立山山脈と後立山山脈
地質学者の説に拠ると、今日普通に日本北アルプスの名で広く世に知られている飛騨山脈は、凡南十度西より東十度北即ち南南西から東北東に向って並走して居る数条の連脈から成っているということである。さもあらばあれ高い山のみを渇仰の標的として、峰から峰へと縦走する気儘な山岳の巡礼は、勝手に是等の山脈を二にも三にも胴切にして、低い山はそれが主脈であっても、草鞋の先に突懸った石ころのように惜気もなく投げ棄て、高い尾根と尾根とを都合の好いように接ぎ合せたり結び付けたりして、出来るだけ高いそして出来るだけ長い山脈にしようとする。私がここに立山山脈といい後立山山脈というのも、少しは斯うした勝手な真似がしてあることを断って置きたい。
槍ヶ岳の西の肩から北西に曳いた西鎌尾根が、其名の如く薄っぺらな山稜の上に、目まぐるしい程多くの岩の瘤を突起させているのに反して、同じ尾根続きでありながら、双六岳や其北の蓮華岳一名三俣岳は、幅の広いそして丸味を帯びた穏かな山容と変っている。ぐるり周囲を取り巻いた壮年期の山岳の中に在りて、此二山を中心とせる附近の地貌は、のんびりした気持で頂上を歩いている登山者に、或は山がまだ幼年期にさえ達していないのではあるまいかとの感を抱かせるのも面白い。飛騨山脈の主脈はこの蓮華岳から釵の股のように二つに岐れて、東と西とに対峙した高大な連嶂が相並行して南北の方向に長く続いている、西に在るのが立山山脈で、東に在るのが後立山山脈である。
立山山脈は、其脈中に古来からの名山であり、且槍ヶ岳以北に在りては三千米を超えている唯一座である立山を有する為に名付けたもので、立山が此山脈の最高峰であり、三千米以上の高距を有することは疑いを容れない(立山の三角点は標高二千九百九十二米であるが、雄山は夫よりも十四、五米高く、大汝は更に五米程高い)。唯惜しいことには、山脈の北半が南半に比して甚しく振わないのは残念である。黒部五郎岳(中俣岳)・薬師岳・立山・劒岳を有する南半が最高三千余米、最低二千百二十米、平均二千六百米以上の高度を維持しているに拘らず、北半は殆ど三千米の劒岳から急転直下して二千三百八十七米の白兀となり、直径一里に足らざる距離の間で六百米余も低くなっている。白兀の北の毛勝山は二千四百米を抜いてはいるが、其北の駒ヶ岳になると毛勝山より更に四百米も低い。そして駒ヶ岳の余脈は千八百五十五米の僧ヶ岳から千二百七十四米の烏帽子山となり、内山村から西に折れてここに平凡な一帯の丘陵と化し、日本海岸の三日市町附近に終っている。若しこれが後立山山脈のように日本海の間近に迫っても、尚お千米以上の高度を失わないならば、其壮観は今日に倍するものがあろう、甚だ遺憾である。
立山山脈に較べると後立山山脈は、高さに於て略ぼ釣合の取れた長大な山脈を成している。試に鷲羽ヶ岳から白馬岳に至る間に就て見ると、最高点は黒岳であって、三角点の海抜は二千九百七十八米であるが、絶巓の高さは目測では二千九百九十米の上であろうと思われる。最低の鞍部は針ノ木峠と北南に相対する不動堀沢岳(近時の大町の案内や人夫は之を七倉岳と呼んでいるようであるが、もと七倉岳は、この山の北少し東に在る山で、北葛岳・乗鞍岳等の別名があった)の西にあるくびれ目で、二千百八十米であるから、立山山脈の南半とは、最高に於て少しく劣り、最低に於て少しく優っているが、二千六百米以上の平均高度を有する事は互に同じである。白馬岳以北に於ても鉢ヶ岳・雪倉岳などは優に二千六百米を超えているし、其北の朝日岳でも尚お毛勝山より四米程高い。そして余脈日本海に臨むに至って、千二、三百尺の高さから急に海中に没している。険悪を以て聞えた親不知子不知は、此山脈の末端が懸崖を成して海に突出している鼻づらをこするようにして、波打際を通らなければならなかったのである。
此の山脈を後立山山脈と名付けたのは、鹿島槍ヶ岳の一名を後立山と呼ぶ為ばかりではない、立山連峰の偉観は独此山脈中に比す可きものなきのみならず、南北日本アルプスを通じて稀に見る所であるから、立山を主とした越中方面の称呼に従っても、敢て偏見という可きではない、又この名を用いた方が二条の並行した大山脈を表現する上に於ても、白馬山脈と呼ぶよりは適切かと思われる。
この二大山脈を構成する岩石は、既刊の地質図に拠ると主として古生代の水成岩を貫いて迸発した花崗岩類である。更に之を大別すると、立山山脈は角閃花崗岩から成って居り、後立山山脈は黒雲母花崗岩から成っている。この両者の縫合線は、黒部川の支流東沢に沿い、南は樅沢岳附近に至り、北は御山谷の屈曲点附近を過ぎているとのことである。其年代は中生代以前に角閃花崗岩が先ず迸発し、次に黒雲母花崗岩が噴出したものであろうという。そうとすれば両山脈の関係的位置を示すに用いた後の字は、同時にまた山脈生成の時をも示すことになる訳である。
中生代以後になって、角閃小紋岩(石英斑岩と同質であるが、それよりも稍深所で凝固したるもの。若し地表に湧出すれば流紋岩となるという)が岩脈状をなして花崗岩の間に迸入した。薬師岳の如きは流紋岩に類似せる角閃小紋岩から成っている。又立山附近から北方の山骨は、片麻質花崗岩より片麻岩に推移しているという。斯く立山後立山の両山脈は同じ花崗岩類であっても、時を異にして迸発したものの集合体である。加うるに火山脈がまた山脈の走向と殆ど一致して之を縦貫している。そして是等及び其後に於て幾度か繰り返されたであろう地変の為に、大小の断層が生じ、それが互に交錯しているであろうから、黒部の本流は勿論其支流も、流路の一部或は全部を其断層線上に仰いでいる場合がないとも限るまいし、此両山脈の山に熟み割れた柘榴のような壊裂的な峰頭や、山稜が凹字形に抉れて、越中の人夫が「窓」とうまい名を付けた通過困難な悪場が少くないのも亦その為であるかも知れないと思う。
最後に此の両山脈に於ける積雪に就て考えて置く必要がある。冬期日本海を渡って押寄せる西北の恒常風は、尽く其水蒸気をさらい来って、真先に撞き当るのが立山山脈であるから、此処に多量の降雪(孰れの山脈に於ても風上よりも風下に当る山稜の側面が余計に積る)を見るのは言う迄もないが、劒岳の正東に聳えている鹿島槍ヶ岳以北の後立山山脈は、之と比較す可き立山山脈の北半よりも、平均して三百米も傑出しているし、白馬岳の如きは五百米も高いので、多雪地帯ともいう可き後立山山脈の北半に在りても、最も雪量が多い。これが夏になって駆け出しの登山者を驚喜せしむる白馬尻の大雪渓ある所以である。之に次では黒岳(水晶山)が二千九百二十六米もある薬師の大岳を西北の障屏としてはいるが、流石に一頭地を抜いているだけに、其東面に在る三個のカールには多量の残雪が眩い光を放っている。鹿島槍ヶ岳以南の爺岳・針ノ木岳・蓮華岳・野口五郎岳若くは鷲羽ヶ岳などは、平均高度を突破した秀峰であるに拘らず、積雪の量は毛勝連峰よりも少いのである。薬師岳の四個のカールも亦多量の雪を貯蔵することに於て、黒岳を凌駕しているが、東の側面が短くて急である為に、劒沢のような大雪渓の発達は見られない。独り立山連峰のみは日本アルプスに於ける万年雪の一大宝庫たる名を擅にす可き有ゆる条件を具えて、崢たる峰巒を飾るに、白雪燦然たる四個の大カールと、刃のこぼれた絶大な薙刀を懸け連ねたような大雪渓とを以てし、其間に盛夏八月尚延長一里に近い劒沢の雪渓を擁して、後立山山脈を羚羊のように縦走する登山者に讃嘆の眼を瞠らしむるのである。
立山後立山の両山脈が斯く東西に対峙していることは、日本北アルプスに取りて何たる幸であろう。木曾駒ヶ岳山脈は、大部分花崗岩から成り、高さに於ても長さに於ても、はた又山の姿に於ても、此両山脈の孰れにもさして劣る者ではないが、之を中央アルプスと唱うることは快く認容しても、何か満たされないような物足りなさと軽い失望とを感ずることを免れないのは、近くに之と対比す可き大山脈を欠いている為であろう。
此二大山脈の始まる所に潺湲たる産声をあげて、其懐に養われつつ倶に北に走ること三十里、その尽くる所に雪を噴く奔湍と雷のような瀬の音とを収めて、日本海に注ぐものは即ち幽峭並ぶものなき黒部の峡流である。