Chapter 1 of 11

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降誕祭まへの最後の日が暮れた。冬の、よく澄みわたつた夜が来た。星はキラキラと、輝やきはじめ、月は、善男善女が楽しく★讚仰歌を流しまはつて基督を頌へることの出来るやうに、あまねく下界を照らすため、勿体らしく中空へと昇つた。寒気は朝よりもひとしほ厳しくなつたが、そのかはり、靴の下で軋む凍てた雪の音が半露里もさきまで聞えるほど物静かな夜である。まだ若い衆連の群れは民家の窓下へ姿を見せず、ただ月のみが、身支度に余念のない娘たちを一刻も早く、足もとで軋音を立てる雪の上へ駈け出させようと、誘惑するもののやうに、家々の窓をばそつと覗き込んでゐるだけであつた。ちやうどその時、一軒の民家の煙突から、一朶の煙がむくむくと吐き出されて、黒雲のやうに空へ棚引いたが、その煙といつしよに、箒に跨がつた妖女が宙空へたち昇つた。

★ わたしの地方では降誕祭の前夜に、家々の窓下で『カリャードカ』といふ歌をうたつてるならはしがある、それを『讚仰歌流し』と呼んでゐる。その流しにやつて来た者に対して、各々の家の主婦なり主人なり、そのほか、誰でも家に居残つた者が、腸詰とか、麺麭とか、銅貨といつた、うちに沢山あるものを、袋の中へ投りこんでやる。なんでも昔、阿房のカリャーダといふ者があつて、人々から神様だと思はれてゐたさうで、この『カリャードカ』といふ言葉はそこから生まれたとのことだ。だが、誰がそんなことを知つてゐるものか。こちとら如き凡俗の彼是いふべき筋合ではない。昨年、オーシップ神父は、悪魔の機嫌を取ることになるからと言つて、村々を流してまはることを禁止しようとした。だが、本当のことを言へば、讚仰歌の中にはそのカリャーダといふ人物のことは一言半句も詠み込まれてはをらぬ。よく唄はれるのは基督降誕の讚歌で、最後にその家の主人、主婦、子供など全家族の健康を寿ぎ祈つて歌を終るのである。(蜜蜂飼註)

この時、もし、仔羊皮の縁をつけて鎗騎兵型に仕立てた帽子に、裏に黒い毛皮をつけた紺色の外套を著こんだソロチンツイの陪審官が、いつも馭者を追ひ立てるのに使ふ、おそろしく器用に編んだ革鞭を手にして地方の馬をつけた三頭だての橇に乗つて通りかかつたとしたら、まさしくその妖女を見つけたに違ひない、このソロチンツイの陪審官の眼を誤魔化すことの出来る妖女は広い世界にただの一人もゐない筈だから。彼はどの女の家では豚が幾匹仔を産んだとか、どの女の葛籠には麻布がどれだけ入つてゐるとか、また堅気な男が祭りに衣類なり家財なりの何品をいつたい酒場へ抵当に置いたとかいふことを、細大漏らさず知つてゐる。しかしソロチンツイの陪審官は通らなかつた。それに他所のことなど彼には用がなかつた――彼は自郡のことに忙殺されてゐたのだ。ところで、その間にも妖女はぐんぐん高く昇つて、今はただ一つの黒い小さな点となつて上空にチラホラ隠見してゐるだけである。だがその斑点が姿を現はすたんびに其処にあつた星が次ぎ次ぎと消えて亡くなつた。間もなく妖女はそれらの星を袖にいつぱい集めた。後には星はもう三つ四つしか光つてゐない。と、反対側の方角から別の斑点が一つ現はれて来た。だんだんそれが大きくなり、伸びひろがると、それはもう斑点ではなかつた。近眼の人には、たとへ眼鏡の代りに警察部長の乗る馬車の輪を鼻に掛けたところで、それがいつたい何者なのか見分けることは出来なかつたらう。前から見ればてつきり★独逸人で、その、ひつきりなしにヒクヒクと動いて、鼻の先きへぶつかつたものなら何によらずクンクン嗅ぎまはさずには措かぬ鼻づらは、ちやうど豚の鼻のやうにまんまるな五哥銅貨型をしてをり、その脚と来ては至つて細く、こんな脚を、あのヤレスコーフ村の村長がもつてゐたなら、最初の哥薩克踊で挫いてしまつたことだらう。ところが、後ろから見ると、まるで制服を著けた県の陪審官そつくりなのだ、といふのは、当今の制服の裾と同じやうな、ツンと尖つた長い尻尾がさがつてゐたからで、ただその口の下に垂れた山羊髯や、頭から突きでた小さい角をみれば無論のこと、五体が煙突掃除人よりも黒いところから推して、それが独逸人でもなければ、県の陪審官でもなく、もはや今宵ひと夜しか、この地上を徘徊して、善良な人間を誑かして罪に曳きこむことのできない、悪魔に他ならぬことは、たやすく知ることが出来た。あしたになれば、早朝の祈祷の最初の鐘の響きと共に、彼は尻尾をまいて、一目散におのが洞窟へ逃げこまねばならないのだ。

★ 小露西亜では他国人のことを、それが仏蘭西人であらうと伊太利人であらうと乃至は瑞典人であらうと、総て一様に独逸人と呼んだものである。(蜜蜂飼註)

この間にも悪魔はだんだん月の傍へ忍び寄つて、今にも手を差しのべてそれを掴まうとしたが、急に手をひくと、火傷でもしたやうに指を舐めて、足をバタバタさせた。今度は反対側から飛びかかつたが、又もや飛びのいて手を引つこめた。だが、再度の失敗にもめげず、狡獪な悪魔はその悪戯をやめなかつた。やがて、不意に駈けよりざま、彼は両手で月を掴んだ。そして、ちやうど百姓が煙草を吸ひつけようとして素手で燠を持つた時のやうに渋面を作つてフウフウ息を吹きかけながら、月をこちらの手からあちらの手へと持ち換へ持ち換へしてゐたが、しまひに大急ぎで衣嚢の中へ押しこむと、もう何事もなかつたやうな顔で、さきへ駈け去つてしまつた。

悪魔が月を隠したなどとは、ディカーニカでは誰ひとり知る者がなかつた。尤も郡書記が酒場から四つん這ひになつて這ひだしながら、月が空で矢鱈に踊つてゐるのを見かけたので、そのことを村中の者に誓ひを立てて言い張つたけれど、村民は首を横にふつて、そのうへ彼を嘲笑ひさへした。だが悪魔がこんな無法なことを企らんだのは一体どういふ訳があつてだらう? それはかうだ。彼は分限者のチューブといふ哥薩克が、補祭の家へ*蜜飯に招ばれてゐることを知つてゐた。そこへは村長や、大僧正つきの唱歌隊から戻つて来てゐる、青いフロックを著て、低音の最低音部を勤める、スウェルブイグーズといふ、補祭の縁つづきの哥薩克や、まだ誰や彼やが招ばれてゐる筈だ。また其処では蜜飯のほかに混合酒や、天藍を浸けた火酒や、まだそのほかいろんな料理が出るに違ひなかつた。さうすると、チューブの娘で、村一番といふ美人が、一人で家に残ることになる。さうなれば間違ひなくこの娘のところへ、悪魔にとつてはコンドゥラート神父の説教よりも苦手の鍛冶屋が忍んで来るにきまつてゐる。そいつは恐ろしく腕つ節の強い素晴らしい若者なのだ。この鍛冶屋は仕事の合間々々に塗師の仕事もして、この界隈ではなかなか上手な画工だといふ評判だつた。まだそのころ達者だつた百人長のル××コもわざわざポルタワへ彼を呼んで、邸のまはりの板塀を塗らせたものだ。ディカーニカの哥薩克どもが雑汁をすする鉢はみんなこの鍛冶屋が彩色をするのだつた。この鍛冶屋は信心ぶかい男で、幾度も聖者の御像を描いた。で、現今でもT×××寺院には彼の筆になる福音書の使徒ルカの像が残つてゐる。しかし彼の入神の技ともいふべきものは、会堂の右側の、外陣の壁に懸つてゐる一幅の絵である。その絵には、鍵を手にして悪魔どもを地獄から追ひ出してゐる、最後の審判の日の聖ペテロが描かれてゐる。身の滅亡に直面して周章狼狽した悪魔どもが四方八方へもがきるのを、先きから監禁されてゐた亡者たちが、笞や、木切れや、そのほか手当り次第の得物で打擲しながら追ひしてゐる図である。この画工がその絵に精根を打ち込んで、大きな木の板の上に画筆を揮つてゐる最中に、悪魔は懸命にそれを妨害しようとして、人知れずその手をつつ突いたり、鍛冶場の竈から燃え殻を吹き揚げて画面へまき散らしたりなどもしたが、すべてが無駄にをはつて、その絵は立派に出来あがり、寺院へ運ばれて、外陣の壁へ嵌めこまれた。この時以来、悪魔は鍛冶屋に復讐をしようと心に誓つたのだ。

蜜飯 乾葡萄や蜂蜜を混じて炊いた飯様の食品で、死者の供養直後、または降誕祭の前夜等に食するもの。 だが、もはや彼が地上を徘徊することの出来るのも、剰すところ一晩きりだ。今夜こそは何とかして鍛冶屋に対する日頃の欝憤を晴らさにやならぬと思つて、隙を狙つてゐたのだ。さてこそチューブ老人が億劫がつて出かけ渋るやうにと、月を隠してしまつた訳だ。補祭の家まではかなりな道のりでもあり、そのまた道が裏道で、磨粉場や、墓地の傍をとほつて谷を一つ迂しなければならないと来てゐる。月夜でもあればまだしも、混合酒や天藍入りの火酒がチューブを誘ひ寄せもしたであらうけれど、こんな暗夜に彼を煖炉から引き離して、家からおびき出すことはちよつと誰の手にもをへることではなかつた。ところで、鍛冶屋はこの老人とは日頃から気合があはなかつたので、腕つ節の強いにも似ず、父親のゐる時に娘のところへ出かけるなどといふことは先づなかつた。

そんなわけで、悪魔が衣嚢へ月を匿すと同時に、急に全世界が真暗になつてしまつたため、補祭のところは愚か、酒場へ行く道もおいそれとは見わけることが出来なかつた。妖女は不意にあたりが暗くなつたのを見て、あつと叫び声をあげた。悪魔はすかさず、じやらつくやうにそばへ近よつて妖女と腕を組んで、その耳に口をよせると、人なみに情婦に向つて言ふやうな、紋切型の口説を夢中になつて囁やきだした。実にこの世の中といふやつは奇妙に出来てゐる! この世に住んでゐる限りの者が互ひに見やう見真似に憂身をやつしてゐるのだ。以前、ミルゴロドでは判事と市長だけが多分、羅紗の表をつけた毛皮外套を著てゐただけで、他の一般の下級官吏は、普通の、表なしの品より他は用ゐなかつたものだ。それが当今ではどうだ、村役人や倉庫番までが*レシェティロフ産の毛皮に、羅紗の表を附けた大外套を新調しをる。事務員や、郡書記でさへも一昨年あたりは、一アルシン六十哥もする青い支那絹を買ひ込みくさつた。寺男までが南京織の夏ズボンと、縞目のある手編のチョツキを新調しをる。一口にいへば、誰も彼もが見やう見真似をしたがるのだ! いつたい何時になつたら人間は、かうした余計なことに齷齪しなくなるだらう! ところで悪魔までが矢張りさうした見やう見真似に憂身をやつしてをる処を見るのは、大抵の人々にとつては確かに面白いことに違ひない。それは賭をしてもいいくらゐだ。何より片腹痛いのは、あの見るのも恥かしいやうな不態な恰好をしてゐながら、奴さん自分をいつぱしの優男と思ひこんでゐるらしいことだ。フォマ・グリゴーリエッチの言ひ草ではないが、穢らはしいにも穢らはしい、醜悪そのもののやうなあの御面相で、情事に憂身をやつさうなんて、いやはやだ! だが、天も地も一様に真暗になつてしまつたので、悪魔と妖女とのあひだに一体それからどんないきさつが持ちあがつたかは、もはや知る由もなかつた。

レシェティロフ ボルタワ県下の町で、ゴヅトワ河の沿岸に位し、毛皮の産地として有名なところ。

*        *        *

「ぢやあ、教父つあん、お前は、まだ補祭がとこの新家へは行かなかつたのかい?」と哥薩克のチューブが自分の家の戸口を出ながら、短かい皮外套を著た、痩せて背のひよろ長い相棒の百姓に声をかけた。その男の髯もぢやな顔は、もう二週間以上、よく百姓たちが剃刀を持ち合はせてゐないところから髯を剃るのに使ふ、あの鎌の破片も当てられてゐないことを物語つてゐた。「今夜あすこで、素晴らしい酒宴があるだよ!」と、茲でにやりと笑顔を見せてチューブは語りつづけた。「どうかまあ、遅参にならなきやあよいがのう!」

そこでチューブは皮外套の上からしつかり緊めてゐた帯をなほして、帽子をぐつと目深に引きさげると、煩さい野良犬を嚇すための鞭を手に握つた。だが、空を見あげて、思はず彼は足をとめた……。

「これあ、いつたい、なんちふことだ! おい見ねえ! 見ねえつたら、パナース!……」

「なんだね?」と言つて、教父も同じやうに空を見あげた。

「なんだぢやあねえや、お月さまが無くなつたでねえか!」

「はあて、面妖な! ほんに、お月さまがねえや。」

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