Chapter 1 of 1

邦枝完二

「うッふふ。――で、おめえ、どうしなすった。まさか、うしろを見せたんじゃなかろうの」

「ところが師匠、笑わねえでおくんなせえ。忠臣蔵の師直じゃねえが、あっしゃア急に命が惜しくなって、はばかりへ行くふりをしながら、褌もしずに逃げ出して来ちまったんで。……」

「何んだって。逃げて来たと。――」

「へえ、面目ねえが、あの体で責められたんじゃ命が保たねえような気がしやして。……」

「いい若え者が何て意気地のねえ話なんだ。どんな体で責められたか知らねえが、相手はたかが女じゃねえか。女に負けてのめのめ逃げ出して来るなんざ、当時彫師の名折ンなるぜ」

「ところが師匠、お前さんは相手を見ねえからそんな豪勢な口をききなさるが、さっきもいった通り、女はちょうど師匠が前に描きなすった、あの北国五色墨ン中の、てっぽうそっくりの体なんで。……」

「結構じゃねえか。てっぽうなんてものは、こっちから探しに行ったって、そうざらにあるもんじゃねえ。憂曇華の、めぐりあったが百年目、たとえ腰ッ骨が折れたからって、あとへ引くわけのもんじゃねえや。――この節の若え者は、なんて意気地がねえんだろうの」

背の高い、従って少し猫背の、小肥りに肥った、そのくせどこか神経質らしい歌麿は、黄八丈の袷の袖口を、この腕のところまで捲り上げると、五十を越した人とは思われない伝法な調子で、縁先に腰を掛けている彫師の亀吉を憐れむように見守った。

亀吉はまだ、三十には二つ三つ間があるのであろう。色若衆のような、どちらかといえば、職人向でない花車な体を、きまり悪そうに縁先に小さくして、鷲づかみにした手拭で、やたらに顔の汗を擦っていた。

歌麿は「青楼十二時」この方、版下を彫らせては今古の名人とゆるしていた竹河岸の毛彫安が、森治から出した「蚊帳の男女」を彫ったのを最後に、突然死去して間もなく、亀吉を見出したのであるが、若いに似合わず熱のある仕事振りが意にかなって、ついこの秋口、鶴喜から開板した「美人島田八景」に至るまで、その後の主立った版下は、殆ど亀吉の鑿刀を俟たないものはないくらいであった。

一昨年の筆禍事件以来、人気が半減したといわれているものの、それでもさすがに歌麿のもとへは各版元からの註文が殺到して、当時売れっ子の豊国や英山などを、遥かに凌駕する羽振りを見せていた。

きょうもきょうとて、歌麿は起きると間もなく、朝帰りの威勢のいい一九にはいり込まれたのを口開に京伝、菊塢、それに版元の和泉屋市兵衛など、入れ代り立ち代り顔を見せられたところから、近頃また思い出して描き始めた金太郎の下絵をそのままにして、何んということもなくうまくもない酒を、つい付合って重ねてしまったが、さて飲んだとなると、急に十年も年が若くなったものか、やたらに昔の口説が恋しくてたまらなくなっていた。

そこへ――先客がひと通り立去った後へ、ひょっこり現れたのが亀吉だった。しかも亀吉から前夜浅草で買った陰女に、手もなく敗北したという話の末、その相手が、曾て自分が十年ばかり前に描いた「北国五色墨」の女と、寸分の相違もないことまで聞かされては、歌麿は、若い者の意気地なさを託つと共に、不思議に躍る己が胸に手をやらずにはいられなかった。

「亀さん」

しばし、じっと膝のあたりを見詰ていた歌麿は、突然目を上げると、引ッ吊るように口をゆがませて、亀吉の顔を見つめた。

「へえ。――」

「お前さん今夜ひとつ、おいらを、その陰女に会わせてくんねえな」

「何んですって、師匠」

亀吉は、この意外な言葉に、三角の眼を菱型にみはった。

「そう驚くにゃ当るまい。おいらを、お前さんの買った陰女に会わせてくれというだけの話じゃねえか」

「冗談いっちゃいけません。いくら何んだって師匠が陰女なんぞと。……」

「あッはッは。つまらねえ遠慮はいらねえよ。こっちが何様じゃあるめえし、陰女に会おうがどぶ女郎に会おうが、ちっとだって、驚くこたアありゃしねえ」

「それアそういやそんなもんだが、あんな女と会いなすったところで、何ひとつ、足しになりゃアしやせんぜ」

「足しになろうがなるめえがいいやな。おいらはただ、お前の敵を討ってやりさえすりゃ、それだけで本望なんだ」

「あっしの敵を討ちなさる。――冗、冗談いっちゃいけません。昔の師匠ならいざ知らず、いくら達者でも、いまどきあの女を、師匠がこなすなんてことが。――」

「勝負にゃならねえというんだの」

「お気の毒だが、まずなりやすまい」

「亀さん」

歌麿は昂然として居ずまいを正した。

「へえ」

「何んでもいいから石町の六つを聞いたら、もう一度ここへ来てくんねえ。勝負にならねえといわれたんじゃ歌麿の名折だ。飽くまでその陰女に会って、お前の敵を討たにゃならねえ」

おめえの敵と、口ではいっているものの、歌麿の脳裡からは、亀吉の影は疾うに消し飛んで、十年前に、ふとしたことから馴染になったのを縁に、錦絵にまで描いて売り出した、どぶ裏の局女郎茗荷屋若鶴の、あのはち切れるような素晴らしい肉体が、まざまざと力強く浮き出て来て、何か思いがけない幸福が、今にも眼の前へ現れでもするような嬉しさが、次第に胸を掩って来るのを覚えた。

「師匠、そいつア本当でげすかい」

「念には及ばねえよ」

「これアどうも、飛んだことになっちまった」

亀吉は、間伸のした自分の顔を、二三度くるくる撫で廻すと、多少興味を感じながらも、この降って湧いたような結果に、寧ろ当惑の色をまざまざと浮べた。

が、歌麿に取っては、亀吉がどう考えているかなどは、今は少しの屈托でもないのであろう。断えず込み上げて来る好色心が、それからそれへと渦を巻いて、まだ高々と照り渡っている日の色に、焦慮をさえ感じ始めたのであった。

「で、亀さん」

「へえ」

「女はいって、え、いくつなんだ」

「二十四だとか、五だとかいっておりやした」

「二十四五か。そいつアおつだの。男には年がねえが、女は何んでも三十までだ。さっきお前さんのいった北国五色墨の若鶴という女も、ちょうど二十五だったからの、うッふッふ」

歌麿の胸には、若鶴の肌が張り附きでもしているような緊張した快感が大きな波を打っていた。大方河岸から一筋に来たのであろう。おもてには威勢のいい鰯売が、江戸中へ響けとばかり、洗ったような声を振り立てていた。

今まで五重塔の九輪に、最後の光を残していた夕陽が、いつの間にやら消え失せてしまうと、あれほど人の行き来に賑わってた浅草も、たちまち木の下闇の底気味悪いばかりに陰を濃くして、襟を吹く秋風のみが、いたずらに冷々と肌を撫でて行った。

燃えるような眸で、馬道裏の、路地の角に在る柳の下に佇ったのは、丈の高い歌麿と、小男の亀吉だった。亀吉は麻の葉の手拭で、頬冠りをしていた。

「じゃア師匠、夢にもあっしの知合だなんてことは、いっちアいけやせんぜ。どこまでも笊屋の寅に聞いて来た、ということにしておくんなさらなきゃ。――」

「安心しねえ。お前のような弱虫の名前を出しちゃ、こっちの辱ンならア」

「ちぇッ、面白くもねえ。もとはといやア、あっしが負けて来たばっかりに、師匠の出幕になったんじゃござんせんか」

「いいから置いときねえ。敵はとってやる」

「長屋は奥から三軒目ですぜ」

「合点だ。名前はお近。――」

「おっと師匠、莨入が落ちやす」

が、歌麿はもう二三歩、路地の溝板を、力強く踏んでいた。

亀吉が頬冠りの下から、闇を透して見ている中を、まっしぐらに奥へ消えて行って歌麿は、やがて、それとおぼしい長屋の前で足を停めたが、間もなく内から雨戸をあけたのであろう。ほのかに差した明りの前に、仲蔵に似た歌麿の顔が、写し絵のように黄色く浮んだ。

「おや、何か御用ですかえ」

それは正しく、お近のお袋の声だった。

「ちっとばかり、お近さんに用ありさ。――まア御免よ」

ただそれだけいって、駐春亭の料理の笹折をぶら提げた歌麿の姿は、雨戸の中へ、にゅッと消えて行った。

「いけねえ。師匠はやっぱり慣れている。――」

茫然と見守っていた亀吉は、歌麿の姿が吸いこまれたのを見定めると、嫉妬まじりの舌打を頬冠りの中に残して、元来た縁生院の土塀の方へ引返した。

中へはいった歌麿は、如才なく、お袋に土産物を渡すが否や、いっぱしの馴染でもあるかのように、早くも三畳の間へ上り込んでしまったが、それでもさすがに気が差したのであろう、ふところから手拭を取出して、額ににじんだ汗を拭くと、立ったまま小声で訊ねた。

「お近さんは留守かい」

「いやだよ。そんな大きな眼をしてながら、よく御覧なね。その屏風の向うに、芋虫のように寝てるじゃないか」

「芋虫。――うん、こいつア恐れ入った」

なるほど、お袋のいった通り、次の間の六畳の座敷に、二枚折の枕屏風にかこまれて、薩摩焼の置物をころがしたように、ずしりと体を横たえたのが、亀吉の謂う「五色墨」なのであろう。昼間飲んだ酒に肥った己が身を持て余していると見えて、真岡木綿の浴衣に、細帯をだらしなく締めたまま西瓜をならべたような乳房もあらわに、ところ狭きまで長々と寝そべっている姿が、歌麿の目に映じた。

「お近さん」

「え。――」

突然聞き馴れない男の声で呼び起されたお近は、びくッとして歌麿の顔を見つめた。

「よく内にいたの」

「お前さん、誰さ」

「ゆうべおめえに可愛がってもらった、あの亀吉の伯父だ」

「え、あの人の伯父さんだって」

「そうよ。そんなにびっくりするにゃ当らねえ。なぜおれの甥を可愛がってくれたと、物言いをつけに来た訳でもなけりゃ、遊んだ銭を返してもらいに来た訳でもねえんだ。おまえに、ちっとばかり頼みがあって、わざわざ駐春亭の料理まで持って出かけて来たくれえだからの」

「おや、何んて酔狂な人なんだろう。あたしのような者に、頼みがあるなんて。――」

そういいながら、ようやく起き上ったお近はべたりととんび脚に坐ると、穴のあくほど歌麿の顔を見守った。

「おかしいか」

「そうさ。あたしゃお前さんが思ってるほど、頼りになる女じゃあないからねえ」

「うん、その頼りにならねえところを見込んで頼みに来たんだ。――それ、少ねえが、礼は先に出しとくぜ」

親指の爪先から、弾き落すようにして、きーんと畳の上へ投げ出した二分金が一枚、擦れた縁の間へ、将棋の駒のように突立った。

「おや、それアお前さん、二分じゃないか」

お近は手にしていた煙管の雁首で、なま新らしい二分金を、手許へ掻きよせたが、多少気味の悪さを感じたのであろう。手には取らないでそのまま金と歌麿の顔とを、四分六分にじっと見つめた。

「どうだの。ひとつ、頼みを聞いちゃくれめえか」

「さアね。大籬の太夫衆がもらうような、こんな御祝儀を見せられちゃ、いやだともいえまいじゃないか。だがいったい、見ず知らずのお前さんの、頼みというのは何さ。あたしの体で間に合うことならいいが、観音様の坊さんを頼んで、鐘搗堂の鐘をおろして借りたいなんぞは、いくら御祝儀をもらっても、滅多に承知は出来ないからねえ」

「姐さん、おめえ、なかなか洒落者だの」

「おだてちゃいけないよ」

「おだてやしねえが、観音様の鐘は気に入った。だが、おいらの頼みはそんなんじゃねえ。観音様の鐘のように大きいおめえの体を、二時ばかりままにさせてもらいてえのよ」

「あたしの体を。――」

「そうだ。噂に違わず素晴らしいその鉄砲乳が無性に気に入ったんだ。年寄だけが不足だろうが、さりとて何も、おめえを抱いて寝ようというわけじゃねえ。ただおめえが、おいらのいう通りにさえなってくれりゃ、それでいいんだ。――どうだの、お近さん。ひとつ、色よい返事をしちゃアくれめえか」

ぐっと一膝乗り出した歌麿の眼は、二十の男のような情熱に燃えて、ともすれば相手の返事も待たずに、その釣鐘型の乳房へ、手を触れまじき様子だった。

「ほほほ。改まっていうから、どれほど難かしい頼みかと思ったら、いっそ気抜けがしちまったよ。二時でも三時でも、あたしの体で足りる用なら気のすむまで、ままにするがいいさ」

「うむ、そんなら、承知してくれるんだな」

「あいさ、承知はするよ。だがお前さん、抱いて寝ようというんでなけりゃ、どうする気なのさ。まさかあたしのこの乳を、切って取ろうというんじゃあるまいね」

「うふふ、つまらぬえ心配はしなさんな。命に別条はありゃアしねえ。ただおめえに、そのまま真ッ裸になってもらいてえだけさ」

「ええ裸になる。――」

「きまりが悪いか。今更きまりが悪いもなかろう。――十年振りで、おまえのような体の女に巡り合ったは天の佑け、思う存分、その体を撫で廻しながら、この紙に描かしてもらいてえのが、おいらの頼みだ」

「そんならお前さんは、絵師さんかえ」

「まアそんなものかも知れねえ」

「面白くもない人が飛込んで来たもんだねえ。あたしの体は枕絵のお手本にゃならないから、いっそ骨折損だよ」

しかし、そういいながらも、ぬっと立上った女は、枕屏風を向うへ押しやると、いきなり細帯をするすると解いて、歌麿の前に、颯と浴衣を脱ぎすてた。

「さ、速くどッからでも勝手に描いたらどう」

おそらく昼間飲んだ酒の酔を、そのまま寝崩れたためであろう。がっくりと根の抜けた島田髷は大きく横に歪んで、襟足に乱れた毛の下に、ねっとりにじんだ脂汗が、剥げかかった白粉を緑青色に光らせた、その頸筋から肩にかけての鮪の背のように盛り上った肉を、腹のほうから押し上げて、ぽてりと二つ、憎いまで張り切った乳房のふてぶてしさ。しかも胸の山からそのまま流れて、腰のあたりで一度大きく波を打った肉は、膝への線を割合にすんなり見せながら、体にしては小さい足を内輪に茶色に焼けた畳表を、やけに踏んでいるのだった。

「どうしたのさ、お前さん、早く描かなきや、行燈の油が勿体ないじゃないか」

が、歌麿は腰の矢立を抜き取ったまま、視線を釘附にされたように、お近の胸のあたりを見つめて動こうともしなかった。

「ちぇッ、なんて意気地がない人なんだろう」

そういって女が苦笑した刹那だった。入口の雨戸が開いたと思う間もなく「おや、これは旦那」というお袋の声が聞えたが、すぐに頭の上で、追っかぶせるように、「こいつアめずらしい、歌麿だな」という皮肉な男の声が、いきなり歌麿の耳朶を顫わせた。

「あッ。――」

「まア待ちねえ。逃げるにゃ及ばねえ」

「へえ。――」

しかし、こう答えた時の歌麿は、もはや入口の閾を跨いで、路地の溝板を踏んでいた。

「か、駕籠屋。か、茅場町だ。――」

跣足の歌麿は、通りがかりの駕籠屋を呼ぶにさえ、満足に声が出なかった。

自分の家の畳の上に坐って、雇婆の汲んでくれた水を、茶碗に二杯立続けに飲んでも、歌麿は容易に動悸がおさまらなかった。

あの顔、あの声、あの足音。――それは如何に忘れようとしても、忘れることの出来ない、南町奉行の同心、渡辺金兵衛の姿なのだ。――

「つね。おもての雨戸の心張を、固くして、誰が来ても、決して開けちゃならねえぞ」

「はい」

「酒だ。それから、速く床をひいてくんねえ」

まごまごしている雇婆を急き立てて、冷のままの酒を、ぐっと一息に呷ると、歌麿の巨体は海鼠のように夜具の中に縮まってしまった。

「ああいやだ。――」

もう一度、ぶるぶるッと身を顫わせた歌麿は、何とかして金兵衛の姿を、眼の先から消そうと努めた。が、そうすればする程、却ってあの鬼のような金兵衛の顔は、まざまざと夜具の中の闇から、歌麿の前に迫るばかりであった。

「もう二度と、白洲の砂利は踏みたくねえ」

歌麿は誰にいうともなく、拝むようにこういって、掌を合せた。

その記憶は、五十日の手錠の刑に遭った、あの一昨年の一件に外ならなかった。

つばくろの白い腹がひらりとひとつ返る度毎に、空の色が澄んでくる、五月の半ばだった。前夜画会の崩れから、京伝、蜀山、それに燕十の四人で、深川仲町の松江で飲んだ酒が醒め切れず、二日酔の頭痛が、やたらに頭を重くするところから、おつねに附けさせた迎い酒の一本を、寝たままこれから始めようとしていたあの時、格子の手触りも荒々しく、案内も乞わずに上って来た家主の治郎兵衛は、歯の根も合わぬまでに、あわてて歌麿の枕許へにじり寄った。

「これはどうも。――」

歌麿は家主の顔を見ると同時に、唯事でないのを直感したもののそれにしても何んのことやら訳がわからず、重い頭を枕から離すと棒を呑んだように、布団の上に起き直った。

「大層お早くから、どんな御用で。――」

「歌麿さん」

治郎兵衛は、まず改めて歌麿の名を呼んでから、ごくりと一つ固唾を飲んだ。

「へえ」

「お前さん、お気の毒だが、これから直ぐに、わたしと一緒にお奉行所まで、行ってもらわにゃならねえんだが。……」

「奉行所へ」

「うむ」

「何かの証人にでも招ばれますんで。――」

「ところが、そうでないんだ。お前さんのことで、今朝方、自身番から差紙が来たんだ」

「え、あっしのことで。――」

歌麿は、治郎兵衛の顔を見詰めたまま、二の句がつげなかった。

「名主さんや月番の人達も、みんなもう、自身番で待ってなさる。どんな御用でお前さんが招ばれるのか、そいつはわたし達にも判らないが、お上からのお呼び出しだとなりゃア、どうにも仕方がない。お気の毒だが、早速支度をして、わたしと一緒に行っておくんなさい」

「――――」

「外のことと違って、行きにくいのはお察しするが、どうもこればかりは素直に行ってもらわねえじゃア。……」

「へえ。――」

素直に。――それをいま、改めていわれるまでもなかった。生れて五十一年の間、悪所通いのしたい放題はしたし、普の道楽者の十倍も余計に女の肌を知り尽して来はしたものの、いまだ、ただの一度も賽の目を争ったことはなし、まして人様の物を、塵ッ端一本でも盗んだ覚えは、露さらあるわけがなかった。さればこれまで、奉行所はおろか、自身番の土さえまったく踏んだことがなく、わずかに一度、落した大事な莨入を、田町の自身番からの差紙で、取りに来いといわれた時でさえ、病気と偽って弟子の秀麿を代りにやったくらい。好きなところは吉原で、嫌いなところはお役所だといつも口癖のようにいっていたから察しても、大概その心持は、わかり過ぎるほどわかっている筈だった。

その歌麿に、ところもあろうに、町奉行からの差紙は、何んとしても解せない大きな謎であった。歌麿は、夢に夢見る心持で胸を暗くしながら、家主の指図に従って、落度のないように支度を整えると、人に顔を見られるのさえ苦しい思いで、まず自身番まで出向いて行った。

自身番には、治郎兵衛のいった通り、名主の幸右衛門と、その他月番の三人が、暗い顔を寄せ合って待っていた。幸右衛門は、歌麿の顔を見ると、慰めるように声をかけた。

「飛んだことでお気の毒だが、これア、何かお上の間違いに違いあるまい。お前さんのようなお人が仮にもお奉行所へ呼び出されるなんてことは、ほんとの災難だ。――だが心配は無用にさっしゃい。天に眼あり。決して正直な者が罪に陥るようなことはありゃアしねえからのう」

口の先では強いことをいっているものの、町役人達も、さすがに肚の中の不安は隠せなかったのであろう。同心渡辺金兵衛の迎いが、一刻でも遅いようにと、ひそかに祈る心は誰しも同じことであった。

しかも五月の空は拭った如く藍色に晴れ、微風は子燕の羽をそよそよと撫でていたが、歌麿の心は北国空のように、重く曇ったまま晴れなかった。

それは正に、夢想もしない罪科であった。

両国広小路の地本問屋加賀屋吉右衛門から頼まれて大阪の絵師石田玉山が筆に成る(絵本太閤記)と同一趣向の絵を描いた、その図の二三が災して、吟味中入牢仰付といい渡された時には歌麿は余りのことに、危く白洲へ卒倒しようとしたくらいだった。

死んだような気持で送った牢内の三日間は、娑婆の三年よりも永かった。――その三日の間に歌麿は、げっそり頬のこけたのを覚えた。

「これからは怖くて、絵筆が持てなくなりやした」

出牢後、五十日間の手錠、家主預けときまって、再び己が画室に坐った歌麿は、これまでとは別人のように弱気になって、見舞に来た版元の誰彼を捕まえては、同じように牢内の恐ろしさを聞かせていたが、そのせいか「八十までは女と寝る」と豪語していた、きのうまでの元気はどこへやら、今は急に、十年も年を取ったかと疑われるまでに、身心共に衰えて、一杯の酒さえ目にすることなく、自ら進んで絵の具を解こうなどという、そうした気配は、薬にしたくも見られなかった。

しとしとと雨の降る、午下りだった。歌麿はいつものように机にもたれて茫然と、一坪の庭の紫陽花に注ぐ、雨の脚を見詰めていた。と、あわててはいって来たおつねが、来客を知らせて来た。

「どなただか知らねえが、初めての方なら、病気だといって、お断りしねえ」

「ですがお師匠さん、お客様は割下水のお旗本、阪上主水様からの、急なお使いだとおっしゃいますよ」

「なに、お旗本のお使いだと」

「そうでござんすよ。是非ともお目に掛って、お願いしたいことがあるとおっしゃって。……」

「どういう御用か知らねえが、お旗本のお使いならなおのこと、こんな態じゃお目に掛れねえ。――御無礼でござんすが、ふせっておりますからと申上げて、お断りしねえ」

歌麿の、この言葉が終るか終らないうちであった。「お師匠さん、その御遠慮には及びませんよ」といいながら、庭先の枝折戸を開けて、つかつかとはいって来たのは、大丸髭に結った二十七八の水も垂れるような美女であった。

「これアどうも、こんなところへ。……」

あわてる歌麿を、女は手早く押し止めた。

「あたしでござんす。おきたでござんす」

「え。――」

鋭く、窪んだ眼を上げた歌麿は、その大丸髷が、まがう方なく、嘗ては江戸随一の美女と謳われた灘波屋のおきただと知ると、さすがに寂しい微笑を頬に浮べた。

「おお、おきたさんか。――ここへ何しに来なすった」

「何しにはお情ない。お見舞に伺ったのでござんす」

辷るように、歌麿の傍へ坐ったおきたは、如何にもじれったそうに、衰えた歌麿の顔を見守った。――二十の頃から、珠のようだといわれたその肌は、年増盛りの愈冴えて、わけてもお旗本の側室となった身は、どこか昔と違う、お屋敷風の品さえ備わって、恰も菊之丞の濡衣を見るような凄艶さが溢れていた。

が、歌麿の微笑は冷たかった。

「お旗本のお使いと聞いたから、滅多に粗相があっちゃならねえと思って断らせたんだが、なぜまともに、おきただといいなさらねえんだ」

「そういったら、お師匠さんは、会ってはおくんなさいますまい。――永い間の御親切を無にして仇し男と、甲州くんだりまで逃げ出した挙句、江戸へ戻れば、阪上様のお屋敷奉公。さぞ憎い奴だと思し召したでござんしょう。――ですがお師匠さん。おきたの心は、やっぱり昔のままでござんす。ふとしたことから、お前さんの今度の災難を聞きつけましたが、そうと聞いては矢も楯も堪らず、お目に掛れる身でないのを知りながら、お面を被ってお訪ねしました。――ほんに飛んだ御難儀、お腰などおさすりしたい心でござんす」

黙って眼を閉じていた歌麿は、そういってにじり寄ったおきたの手の温みを膝許に感じた。

「いや、折角の志しだが、それには及ばねえ。今更お前さんに擦ってもらったところで、ひびのはいったおれの体は、どうにもなりようがあるめえからの」

きのうまでの歌麿だったら、百に一つも、おきたの言葉を拒むわけはなかったであろう。まして七八年前までは、若い者が呆れるまでに、命までもと打込んでいた、当の相手のおきたではないか。向うからいわれるまでもなく、直ぐさま己が膝下へ引寄せずにはおかない筈なのだが、しかし手錠の中に細った歌麿の手首は、じっと組まれたまま動こうともしなかった。

「お師匠さん」

「――」

「お前さんは、殿様のお世話になっているあたしが、怖くおなりでござんすか」

「そうかも知れねえ。おれアもうお侍と聞くと眼の前が真暗になるような気がする」

「おほほほ、弱いことをおっしゃるじゃござんせんか。そのような楽な手錠なら、はめていないも同じこと、あたしが外して上げましょうから、いっそさっぱりと。……」

おきたは如何にも無造作に、歌麿の手錠に手をかけた。

「あ、いけねえ」

「そんな野暮な遠慮は、江戸じゃ流行りませんよ」

ぐいと手錠を逆に引張った刹那、歌麿は右の手首に、刺すような疼痛を感じたが、忽ち黒い血潮がたらたらと青畳を染めた。

「あッ」

さすがにおきたは、驚いて手を放した。

「飛んだことをしてしまいました。――」

手速く、帯の間から取出したふところ紙は、血のにじんだ歌麿の手首に絡みついていた。

「お痛うござんすか」

「――」

「何かお薬でも。……」

が、歌麿はうつむいたまま、一言も発しなかった。おもてを流して通る簾売の声が、高く低く聞こえていた。

「師匠」

「えッ」

その声に、ぎょっとして面を上げた歌麿の、くぼんだ眼に映ったのは、庭先に佇んだ、同心渡辺金兵衛の姿であった。

この後、金兵衛の姿は、常に魔の如く、歌麿の脳裡にこびりついて、寸時も消えることがなかった。

その金兵衛に、ところもあろうに、初めて訪ねた陰女の家で会ったのだった。跣足のまま逃げた歌麿が、駕籠屋を呼ぶにさえ、満足に口がきけなかったのも、無理ではなかった。

「師匠」

昨夜の様子を、一刻も速く聞きたかったのであろう。まだ六つが鳴って間もないというのに彫師の亀吉は、にやにや笑いながら、画室の障子に手をかけた。

「師匠。――おや、こいつアいけねえ。ゆうべのお疲れでまだ夢の最中でげすね」

ふところから、叺と鉈豆煙管を取出した亀吉は、もう一度にやりと笑うと、おつねの出してくれた煙草盆で二三服立続けにすぱりすぱりとやっていたが、頭から夜具を被った歌麿が、小揺ぎもしないのにいささか拍子抜けがしたのであろう。しばし口の中で、何かぶつぶつ呟くと、立って、勝手許にいるおつね婆のほうへ出かけて行った。

「おつねさん。師匠はまだ、なかなか起きそうにもねえから、あっしゃ一寸並木まで、用達に行って来るぜ」

「亀さんにも似合わない、お師匠さんが、こんなに早くお起きなさらないのは、知れきってるじゃないか」

「知っちゃアいるが、今朝ばかりは、別だろうと思ってよ」

「そんなことがあるものかね。大きな声じゃいえないが、ゆうべは何か変ったことでもあったと見えて、夢中で駈込んでくると、そのままあたしに床を取らせて寝ておしまいなんだもの。そう早く起きなさるわけはありやしないよ」

「ふん、だからよ。だからその変ったことのいきさつを、ゆっくり師匠に訊きてえんだ。――まあいいや。半時ばかりで帰って来るから、よろしくいっといてくんねえ」

亀吉の足音が、裏木戸の外へ消えてしまうと、怯えた子供のように、歌麿は夜具の襟から顔を出して、あかりを見廻した。

「びっくりさせやがる。こんなに早く来やがって。――」

のこのこと床から這い出した歌麿は、手近の袋戸棚を開けると、そこから、寛政六年に出版した「北国五色墨」の一枚を抜き出した。それはゆうべ会った陰女のお近と寸分も違わない、茗荷屋若鶴の姿だった。

「うむ、ひょっとするとこれやア姉妹かも知れねえ。――だが、あいつの肌に、まともに触る間もねえうちに、箆棒な、あんな野郎が、あすこへ現れるなんて。――」

歌麿はそういいながら、手にした錦絵を枕許へ置こうとした。と、その瞬間、急に手先の痺れるのを感じた。

「こ、こいつア、いけねえ。――」

しかし、その語尾は、もはや舌が剛張って、思うようにいえなかった。

「お、つ、ね。――」

裏返しにされた亀の子のように、歌麿の巨躯は、床の上でじたばたするばかりだった。

「大変ですよ。お師匠さんが大変ですよ」

おつねが、耳の遠い秀麿を、声限りに呼んでいるのを、歌麿は夢のように聞いていた。

文化三年九月二十日の、鏡のような秋風が、江戸の大路を流れていた。

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