Chapter 1 of 12

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大きい者や強い者ばかりが必ずしも人の注意に値する訳では無い。小さい弱い平々凡々の者も中々の仕事をする。蚊の嘴といえば云うにも足らぬものだが、淀川両岸に多いアノフェレスという蚊の嘴は、其昔其川の傍の山崎村に棲んで居た一夜庵の宗鑑の膚を螫して、そして宗鑑に瘧をわずらわせ、それより近衛公をして、宗鑑が姿を見れば餓鬼つばた、の佳謔を発せしめ、随って宗鑑に、飲まんとすれど夏の沢水、の妙句を附けさせ、俳諧連歌の歴史の巻首を飾らせるに及んだ。蠅といえば下らぬ者の上無しで、漢の班固をして、青蠅は肉汁を好んで溺れ死することを致す、と笑わしめた程の者であるが、其のうるさくて忌々しいことは宋の欧陽修をして憎蒼蠅賦の好文字を作すに至らしめ、其の逐えば逃げ、逃げては復集るさまは、片倉小十郎をしてこれを天下の兵に擬えて、流石の伊達政宗をして首を俛して兎も角も豊臣秀吉の陣に参候するに至るだけの料簡を定めしめた。微物凡物も亦是の如くである。本より微物凡物を軽んずべきでは無い。そこで今の人が好んで微物凡物、云うに足らぬようなもの、下らぬものの上無しというものを談話の材料にしたり、研究の対象にするのも、まことにおもしろい。蚤のような男、蝨のような女が、何様致した、彼様仕った、というが如き筋道の詮議立やなんぞに日を暮したとて、尤千万なことで、其人に取ってはそれだけの価のあること、細菌学者が顕微鏡を覗いているのが立派な事業で有ると同様であろう。が、世の中はお半や長右衛門、おべそや甘郎ばかりで成立って居る訳でも無く、バチルスやヒドラのみの宇宙でも無い。獅子や虎のようなもの、鰐魚や鯱鉾のようなものもあり、人間にも凡物で無い非凡な者、悪く云えばひどい奴、褒めて云えば偉い者もあり、矮人や普通人で無い巨人も有り、善なら善、悪なら悪、くせ者ならくせ者で勝れた者もある。それ等の者を語ったり観たりするのも、流行る流行らぬは別として、まんざら面白くないこともあるまい。また人の世というものは、其代々で各々異なって居る。自然そのままのような時もある、形式ずくめで定まりきったような時もある、悪く小利口な代もある、情慾崇拝の代もある、信仰牢固の代もある、だらけきったケチな時代もある、人々の心が鋭く強くなって沸りきった湯のような代もある、黴菌のうよつくに最も適したナマヌルの湯のような時もある、冷くて活気の乏しい水のような代もある。其中で沸り立ったような代のさまを観たり語ったりするのも、又面白くないこともあるまい。細かいことを語る人は今少く無い。で、別に新らしい発見やなんぞが有る訳では無いが、たまの事であるから、沸った世の巨人が何様なものだったかと観たり語ったりしても、悪くはあるまい。蠅の事に就いて今挙げた片倉小十郎や伊達政宗に関聯して、天正十八年、陸奥出羽の鎮護の大任を負わされた蒲生氏郷を中心とする。

歴史家は歴史家だ、歴史家くさい顔つきはしたくない。伝記家と囚われて終うのもうるさい。考証家、穿鑿家、古文書いじり、紙魚の化物と続西遊記に罵られているような然様いう者の真似もしたくない。さればとて古い人を新らしく捏直して、何の拠り処もなく自分勝手の糸を疝気筋に引張りまわして変な牽糸傀儡を働かせ、芸術家らしく乙に澄ますのなぞは、地下の枯骨に気の毒で出来ない。おおよそは何かしらに拠って、手製の万八を無遠慮に加えず、斯様も有ったろうというだけを評釈的に述べて、夜涼の縁側に団扇を揮って放談するという格で語ろう。

今があながち太平の世でも無い。世界大戦は済んだとは云え、何処か知らで大なり小なりの力瘤を出したり青筋を立てたり、鉄砲を向けたり堡塁を造ったり、造艦所をがたつかせたりしている。それでも先々女房には化粧をさせたり、子供には可憐な衣服をさせたりして、親父殿も晩酌の一杯ぐらいは楽んでいられて、ドンドン、ジャンジャン、ソーレ敵軍が押寄せて来たぞ、酷い目にあわぬ中に早く逃げろ、なぞということは無いが、永禄、元亀、天正の頃は、とても今の者が想像出来るような生優しい世では無かった。資本主義も社会主義も有りはしない、そんなことは昼寝の夢に彫刻をした刀痕を談ずるような埒も無いことで、何も彼も滅茶滅茶だった。永禄の前は弘治、弘治の前は天文だが、天文よりもまだ前の前のことだ、京畿地方は権力者の争い騒ぐところで有ったから、早くより戦乱の巷となった。当時の武士、喧嘩商買、人殺し業、城取り、国取り、小荷駄取り、即ち物取りを専門にしている武士というものも、然様然様チャンチャンバラばかり続いている訳では無いから、たまには休息して平穏に暮らしている日もある。行儀のよい者は酒でも飲む位の事だが、犬を牽き鷹を肘にして遊ぶ程の身分でも無く、さればと云って何の洒落た遊技を知っているほど怜悧でも無い奴は、他に智慧が無いから博奕を打って閑を潰す。戦ということが元来博奕的のものだから堪らないのだ、博奕で勝つことの快さを味わったが最期、何に遠慮をすることが有ろう、戦乱の世は何時でも博奕が流行る。そこで社や寺は博奕場になる。博奕道の言葉に堂を取るだの、寺を取るだの、開帳するだのというのは今に伝わった昔の名残だ。そこで博奕の事だから勝つ者があれば負けるものもある。負けた者は賭ける料が無くなる。負ければ何の道の勝負でも口惜しいから、賭ける料が尽きても止められない。仕方が無いから持物を賭ける。又負けて持物を取られて終うと、遂には何でも彼でも賭ける。愈々負けて復取られて終うと、終には賭けるものが無くなる。それでも剛情に今一ト勝負したいと、それでは乃公は土蔵一ツ賭ける、土蔵一ツをなにがし両のつもりにしろ、負けたら今度戦の有る節には必ず乃公が土蔵一ツを引渡すからと云うと、其男が約を果せるらしい勇士だと、ウン好かろうというので、其の口約束に従ってコマを廻して呉れる。ひどい事だ。自分の土蔵でも無いものを、分捕して渡す口約束で博奕を打つ。相手のものでも無いのに博奕で勝ったら土蔵一ト戸前受取るつもりで勝負をする。斯様いうことが稀有では無かったから雑書にも記されて伝わっているのだ。これでは資本の威力もヘチマも有ったものでは無い。然様かと思うと一方の軍が敵地へ行向う時に、敵地でも無く吾が地でも無い、吾が同盟者の土地を通過する。其時其の土地の者が敵方へ同情を寄せていると、通過させなければ明白な敵対行為になるので武力を用いられるけれども、通過させることは通過させておいて、民家に宿舎することを同盟謝絶して其一軍に便宜を供給しない。詰り遊歴者諸芸人を勤倹同盟の村で待遇するように待遇する。すると其軍の大将が武力を用いれば何とでも随意に出来るけれど、好い大将である、仁義の人であると思われようとする場合には、寒風雨雪の夜でも押切って宿舎する訳には行かない。憎いとは思いながらも、非常の不便を忍び困苦を甘受せねばならぬ。斯様いう民衆の態度や料簡方は、今では一寸想像されぬが、中々手強いものである。現に今語ろうとする蒲生氏郷は、豊臣秀吉即ち当時の主権執行者の命によりて奥羽鎮護の任を帯びて居たのである。然るに葛西大崎の地に一揆が起って、其地の領主木村父子を佐沼の城に囲んだ。そこで氏郷は之を援けて一揆を鎮圧する為に軍を率いて出張したが、途中の宿々の農民共は、宿も借さなければ薪炭など与うる便宜をも峻拒した。これ等は伊達政宗の領地で、政宗は裏面は兎に角、表面は氏郷と共に一揆鎮圧の軍に従わねばならぬものであったのである。借さぬものを無理借りする訳には行かぬので、氏郷の軍は奥州の厳冬の時に当って風雪の露営を幾夜も敢てした困難は察するに余りある。斯様いう場合、戦乱の世の民衆というものは中々に極度まで自己等の権利を残忍に牢守している。まして敗軍の将士が他領を通過しようという時などは、恩も仇もある訳は無い無関係の将士に対して、民衆は剽盗的の行為に出ずることさえある。遠く源平時代より其証左は歴々と存していて、特に足利氏中世頃から敗軍の将士の末路は大抵土民の為に最後の血を瀝尽させられている。ひとり明智光秀が小栗栖長兵衛に痛い目を見せられたばかりでは無い。斯様いうように民衆も中々手強くなっているのだから、不人望の資産家などの危険は勿論の事想察に余りある。其代り又手苛い領主や敵将に出遇った日には、それこそ草を刈るが如くに人民は生命も取られれば財産も召上げられて終う。で、つまり今の言葉で云う搾取階級も被搾取階級も、何れも是れも「力の発動」に任せられていた世であった。理屈も糸瓜も有ったものでは無かった。債権無視、貸借関係の棒引、即ち徳政はレーニンなどよりずっと早く施行された。高師直に取っては臣下の妻妾は皆自己の妻妾であったから、師直の家来達は、御主人も好いけれど女房の召上げは困ると云ったというが、武田信玄になると自分はそんな不法行為をしなかったけれども「命令雑婚」を行わせたらしく想われる。何処の領主でも兵卒を多く得たいものは然様いうことを敢てするを忌まなかったから、共婚主義などは随分古臭いことである。滅茶苦茶なことの好きなものには実に好い世であった。

斯様いう恐ろしい、そして馬鹿げた世が続いた後に、民衆も目覚めて来れば為政者権力者も目覚めて来かかった時、此世に現われて、自らも目覚め、他をも目覚めしめて、混乱と紛糾に陥っていたものを「整理」へと急がせることに骨折った者が信長であった、秀吉であった。醍醐の醍の字を忘れて、まごまごして居た佑筆に、大の字で宜いではないかと云った秀吉は、実に混乱から整理へと急いで、譬えば乱れ垢づいた髪を歯の疎い丈夫な櫛でゴシゴシと掻いて整え揃えて行くようなことをした人であった。多少の毛髪は引切っても引抜いても構わなかった。其為に少し位は痛くっても関うものかという調子で遣りつけた。ところが結ぼれた毛の一トかたまりグッと櫛の歯にこたえたものがあった。それは関八州横領の威に誇っていた北条氏であった。エエ面倒な奴、一トかたまり引ッコ抜いて終え、と天下整理の大旆の下に四十五箇国の兵を率いて攻下ったのが小田原陣であったのだ。

北条氏のほかに、まだ一トかたまりの結ぼれがあって、工合好く整理の櫛の歯に順って解けなければ引ッコ抜かれるか断られるかの場合に立っているのがあった。伊達政宗がそれであった。伊達藤次郎政宗は十八歳で父輝宗から家を承けた「えら者」だ。天正の四年に父の輝宗が板屋峠を踰えて大森に向い、相馬弾正大弼と畠山右京亮義継、大内備前定綱との同盟軍を敵に取って兵を出した時、年はわずかに十歳だったが、先鋒になろうと父に請うた位に気嵩で猛しかった。十八歳といえば今の若い者ならば出来の悪くないところで、やっと高等学校の入学試験にパスしたのを誇るくらいのところ、大抵の者は低級雑誌を耽読したり、活動写真のファンだなぞと愚にもつかないことを大したことのように思っている程の年齢だ。それが何様であろう、十八で家督相続してから、輔佐の良臣が有ったとは云え、もう立派に一個の大将軍になって居て、其年の内に、反復常無しであった大内備前を取って押えて、今後異心無く来り仕える筈に口約束をさせて終っている。それから、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四と、今年天正の十八年まで六年の間に、大小三十余戦、蘆名、佐竹、相馬、岩城、二階堂、白川、畠山、大内、此等を向うに廻して逐いつ返しつして、次第次第に斬勝って、既に西は越後境、東は三春、北は出羽に跨り、南は白川を越して、下野の那須、上野の館林までも威は達し、其城主等が心を寄せるほどに至って居る。特に去年蘆名義広との大合戦に、流石の義広を斬靡けて常陸に逃げ出さしめ、多年の本懐を達して会津を乗取り、生れたところの米沢城から乗出して会津に腰を据え、これから愈々南に向って馬を進め、先ず常陸の佐竹を血祭りにして、それから旗を天下に立てようという勢になっていた。仙道諸将を走らせ、蘆名を逐って会津を取ったところで、部下の諸将等が大に城を築き塁を設けて、根を深くし蔕を固くしようという議を立てたところ、流石は後に太閤秀吉をして「くせ者」と評させたほどの政宗だ、ナニ、そんなケチなことを、と一笑に附してしまった。云わば少しばかり金が出来たからとて公債を買って置こうなどという、そんな蝨ッたかりの魂魄とは魂魄が違う。秀吉、家康は勿論の事、政宗にせよ、氏郷にせよ、少し前の謙信にせよ、信玄にせよ、天下麻の如くに乱れて、馬烟や鬨の声、金鼓の乱調子、焔硝の香、鉄と火の世の中に生れて来た勝れた魂魄はナマヌルな魂魄では無い、皆いずれも火の玉だましいだ、炎々烈々として已むに已まれぬ猛を噴き出し白光を迸発させているのだ。言うまでも無く吾が光を以て天下を被おう、天下をして吾が光を仰がせよう、と熱り立って居るのだ。政宗の意中は、いつまで奥羽の辺鄙に欝々として蟠居しようや、時を得、機に乗じて、奥州駒の蹄の下に天下を蹂躙してくれよう、というのである。これが数え年で二十四の男児である。来年卒業証書を握ったらべそ子嬢に結婚を申込もうなんと思い寐の夢魂七三にへばりつくのとは些違って居た。

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