第七章
だらだらと退屈な長の道中のあいだ、寒さや、雪融や、泥濘や、寝ぼけ眼の宿場役人や、うるさい鈴の音や、馬車の修理や、啀みあいや、さては馭者だの、鍛冶屋だの、その他いろんな街道筋の破落戸どものためにさんざん悩まされた挙句、やっとのことで旅人の眼に、自分を出迎えにこちらへ近寄って来るような、懐かしい我が家の灯影がうつりだす――と、やがて彼の目前には見馴れた部屋々々が現われ、迎えに駈け出した人々の歓声がどっとあがり、子供たちがわいわい騒いで駈けまわる、次いで心もなごむような落着いた話に移るのであるが、それが又、旅の憂さをすっかり忘れさせるような熱い接吻でとぎれ勝ちになる――といった具合だったら、まったく申し分はない。そういう隠処のある世帯持は幸福だが、情けないのは独身者で!
また作家にしても、あの惨めな現状で人に眼を蔽わしめるような、甚だ面白くない、退屈きわまる人物などはそっちのけにして、もっと卓越した人柄の持主を題材とし、日毎に移りゆく世相の大いなる淵瀬から、ただ少数の例外だけを選り出して、己が竪琴の高雅な調子を一度として変えたこともなければ、自分の立っている高所から、取るにも足らぬ哀れな文士仲間と同じレベルなどへは決して降ることもなく、地上のことなどには一切かまわず、常に世俗から遠く掛けはなれた、いとも高尚な物象に一心を打ちこむことの出来る人は幸福である。彼はそういうものの間で、さながら自分の家族にでも取りかこまれたように、恣に振舞っているが、その間にも彼の名声は遠く高く轟きわたるのだから、いよいよ以ってその素晴らしい運命が二重に羨ましい次第である。彼は身も心もとろけるような薫煙をたなびかせて人の眼を惑わし、世上の悲惨なものは押しかくし、美しい人間像だけを示して巧みに人心にとりいる。人々は挙って拍手を送りながら、勝ち誇った彼の戦車の後を追って駈けだしてゆく。彼は世界的の大詩人とあがめられて、あたかも他の群鳥を尻目に悠々と高く天翔ける鷲のように、他の群小詩人を睥睨しながら、泰然とおさまっている。その名声を聞いただけで、熱し易い若者の胸は感激に打ち顫え、万人の眼には随喜の涙がキラキラと光る……。彼に匹敵する者はない――彼は神だ! ところが四六時ちゅう眼前にころがっていても、無関心な人には一向眼につかない物象――つまり、我々の生活を取りまいている諸々の瑣事の人を顫えあがらせるような怖ろしい泥沼や、又ともすれば退屈で物悲しい浮世の旅にうようよと群がっている、冷淡で、とりとめのない、日常茶飯な性格の奥底をば遠慮会釈なく曝露し、仮借なき鋭利な鑿で、万人の眼にはっきり映るように、それを浮彫にして見せる作家――そういう作家の辿る運命は全然ちがう! 彼は大向うからの拍手喝采を期待することも出来なければ、自分が感動させた読者の随喜の涙や同感の歓びを見ることも出来ない。血道をあげた十六娘が、前後のわきまえもなく、大胆に彼に向って飛びついて来ることもなければ、自分自身の掻きたてた世評に陶然として我れを忘れることもない。最後に彼は、その時代の批判を免れることが出来ない。それは彼の愛しみ育てた創作を、取るにも足らぬ卑しいものと名づけ、彼を侮蔑して、人間性を無視した作家たちと同列に置き、彼が自作に表現した主人公と同等の資格を押しつけて、彼から心も魂も聖なる天稟の炎をも取り去ってしまう。というのは、同時代の批判というものは、太陽を覗くレンズも、眼に見えぬ虫の動きを見せるレンズも、同じように素晴らしいものだという事実を認めないからであり、また、賤しい生活の中から取りあげた画面に光彩を添えて、それを創造の珠玉にまで高めるためには、精神的な深さが非常に必要であることを認めないからである。また同時代の批判は、高尚で熱狂的な笑いは、高い抒情的な感動と同列に置くだけの値打があって、かの大道芝居の道化のくすぐりなどとは凡そ同日に談ずべくもないことを理解しないからである! 同時代の批判は全然そういうことを理解しないで、凡てをこの認められざる作家に対する非難と悪罵に変えるのである。そこで彼は、苦衷を共に分つ相手もなく、何の反響もなければ、同情もなく、あたかも家なき旅人のように孤影悄然として道の只中に取り残されるのである。その立場は実に荒涼落莫たるもので、彼は自分の孤独をしみじみ情けなく思うのである。
わたしは不思議な力に引きずられて、まだこれから先きも長いこと、この奇妙な主人公と手に手を取って進みながら、巨大な姿で移りゆく世相を、眼に見ゆる笑いと、眼に見えず世に知られぬ涙をとおして、残る隈なく観察すべき任務を負わされているのだ! もっと別な源泉から、聖なる恐怖と光明につつまれた章の中から、霊感の嵐が巻きおこり、読者がおどおどした胸騒ぎを以って、他の荘厳なる声の轟きに耳を傾けるのは、まだまだずっと先きのことである……。
さあ、用意! 出発だ! 額に皺をよせたり、しかつめらしい陰気な顔をするのは、もう沢山だ! さあ、声なきさざめきや鈴の音にとざされた人生の真只中へ一思いに飛びこんで、チチコフの行動を逐一観察することにしよう。
チチコフは眼を覚ますと、うんと一つ伸びをしながら、まったくよく眠ったと思った。一二分仰向けに寝そべっていてから、彼はポキンと一つ指を鳴らすと同時に、晴々と面を輝やかせながら、今は殆んど四百人からの農奴を持っているのだということを想い出した。そこで彼はいきなり寝台から跳び起きたが、鏡に映る自分の顔も碌々見なかった。彼にはその顔が頗る自慢で、中でも顎が一番チャーミングだと思っているらしく、よく友達の前などで、殊に髭でも剃っているような時には、手ばなしで惚気たものだ。『どうだね』と、彼は顎をなでまわしながら、いつも言ったものだ。『僕の顎もまんざらではないだろ、こう、すっかりまんまるっこくてさ!』しかし今は、その顎も見なければ、顔も眺めないで、いきなり、寝起きのままの服装で、モロッコ革の深い上靴をはいた。それは*1トルジョークの市などで盛んに売り出している、あの色とりどりの縫附飾のしてある上靴なんで。それをはくと暢気なロシア魂が彼を駆りたてたものと見え、まるでスコットランド人みたいに、短かいシャツ一枚のままで、日頃のたしなみも忘れ、自分のいい年も忘れて非常に身軽に踵をトントン踏み鳴らしながら、部屋の中で二度ばかり跳躍をやったものだ。それから、さっそく仕事に取りかかり、先ず手箱の前で、ちょうど何か審理のために出向いた地方裁判所の予審判事が、前菜のテーブルへ近よりながらやる、あの同じ手つきで、さも満足そうに揉手をすると同時に、その中から書類を取り出した。彼はぐずぐずしていないで、一刻も早く何もかも片づけてしまおうと思った。代書人などに一文だって余計な金を取られたくなかったので、彼は登記の書類も自分で文案をつくり、自分で認ため、自分で写しを拵らえることに決めた。書式のことなら何から何まで心得ていた。で、先ず大きな字で、『一千八百何十何年』と書き、次いで小さい字で、『地主、何の某』と書いてから、必要な事項を残らず認ためた。二時間ばかりですっかり出来あがった。後でその書類を眺めながら、曾ては確かに百姓として、いろんな仕事もすれば田畑も耕やし、飲んだくれもすれば、車力もし、旦那を瞞著するような奴もあれば、ただ地道な農奴に過ぎなかったのもあろうところの、さまざまな百姓どもの名前を一瞥した時、彼はふと何か自分でも訳の分らない不思議な気持に襲われたものである。名簿の一つ一つが、恰かもそれぞれ独自の特徴をそなえているように思われ、従ってそれに記載されている農奴までが、それぞれ独特の性質を持っているような気がした。コローボチカの農奴であった百姓どもは、殆んど一人残らず名前の外に余計な附けたりや渾名を頂戴していた。プリューシキンの認ためた書附は綴りの短かいことが特徴で、どうかすると、名前と父称の頭字だけを書いて、あとには点が二つ打ってあるきりであった。ソバケーヴィッチの拵らえた農奴目録は実に完全無欠で、その詳細なことは驚くばかりで、それぞれの百姓の性質が、『腕の達者な指物師なり』とか、『物事をよく弁え酒などは一切飲まず』などと、細大漏らさず書きこんである。それに父親は誰、母親は誰、それから両親の身持のよしあしまで詳しく認ためてあったが、ただフェドートフとかいう男の名前の下だけには、『父親は不明なるも、下婢カピトリーナの腹より生まる。されど性行可良にして、盗癖なし』と書いてあった。こうした詳細な記述が、一種特別な新鮮味を添えて、恰かもそれらの百姓どもは、つい前日まで生存していたような気がするのであった。長いこと、チチコフは百姓どもの名前を眺めながら、感慨に沈んでいたが、やがてホッと溜息をついて、こう呟やいたものである。『おい、皆の衆、ずいぶん沢山つめこまれているじゃないか! いったい君たちは何をして一生を過ごしてきたんだね? どうして生計を立ててきたんだね?』この時、ふと彼の眼は或る一つの名前の上にとまった。それは曾て女地主コローボチカの農奴であった、例の槽かまわずのピョートル・サウェーリエフという奴であった。彼は又しても、こんなことを呟かずにはいられなかった。『いやはや、なんて長ったらしい名前だろう! 一行すっかり占領してしまっているじゃないか! お前は職人だったのか、それとも只の百姓だったのか? そして一体どんな死に方をしたのだい? 居酒屋でくたばったのか、それとも、道の真中で眠っているところを間抜けな荷馬車にでも轢き殺されたというのかい?――プローブカ・ステパン、酒も飲まない模範的な大工。うん、こいつだな! 近衛の聯隊へでも入れたらよかったという、あの豪傑のステパン・プローブカって奴は! おおかたお前は、腰に斧をさし、長靴を肩にかけて、県下を隅から隅まで歩きまわり、せいぜい麺麭を一文がとこに、干魚の二文がとこ位より食わないような倹約をして、いつも銀貨を百ルーブリずつも財布へねじこみ、紙幣は粗麻のズボンへ縫いこむか、長靴の中へ押しこんで、家へ持ち帰ったものだろう。だが、お前は一体どこで往生を遂げたのだい? 賃銀がいいからというので、お寺の円屋根の端へでも上ったのか、或は、頂上の十字架へよじのぼって、横木から足を踏みはずして、そこから地下へぶち落ちたとでもいうのだろう。ところが、ちょうどそこに居合わせたミヘイ小父とか何とかいうのが、ちょっと頭を掻いて、ちぇっ、ワーニャ、ヘマなことをしやあがって!とか何とか言っただけで、今度は自分の腰に命綱をつけて、お前の持場へのぼって行ったことだろう。――マクシム・テリャートニコフ、靴屋。へっ、靴屋か! 諺にも靴屋みたいな酔っぱらいって言うからなあ。いや、お前のことはちゃんと俺は知っているぞ。なんならお前の経歴を逐一話してやろうか。お前はドイツ人のところへ弟子入りをしたのだろうが、奴さんはお前たち内弟子に同じ器から物を食わせ、だらしがないと言っては背中を革紐で打ち、道楽をするからと言っては街へも出さなかったことだろう。お蔭でお前は只の靴屋どころか、素晴らしい名工になってしまい、そのドイツ人は細君や仲間に向って、お前のことを褒めても褒めても褒め足りなかったことだろう。ところが年期があけると、お前は、さあ、今度は一本立ちでやってゆくぞ。なあに、俺はドイツ人みたいに一銭二銭と貯めるようなケチな真似はしないでも、一遍に大金持になってやるぞなんていう偉い意気込みだったのだろう。そこで、旦那にはちゃんと免役税を納めておいて、いよいよ店を開き、注文を山ほど取って、さて仕事に取りかかったという訳だ。どっかから腐ったような革を三分の一ぐらいの安値で仕入れて来て、どんな靴でも一足につき、かっきり二倍の儲けはせしめたことだろうが、そんな靴は二週間もたつと、すっかり破れてしまうので、お前は糞味噌にいわれるようになり、とどのつまり店はさびれてしまい、お前は飲んだくれては往来にころがって、駄目だ、世の中なんて糞面白くもねえや! ロシア人はてんで食って行かれねえんだ、ドイツ人めが一から十まで邪魔をしやあがるので!などとぼやいていたことだろう。おやっ、こいつはどういう男かな? エリザヴェータ・ウォロベイ? ちぇっ、畜生め、こりゃ女じゃないか! どうして女などがこんなところへのさばり出てるのだろう? さてはソバケーヴィッチの悪党め、こんなところでインチキをやりゃあがったな!』成程チチコフのいうとおり、それは正しく女であった。どうしてそんなものが紛れこんだのか、それはさっぱり分らないが、実に巧妙な書き方がしてあったので、遠目にはてっきり男と見紛いそうで、しかもその名前の語尾をトにして、つまりエリザヴェータという女名前をエリザヴェートと男の名前らしく見せかけてさえあるのだ。しかし、チチコフは一向そんなことにはお構いなしにさっさとそれを抹殺してしまった。『グリゴリイ・ドエズジャイ・ニェドエジョーシ! お前は一体どんな人間だったんだい? 運送屋でも営んで、二頭立の蓙掛馬車でも仕立てて、永久に家を見捨て、生れ故郷を見限って、商人どもと一緒に定期市から定期市へと乗りまわしていたとでもいうのだろう? そうした旅の途中で神様のお召しにあずかったのか、それとも、どっかの肥っちょの、頬っぺたの赤い兵隊後家でも張りあって、自分の相棒に殺されてしまったのか、または、お前の革の手套と、背は低いが、いたって頑丈そうな三頭立の馬が眼について、森の浮浪人にバッサリやられてしまったのか、でなければ、ハンモックに寝そべったまま、とつおいつ物思いに沈んだ挙句、なんという訳もなく、ふらふらっと居酒屋へころがりこみ、そこから真直ぐに*2氷穴へやって行ってお陀仏ということになってしまったのだろう。ああ、ロシア人ってやつは、みんなこうで! まともな死に方さえ嫌いなんだ!』――『ときに君たちはどうしたんだい?』と彼はプリューシキンの逐電した農奴たちの名前の載っている紙片に眼をうつしながら、語をついだ。『君たちはまだ生きているにしたところで、それが一体どうしたというのだ? やっぱり死人も同然じゃないか。で、今も君たちは素敏っこい逃げ足で、どこかをどんどん駈けているのかい? 今ごろは監獄にでもぶちこまれているのか、それとも別の主人に身を寄せて、田畑を耕やしてでもいるのかい?――エレメイ・*3カリャーキン、ニキータ・*3ウォロキータ、その息子のアントン・ウォロキータ、成程こいつらは名前からして逐電でもしてのけそうな手合いだ。下男のポポフ……こいつは多分、読み書きが出来たに違いない。だから短刀なんか振りまわさないで、お上品な方法で窃盗をやっていたのだろう。ところが、旅行免状を持っていないかどで、もう郡の警察署長に逮捕されてしまったのだろう。君は図々しく構えて対審訊問を受けることだろう。貴様の主人は誰だ?そういって、いよいよ取調べにかかると、署長はちょっとこっぴどい悪罵をさしはさむ。これこれしかじかの地主でごぜえますと君はしゃあしゃあ答える。どうしてこんなところへやって来とるのか?と署長がいうと、ちゃんと免役税を納めて、暇を取ったのでがすよと君はまたすらすら答える。旅行免状はどうしたのだ?――宿の亭主のピメーノフのところにごぜえますだ。――ピメーノフを呼べ! お前がピメーノフか?――へえ手前がピメーノフで。――この男がお前に旅行免状をわたしたというが、本当かね?――いいえ、この男は旅行免状なんか差しだしやしないのでございますよ。――どうしたんだ、貴様は嘘をついたのだな?と署長は又ちょっと口汚なく罵って、訊きなおす。まったく、その通りでがすよと君は、しゃあしゃあとして答える。夜おそかったんで、この人には渡さねえで、鐘撞番のアンチップ・プローホロフに預けといたのでごぜえます。――鐘撞番を呼べ! この男がお前に旅行免状を預けたというが、本当か?――いいえ、わっしはこの男から旅行免状なんか預かった覚えはございませんよ。――どうだ、また嘘をついたじゃないか?署長は、いかつい言葉で屹っと語調を引きしめながら、いったい旅行免状はどこにあるのだ?と突っこむ。たしかにあったんですがねと君はすかさず答える。おおかた、どっか途中でおっことしちまったのでごぜえますよ。――それじゃあ、兵隊外套なんぞをと署長は、ここで何か烈しい言葉で君を罵っておいて、どうして貴様は掻っぱらったのだ? それに祭司のところでも、銅貨の入った長櫃を掻っぱらって来たろう?と畳みかける。飛んでもねえと、君は少しも動ぜず、泥坊なんてまだ一度もしたことはありましねえだと答える。じゃあ、どうしてお前のところに外套があったのだ?――さあ、それはどうとも分りましねえだ。おおかた誰か他の者が持って来て、突っこんでおいたのでがしょうよ。――えい、この悪党め!と署長は首を振り立てながら、側腹に手を支って言うのだ。こやつに足枷をはめて、留置場へ投りこんでしまえ!――ようがすとも! 却って有難いくらいでと君は答える。そしてポケットから煙草入を取りだして、君の足に足枷をはめる二人の癈兵に、さも親しげに嗅煙草をすすめながら、彼等がよほど前に除隊になったのか、またどんな戦争に参加したか、などと質問したりするだろう。そこで君は一件が正式の裁判に附されるまで、ずっと留置場ずまいをすることになる。裁判所の通告で、ツァーレヴォ・コクシャイスクから、どこそこの市の監獄へ君を移すことになる。ところがそこへゆくと、また裁判所の命令で、今度はウェシエゴンスクなんちゅうところへ移される。こうして未決監から未決監へと盥まわしにされて、しまいには新らしい監獄へ来るたんびに、君はあたりを見まわして、こんなことを呟やくようになるのだ。いや、こりゃウェシエゴンスク監獄の方がまだ小綺麗だぞ。あすこにゃあ*4バブカ遊びをやるぐれえの場所はあったし仲間だって沢山いたからなあ。――さて次ぎはアバクーム・フイロフか! 君はどうしてるんだね? どこを一体うろつきまわってるんだい? ヴォルガへでも行って、気儘な生活に惚れこんで、曳舟人夫にでもなったのかい?……』ここでチチコフは独り言をやめて、ちょっと考えこんだ。いったい何を考えこんだのだろう? アバクーム・フイロフの運命でも考えたのだろうか? それとも、老若貴賤の別なくあらゆるロシア人が広い世間の逸楽を思いうかべる時に必らず陥るあの沈思黙考に自ずと沈んだのであろうか? それにしても、実際フイロフは今どこにいるのだろう? 彼は商人たちと駈引をしながら、どこかの穀物波止場でも楽しそうに大騒ぎをして歩きまわっているのだろう。頸飾りやリボンをつけた、背の高い、すらりとした恋人や女房たちに別れを告げながら、曳舟人夫の一隊は、めいめい帽子に花やリボンをかざって、みんな面白おかしく楽しんでいる。踊ったり唄ったりで、広場は隅々まで沸きたっている、その間にも荷役の人夫たちは、喚き声や罵り声に急きたてられながら、三四十貫ずつもある貨物を鉤に掛けては背負い掛けては背負い、どしどし豌豆や小麦を深い船底へ積みこみ、燕麦や挽割麦の俵をころがしこむ。しかも吃水の深い貨物船がすっかり積荷を終って、果しない船隊が春の流水と一緒に、一列縦隊で出帆するまでは、少しはなれた広場一帯には、まるで砲弾でも積みあげたようなピラミット形の袋の堆積が見え、穀物の山が聳えるように姿を見せているのだ。そういうところで、曳舟人夫たちは稼いでいるのだ! 前に遊んだり、馬鹿騒ぎをしたと同じように、みんな汗水ながして働らきながら、このロシア帝国みたいに何処まで行っても涯しのない一つの歌にあわせて曳綱をひいているのだ!
『うへっ! もう十二時だ!』とチチコフは、とうとうしまいに時計を見て、呟やいた。『おれは何をぼやぼやしていたんだ? さっさと仕事を片づけるならまだしも、初めは何ということなしに与太を飛ばしていたのが、しまいにこんな風に考えこんでしまうなんて。おれもよくよく焼きがまわったぞ!』そう言うと彼は、さっそく例のスコットランド式の着物をヨーロッパ風の洋服に著換えて、太鼓腹をギュッと尾錠でしめつけ、オーデコロンをふりかけて、防寒用の縁無帽を手にとると、書類を小腋にかかえて、売買登記をすませるために民事裁判所をさして出かけた。彼が急いだのは、別に遅くなるのが心配だったからではない。遅くなることなどは少しも意に介していなかった。というのは、裁判所長は自分の知合いだから、開廷時間を伸ばさせようと、繰りあげさせようと思いのままで、ちょうど、ホーマーの叙事詩に出て来るゼウスの神が、自分の気に入りの英雄たちに戦闘を中止させたり、決勝の段取りを講じてやる必要のある場合に、勝手に昼を繰りあげて早目に夜をおくるのと同様、自由自在であったからだ。それよりも彼は一件を出来るだけ早く片づけてしまいたいと思ったのだ。そうしないうちは、どうも不安で落ちつきがないような気がした。何といっても、あれはまともな農奴ではないから、こういう場合には、こんな重荷はなるべく早く肩代りをしてしまわなければならない――そういう考えが去来していたのである。とつおいつそんなことを考えながら、彼が肉桂色の羅紗を表につけた熊の毛皮の外套を肩に羽織って、通りへ出た途端に、ちょうどそこの横町へ曲る角で、やはり肉桂色の羅紗の表をつけた熊の毛皮の外套を著て、耳被いのついた防寒帽をかぶった紳士とばったり出会った。紳士は、あっと声をあげた――それはマニーロフであった。咄嗟に二人は抱きついて、ものの五分間ばかりというものは往来の真中にそのままの姿勢で立っていた。お互いにあまり強く接吻し合ったものだから、二人ともその日一日じゅう前歯がズキズキ疼いたくらいであった。マニーロフの顔は喜びのあまり鼻と口だけになってしまい、眼などはすっかり姿を消してしまった。彼の両手に十五分間ばかりも握りしめられていたチチコフの手は、おそろしく熱って来た。マニーロフは極めて巧者な、気持のいい身振り手振りで、どんなに夢中で自分がパーウェル・イワーノヴィッチを抱きに飛んで来たかを物語った、その言葉は、踊りの相手を申込まれた時の娘にのみ適わしいような愛嬌を含んでいた。チチコフが感謝の言葉も知らず、ようやく口を開こうとした時、不意にマニーロフは毛皮外套の下から、筒のように巻いて、淡紅いろのリボンでしばった紙を取り出した。
「それは何ですか?」
「例の百姓たちですよ。」
「ああ!」彼は早速それをひろげて、さっと一通り眼をとおしたが、そのあまりにも整然とした綺麗な出来ばえにびっくりした。「実に見事に書けておりますねえ。」と彼は言った。「これじゃあ浄書する必要もありませんよ。おまけに、ぐるりに縁までとってあるじゃありませんか! 一体どなたがこんなに巧く縁をおとりになったのですか?」
「そんなことはお訊ねになるまでもありませんよ。」とマニーロフが言った。
「あなたですか?」
「いえ、家内ですよ。」
「ああ、それは、それは! こんなお手数をおかけしては、ほんとに、何とも恐縮ですねえ。」
「いいえ、ほかならぬパーウェル・イワーノヴィッチのためですもの、手数だなどということは決してありませんよ。」
チチコフは感謝をこめてお辞儀をした。彼が売買登記の手続きに裁判所へ行くところだと聞くと、マニーロフはそれでは一緒に行こうと言った。そこで二人の友は、腕を組みあって一緒に出かけた。マニーロフは、ほんのちょっとした登り道や坂や段々があっても、早速チチコフの躯を支えて、例の気持のいい微笑をうかべながら、殆んど相手を抱きかかえるようにして、どんなことがあってもパーウェル・イワーノヴィッチのおみ足に怪我などさせてはなりませんからねと言い添えたものだ。チチコフは、どう言ってそれを感謝したものかと、どぎまぎした、というのは少々うるさく思ったからである。お互いに世話を焼きながら、二人はとうとう役所のある広場へ着いた。それは大きな三階建の石造の建物で、全体を白墨のように真白に塗ってあるのは、中で職務をとっている連中の心の潔白を表わしたものでがなあろう。その広場にある他の建物は、大きさでは到底この石造家屋には敵わなかった。それは、鉄砲を持った兵隊の一人たっている哨舎と、二三の辻馬車屋の溜りと、それから長い長い木柵とで、それには炭や白墨でよくある字や絵の楽書がしてある。このがらんとした、或は我が国の言いならわしに従えば綺麗さっぱりとした広場には、それ以外には何一つなかった。二階と三階の窓から、*5フェミダの祭司どもが、清廉潔白な首を覗けたが、途端にまた引っこめてしまった。多分そのとき、上官でも部屋へ入って来たのだろう。二人は階段を、ただ登るのではなく、駈けあがって行った。というのは、チチコフはマニーロフが腕をとって援けようとするのを極力さけて足をはやめ、マニーロフはマニーロフでチチコフを疲れさせてはなるものかと飛ぶようにして駈けあがったからで、それがために二人が暗い廊下へ飛び込んだ時には、どちらもぜいぜいとひどく息を弾ませたものだ。廊下にも部屋の中にも二人の眼を驚かすほどの清潔さは見られなかった。まだその頃は一向そんなことに心を配る者がなくて、穢ないものは穢ないままに、外面をつくろうなどということはなく、ありのままに放任されていたのだ。フェミダもありのままの不断着の姿で客を引見したものである。さて我等の主人公たちが通り過ぎて行った事務室の光景を一つ描写しなければなるまいが、こういうお役所のこととなると、どうもおっかなくって、作者などは手も足も出なくなるのだ。作者がもし、床やテーブルにはニスを塗いた、外観は実に高尚で光り目映ゆいばかりの役所の中を通り過ぎるようなことがあれば、もうおとなしく伏目になって足許ばかり見ながら、出来るだけ早く駈けぬけようとする、従って、何がそこでいとも盛大に行われているのやら、まるきり分らないのである。が、我等の主人公たちは、書きつぶしたり白紙のままの夥しい紙だの、俯向きになっている頭だの、だだっぴろい項だの、燕尾服や、田舎仕立のフロックコートを著た連中だの、また中には非常にくっきり浮きたつような、薄鼠いろの背広姿ですましている男だのを見たが、この背広姿の先生は、首をぐっと横へ曲げて、殆んどそれを紙にくっつけないばかりにして、手ばやく書き擲るように、何でも他人の土地をおとなしい地主が横領して、長の一生を裁判沙汰のまま、却ってそのお蔭で自分も子供も孫も何不自由なく、今日まで安穏に暮らして来た、その地所の横領とか差押えに関する訴訟記録か何かを抜萃していた。また時々、嗄がれ声で、『フェドセイ・フェドセーヴィッチ、三百六十八号の件を頼みます』とか、『君はいつも官有のインキ壺の栓をどっかへ持って行くんですね!』というような、短かい文句が耳についた。時には確かに上役の声らしいもっと威厳のある声が、『さあ、書き直し給え! さもないと、靴をぬがせて、六日六晩、飲まず食わずで、わしの前に坐らせてやるぞ!』と、高圧的に響きわたった。紙の上を走るペンの音はなかなか騒々しくて、ちょうど柴をつんだ数台の荷車が、六七寸もの厚さに落葉の積っている森の中でも通る音に似ていた。
チチコフとマニーロフとは取っつきの、まだ年若な二人の役人の坐っている、テーブルへ近づいて、
「あの、ちょっと伺いますが、農奴係りはどちらでしょうか?」と訊ねた。
「一体どんな御用ですかね?」と、役人は二人ともこちらを向いて訊きかえした。
「実は売買登記をして頂きたいと思いますんで。」
「で、何をお買いになったんですか?」
「それはともかく、農奴係りはどちらでしょうか、それから先きに伺いたいのです。こちらなんでしょうか、それとも何処かほかなんでしょうか?」
「いや、それよりも先ず何を如何ほどでお買いになったのか、それから先きに仰っしゃって下さい。そうすれば、係りをお教えしますよ。でなくっちゃ、お教えする訳に参りませんなあ。」
チチコフはすぐに、この二人は若造の役人が皆そうであるように、無闇に好奇心が強くて、そんなことを言って役人風を吹かせてからに、自分たちの職掌に勿体をつけようとしているのだなと見てとった。
「ですがね、」と彼が言った。「私は、農奴に関する限り、それが幾らで売買されようが、いっさいの手続きが同一の係りで取扱われることぐらいは、ちゃんと心得ていますからね、だからその係りを教えて頂きさえすればいいんです。もしあなた方が、どこで何を取扱うかも御存じないというのなら、他の方にお訊ねするだけですよ。」役人たちもそれには返す言葉がなくて、一人が黙って部屋の片隅を指さした。そこには、一人の老人がテーブルに向って、何かの書類に記号を入れていた。チチコフとマニーロフとは、テーブルの間を通ってまっすぐにその老人のところへ行った。老人はひどく熱心に仕事に没頭していた。
「ちょっと伺いますが、」とチチコフは会釈をして言った。「農奴係りはこちらでしょうか?」
老人は眼をあげると、休み休み、『農奴係りはここじゃありません。』と言った。
「じゃあ、どちらなんでしょう?」
「それは農奴課ですよ。」
「その農奴課というのは何処ですか?」
「それはイワン・アントーノヴィッチが係りです。」
「そのイワン・アントーノヴィッチは何処にいるんです?」
老人は別の隅を指さした。チチコフとマニーロフとはイワン・アントーノヴィッチのところへ行った。イワン・アントーノヴィッチは逸疾く片眼を後ろへむけて、ジロリと横目で二人を眺めたが、それと同時に一層熱心そうに書きものに没頭した。
「ちょっと伺いますが、」チチコフは会釈をして言った。「農奴係りはこちらでしょうか?」
イワン・アントーノヴィッチは何も聞こえないといった風に、まるで書類の中へ顔をつっこんだまま、何の返事もしなかった。一見してこれは、もう分別盛りの男で、若いおしゃべりのおっちょこちょいとは違うということが分った。イワン・アントーノヴィッチは、四十の坂はよほど越しているらしかったが、髪は黒くて房々としており、顔の中央が全体に前へせりだして鼻になっている、つまり一般に土瓶面といわれている顔の持主であった。
「ちょっと伺いますが、農奴課はこちらでしょうか?」とチチコフが言った。
「ここです。」そう言ってイワン・アントーノヴィッチは、その土瓶面をこちらへ向けたが、すぐにまた書きものに取りかかった。
「実は、こういう用件なんです、私は当地のいろんな地主から農奴を買い取りまして、移住させようと思いますんで、売渡証書もありますから、登記の手続だけして頂けばいいんですがね。」
「売り手は出頭していますかね?」
「出頭する人もありますし、出頭の出来ない人からは委任状が取ってあります。」
「申請書は持って来たんですか?」
「申請書も持参しております。実はその…… 少し急いでおりますが……。どうでしょう、今日じゅうに登記をして頂く訳には参りませんでしょうか?」
「えっ、今日じゅうにですって!…… そりゃ、とても駄目ですよ。」とイワン・アントーノヴィッチが言った。「法律に抵触するようなところがありはせぬか、それも調べてみなければなりませんからね。」
「しかし、手続を早くして貰おうと思えば、所長のイワン・グリゴーリエヴィッチは私の大の親友ですから……。」
「だって、イワン・グリゴーリエヴィッチ一人じゃ駄目ですよ。ほかにも沢山おりますからね。」とイワン・アントーノヴィッチはにべもなく言った。
チチコフは、イワン・アントーノヴィッチの仄めかした故障の意味を悟って、『いや、他の方にも決して恥はかかせませんよ。私も勤めていたことがありますから、その辺のことは心得ておりますよ……。』と言った。
「じゃあ、イワン・グリゴーリエヴィッチのところへいらっしゃい。」と、イワン・アントーノヴィッチは少し声を柔らげて、「そうすれば、あの人が適当な人に指図をしますよ。我々は命令があれば事務を停滞させるようなことはしませんからね。」
チチコフは衣嚢から紙幣を一枚とりだして、イワン・アントーノヴィッチの前においたが、相手は全然それには眼もくれず、咄嗟にその上へ本を載せてしまった。チチコフはイワン・アントーノヴィッチにそれを注意してやろうかと思ったが、相手は首を振って、いや、それには及ばないという合図をした。
「さあ、この男が法廷へ御案内いたしますよ。」そう言って、イワン・アントーノヴィッチが顎を一つしゃくると、真面目くさって事務を取っていた下役の一人で、常々フェミダに忠誠をつくすあまり、両袖が肱の辺でぽっかり口をあいて、そこから、もうずっと前から裏地が覗いていたが、その癖やっと十四等官にありついていようといった先生が、*6ヴァージルが曾てダンテを案内したようにペコペコしながら我等の主人公たちを法廷へと案内した。そこには大きな安楽椅子が一脚あって、テーブルの上の*7正義標と二冊の部厚な書物の蔭になって、所長がその椅子に、まるで太陽のようにただ一人ぽつねんと坐っていた。そこまで来ると新時代のヴァージル先生は、すっかり畏怖の念に打たれてしまい、もはや一歩も前へ足を進めることが出来ず、くるりと向きをかえて、鶏の羽毛などのくっついている、まるで蓙みたいにぼろぼろにすりきれた背中をみせて引っ返して行った。一歩法廷の大広間へ入ると、そこにいるのは所長一人だけではなく、彼の傍らには正義標の後ろにすっかり隠れてソバケーヴィッチの坐っていることが分った。客の入ってきたのを見ると、ワッと喚声があがり、騒々しい音を立てて所長が椅子を後ろへ押しやった。ソバケーヴィッチも椅子から立ちあがったので、例の長い袖をぶらさげた恰好がまるみえになった。所長はチチコフを迎えて抱擁した。すると接吻の音で法廷じゅうが響きわたった。彼等は互いに相手の健康を訊ねあったが、その結果、どちらもちょいちょい腰が痛むということが分り、それはてっきり坐ってばかりいる生活のためだろうと断定された。所長はもうチチコフの農奴買入れの話はソバケーヴィッチから聞いていたものと見え、さっそくお祝いを述べにかかったので、我等の主人公は初めちょっと面喰らった。殊におのおの内密で取引を結んだ、売り手のソバケーヴィッチとマニーロフが今いっしょに顔を突きあわせているのだから尚更具合が悪かった。しかし所長に一応謝意を述べると、彼はさっそくソバケーヴィッチの方をむいて『御機嫌はいかがで?』と訊ねた。
「お蔭さまでな、別にこれという故障もごわせんわい。」とソバケーヴィッチが答えた。なるほど、かれこれいうがものはない筈で、この不思議なくらい体格のがっしりした地主よりは、鉄の方が先きに風邪を引いたり咳をしたりするに違いない。
「まったく、あなたはいつも御壮健ですなあ。」と、所長が言った。「亡くなられた御尊父も御丈夫な方でしたが。」
「ええ、親爺は一人で熊にだって立ちむかいましたからなあ。」とソバケーヴィッチが答えた。
「しかし、あなただって、」と、所長が言った。「熊を相手になされば、大丈夫、手玉にとれそうですぜ。」
「いんにゃ、そうはいきませんわい。」とソバケーヴィッチが答えた。「亡父はわしなんかよりずっと強うがしたからなあ。」そう言って、彼は一つ溜息をついてから、「いや、当節の人間はがらりと違いまさあ。わしの暮らしにしてからが、なんちゅう暮らしでごわしょう? どうも、これはあんまり……。」
「あなたの暮らしがどうして立派でないと仰っしゃるんで?」と、所長が訊ねた。
「よかごわせんよ、まったくよかごわせんよ!」と、ソバケーヴィッチは頭をふって、「まあ、つもってもみて下さい、イワン・グリゴーリエヴィッチ、わしはこれで五十年から生きておりますが、一度も病気らしいものにかかったことがごわせん。せめて咽喉でも痛むとか、腫物か疔でも出来てくれりゃだが……。どうも、こりゃ好くねえ前兆でがすわい! そのうちに何時か酷い目に合う時が来ますからね。」そう言って、ソバケーヴィッチはひどく憂鬱になってしまった。
こん畜生め!と、チチコフと所長とは同時に思った。なんという贅沢な苦労をしてやがるのだ!
「時に、私はあなたに宛てた添書を貰って来たのですが。」そう言ってチチコフは、衣嚢からプリューシキンの手紙を取り出した。
「誰からですか?」所長はそう言いながら封を切ったが、思わず声をあげて、「ほほう、こりゃプリューシキンからですな! あの男はまだこの世に生き永らえていたんですかね。あれくらい不思議な運命の男はありませんて! あの男も昔はなかなか利口な、大金持でしたがね! それが今では……。」
「犬でがさあ。」とソバケーヴィッチが言った。「百姓という百姓をみんな干乾しにしちまやあがった悪党でがさあ。」
「ああ、宜しいとも、」と、所長は手紙を読みおわってから言った。「じゃあ私が代理を務めることにしましょう。で、その登記はいつになさいます、今すぐですか、それとも後ほどで?」
「さっそくお願いしたいのです。」と、チチコフが言った。「出来れば今日じゅうに片づけてしまいたいと思うのですよ。実は、明日この市をたちたいと思いますのでね。売渡証書も申請書も持って参りました。」
「そりゃ万事承知いたしましたが、しかし何と仰っしゃっても、そう早急にあなたをお帰しする訳にはゆきませんよ。売買登記は今日じゅうに出来ますがね、それはそれとして、あなたにはもっと御滞在願わねばなりませんよ。じゃあ、さっそく指図をいたしましょう。」そう言って彼は事務室の扉をあけたが、その事務室には、それを蜜蜂の箱に例えることが許されるならば、まるで蜂窩にたかる勤勉な働蜂のように、役人がうじゃうじゃ群がっていた。「イワン・アントーノヴィッチはいるかね?」
「おります。」と、中から一人の声が答えた。
「ここへ呼んで下さい!」
読者には先刻お馴染の、例の土瓶面のイワン・アントーノヴィッチが法廷の大広間へ顔を出すと恭しく一礼した。
「イワン・アントーノヴィッチ、この方の売渡証書を持って行って登記を……。」
「それから、ようがすかね、イワン・グリゴーリエヴィッチ、」と、ソバケーヴィッチが横から口を挟んだ。「少なくとも双方から二人ずつ証人が要りますぜ。さっそく検事を呼びにやって下さい。ありゃ暇人だから、きっと家にいましょう。何もかも試補のゾロトゥーハに委せっきりで、しかもその試補が世界一の収賄漢ときていまさあ。それから医務監督、あれも暇人だから、どっかへ骨牌でもやりに行ってなきゃ、きっと家にいまさあ。それにもっと手近なところに幾らもおりまさあね。トゥルハチェーフスキイだの、ベグーシキンだのと――みんな揃いも揃って娑婆ふさげのやくざばかりでな。」
「いや、成程ご尤もで!」所長はそう言って、早速その人たちを迎えに事務員を走らせた。
「それからもう一人、呼んで頂きたいのですが、」とチチコフが言った。「やはり私が契約を結んできた或る女地主の代理人でして、祭司長のキリール神父の息子とかが、たしか当役所に勤めている筈なんですが。」
「よろしいとも、それも呼びにやりましょう!」と所長が言った。「万事、御希望どおりに取計らいますがね、しかし役人へのお心附けなどは一切御無用ですよ。これはしかとお断わりしておきます。御懇意な方に無駄なお金をつかわせては済みませんからねえ。」そう言うと、さっそく彼はイワン・アントーノヴィッチに何か命令を下したが、どうやらそれは後者にとって余り有難いことではなさそうだった。所長に対してはその農奴売渡証書はどうやら素晴らしい効果を齎らしたようだ。殊にその買入価格が少なくとも十万ルーブリは下るまいと思われたのだから堪らない。所長はさも我が意を得たりと言わんばかりの面持で、暫らくチチコフの顔を見つめていたが、やがてのことに、『成程そうですかい、パーヴェル・イワーノヴィッチ! ありゃ大したものじゃありませんか! とうとうお手に入りました訳ですね。』と言った。
「ええ、どうやら手に入れましたので。」とチチコフは答えた。
「結構なお買物ですよ! まったく、結構なお買物で!」
「ええ、私もね、これ以上いい取引はちょっとないだろうと思いますので。なんにしても人間は、青年時代の自由主義的な妄想などからは脱却して、鞏固な基礎の上にしっかり足を踏みしめなくっちゃあ、人生の目的はまだまだ定まったとはいえませんからね。」こう言って彼は、この時とばかりに自由主義を罵り、いかにも尤もな理由で、世の青年層をけなしつけた。しかし不思議なことに、彼の言葉には、何やら頼りないところがあって、今にも自分自身に向って、『ちぇっ、嘘をふいてらあ、それも大嘘をさ!』とでも言いたそうであった。彼はソバケーヴィッチやマニーロフと顔を合わせたら何か面白くないものにぶつかりそうで、二人の顔を見ることが出来なかった。しかしそれは理由のない惧れで、ソバケーヴィッチは顔の筋ひとつ動かさなかったし、マニーロフに至っては、相手の言葉に恍惚となって、我が意を得たりとばかりに頻りにうなずくばかりで、恰かも歌姫が伴奏のヴァイオリンの音を圧倒しながら、小鳥の咽喉も及ばないような巧みな調べを唄う時の、音楽ファンのそれに似た心境に浸っていたのである。
「だが、どうしてイワン・グリゴーリエヴィッチにお話にならないのです?」とソバケーヴィッチが口を入れた。「一体全体どんな農奴を手にお入れになったかってことをさ。あなたもあなたですよ、イワン・グリゴーリエヴィッチ、この人が一体どんな農奴を買い取ったか、それを訊かないちゅう法がごわすかい? そりゃ素晴らしい奴ばかりでがすぜ! 言ってみりゃ、まず黄金でがすなあ! わしなんざあ、馬車大工のミヘーエフさえこの人に売っちまったでがすからなあ。」
「まさか、あのミヘーエフまでお売りになるなんてことはないでしょう?」と、所長が言った。「あの馬車大工のミヘーエフなら、私も知っていますよ。立派な職人でしてな、私も馬車の改造をさせたことがありますわい。だが、ちょっと待って下さい、おかしいなあ……。確かあの男は死んだと仰っしゃったじゃありませんか……。」
「誰がミヘーエフが死んだなんて言いましたい?」と、ソバケーヴィッチは少しも動ずるところなく答えた。「死んだのはあれの兄の方で、あいつはまだピンピンしているばかりか、前よりも丈夫になった位でがすよ。つい四五日前に、モスクワでも出来ないような、素晴らしい半蓋馬車を拵らえたばかりでな。本来なら、皇室の御用を専門に務めさせてもいい位の男でがすよ。」
「いや、ミヘーエフは素晴らしい名工ですよ。」と所長が言った。「それにしてもあれを手離しなさるなんて、実に驚きましたなあ。」
「そのミヘーエフだけじゃごわせんわい! 大工のプローブカ・ステパンも、煉瓦師のミルーシキンも、靴屋のテリャートニコフ・マクシムも、みんなわしの手を離れてこの人に買われちまったのでがすぜ!」そこで所長が、そういう揃いも揃って一家になくてはならぬ人間や職人どもを、どうして手離してしまったのだと訊くと、ソバケーヴィッチは手を振ってこう答えた。「どうもこうもねえ、ふと魔がさしたのでがすよ。ええ、売ってやれえってんで、ついうっかり売っちまった訳でな!」そして彼は、さもそれが残念だといわんばかりに、首うなだれて、こう言い足した。「こんな白髪の親爺になっても、いまだに分別がごわせんのさ。」
「それはそうと、パーウェル・イワーノヴィッチ、」と所長がいった。「あなたは土地もつけずに百姓だけ買ってどうなさるんです? 移住でもさせるんですか?」
「ええ、移住させますので。」
「なるほど、移住のためと仰っしゃれば、話は別ですよ。して、どちらの方面へ?」
「方面ですか……ヘルソン県下です。」
「ああ、それはいい土地ですなあ!」そういって所長は、あの県下では牧草の出来が素晴らしいなどと撥を合わせた。
「で、地所は充分におありなんで?」
「まあ、こんど買った農奴ぐらいにはたっぷりです。」
「水利は河ですか、それとも池で?」
「河です。しかし池もありますよ。」そう言ってチチコフは、ふとソバケーヴィッチの顔を見た。ソバケーヴィッチは相も変らず落着きはらっていたが、しかしチチコフにはその顔に、『こいつ、出鱈目をいってやがるな! 河や池があるなんて、第一、そんな地所からしてありもしない癖に!』とでも書いてあるような気がした。
こんな話のつづいているあいだに、証人がぼつぼつやって来た。読者にも先刻お馴染の、いつも眼をパチパチやっている検事を初めとして、医務局の監督だの、トゥルハチェーフスキイだの、ベグーシキンだの、その他ソバケーヴィッチの謂ゆる娑婆ふさげどもが、次々に姿を現わしたのである。その中の多くは、全然チチコフと初対面であった。証人の足りないところは勿論、余計な分まで、役所の連中が代理に選ばれた。祭司長キリール神父の息子ばかりか、祭司長自身までが引っぱり出された。証人たちはめいめい自分の位階勲等まで書いて署名した――或る者は普通と逆の左傾ぎに、或る者はあたりまえの右傾ぎに、また或る者はロシア語のアルファベットには見当らないような文字をまるで上下さかさまに書いたものである。例のイワン・アントーノヴィッチが極めて敏速に事務を遂行して、売買証書は登録され、日附が入れられ、台帳及び所定の場所へ記中されたが、〇・五分の登記手数料と、官報への公告料を課されたきりで、チチコフの出費は極めて小額で済むことになった。おまけにその手数料も、所長の指図で半額だけ出せばよいことになり、あとの半額は有耶無耶になって、いずれ他の請願人が穴埋めをさせられることになるのだろう。
「じゃあ、これで、」と、何もかもが一応かたづいた時、所長が言った。「あとはもう祝杯をあげるだけですよ。」
「仰っしゃるまでもありませんよ、」とチチコフが答えた。「ただ何時にするかを決めて頂けばね。こんな嬉しいお集まりを願っておきながら、シャンパンの二三本も景気よく抜かないでは、手前としてはまったく顔が立ちませんからね。」
「いや、飛んでもない。シャンパンはこちらで持ちますよ。」と所長が言った。「これは我々の義務です、本分です。あなたは我々のお客さんですもの、こちらから御接待をしなくちゃなりませんよ。じゃ、ようがすなあ、皆さん? 何はともあれ、こうしようじゃありませんか、このまま、みんなで警察部長のところへ押しかけるのですよ、あれはまるで魔法使ですからね、あの人が魚市場なり酒倉なりの傍を通りながら、ちょいとせの一つもして来れば、ちゃあんと我々は酒肴にありつけるというもので! この機会にまたヴィストでも一番やりましょうや。」
こういう動議を御免蒙ろうなどという者は一人もなかった。立会人どもは魚市場という名前を聞いただけで、もう涎れが垂れそうになり、さっそく一同が帽子を持って立ちあがったので、法廷もそれでひけになってしまった。一同が事務室を通りぬける時、土瓶面のイワン・アントーノヴィッチが丁寧にお辞儀をして、そっとチチコフの耳に、『百姓を十万ルーブリからお買いになって、お心附けが*8白紙幣一枚とは、ひどいですなあ。』と、囁やいた。
「百姓にもよりけりでさあ、」と、それに対してチチコフも小声で応酬した。「選りにも選ってくだらない屑ばかりで、その半額にもつきませんや。」そこでイワン・アントーノヴィッチは、こいつあなかなかがっちり屋で、とてもこれ以上は出しっこないと諦めた。
「時にプリューシキンのところでは、幾らずつお出しになりましたね?」とソバケーヴィッチがチチコフの一方の耳許で囁やいた。
「それよりも、あなたはどうしてあんなウォロベイなんてものを掴ませなさるのです?」こうチチコフは、答えの代り言い返した。
「はあて、ウォロベイってね?」と、ソバケーヴィッチが空とぼけた。
「女ですよ、エリザヴェータ・ウォロベイっていう。おまけに語尾のタをトに書き変えたりなすってさ。」
「へえ! そんなウォロベイなんて名前を書いた覚えはごわせんぜ。」そう言って、ソバケーヴィッチはコソコソと他の連中の方へ行ってしまった。
さて、お客一同は、やがてのことに警察部長の邸へどやどやと乗りこんで行った。警察部長はまったく魔法使みたいな男で、事の次第を聞くや否や、即座に、エナメル塗りの大長靴をはいた小柄できびきびした巡査部長を呼びつけて、その耳へ口を寄せて、何か二言三言ささやいてから『分ったね?』とつけ加えただけであったが、それでもう、来客がヴィストに夢中になっている間に、別室のテーブルの上には、大蝶鮫や、魚や、鮭や、塩漬のイクラや、薄塩のイクラや、鰊や、小蝶鮫や、チーズや、燻製の舌や、乾魚などが堆かく並べられた――いずれも魚市場から徴発して来たものだ。次いで主人側からの添物として、*9九プードもある魚の軟骨と頬肉とを入れたピローグだの、白椎茸入りのピローグだの、揚煎餅だの、牛酪菓子だの、茹麺麭だのといった、自家できのものが持ち出された。警察部長は或る意味に於いてこの市の慈父であり、恩人であった。彼は人民の間では、さながら肉親の家族と共にいるように振舞い、商店や市場へはまるで自分の家の物置へでも入るように自由に出入りしていた。謂ゆる適材適所というやつで、自分の役柄を裏の裏まで理解していた。で、彼がその地位のために生まれたのか、それとも彼のためにその地位が創られたのか、どちらともちょっと見当がつかないほどであった。何処までも利口に立ちまわったため、彼の収入は前任者に比べたら二倍にものぼっていたが、それでいて、おまけに全市民の愛を贏ち得ていたのである。一流の商人連は、何より彼が威張らないという点で非常に彼を好いていた。それもその筈で、彼はそういう連中に子供の洗礼を施してやったり、教父になってやったりしたものだ。時にはしたたか彼等をしぼることはあっても、実にそれが手際よく、相手の肩を叩いたり、笑い出したり、お茶を飲ませたり、こちらから将棋を指しに行く約束をしたり、景気はどうだの、何はどうだのと、いろんなことを根掘り葉掘り訊く、そして子供がどうかして加減が悪いというようなことでも聞くと、さっそく薬剤を教えてやる。要するに、如才がないのだ! 馬車に乗って巡視をしながらも、誰彼なしに言葉をかける。『どうだい、ミヘーヴィッチ! そのうち、例の*10ゴルカの勝負をつけなきゃならないなあ。』すると相手は、『はあ、アレクセイ・イワーノヴィッチ、』と帽子をとりながら答える。『是非つけなきゃなりましねえだよ。』――『やあ、兄弟、イリヤ・パラモーヌイッチ、うちの馬を見に来てくれよ。君んとこのと一つ駈けっくらをさせようか、序でに繋駕をつけ給え。ね、やってみようじゃないか?』馬に夢中になっていた商人は、それを聞くと、いわば相好を崩して北叟笑みながら、顎鬚をなでなで、『やってみましょう、アレクセイ・イワーノヴィッチ!』と答えたものだ。そういう時には、そこに居合わせた連中までがいつも帽子を脱いで、満足そうに、『アレクセイ・イワーノヴィッチは好い人だなあ!』とでも言いたげに、お互いに顔を見あわせたものである。要するに、彼は民心の機微を掴んでいた訳で、『成程アレクセイ・イワーノヴィッチは取るものは取るけれども、その代り決してこちとらを裏切るようなことはしない』というのが商人連の定評であった。
酒肴の用意が出来たのを見ると、警察部長は一同に向ってヴィストは食事をすましてから勝負をつけてはどうかと提案した。そこで一同は別室へ移ったが、そこからはもう先刻から好い匂いがプンプンとして来て、彼等の鼻の孔を擽っていたのである。ソバケーヴィッチに至っては、最前からちょいちょい扉口を覗いて、一方の大皿にのっかっている蝶鮫に遠くから狙いをつけていたのである。お客はめいめい盃に一杯ずつ、ちょうどロシアで印形を彫るのに使う、あのシベリア水晶の色合いにしか見られないような、黝んだオリーブ色をしたウォツカをひっかけると、早速フォークを取って四方から食卓に向い、謂ゆる各自の性分や癖をまるだしにして、或る者はイクラを、或る者は鮭を、或る者はチーズをむしゃむしゃと貪りはじめた。ソバケーヴィッチはそんなけちなものには眼もくれず例の蝶鮫にしがみついて、みんなが飲んだり、食ったり、話したりしている間に、ものの十五分あまりで、すっかりそれを平らげてしまった。で、警察部長がようやく蝶鮫のことを思いだして、『さあ、今度は一つ皆さんに、この天産物を御賞味ねがいましょうて。』そう言って一同と共に、フォークを持ってその方へ立ち向ったが、ああら不思議や、その天産物は姿を消して、残っているのは尻尾だけであった。そのときソバケーヴィッチは黙々として、素知らぬ顔で少し離れたところにある皿へにじり寄って、何か小魚の干物をフォークの先きでつついていた。蝶鮫を一人ですっかり平らげたソバケーヴィッチは安楽椅子へどっかり腰をおろすと、流石にそれ以上は飲みも食いもしないで、眼を細くしたりパチクリさせたりしているばかりであった。警察部長はどうやら酒をケチケチするのが嫌いな性分らしく、乾杯は何度ということなく重ねられた。最初の一杯は、恐らく読者にも推察がつくとおり、ヘルソン県の新らしい地主の健康を祝して挙げられ、次ぎには、彼の農奴の繁栄と、その移住の多幸を祝し、次いで、彼の未来の花嫁たるべき美人の健康を祝して乾杯されたが、その時、我等の主人公の口許は、さも嬉しそうな微笑に綻びたものである。一同は四方から彼を取り巻いて、せめてもう二週間この市に滞在するようにと、極力、懇願しはじめた。『そりゃ、いけませんよ、パーウェル・イワーノヴィッチ! どういうおつもりか知りませんがね、閾を跨いだばかりで直ぐ引っ返すなんて、そりゃ家の中を寒くするだけじゃありませんか! 是非もう暫らく、滞在して下さい! 花嫁のお世話でもしましょう。ねえ、そうじゃありませんか、イワン・グリゴーリエヴィッチ、この人に一つ花嫁のお世話をしようじゃありませんか?』などと言い出す。
「ええ、お世話しましょう、是非お世話しましょう!」と裁判所長が相槌を打った。「さあ、もうどんなにじたばたしても駄目ですよ、是が非でも花嫁を押しつけますからね! こうなったからには、愚図々々いわないことです。私たちは冗談をいうことが嫌いですからね。」
「これはしたり! 何もじたばたなどするもんですか。」とチチコフは、にやりとして、「女房を持つってことも悪かありませんからね…… ただ適当な相手さえあればね。」
「花嫁の候補はいくらでもありますよ! どうして、ないことがあるもんですか! 何もかも旨くゆきますよ、何でもお望みどおりになりますよ!……」
「まあ、そういうことでしたら……。」
「素敵々々、滞在だ!」と、一同が叫びだした。「万歳! ウラア! パーウェル・イワーノヴィッチ、万歳!」そして、てんでに盃を持って彼の盃とカチあわせに寄って来た。チチコフはみんなと盃をカチあわせた。『いや、もう一度だ!』一層熱狂した連中は、そう言って、更に盃を挙げて詰め寄った。それでも足りずに三度も盃を挙げて、三度目の乾杯をした。間もなく一同はすっかり上機嫌になってしまった。この上もなく人の好い裁判所長は、有頂天になって、幾度となくチチコフを抱いては、感極まって、『お前さんは私の恋人だよ! 私のお袋だよ!』と言ったり、剰さえ指をパチパチ鳴らして、彼のまわりを踊りまわりながら、『なんてお前は愛い奴だ、コマリンスクのお百姓!』という有名な唄をうたい出したりしたものだ。シャンパンに次いでハンガリー酒が抜かれ、それで一層景気づいた一座は更に陽気になった。誰も彼もがヴィストのことなどはすっかり忘れてしまって、あらゆる問題について論じたり、喚いたり、語ったりした――政治上の問題も出れば、軍事関係のことまで飛び出して、これが他の場合だったら、自分の子供でもピシピシと打擲しかねないような、自由主義的な思想を開陳した。ずいぶんむつかしい難問題がいとも易々と即座に解決されたものだ。ついぞチチコフもこれほど愉快な気持になったことがなく、もう本当にヘルソン県の地主になったようなつもりで、農事上のいろんな改良や、*11三圃農作のことや、未来の夫婦生活の幸福などに就いてべらべらと喋りまくり、挙句のはてにはソバケーヴィッチに向って、*12ウェルテルがシャルロッテに書き送った手紙を詩のように朗読したりしはじめたが、それに対して当のソバケーヴィッチは、安楽椅子に坐ったまま眼をぱちくりさせるだけであった――というのは、あれだけの蝶鮫を平らげた後のこととて、ひどく睡気がさしていたからである。チチコフも、どうやらこれは少しお調子に乗りすぎたと気がついたので、さっそく馬車の借用を申し込んで、検事の馬車を借りて帰ることにした。途中で分ったことだが、検事の馭者はなかなか経験のつんだ奴らしく、片手で手綱をさばきながら、片手は後ろへまわして我々の主人公をしっかり支えていたものである。先ずこんな具合にして検事の馬車で自分の宿へ帰りついてからも、くどくどと長いこと彼は、右の頬っぺたに靨の出来る、血色の美しい薄色髪の花嫁だの、ヘルソン県下の持村だの、財産だのと、いろんなくだらないことを喋りちらしていたものである。セリファンに対しては、新らしく移住させた百姓の人員点呼をするから一人残らず呼び集めろと命令したりした。セリファンは長いこと黙ってそれを聞いていたが、やがて部屋を出るとペトゥルーシカに向って『はやく旦那の着物を脱がせろよ!』と言った。ペトゥルーシカは長靴を脱がせにかかったが、あぶなく長靴と一緒に主人まで床の上へ曳きずりおとしそうにした。それでもどうにか長靴をぬがせると、主人は曲りなりにも着物を脱いで、寝台をガタビシとやけに軋ませながら、暫らくのあいだ輾転反側していたが、やがてのことに、すっかりヘルソン県の地主になったような気持で、ぐっすり寝こんでしまった。その間にペトゥルーシカの方は、主人のズボンと、例のピカピカ光る蔓苔桃色の燕尾服を廊下へ持ち出して、木の衣紋掛にかけて、廊下じゅうに埃りを立てながら、服叩きでたたいたりブラシをかけたりし始めた。やがてそれを取りはずそうとして、ふと外廊下から下をのぞくと、今しも厩から戻って来たばかりのセリファンの姿が眼についた。二人は眼と眼を見合わせたが、以心伝心でお互いの心が通じ合った。――旦那は寝こんでしまったから、一つどっかへ出かけようというのだ! さっそくペトゥルーシカが燕尾服とズボンを部屋の中へ取りこんでおいて階下へおりると、二人は行先のことなどは何一口いわずに、途々もまるでそれとは関係のない軽口を叩きながら、相携えて出かけた。が、二人の漫ろ歩きは決して長いものではなかった。ただ通りを横切っただけで、ちょうど旅館の真向いにある一軒の家に辿りつくと、煤で真黒になった低いガラス扉を押しあけて、まるで穴倉のようなところへ入って行ったが、そこにはもう、いろんな種類の人間が、木のテーブルに向って腰かけていた。鬚を剃ったのや、剃らないのや、裸皮の百姓外套を著たのや、シャツ一枚きりしか著ていないのや、そうかと思うと、粗羅紗のマントにくるまったのなどもいた。さて、そこでペトゥルーシカとセリファンがいったい何をしたかということは、神様より他には御存じあるまいが、とにかく一時間ばかりすると、二人は腕を組みあって、黙りこくったまま、お互いに足許に注意したり、角々を警戒しながら、そこから出て来た。手に手を取って、縺れあいながら、二人は階段を上るのに四半時も手古摺っていたが、それでもやっとのことで二階へ這いあがった。ペトゥルーシカは自分の低い寝台の前にちょっと立ちどまって、さてどういう風に寝たものかと考えた挙句、ごろりと寝台へ直角に寝そべったものだから、彼の両足は床についたままで立膝になった。セリファンもその同じ寝台へぶっ倒れるなり、本来自分の寝るのはここではなく、厩の中で馬の隣りにでも寝なければ、せいぜい下男部屋で寝るのが当然だということも忘れて、ペトゥルーシカの腹を枕に横たわってしまった。二人はそのまま寝こんで、前代未聞の大鼾をかきはじめた、それに合わせて隣りの部屋からは、笛のように細い旦那の鼻息が聞こえていた。それについで間もなく辺りがひっそりして、旅館全体が深い眠りに落ちた。ただ一つだけまだ灯影のさしている小窓があった。それはリャザーニからやって来たという例の中尉が泊っている部屋で、この男は、どうやら、大の長靴気違いだと見えて、もう既に四足も拵らえた癖に、また五足目を注文して、ひっきりなしに足に合わせてみているのであった。幾度も彼は寝台へ近寄って、それを脱ぎすてて寝ようとするのだが、どうも思い切って寝られないのだ。長靴はまったく素晴らしい出来ばえであった。彼はいつまでもいつまでも、足を持ちあげては、実に見事に仕上げられた靴の踵をつくづくと飽かず眺めているのであった。
*1 トルジョーク トゥヴェリ県下の小都会で、手細工ものの産地として有名なところ。*2 氷穴 冬季河川の氷結した表面に水汲みのために穿った穴。*3 カリャーキン、ウォロキータ カリャーキンにはがにまた、ウォロキータには愚図の意味が含まれていて、どちらも凡そ逐電には不向きな名前であるが、それをここでは反語的に皮肉っているのである。*4 バブカ遊び 動物の小骨を一列に立てておいて、それを一定の距離から、やはり骨を投げて倒す、幼稚な遊戯。*5 フェミダ ギリシア神話に於ける法律の女神。目隠しをして秤を持った像であらわされている。*6 ヴァージル 古代ローマの叙事詩人で、ホーマーと並び称せられているが、ダンテの『神曲』では、このヴァージルの案内で作者が地獄や煉獄を遍歴することになっている。*7 正義標 三角錐形の置物で、頂上に帝室の紋章をつけ、三つの面に各々ペテロ一世の勅令を彫みつけたもので、役所のテーブルの上に必らず備えつけられていたもの。*8 白紙幣 二十五ルーブリ紙幣のこと。*9 九プード 一プードは四貫三百八十匁だから、九プードといえば殆んど四十貫にも当る重量である。*10 ゴルカ 民衆的な骨牌戯法の一種。*11 三圃農作 ロシアで最も普通に行われる耕作地の用い方で、最初の年に秋蒔麦を作り、次ぎの年に春蒔麦を作り、第三年目は農作を休んで、翌年から又、前述のように繰り返して農作をする方法である。*12 ウェルテルがシャルロッテに書き送った手紙 ゲーテの小説『若きウェルテルの悲しみ』――この小説は、主人公ウェルテルが愛人シャルロッテに送った書簡で全篇が構成されているから、その中の一節を諳誦したのである。