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支那の古代法律
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支那の古代法律
桑原隲蔵
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Chapter 10 of 14

十 婚姻に關する古代法律

次に婚姻に關することを申上げます。今迄は家族の中でも同じ祖先から出た血族者間の話でありました。併し家族には、同じ祖先から出ないで他の祖先から出た異分子も入つて來て家族を構成するのであります。即ち妻と云ふものが家族の一メンバーに入つて來る、それに對して支那の古代法律はどう云ふ風に扱つて居るかと云ふことを申します。

法律のことを申す前に、一體支那人の間に於ては、婚姻と云ふものは如何なる目的を以て、又如何なる手續で行はれるかと云ふことを述べて置きます。それを云はぬと、婚姻の目的も分らなければ、法律上の處分と云ふものも徹底的に理解出來ませぬと思ひます。その中尤も注意すべきは、支那人の婚姻と云ふものは昔から家の爲めの婚姻で、一個人の爲めの婚姻でないと云ふことが第一の要點であります。家族制度の國でありますから、嫁は一個人たる夫の嫁となりに來るのでなしに、家の嫁になりに來るのであります。人の爲めの結婚と家の爲めの結婚とは餘程違ひます。今此に『禮記』を一例に引いて見ますると、

昏禮者將下合二二姓之好一。上以事二宗廟一。而下以繼中後世上也。故君子重レ之。是以昏禮、納采、問名、納吉、納徴、請期。皆主人筵二几於廟一。而拜二迎於門外一。入揖讓而升。聽二命於廟一。所四以敬二愼重三正昏禮一也(昏義)。

昏禮と云ふものは、今迄無關係であつた祖先を異にする二つの家――二姓と云ふのは二軒の祖先を異にし、族を異にする家であります――の間に行はれるものであります。支那では結婚は必ず祖先を異にする異姓と取り結ぶを要することになつてゐます。上以事二宗廟一即ち夫は相手の妻と云ふものが出來て、その妻と共に宗廟のお世話をし、下以繼二後世一即ち世話する者をば絶やさぬやうに子孫を作る、さう云ふ目的の爲めに昏禮をするのであります。だから君子は昏禮と云ふものを甚だ重しとして鄭重に行ひます。故に昏禮を行ふには色々の儀式が要ります。納采、問名、納吉、納徴、請期の五儀がそれです。其外に親迎というて新夫が新婦をその家に迎へに行く儀式があります。茲には親迎は別にしてありますが、是は婚禮の手續です。其時には主人と云ふ嫁になるべき人の父に當る人が、祖先の廟に筵を敷き机を置く。拜二迎於門外一といふのは嫁の父たる人が、廟の門の外の所まで行つて、婿の家から仲人になつて來る使者を、拜し迎へるのであります。入揖讓と云ふのは、さ、そちらへと云うて迎へることです。門を入ると、使者を導いて西の方に客を立たせ、主人は東に分れる、さうして升すと云ふのは階段が三つありますから、それを登つて行くことで主人は東の方の階段、お客は西の方の階段を登ります。

廟の前には机を置いて、荒菰を敷いてあり、東に主人、西にお客が立ちます。納采の時でも問名の時でも、納吉の時でも同樣に廟の前で主人が客から命を受けます。宗廟で斯の如き儀式を行ふと云ふことは、結婚が家と家との間の儀式であるからであつて、婚禮と云ふことを非常に鄭重に行ふべきことになつて居るのであります。

『禮記』には「上以事二宗廟一。而下以繼二後世一」とありますが、支那の婚姻の目的と云ふものは此の一句に盡きて居るのであります。即ち第一には祖先の祀りを繼續して行かんが爲めに嫁を貰ふこと、第二には家の血統を絶さぬ爲め、つまり相續人を造ること、第三は茲に書いてありませぬが、祖先を代表する一番新しい祖先は父母ですからその父母を養ふ事、此三つが結婚の目的であります。故に結婚といふものは祖先の爲め、父母の爲め、家の爲めの結婚で其相手になる所の夫の爲めと云ふ考は主なる目的の中には加はつて居らぬのであります。支那の結婚のことを書いた法律上の參考書がありますから此に擧げます。

民國陳顧遠、中國古代婚姻史(民國十三年)

民國陳東原、中國婦女生活史(民國十五年)

民國趙鳳、中國婦女在法律上之地位(民國十六年)

Pierre Hoang(黄伯禄); Le mariage Chinois au point du vue lgal(1898,2ed.1915)

Erich Schmidt ; Die Grundlagen der Chinesischen Ehe(1927)

支那の結婚で、第一の要件と云ふのは、自分と祖先を異にする異姓から娶ることであります。異姓と云ふのは原則として祖先を異にするものです。むづかしく云うと必ずしもさうでない場合もありますが、主義として異にすると云ふのであります。つまり自分と族を異にするものと結婚することが必要とされて居ります。是は支那に限つた風習ではありませぬ。ユダヤ人なども Exogamy といふ此と同樣の風習があります。日本でも比較的縁の遠いものから嫁を取ります。支那は周代から此の習慣が行はれて、結婚は異姓と云ふことに必ず限られて居ります。『禮記』曲禮に「取レ妻不レ取二同姓一。故買レ妾不レ知二其姓一則卜レ之」とあります。妻と云ふものは正式に結納を取り交して貰ふのでありますから、同姓であるか異姓であるかはよく分りますが、妾と云ふものは、金で買ふ場合が多いのでありますから、身分の良い者は少い。從つて自分と異姓であるかどうか分らない者がある。さう云ふ時には念の爲めに、之を卜つて、吉と云ふならば引取るし、凶と云ふならば買はぬと云ふのでありまして、如何に異姓を娶るに注意したかが判ると思ひます。故に唐の時でも清朝でも或は現在の中華民國の民律でも、同姓の者を娶ることはならぬと云ふ主義を存續して居るのであります。唐律戸婚律の中には、

諸同姓爲レ婚者。各徒二年。麻以上以レ姦論。とあります。此は全く同姓結婚を禁止したものであります。同姓通婚した者は嫁でも壻でも兩方共徒刑二年に處せられ、その上離縁させられる、若し同姓の中で比較的血の近い五等親以内の麻とか大功とか小功とか云ふ者同士で通婚するものは姦通罪として處分するといふのであります。麻以上のものが姦通すれば徒刑三年で、もつと近しいければ、もつと重くなります。それで同姓の者は近親のものは尚更のこと幾ら遠い關係のものでも、たとへ親類關係がなくとも結婚出來ない。是は唐律ばかりに就いて述べたのですが、明律でも清律でも、又現今の民律迄效力ある規定であります。異姓から娶りますのは、『禮記』の中にある合二二姓之好一せんが爲であります。是は一般の結婚に關する習慣として支那では古くから行はれて居る所であります。

次に結婚する年齡の問題であります。男と女の結婚を許さるべき年は、年代に依つて違うて居るし、又必ずしもその時代に一定された通り實行されたかどうか判りませぬが、此結婚の年齡と云ふものは周時代の例に據りますると普通男は二十から三十迄、女は十五から二十迄と云ふことになつて居ります。男は遲くとも三十、女は遲くとも二十迄であります。『禮記』内則に、

男子二十而冠。……三十而有レ室。始理二男事一。……女子十有五而笄。二十而嫁。とあつて、男は二十にして冠を着ける、弱冠と云ふのは日本の元服と同じで、是で一人前の男となるのであります。三十而有レ室とは自分の妻を室と云ひ、三十にして妻を娶り始めて社會に出て男の事を處置するのをいふのであります。女子十有五而笄とありますが、笄すと云ふのは簪を插すことであつて、今迄髮をばらばらにして居つたのを初めて髮を結ひ、其時にその髮を押へるため簪をすることであります。つまり女は十五の時から結婚の申出を受けても構はない、それから二十にして嫁するのであります。是は『禮記』内則の文でありますが、十五にして笄すと云ふから十五から結婚してもいいか否かと云ふことは學者に依つてその説が違ふやうです。同樣に二十而冠とあるから其時から結婚してよいか此れもはつきりしませぬ。三十而有レ室、二十而嫁とあるから、此時までに結婚しなければならぬと云ふことは明かでありますが、今日迄經學者の云ふ所では男は三十の時に嫁を取る、女は二十の時に嫁入りすると云ふことに多く解釋して居るやうです。周代には男三十、女二十と云ふ年が結婚すべき最後の年になつて居つたと云ふべきでありませう。其次に『周禮』夏官大司徒の媒氏の條には、

凡男女自二成名一以上。皆書二年月日名一焉。令二男三十而娶。女二十而嫁一。とあります。是も大體内則の文と似て居る、成名と云ふのは昔は支那では子が生れて丸三ヶ月を經過すると、名を付け、何處の何某の子何年何月に生れたと云ふことを、政府の戸籍に登録します。そのことを成名といふのです。その戸籍に依つて男ならば三十、女ならば二十になれば結婚する、其年が過ぎて男でも、女でも適當な相手がない、と云ふならば政府の方で相手の世話してやるので今日の婚姻媒介所のやうなことをやる役所があり、それをやる役人として媒氏と云ふ官があると云ふのが『周禮』の規定であります。併し實際から考へますれば、支那ではもう少し早いやうです。

日本の方は養老令戸令に、

凡男年十五。女年十三以上。聽二婚嫁一。とあります。聽二婚嫁一と云ふのでありますから、男は十五、女は十三になれば結婚が出來たものと解すべきであります。

支那では南北朝の頃から趙宋の頃まで、養老令のやうになつて居ましたが、それが趙宋の時代から一年上がつて男は十六歳、女は十四歳になれば結婚し得ると云ふことになりました。そして明清まで傳統的に女は十四歳、男は十六歳でありましたが、民國になつて、民律を拵へた時には外國の法律などを參考しまして、今の民律の中の千三百三十二條には結婚の年に就いては、

男未だ年十八に滿たず、女は年十六に滿たざる者は婚を爲すを得ず。と規定してあつて、女は十六歳、男は十八歳となつて居りますが、是は法律上のことで、無論現在の支那ではそれより以下に於て行はれて居ると思ひます。

其次は結婚の手續のことであります。結婚手續は『禮記』にある通り最初に納采を行ひます。是は壻の家から嫁の家に申込をすることであります。采を納めると云ふのは前に述べた通り婿の方から使者が來ると、嫁の方の親は、使者を廟に迎へて、廟の前で使者からの婚を請ふ挨拶を受けます。それを納采と云ふのであります。

第二番目の問名といふのは種々經學者に依つて説が異ふやうですが、大體私共の正しいと考へる解釋に由れば、新しく嫁になるべき人の名を聞くことであります。名を聞くと云ふと、それでは今まで何も知らぬ人を貰ふのかと思はれるかも知れぬが、さうぢやなく、支那では婦人の名は家で付けてあつても、他家の人は只彼處の二番目のお孃さんとか、三番目のお孃さんと云ふ風に呼んで居つて、正確に名を知らぬのが常であります。そこで改めて名を聞くのであります。嫁に貰ふ人の名を聞いて同時に年も聞くでありませう。

その次に納吉の禮を行ひます。是は既に問名の禮が終ると、今度は壻の家で、何某の家の何番目の娘の何某といふ者を今度嫁として娶らうと思ふと云ふのでそのことの可否を宗廟で占ひをします。さうして其結果吉と出れば、愈祖先の廟で占つた所が、吉と出ましたからと云うて向ふに傳へるので、此れが納吉の禮であります。

それから納徴の禮と云ふのは、日本でいふ結納であります。宗廟に占つて吉と決まつたら、愈納徴といふ順序になり、それには仲人になるものが禮物を嫁の家に持つて行つて宗廟に於て渡すのであります。

其後の五番目は請期の禮であります。此請期と云ふのは納徴も濟んで愈結婚する時期を打合せに行くことであります。その結果、結婚の時期が決まると、その當日壻が親ら嫁の家に嫁を迎へに行く、是が親迎の禮であります。昔は支那でも壻が嫁の家に迎ひに行つたのですが、後世は自分では行きませぬ。別人が迎へに行き、壻は單に自分の家の門の所に出て、嫁を迎へる丈けで昔とは大分變つて居ります。周代には、愈親迎の爲めに壻が嫁を迎へに出て行くと云ふ日になりますると、壻の父は壻を呼付けまして、其時に言渡す言葉があります。それは『儀禮』の士婚禮を見ますると、

往迎二爾相一。承二我宗事一。と言渡すと書いてあります。さあ是から時刻だから、お前は出て行つて、嫁の家に往つて爾の相手を迎へて來たれ、そして我が家の宗の事を承けよ、宗廟の事務を疎かにしないやうにせよといふのです。宗と云ふのは自分の家の宗廟のことであります。父から是から出て行つて我が家の宗廟のお世話をする相手を迎へて來いと云はれるのでありますから、壻たるものは、承知しました、必ず父の仰せに從ひますと云つて出て行く。嫁の家に達すると先づ嫁の父が壻を導いて、自分の宗廟に迎へて、其前で自分の娘を、其祖先の見て居る前で壻に渡すのであります。

さう云ふ所に祖先を中心にした家族主義がよく現れて居ります。壻さんは嫁の家の宗廟で嫁を受取つて出ようとする。嫁が、最後に自分の家を出て行く、お別れをする時に、嫁の父母の言葉が又仲々意味深いものであります。『穀梁傳』隱公二年にはその言葉として、

謹愼從二爾舅之言一。

謹愼從二爾姑之言一。

とあります。即ち愈花嫁が出て行く時に、その兩親はそれぢやお別れだから餞別の言葉として父親は、「嫁に行つたならば、如才もないけれども謹愼して爾の舅に從へ」と云ふ、母親は、「謹愼して爾の姑の言葉に從へ」と云うて、決して壻たる夫のことは言ひませぬ。嫁と云ふものは夫に對してではなく舅姑に對して事へよと云ふのであります。

それから壻は嫁を連れて馬車に乘せる、自分は別の馬車で先導して自分の家に歸る、是が親迎の禮であります。此親迎の意味は社會學的に云へば種々に解釋されるでありませう。壻が前の馬車に乘り先導し、嫁は後の馬車に乘つて壻の家迄行く、壻の家に到着すれば直ちに壻は嫁を案内して自分の部屋に連れて行つてそこで、

共レ牢而食、合レ而酳(『禮記』昏義)。と云ひ、二人差向ひで食事を執り、酒を飮むのです。牢と云ふのは御馳走のこと、詳しく云へば豚の丸を喰べるのであります。それを支那では御馳走として牢と云ひます。一皿に容れて、兩方から向ひ合つて食ふことが牢であります。

それからと云ふのは、一つの瓠を二つに割つて、半分づつにして、それに酒を汲んで飮むことであります。酳とは形式的に口に當てて飮むことです。合レ而酳は、是から互に變らぬと云ふことを示したものであります。

是で結婚の儀式は一通り終つたのでありますが、もう一つ重大なことは、その後滿三月經つて、愈此嫁ならば大丈夫だと、壻の父も母も認めて來ますと云ふと、そこで始めて夫婦連れで宗廟にお目見えする禮が行はれるのであります。それを廟見と稱します。三ヶ月を經て廟見をする迄は、日本で云ふ家風に合ふとか合はぬと云ふことで、どうもあの嫁は宗廟のお世話をするには適當ではないと云ふので離縁することがあります。所が三ヶ月間見て居つて、愈此嫁ならば大丈夫と云ふに至ると、それから宗廟にお目見えし、此の廟見が終つて始めて正式の妻といふことになるのであつて、それからはその結婚は動かすことが出來ませぬ。そこで支那では嫁が自分の家に來て未だ廟見の禮が濟まぬ中にたとへば二ヶ月位で急病が起つて死ぬるやうな時には、それは嫁の家の墓に返して葬りますが、若し廟見が濟んでから死んだのならば直ぐ死んでもそれは壻の家の墓に葬るのであります。そして親迎の時嫁の乘つて來た馬車は廟見の濟むまでは壻の家に殘して置きます。それは何時離縁されて歸らなければならぬか分らぬから殘して置くのであります。それが愈廟見が濟みますると、その馬車を里方に返し、反馬の禮と云つて、是で嫁の位置が安定するのであります。

既に結婚が家族制度に基く家と家との結合でありますから、結婚の責任者間に契約書などを取交はすこと、即ち婚書と云ふものを取交はせて置くことがあります。斯る時の代表者になつたり又總て實際に當つて結婚を決める責任者を主婚者と云ひます。嫁の方にも主婚者があり、壻の方にも主婚者がある譯であります。此の主婚者は家族制度の社會でありますから、嫁の家でも、壻の家でも何れも其時の家長であつて、多くの場合は父親であります。父がなければ母、父母共になければ比較的家族の中で上位にある尊長が當ります。例へば祖父母とか、此祖父母も父母もなければ叔父とか叔母が立ち、それがなければ兄が立つて、之を主婚者と稱します。結婚を結ぶ責任者は主婚者であつて、結婚の當事者である壻も嫁もこれに與りませぬ。だから主婚者が適當な縁だと思つたならば、壻たり嫁たる者の意思を聽く必要もなく決めて了ひ、主婚者の決めたものには婿も嫁も絶對に服從しなければならぬことになつて居ます。事實としては多少相談するだらうがそれは内輪のことで、表面の權利の方から云うたならば主婚者が萬事決めるのであります。茲に唐律の戸婚律中の條文を引用致しますると、

諸嫁娶違レ律。祖父母、父母主婚者。獨坐二主婚一。若期親尊長主婚者。主婚爲レ首。男女爲レ從。餘親主婚者。事由二主婚一。主婚爲レ首。男女爲レ從。事由二男女一。男女爲レ首。主婚爲レ從。

と。總て嫁を娶り壻を貰つたりすることに法律違反がある場合は、祖父母、父母など婚姻の契約を結んだ人があるならば、此れが婚姻の全責任を負ふのであります。つまり嫁となり壻となる所の子や孫は、祖父母、父母には絶對に服從で、自分の主張をすることが出來ぬのであるから、此間若し法律上の不正があるとか、違反があるといふ場合には當然主婚者である所の祖父母、父母が罪を受けるのであります。婚姻當事者は罪に當らない。然るに祖父母、父母の如き尊族がなくして、期親の尊長が主婚に任じた場合には、其結婚が法律上不都合があれば、主婚者を主として罪を行ふ。此場合は祖父母、父母が主婚たる場合より結婚當事者も幾分自分の意見を述ぶることが出來ますからその當事者たる男女も從犯として幾分かの處分を受ける。若し主婚者が餘親と云うて從弟とか自分より年上の者が結婚の契約人となつた場合には、主婚の者が主としてやつたなら、主婚者が主犯となり結婚當事者たる男女が從犯となるのです。所が男女が監督者たる尊長の居らぬ爲に、近頃の自由結婚に近い風に自ら勝手に娶る嫁くと云ふ約束して、併し彼等自身丈けでは法律上の契約を結ぶことが出來ないから、從弟の所に行つて、吾々は斯う云ふ約束したから結婚の表立つての責任者になつて呉れと云ふやうな時には法律違反の責は男女を主となし主婚は從となるわけで、斯う云ふ規定が唐律には存在するのであります。

支那の法律では主婚者と云ふものは、殊にそれが親などの場合には、結婚に對して全權力を持つて居ります。結婚の當事者である嫁や、壻と云ふものは、それに對して自分の意見すら主張することが出來ない。若し當人同志に結婚の意思があつても、家の尊長が認めぬ時には、それは法律でも承認しない。斯く權力を持つて居るだけ、若し結婚が法律上不正であると云ふことが判明した時には、主婚者が全責任を負はなければならぬのであります。支那では此の法律違反の結婚と云ふのは幾らもあります。それは一々算へ切れないけれども、家族制度に關係ある重なるものを擧げますると、先づ尤も嚴重なのは同姓結婚を行つてはならぬといふことであります。若し違反したならば前申す通り「各徒二年」ですから、二年の懲役に處せられる。その刑は誰が受けるかと云ふと、主婚者たる父や母が受けるのでありまして、結婚した二人は無罪であります。

次にたとへ同姓でなくとも、母方の近しい異姓のものと結婚は禁止されてゐます。例へば母の妹の如く母方の近しい關係の者、斯る者とは結婚出來ないのであります。

それから第三番目には嘗て自分の五等親の關係にある者の妻であつたものは、それが離縁された後でも迎へることが出來ない。例へば自分の從弟の妻であつたものが、何かの都合で離縁されるとすると、その離縁された女を自分が嫁に取ることは出來ないのであります。此の女が同姓ならば勿論のこと、異姓でも同樣です。之を重婚と云ひ、判れば直ちに離縁させられるのであります。次に詐僞の結婚と云ふのは、支那には隨分多くありますし、日本でも昔は時々行はれたことがあります。長男と次男を取替へたり、養子と實子と取替へたりすることは屡あつたやうです。表向きは自分の長男の嫁に貰ひますと云うて、實は次男の嫁にしたり、或は自分の實子であると云うて居りながら、實は養子であつたり、或は年齡を隱し、或は健康に就いて嘘があつたりします。支那はああ云ふ國柄ですから、女は一切外に出ませんから、他家の家庭のことは仲々よく知れませぬ。そんなことで結婚の相手たる長男は不具者であつたと云ふやうなことが屡あります。それ等は詐僞の結婚でありまして、皆無效とせられます。

次に父母の喪中には絶對に結婚は出來ないこと、是は此前申した通りであります。父母の死後三ヶ年經つて喪が明けてからでなければ無效であります。從つて、もし喪中の結婚が發見されると離縁せしめられます。

もう一つは夫の喪中にある未亡人を迎へて妻とすることは出來ないといふことであります。支那では法律上女の再婚は許されて居りますが、只三年の喪に服し終つて、義務を果せば再婚しても宜しいが、まだ忌中にある者を娶ることは絶對に出來ないのであります。

次に其反對に夫が妻を亡くして、その服喪中に後妻を貰へるかどうかと云ふ問題です。元來夫の妻に對する喪は一ヶ年ですから、理屈から云うとそれを平等に考へればその喪中には、後妻が取ることが出來ない筈でありますけれども、その期間内半年、或は八ヶ月經つたと云ふやうな時に貰へば、どうするかと云ふことは法律に何も書いてありませぬ。若し禮の精神から云うたならば、無論許されぬことであります。喪が濟めば當然差支ありません。併し後妻を取る時に、若し先妻の遺子のある場合には三年の後に取るべきものと云ふことになつて居ります。何故かと云ふと、子は父が死んだ場合は三年の喪に服する、母の場合には父が在世して居ると云ふと一年です。併し子から見れば母も亦矢張り親ですから、三年間は矢張り心では喪に服して謹愼を表します。妻を亡くして後妻でも取ると云ふ時には、此の子供のことを考へてやつて、その子の三年の心喪が經つてからでなければ取らぬと云ふことになつて居るのであります。是は法律には書いて居りませぬが、苟くも士君子であるならば、禮に傚つて身を處すべきものでありますから、さう云ふ人は夫としても先妻が亡くなつたら三年經つて後取るのが禮であるとされて居ります。

その他尚ほ法律違反の事を申しますと、地方長官は自分の管下の人民から妻を迎へることが出來ない。之を迎へると法律違反となります。是は種々の弊害を避けることが目的であります。又、賤民と良民とは互に結婚することが出來ない。平民が平民以外のものと結婚すると離縁されます。

又父母が罪を犯して牢屋に居る時には、父母からの許しのない間は結婚出來ない。以上の樣な色々の法律違反の結婚の場合に、主婚者が罪になるのであります。

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