Chapter 1 of 31

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名人地獄

国枝史郎

消えた提灯、女の悲鳴

「……雪の夜半、雪の夜半……どうも上の句が出ないわい」

寮のあるじはつぶやいた。今、パッチリ好い石を置いて、ちょっと余裕が出来たのであった。

「まずゆっくりお考えなされ。そこで愚老は雪一見」

立ち上がったあるじは障子を開けて、縁の方へ出て行った。

「降ったる雪かな、降りも降ったり、ざっと三寸は積もったかな。……今年の最後の雪でもあろうか、これからだんだん暖かくなろうよ」

「しかし随分寒うござるな」

侍客はこういって、じっと盤面を睨んでいたが、「きちがい雪の寒いことわ」

「……雪の夜半、雪の夜半……」あるじは雪景色を眺めていた。

「よい上の句が出ないと見える」

「よい打ち手がめつからぬと見える」

二人は哄然と笑い合った。

「これからだんだん暖かくなろう」あるじはまたも呟いた。

「しかし今日は寒うござるな」侍客がまぜっかえす。

「さよう。しかし余寒でござるよ」

「余寒で一句出来ませんかな」「さようさ、何かでっち上げましょうかな。下萠、雪解、春浅し、残る鴨などはよい季題だ」「そろそろうぐいすの啼き合わせ会も、根岸あたりで催されましょう」

「盆石、香会、いや忙しいぞ」「しゃくやくの根分けもせずばならず」「喘息の手当もせずばならず」「アッハハハ、これはぶち壊しだ。もっともそういえば、しもやけあかぎれの、予防もせずばなりますまいよ」

「いよいよもって下がりましたな。下がったついでに食い物の詮議だ。ぼらにかれいにあさりなどが、そろそろしゅんにはいりましたな。鳩飯などは最もおつで」「ところが私は野菜党でな、うどにくわいにうぐいすなときたら、それこそ何よりの好物でござるよ。さわらびときたら眼がありませんな」「さといも。八ツ頭はいかがでござる」「いやはや芋類はいけませんな」「万両、まんさく、水仙花、梅に椿に寒紅梅か、春先の花はようござるな」「そのうち桜が咲き出します」「世間が陽気になりますて」――「そこで泥棒と火事が流行る」

「その泥棒で思い出した。噂に高い鼠小僧、つかまりそうもありませんかな?」ふと主人はこんな事をいった。

「つかまりそうもありませんな」

「彼は一個の義賊というので、お上の方でもお目零しをなされ、つかまえないのではありますまいかな?」

「さようなことはありますまい」客の声には自信があった。「とらえられぬは素早いからでござるよ」

「ははあさようでございますかな。いやほかならぬあなたのお言葉だ。それに違いはございますまい」

「わしはな」と客は物うそうに、「五年以前あの賊のために、ひどく煮え湯を呑ませられましてな。……いまだに怨みは忘れられませんて」

「おやおやそんな事がございましたかな。五年前の郡上様といえば、名与力として謳われたものだ。その貴郎の手に余ったといえば、いよいよもって偉い奴でござるな。……おや、堤を駕籠が行くそうな。提灯の火が飛んで行く」

「水神あたりのお客でしょうよ。この大雪に駕籠を走らせ、水神あたりへしけ込むとは、若くなければ出来ない道楽だ」

「お互い年を取りましたな。私はもうこれ五十七だ」

「私は三つ下の五十四でござる」

「あっ」と突然寮のあるじ一閑斎は声を上げた。「提灯が! 提灯が! バッサリと!」

その時墨堤の方角から、女の悲鳴が聞こえて来た。

「ははあ何か出ましたな」

――与力の職を長男に譲り、今は隠居の身分ながら、根岸肥前守、岩瀬加賀守、荒尾但馬守、筒井和泉守、四代の町奉行に歴仕して、綽名を「玻璃窓」と呼ばれたところの、郡上平八は呟いたが、急にニヤリと片笑いをすると、

「やれ助かった」と手を延ばし、パチリと黒石を置いたものである。「まずこれで脈はある」

「それはわからぬ」とどなったのは、縁の上の一閑斎で、「刃の稲妻、消えた提灯、ヒーッという女の悲鳴、殺されたに相違ない!」

「いや私は碁の事だ」

「ナニ碁?」と、いかにもあきれたように、「人が殺されたのだ! 人が殺されたのだ! 行って見ましょう。さあさあ早く!」

「いや、それなら大丈夫」平八老人は悠々と、「提灯の消えたのは私にも見えた。が、私にはお前様のいう、刃の稲妻は見えなかった」

「フ、フ、フ、フ、実はそのな。……」

「お前様にも見えなかった筈だ」

「さよう、実は、おまけでござるよ」

「芝居気の抜けぬ爺様だ。刃の稲妻の見えるには、いささか距離が遠過ぎる」

「……が、あの悲鳴は? 消えた提灯は?」

「それがさ、変に間延びしている」

「殺人ではないのかえ?」

「ナーニ誰も殺されはしない」

登場人物はまさしく五人

しかし主人は不安そうに、「確かかな? 大丈夫かな?」

「三十の歳から五十まで、寛政七年から文政元年まで、ざっと数えて二十年間、私はこの道では苦労しています」

「が、そのお偉い『玻璃窓』の旦那も、鼠小僧にかかってはね」

「あれは別だ」と厭な顔をして「鼠小僧は私の苦手だ」

おりから同じ方角から、鼓の音が聞こえて来た。ポンポン、ポンポン、ポンポンと、堤に添って遠隔って行った。

すいかけた煙管を膝へ取り、平八老人は耳を澄ましたが、次第にその顔が顰んで来た。

梅はおおかた散りつくし、彼岸の入りは三日前、早い桜は咲こうというのに、季節違いの大雪が降り、江戸はもちろん武蔵一円、経帷子に包まれたように、真っ白になって眠っていたが、ここ小梅の里の辺りは、家もまばらに耕地ひらけ、雪景色にはもってこいであった。その地上の雪に響いて、鼓の音は冴え返るのであった。

「よく抜ける鼓だなあ」思わず平八は感嘆したが、「これは容易には忘れられぬわい。ああ本当にいい音だなあ。……しかし待てよ? あの打ち方は? これは野暮だ! 滅茶苦茶だ! それにも拘らずよい音だなあ」

ついと平八は立ち上がった。それからのそりと縁へ出た。

「さて、ご老体、出かけましょうかな」

「ナニ出かける? はてどこへ?」一閑斎は怪訝そうであった。

「刃の稲妻……」と故意と皮肉に、「消えた提灯、女の悲鳴、雪に響き渡る小鼓とあっては、こいつうっちゃっては置けませんからな」「ははあそれではお調べか?」「玻璃窓の平八お出張りござる」「鼠小僧がおりましょうぞ」「ううん」とこれには平八老人も、悲鳴を上げざるを得なかった。「八蔵八蔵!」と一閑斎は、下男部屋の方へ声をかけた。「急いで提灯へ火を入れて来い。そうしてお前も従いておいで。――それでは旦那出かけましょうかな。フ、フ、フ、フ、玻璃窓の旦那」

そこで皮肉な二老人は、庭の上へ下り立った。下男の提灯が先に立ち、続いて平八と一閑斎、裏木戸を押すと外へ出た。と広々とした一面の耕地で、隅田堤が長々と、雪を冠って横仆っていた。雪を踏み踏みその方角へ、三人の者は辿って行った。

堤へ上って見廻したが、なるほど死骸らしいものはない。血汐一滴零れていない。ただ無数の足跡ばかりが、雪に印されているばかりであった。「提灯を」と平八はいった。「……で、あらかじめ申して置きます。こればかりが手がかりでござる、足跡を消してくださるなよ」

八蔵から受け取った、提灯をズイと地面へさしつけると、彼は足跡を調べ出した。もう暢気な隠居ではない。元の名与力郡上平八で、シャンと姿勢もきまって来れば、提灯の光をまともに浴びて、キラキラ輝く眼の中にも、燃えるような活気が充ちていた。一文字に結んだ唇の端には、強い意志さえ窺われた。昔取った杵柄とでもいおうか、調べ方は手堅くて早く、屈んだかと思うと背伸びをした。膝を突いたかと思うと手を延ばし、何か黒い物をひろい上げた。つと立ち木の幹を撫でたり、なお降りしきる雪空を、じっとしばらく見上げたりした。堤の端を遠廻りにあるき、決して内側へは足を入れない。やがて立ち上がると雪を払ったが、片手で提灯の弓を握り、片手を懐中で暖めると、しばらく佇んで考えていた。提灯の光の届く範囲の、茫と明るい輪の中へ、しきりに降り込む粉雪が、縞を作って乱れるのを、鋭いその眼で見詰めてはいるが、それは観察しているのではなく、無心に眺めているのであった。

「疑惑」と「意外」のこの二つが、彼の顔に現われていた。

「登場人物は締めて五人だ」彼は静かにやがていった。「二人は駕籠舁き、一人は武辺者、そうして一人は若い女……」

「玻璃窓」平八の科学的探偵

「そうして残ったもう一人は?」一閑斎が側から聞いた。

「その一人が私の苦手だ」

「ええお前様の苦手とは?」

「……どうも、こいつは驚いたなあ。……」平八はなおも考え込んだ。

「それじゃもしや鼠小僧が?」

「なに。……いやいや。……まずさよう。……が、一層こういった方がいい。鼠小僧に相違ないと、かつて私が目星をつけ、あべこべに煮え湯を呑ませられた、ある人間の足跡が、ここにはっきりついているとな。――とにかく順を追って話して見よう。第一番にこの足跡だ。わらじの先から裸指が、五本ニョッキリ出ていたと見えて、その指跡がついている。この雪降りに素足にわらじ、百姓でなければ人足だ。それがずっと両国の方から、二つずつ四つ規則正しい、隔たりを持ってついている。先に立った足跡は、つま先よりもかがとの方が、深く雪へ踏ん込んでいる。これはかがとへ力を入れた証拠だ。背後の足跡はこれと反対に、つま先が深く雪へはいっている。これはつま先へ力を入れた証拠だ。ところで駕籠舁きという者は、先棒担ぎはきっと反る。反って中心を取ろうとする。自然かがとへ力がはいる。しかるに後棒はこれと反対に、前へ前へと身を屈める。そうやって先棒を押しやろうとする、だからつま先へ力がはいる。でこの四つの足跡は、駕籠舁きの足跡に相違ない。ところで駕籠舁きのその足跡は、ここまでやって来て消えている。……と思うのは間違いで、河に向かった土手の腹に、非常に乱暴についている。これは何物かに驚いて、かごを雪の上へほうり出したまま、そっちへあわてて逃げたがためで、長方形のかご底の跡が、雪へはっきりついている」

こういいながら雪の積もった、堤の一所を指差した。かご底の跡がついていた。

「こっちへ」といいながら平八は、堤を横切って向こう側へ行ったが、「何んと一閑老土手の腹に、乱暴な足跡がついていましょうがな?」

「いかにも足跡がついています。おおそうしてあの跡は?」一閑斎は指差した。その指先の向かった所に、雪に人形が印せられていた。

「恐い物見たさで駕籠舁きども、あそこへピッタリ体を寝かせ、鎌首ばかりを堤から出して、兇行を窺っていたのでござるよ。で、人形がついたのでござる」

「何がいったい出たのでござるな?」「白刃をさげた逞しい武辺者」「そうしてどこから出たのでござろう?」「あの桜の古木の蔭から」

こういいながら平八は、再び堤を横切って、元いた方へ引き返したが、巨大な一本の桜の古木が、雪を鎧って立っている根もとへ、一閑斎を案内した。「ご覧なされ桜の根もとに、別の足跡がございましょうがな」「さよう、たしかにありますな」「すなわち武辺者が先廻りをして、待ち伏せしていた証拠でござる」

「何、待ち伏せ? 先廻りとな? さような事まで分りますかな?」「何んでもない事、すぐに分ります」平八は提灯を差し出したが、「両国の方からこの根もとまで、堤の端を歩くようにして、人の足跡が大股に、一筋ついておりましょうがな。これは大急ぎで走って来たからでござる。堤の真ん中を歩かずに、端ばかり選んで歩いたというのは、心に蟠があったからで、他人に見られるのを恐れる人は、定ってこういう態度を執ります。さて、しかるにその足跡たるや、一刻もやまない粉雪のために、薄く蔽われておりますが、これがきわめて大切な点で、ほかの無数の足跡と比べて蔽われ方が著しゅうござる。つまりそれはその足跡が、どの足跡よりも古いという証拠だ。すなわち足跡の主人公は、駕籠より先に堤を通り、駕籠の来るのを木の蔭で、待っていたことになりましょうがな」「いかにもこれはごもっとも。そしてそれからどうしましたな?」一閑斎は熱心に訊いた。

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