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楢重雑筆
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楢重雑筆
小出楢重
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Chapter 3 of 41

真似

落語家が役者の声色を真似ますが、真似ることそのものがその芸当の目的でありますから、その声色なり様子なりが、真物らしく出来た時にはその芸術の目的は達せられたわけです。

真似はいつまで経っても真似であって、真物ではありません。真物になっては面白くありません。

上手な声色を聞いていると、まったくその舞台の光景を思い出してぼんやりとしてしまいます。そしてそれに似させてくれている落語家が大変有難い人のように思われて来ます。その労を謝したい気になります。ついにはその落語家が好きになってしまいます。

私はよくこんなに真物らしくやれるものならいっそのこと役者になってしまえばどうかと、考えることがありますが、しかしこれは似させるという技術が面白いのであって、真物にうっかり転職してくれては大変です。蓄音機はやはり機械であることが有難いのです。蓄音機が呂昇になりきってしまってはもう何もかも台なしです。

人間以外のものでも、真似るということに大変興味を持っているものがあります。狐が美人の真似をします、狸が腹鼓みを打ちます、ある種の鳥類は誰でも知っている通りいろいろの声色を使います。その他、猿あるいは人間でも猫八氏などは素晴らしいものです。

狸などは昔は鼓の真似事をやったものですが、最近は科学文明の影響を受けて彼らの芸当も変化を来たしました。

私の知人の家の庭に住む狸は昼の間に聞いておいたいろいろの音響をば夜中になってから復習するそうです。オートバイの爆音、自動車の音などはなかなか上手だといいます。

オートバイの音は騒々しい嫌な音響でありますが、狸がこの音を真似ると、聞き手は何ともいえない雅味を感じるのです。狸の個性の現れだろうと思います。狸自身も真似る興趣というものを本能的に感じているのでしょう。

人間も猫八はじめ芸術家達などもいろいろの真似をします。真似は昔から芸術には深く悪縁が絡んでいるもので、真似はいけないと排斥しながらもいろいろな形式においてつきまとって来るものです。これからさきも永久に真似はなくならないことでしょう。

狐なども苦心の結果、素晴らしい美人と化けすました時に、ある種の人間が彼女のために接吻でもしたとすれば、狐は自分の芸術の迫真の技に思わずほほ笑んで満足したことでしょう。

こんな天才的な狐が一匹現れると、およそ百の若い狐達はその化け方に感動します。そしてその様式について大いに研究したり、見習ったり、あるいは奥義の伝授を受けるために馳せ参じたりしますでしょう。

すると今度は彼らの化け方にも種々な様式が発見され、創造されて行くことになります。こうなると化け芸術も進歩発達して行くことになります。ついにはヤヤコシクなって、ちょっと一度は整理する必要ぐらいは起こって来ます。何狐は何派に属するとか、何狐は何派の何々イズムであるとかいうことになって来ます。狐の世界においても、黒田重太郎氏の出現を待たなければならないことになります。

ところが多くの狐達の中には真似ることの本当の興味を忘れてしまって、様式ばかりを眺めて気をもむ連中が多く輩出してくるかもしれません。あんな連中はもう本当の人間の研究がおろそかになってしまったものですから、一流の美人に化けすましたつもりでいましても、本当の人間はとうていだまされません。美人の裾からはチラチラと毛だらけの尻尾がブラ下がっているのです。

狐も初めは偶然の思い付きで女に化けてみたものが、ついにはその化け方について苦労をしなければならぬことになって来るのです。化ける興味を本職にやりだしたものだから、こうなってくるのは止むを得ません。そのうちにはある様式を守る集団のいくつかが現れ、一方は王子に一方は伏見にという具合に集まります。そして化け展とか何とかいうのを開催して、この道の進歩発達を計るということになります。そしてお互いに奴らの芸術は何だといい合います。狐の世界もまた多事であります。

これらも皆真似ることの興味がいろいろと変化して、ヤヤコシクなったものだろうと思います。真似ることの興味も善い意味に使われた場合には人を楽しませるものですが、これが悪用されると大変迷惑を与えます。

お姫様を喰ってしまってそのお姫様に化けすましたりなどすると、霊鏡に照らされて本性を見破られたりします。或いは贋造紙幣を製造したりする男が出来たり、或いはドランの絵を写真版からコピーして展覧会へ持ち出したりします。その他自分を偉く見せるために、支那の及びもつかぬ聖人の真似をしてみたり、若いのに老人の真似をして通がってみたり、そしてひそかに自己の性慾の強きを嘆いてみたりする悲惨なものも出来て来るのです。

昔の支那の画家の作にはよく何々の筆意に倣うなどと断ってあるのがありますが、あれは大変気もちのよいものであります。日本の油絵なども(油絵に限りませんが)これを一々断り書きをするようにしたら批評家も、一々霊鏡を持ち出す面倒が省けてよろしいのですけれども。

しかしながら当今は狐の威力の方が強いので、霊鏡はいつも曇りがちで、なお田舎の散髪屋の鏡同様凸凹だらけのものが多いので、あまりあてには決してなりません。(「アトリエ」大正十三年十二月)

Chapter 3 of 41
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