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無惨
黒岩涙香
無惨序
日本探偵小説の嚆矢とは此無惨を云うなり無惨とは面白し如何なること柄を書しものを無惨と云うか是れは此れ当時都新聞の主筆者涙香小史君が得意の怪筆を染め去年築地河岸海軍原に於て人殺のありしことを作り設け之れに探偵の事項を附会して著作せし小説なり予本書を読むに始めに探偵談を設けて夫より犯罪の事柄に移りお紺と云う一婦人を捜索して証拠人に宛て之れが口供より遂いに犯罪者を知るを得るに至る始末老練の探偵が自慢天狗若年の探偵が理学的論理的を以て一々警部に対って答弁するごとき皆な意表に出て人の胆を冷し人の心を寒らしむる等実に奇々怪々として読者の心裡を娯ましむ此書や涙香君事情ありて予に賜う予印刷して以て発布せしむ世評尤も涙香君の奇筆を喜び之を慕いて其著書訳述に係る小説とを求めんと欲し続々投書山を為す之をもって之を見れば君が文事に於ける亦た羨むべし嗚呼涙香君は如何なる才を持て筆を採るや如何なる技を持って小説を作るや余は敢て知らず知らざる故に之れを慕う慕うと雖も亦た及ばず是れ即ち天賦の文才にして到底追慕するも亦画餠に属すればなりと予は筆を投じて嗟嘆して止みぬ
明治廿二年十月中旬香夢楼に坐して梅廼家かほる識す
上篇(疑団)
世に無惨なる話しは数々あれど本年七月五日の朝築地字海軍原の傍らなる川中に投込ありし死骸ほど無惨なる有様は稀なり書さえも身の毛逆立つ翌六日府下の各新聞紙皆左の如く記したり
◎無惨の死骸 昨朝六時頃築地三丁目の川中にて発見したる年の頃三十四五歳と見受けらるゝ男の死骸は何者の所為にや総身に数多の創傷、数多の擦剥、数多の打傷あり背などは乱暴に殴打せし者と見え一面に膨揚り其間に切傷ありて傷口開き中より血に染みし肉の見ゆるさえあるに頭部には一ヶ所太き錐にて突きたるかと思わるゝ深さ二寸余の穴あり其上槌の類にて強く殴打したりと見え頭は二ツに割け脳骨砕けて脳味噌散乱したる有様実に目も当られぬ程なり医師の診断に由れば孰れも午前二三時頃に受けし傷なりと同人の着服は紺茶堅縞の単物にて職業も更に見込附かず且つ所持品等は一点もなし其筋の鑑定に拠れば殺害したる者が露見を防がんが為めに殊更奪い隠したる者ならん故に何所の者が何の為めに斯く浅ましき死を遂げしや又殺害したる者は孰れの者か更に知る由なければ目下厳重に探偵中なり(以上は某の新聞の記事を其儘に転載したる者なり)
猶お此無惨なる人殺に附き其筋の調たる所を聞くに死骸は川中より上げたれど流れ来りし者には非ず別に溺れ漂いたりと認むる箇条は無く殊に水の来らざる岸の根に捨てゝ有りたり、猶お周辺に血の痕の無きを見れば外にて殺せし者を舁ぎ来りて投込みし者なる可し又此所より一町ばかり離れし或家の塀に血の附きたる痕あれど之も殺したる所には非ず多分は血に塗れたる死骸を舁ぎ来る途中事故ありて暫し其塀に立掛し者なる可し
殺せしは何者か殺されしは何者か更に手掛り無しとは云え七月の炎天、腐敗り易き盛りと云い殊に我国には仏国巴里府ルー、モルグに在る如き死骸陳列所の設けも無きゆえ何時までも此儘に捨置く可きに非ず、最寄区役所は取敢えず溺死漂着人と見做して仮に埋葬し新聞紙へ左の如く広告したり
溺死人男年齢三十歳より四十歳の間当二十二年七月五日区内築地三丁目十五番地先川中へ漂着仮埋葬済○人相○顔面長き方○口細き方眉黒き方目耳尋常左りの頬に黒痣一ツあり頭散髪身長五尺三寸位中肉○傷所数知れず其内大傷は眉間に一ヶ所背に截割たる如き切傷二ヶ所且肩より腰の辺りへ掛け総体に打のめされし如く膨上れり左の手に三ヶ所、首に一ヶ所頭の真中に大傷其処此処に擦傷等数多あり、咽に攫み潰せし如き傷○衣類大名縞単物、二タ子唐桟羽織但紐附、紺博多帯、肉シャツ、下帯、白足袋、駒下駄○持物更に無し○心当りの者は申出ず可し
明治二十二年七月六日最寄区役所(右某新聞より転載) 人殺しは折々あれど斯くも無惨な、斯くも不思議な、斯くも手掛なき人殺しは其類少し去れば其日一日は到る所ろ此人殺しの噂ならぬは無りしも都会は噂の種の製造所なり翌日は他の事の噂に口を奪われ全く忘れたる如し独り忘れぬは最寄警察の刑事巡査なり死骸の露見せし朝の猶お暗き頃より心を此事にのみ委ね身を此事にのみ使えり、心を委ね身を使えど更に手掛りの無きぞ悲しき
刑事巡査、下世話に謂う探偵、世に是ほど忌わしき職務は無く又之れほど立派なる職務は無し、忌わしき所を言えば我身の鬼々しき心を隠し友達顔を作りて人に交り、信切顔をして其人の秘密を聞き出し其れを直様官に売附けて世を渡る、外面如菩薩内心如夜叉とは女に非ず探偵なり、切取強盗人殺牢破りなど云える悪人多からずば其職繁昌せず、悪人を探す為に善人を迄も疑い、見ぬ振をして偸み視、聞かぬ様をして偸み聴、人を見れば盗坊と思えちょう恐き誡めを職業の虎の巻とし果は疑うに止らで、人を見れば盗坊で有れかし罪人で有れかしと祈るにも至るあり、此人若し謀反人ならば吾れ捕えて我手柄にせん者を、此男若し罪人ならば我れ密告して酒の代に有附ん者を、頭に蝋燭は戴かねど見る人毎を呪うとは恐ろしくも忌わしき職業なり立派と云う所を云えば斯くまで人に憎まるゝを厭わず悪人を看破りて其種を尽し以て世の人の安きを計る所謂身を殺して仁を為す者、是ほど立派なる者あらんや
五日の朝八時頃の事最寄警察署の刑事巡査詰所に二人の探偵打語らえり一人は年四十頃デップリと太りて顔には絶えず笑を含めり此笑見る人に由りて評を異にし愛嬌ある顔と褒めるも有り人を茶かした顔と貶るも有り公平の判断は上向けば愛嬌顔、下へ向ては茶かし顔なる可し、名前は谷間田と人に呼ばる紺飛白の単物に博多の角帯、数寄屋の羽織は脱ぎて鴨居の帽子掛に釣しあり無論官吏とは見えねど商人とも受取り難し、今一人は年廿五六小作りにして如才なき顔附なり白き棒縞の単物金巾のヘコ帯、何う見ても一個の書生なれど茲に詰居る所を見れば此頃谷間田の下役に拝命せし者なる可し此男テーブル越に谷間田の顔を見上げて「実に不思議だ、何う云う訳で誰に殺されたか少しも手掛りが無い」谷間田は例の茶かし顔にて「ナニ手掛は有るけれど君の目には入らぬのだ何しろ東京の内で何家にか一人足らぬ人が出来たのだから分らぬと云う筈は無い早い譬えが戸籍帳を借りて来て一人/\調べて廻れば何所にか一人不足して居るのが殺された男と先斯う云う様な者サ大鞆君、君は是が初めての事件だから充分働いて見る可しだ、斯う云う六ヶしい事件を引受けねば昇等は出来ないぜ(大鞆)夫りゃ分ッて居る盤根錯節を切んければ以て利器を知る無しだから六かしいは些とも厭ヤせんサ、けどが何か手掛りが無い事にや―先ア君の見た所で何の様な事を手掛と仕給うか(谷)何の様な事と、何から何まで皆手掛りでは無いか第一顔の面長いのも一ツの手掛り左の頬に痣の有るのも亦手掛り背中の傷も矢張り手掛り先ず傷が有るからには鋭い刃物で切たには違い無い左すれば差当り刃物を所持して居る者に目を附けると先ア云う様な具合で其目の附所は当人の才不才と云う者君は日頃から仏国の探偵が何うだの英国の理学は斯だのと洋書を独りで読んだ様な理屈を並べるから是も得意の論理学とか云う者で割出して見るが好いアハヽヽ何と爾では無いか」大鞆は心中に己れ見ろと云う如き笑を隠して故と頭を掻き「夫は爾だけどが書物で読むのと実際とは少し違うからナア小説などに在る曲者は足痕が残ッて居るとか兇器を遺れて置くとか必ず三ツ四ツは手掛りを存して有るけどが是ばかりは爾で無い、天きり殺された奴の名前からして世間に知て居る人が無い夫だから君何所から手を附けると云う取附だけは知せて呉れねば僕だッて困るじゃ無いか(谷)其取附と云うのが銘々の腹に有る事で君の能く云う機密とやらだ互いに深く隠して、サアと成る迄は仮令え長官にも知さぬ程だけれど君は先ず私が周旋で此署へも入て遣た者では有し殊に是が軍で言えば初陣の事だから人に云われぬ機密を分けて遣る其所の入口を閉て来たまえ(大)夫や実に難有い畢生の鴻恩だ」谷間田は卓子の上の団扇を取り徐々と煽ぎながら少し声を低くして「君先ず此人殺しを何と思う慾徳尽の追剥と思うか但しは又―(大)左様サ持物の一ツも無い所を見れば追剥かとも思われるし死様の無惨な所を見れば何かの遺恨だろうかとも思うし兎に角仏国の探偵秘伝に分り難き犯罪の底には必ず女ありと云ッて有るから女に関係した事柄かとも思う(谷)サ、爾先ッ潜りをするから困る静に聞たまえな、持物の無いのは誰が見ても曲者が手掛りを無くする為に隠した事だから追剥の証拠には成らぬが、第一傷に目を留たまえ傷は背に刀で切たかと思えば頭には槌で砕いた傷も有る既に脳天などは槌だけ丸く肉が凹込んで居る爾かと思えば又所々には抓投た様な痕も有る(大)成るほど―(谷)未だ不思議なのは頭にへばり附て居る血を洗い落して見た所頭の凹込んで砕けた所に太い錐でも叩き込んだ様な穴も有るぜ―君は気が附くまいけれど(大)ナニ気が附て居るよ二寸も深く突込んだ様に(谷)夫なら君アレを何で附けた傷と思う(大)夫は未だ思考中だ(谷)ソレ分るまい分らぬならば黙ッて聞く可しだ、私はアレを此頃流行るアノ太い鉄の頭挿を突込んだ者と鑑定するが何うだ」大鞆は思わずも笑わんとして辛と食留め「女がかえ(谷)頭挿だから何うせ女サ、女が自分で仕なくても曲者が、傍に落て居るとか何うとかする女の頭挿を取て突たのだ孰れにしても殺す傍には女びれが居たは之で分る(大)でも頭挿の脚は二ツだから穴が二ツ開く筈だろう(谷)馬鹿を言い給え、二寸も突込うと云うには非常の力を入れて握るから二ツの脚が一ツに成るのサ(大)一ツに成ても穴は横に扁たく開く筈だ、アノ穴は少しも扁たく無い満丸だよシテ見れば頭挿で無い外の者だ」谷間田は又茶かす如く笑いて「爾気が附くは仲々感心是だけは実の所ろ一寸と君の智恵を試して見たのだ」大鞆は心の底にて「ナニ生意気な、人を試すなどと其手に乗る者か」と嘲り畢ッて「夫なら本統の所ろアレは何の傷だ(谷)夫は未だ僕にも少し見込が附かぬが先静かに聞く可し、兎に角斯う種々様々の傷の有る所を見れば、好かえ能く聞たまえ、一人で殺した者では無い大勢で寄て襲ッて殺した者だ(大)成る程―(谷)シテ見れば先ず曲者は幾人も有るのだが、併し寄て襲ッて殺すには何うしても往来では出来ぬ事だ(大)夫ゃ何う云う訳で(谷)何う云う訳ッて君、聞たまえよ(大)又聞たまえか(谷)イヤ先聞たまえ、往来なら逃廻るから夫を追掛ける中には人殺し人殺しと必ず声を立る其中には近所で目を醒すとか巡査が聞附るとかするに極って居る(大)夫では野原か(谷)サア野原と云う考えも起る併し差当り野原と云えば日比野か海軍原だ、日比谷から死骸をアノ河岸まで担いで来る筈は無し、又海軍原でも無い、と云う者は海軍原へは矢鱈に這入れもせず、又隅から隅まで探しても殺した様な跡は無し夫に一町ばかり離れた或家の塀に血の附て居る所を見ても海軍原で殺して築地三丁目の河岸へ捨るに一町も外へ舁で行く筈も無(大)夫では家の内で殺したのか(谷)先聞たまえと云うのに、爾サ家の内とも、家の内で殺したのだ、(大)家の中でも矢張り騒しいから近所で目を醒すだろう(谷)ソオレ爾思うだろう素徒は兎角爾云う所へ目を附けるから仕方が無い成るほど家の中でも大勢で人一人殺すには騒ぎ廻るに違い無い、従ッて又隣近所で目を醒すに違い無い、其所だテ隣近所で目を醒してもアヽ又例の喧嘩かと別に気にも留ずに居る様な所が何所にか有るだろう(大)夫では屡々大喧嘩の有る家かネ(谷)爾サ、屡々大勢の人も集り又屡々大喧嘩も有ると云う家が有る其様な家で殺されたから隣近所の人も目を醒したけれど平気で居たのだ別に咎めもせずに捨て置て又眠ッて仕舞ッたのだ(大)併し其様な大勢集ッて喧嘩を再々する家が何所に在る(谷)是ほどいッても未だ分らぬから素徒は夫で困る先少し考えて見たまえな(大)考えても僕には分らんよ(谷)刑事巡査とも云われる者が是位いの事が分らんでは仕方が無いよ、賭場だアネ(大)エ、ドバ、ドバなら知て居る仏英の間の海峡(谷)困るなア冗談じゃ無いぜ賭場とは賭博場だアネ(大)成るほど賭場は博奕場か夫なら博奕場の喧嘩だネ(谷)爾サ博奕場の喧嘩で殺されたのよ博奕場だから誰も財布の外は何も持て行ぬがサア喧嘩と云えば直に自分の前に在る金を懐中へ掻込んで立ち其上で相手に成るのが博奕など打つ奴の常だ其所には仲々抜目は無いワ、アノ死骸の当人も矢張り夫だぜ詳しい所までは分らぬけれど何でも傍に喧嘩が有たので手早く側中の有金を引浚ッて立うとすると居合せた者共が銘々に其一人に飛掛り初の喧嘩は扨置て己の金を何うしやがると云う様な具合に手ン手ンに奪い返す所から一人と大勢との入乱れと為り踏れるやら打れるやら何時の間にか死で仕舞ッたんだ、夫だから持物や懐中物は一個も無いのだ、エ何うだ恐れ入たか」大鞆は暫し黙考えて「成る程旨く考えたよ、けどが是は未だ帰納法で云う「ハイポセシス」だ仮定説だ事実とは云われぬテ之から未だ「ヴェリフィケーション」(証拠試験)を仕て見ん事にや(谷)サ夫が生意気だと云うのだ自分で分らぬ癖に人の云う事に批を打たがる(大)けどが君、君が根拠とするのは唯様々の傷が有と云うだけの事で傷からして大勢と云う事を考え大勢からして博奕場と云う事を考えた丈じゃ無いか詰り証拠と云うのは様々の傷だけだ外に何も無い、第一此開明世界に果して其様な博奕場が有る筈も無し―(谷)イヤ有るから云うのだ築地へ行ッて見ろ支那人が七八も遣るし博奕宿もあるし宿ッてもナニ支那人が自分では遣らぬ皆日本の博徒に宿を借して自分は知らぬ顔で場銭を取るのだ場銭を、だから最うスッカリ日本の賽転で狐だの長半などを遣て居るワ(大)けどが博奕打にしては衣服が変だよ博多の帯に羽織などは―(谷)ナアニ支那人の博奕宿へ入込む連中には黒い高帽を冠ッた人も有るし様々だ、夫に又アノ死骸を詳しく見るに手の皮足の皮などの柔な所は荒仕事をした事の有る人間でも無し、かと云て生真面目の町人でも無い何うしても博奕など打つ様な惰け者だ」大鞆は真実感心せしか或は浮立せて猶お其奥を聞んとの巧計なるか急に打開けし言葉の調子と為り「イヤ何うも感心した、何にも手掛りの無いのを是まで見破ぶるとは、成る程築地には支那人が日本の法権の及ばぬを奇貨として其様な失敬な事を仕て居るかナア、実に卓眼には恐れ入た」谷間田は笑壷に入り「フム恐れ入たか、爾折て出れば未だ聞せて遣る事が有る実はナ」と云いながら又も声を低くし「現場に立会た予審判事を初め刑部に至るまで丸ッきり手掛が無い様に思って居るけれど未だ目が利ぬと云う者だ己は一ツ非常な証拠者を見出して人知ず取て置た(大)エ、何か証拠品が落て居たのか夫は実に驚いたナ(谷)ナニ斯う抜目なく立廻らねば駄目だよ夫も君達の目で見ては何の証拠にも成らぬが苦労人の活た目で見れば夫が非常な証拠に成る(大)エ其品は何だ、見せたまえ、エ君賽転の類でも有るか(谷)馬鹿を云うな賽転などなら誰が見ても証拠品と思うワな己の目附たのは未だズット小さい者だ細い者だ」大鞆は益々詰寄り「エ何だ何れ程細い者だ(谷)聞せるのじゃ無いけれど君だから打明けるが実は髪の毛だ、夫も唯一本アノ握ッた手に附て居たから誰も知らぬ先に己がコッソリ取ッて置た」大鞆は心の中にて私に笑を催おし、「ナニ其髪の毛なら手前より己様の方が先に見附たのだ実は四本握って居たのをソッと三本だけ取て置た、夫を知らずに残りの一本を取て好い気に成て居やがる老耄め、併し己の方は若しも証拠隠匿の罪に落ては成らぬと一本残して置たのに彼奴其一本を取れば後に残りが無いから取も直さず犯罪の証拠を隠したに当る夫を知ないでヘンなにを自慢仕やがるんだ」と笑う心を推隠して「ヘヽエ、君の目の附所は実に違うナル程僕も髪の毛を一本握ッて居るのをば見たけれど夫が証拠に成うとは思わず、実に後悔だ君より先へ取て置ば好ったのに(谷)ナアニ君などが取たって仕方が無いワネ、若し君ならば一本の髪の毛を何うして証拠にする天きり証拠にする術さえ知らぬ癖に(大)知なくても先へ取れば後で君に問うのサ何うすれば証拠に成るだろうと、エー君、何うか聞かせて呉れたまえ極内で、エ一本の髪の毛が何うして証拠に成る」下から煽げば浮々と谷間田は誇り裂けるほどに顔を拡げて「先ア見たまえ此髪の毛を」と云いながら首に掛たる黒皮の懐中蟇口より長さ一尺強も有る唯一本の髪の毛を取出し窓の硝子に透し見て「コレ是だ、先ず考え可し、此通り幾曲りも揺て居るのは縮れッ毛だぜ、長さが一尺ばかりだから男でもチョン髷に結て居る髪の毛は是だけの長は有るが今時の事だから男は縮毛なら剪て仕舞う剪ないのは幾等か髪の毛自慢の心が有る奴だ男で縮れっ毛のチョン髷と云うのは無い(大)爾々縮れッ毛は殊に散髪に持て来いだから縮れッ毛なら必ず剪て仕舞う本統に君の目は凄いネ(谷)爾すれば是は女の毛だ、此人殺の傍には縮れッ毛の女が居たのだ(大)成る程(谷)居たドコロでは無い女も幾分か手を下したのだ(大)成るー(谷)手を下さ無ければ髪の毛を握まれる筈が無い是は必ず男が死物狂に成り手に当る頭を夢中で握んだ者だ夫で実は先ほどもアノ錐の様な傷を若しや頭挿で突たのでは無いかと思い一寸と君の心を試して見たのだ素徒の目でさえ無論簪の傷で無いと分る位だから其考えは廃したが兎に角、縮れッ毛の女が傍に居て其髪を握まれた事は君にも分るだろう(大)アヽ分るよ(谷)其所で又己が思い出す事が有る、最うズッと以前だが博賭徒を探偵する事が有て己が自分で博賭徒に見せ掛け二月ほど築地の博徒宿に入込んだ事が有る其頃丁度築地カイワイに支那人の張て居る宿が二ヶ所あった、其一ヶ所に恐しいアバズレの、爾サ宿場女郎のあがりでも有うよ、でも顔は一寸と好い二十四五でも有うか或は三十位でも有うかと云う女が居た、今思えば夫が恰度此通りの縮れッ毛だ(大)夫は奇妙だナ(谷)サア博賭宿と云い縮れッ毛の女と云い此二ツ揃ッた所は外に無い、爾思うと心の所為かアノ死顔も何だか其頃見た事の有る様な気がするテ、だからして何は兎も有れ己は先ず其女を捕えようと思うのだ、名前は何とか云たッけ、之も手帳を見れば分る爾々お紺と云ッた、お紺/\余り類の無い名前だから思い出した、お紺/\、尤も今未だ其女が居るか居無いか夫も分らぬけれど、旨く居て呉れさえすれば此方の者だ、女の事だから連て来て少し威し附ればベラベラと皆白状する、何うだ剛い者だろう(大)実に恐入ったナア、けどが其宿は何所に在るのだ築地の何所いらに、夫さえ教えて呉れゝば僕が行て蹈縛て来る、エ何所だ直に僕を遣て呉たまえ」谷間田は俄に又茶かし顔に復り「馬鹿を言え是まで煎じ詰めた手柄を君に取られて堪る者か(大)でも君は、僕の為に教えて遣ると云ッたでは無いか、夫で僕を遣て呉れ無いならば教えて呉れたでは無い唯だ自慢を僕に聞せた丈の事だ(谷)夫れほど己の手柄を奪い度きゃ遣てやろうよ(大)ナニ手柄を奪うなどと其様な野心は無い僕は唯だ―(谷)イヤサ遣ても遣うが第一君は何うして行く(大)何うしてッて外に仕方は無いのサ君に其町名番地を聞けば後は出た上で巡査にでも郵便配達にでも聞くから訳は無い、其家へ行て此家にお紺と云う者は居無いかと問うのサ」谷間田は声を放ッて打笑い「夫だから仕方が無い、夜前人殺と云う大罪を犯したもの、多分は何所かへ逃たゞろう、好や居るにしても居るとは言ぬよ、事に由れば余温の冷るまで当分博賭も止るかも知れぬ何うして其様な未熟な事で了る者か、差当り其家へは行かずに外の所で探偵するのが探偵のいろはだよ、外の所で愈々突留めた上は、此方の者だ、先が逃ようとも隠れようとも其ンな事は平気だ、隠れたら公然と御用で以て蹈込む事も出来る、支那人なら一旦隠れた日にゃ日本の刑事巡査が何ともする事は出来ぬけれどお紺は日本の女だから(大)併し君、外で聞とは何所で聞くのだ(谷)夫を知らない様で此事件の探偵が出来る者か夫は最う君の常に謂う臨機応変だから己の様に何所を推せば何な音が出ると云う事をチャーンと知た者で無くては了ない是ばかりは教え度にも教え様が無いから誠に困るテ」斯く云う折しも先ほど閉置きたる入口の戸を開き「谷間田、何うした略ぼ見当が附たかえ」とて入来るは此事件を監督する荻沢警部なり谷間田は悪事でも見附られしが如く忽ち椅子より飛退きて「ヘイヘイ凡そ見当は附きました是から直に探りを初めましてナニ二三日の中には必ず下手人を捕えます」と長官を見上たる谷間田の笑顔、成るほど此時は愛嬌顔なりき―上向けば毎でも、