわっていた。楽譜をよむことさえ出来なかった。何故ならば、五本の線が波打ってみえ、そこに踊っている黒い玉は不均等な姿勢でみえかくれした。私は楽譜を床へたたきつけ、ピアノにさよならを宣言した。母は私の一流ピアニストとしての舞台の姿を常に心に描いていたのだと云って歎いた。しかし、私の精神状態では、これ以上ピアノと取組むことは不可能であることを認め、強制すれば、又自殺しようという気になることを恐れて私を暫く自由にさせることを父や兄と相談の上でゆるしてくれた。私は、わずかなお金をもらっては、郊外へ散歩に出かけた。そして、詩ばかりをよんだ。朔太郎を私は愛した。その頃、詩をつくることもした。ある詩人が私の詩をみて、朔太郎が好きですね、と云った。それほど私は朔太郎にふれ、朔太郎から何ものかを受けていた。私は単身上京した。しかし流暢なアクセントになじめないですぐに帰って来た。私はやはり死に度いと思っていた。感傷ではなかった。唯、私は苦しみから逃避したかった。苦しみなんか、その年齢で全くナンセンスだと常識家の兄は嘲笑した。しかし、私の年齢でその苦しみは絶大のものであった。私は、自分の思う通りに生きてゆきたいと思い、それが不可能であることを理解していたのだ。それに私には力がなかった。根気や忍耐することが出来なかった。私は私流の考えで、戦争中の自分が羨しいとさえ思った。あの頃の余裕のない生活の方がまだしも楽であった。私は自分を磨滅させるようないそがしさがほしいと思った。いそがしさに自分の存在がなくなれば結構だと思った。自分を意識しないで生きてゆけるなら、それは最も楽なことだと考えた。私は就職を希望した。父母は真向から反対した。彼等には、どっしりと居据っている門構えが、頭の中に消えていなかった。御家の恥辱。これが第一の反対意見であり、又私の感情的に瞬間のスリルを求めて社会に出ようとしていることは不真面目だと叱られた。私はその希望が不真面目だか、真面目だか、私自身判断は下しかねた。あたり前に云えば、女学校を自発的に中退したのも不真面目かも知れないし、学校中、欠課や欠席をして、映画をみたり、京都や奈良を散策したことはやはり不真面目。それに、私は喫煙するようになっていた。これは未成年であるから、最も法律にふれる位の問題。私の今までの行動は、客観的に考えれば、不真面目と云われることばかりである。しかし、その時、その時、私は自分の行為に対して自分の感情は非常に真実であったことは確かなのだ。真面目に自分を考えている。今度の勤めたいというのも、生きなければならないという無条件の標語を無理につくりだして、そのために就職することが必要になったわけだから私には私独特の云いわけがあるのだ。私は、父母に内緒で新聞広告を切抜き就職口を探して来た。履歴書をかいて、ある羅紗問屋に面会にゆき給仕になった。もう、父母は唖然としたまま私に何らの口出しをしなかった。大寒の最中であった。よれよれの紺の上衣を着、ほこりっぽいズボンをはいた私の青い皮膚はかさかさしており、目はどんより曇り、眉間や唇の端は、たびたび、ぴりぴりとけいれんし、あの子供の頃の英雄ぶりは、微塵もみられなかった。当時、十六歳である。